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1999年12月14日 レイ・ブラッドベリ 「たんぽぽのお酒」
1999年11月23日 名前はダサいけどいい男〜「マイロン・ボライター」シリーズ
1999年11月3日 テレンス・ファハティ 「輝ける日々へ」 ジョージ・P・ペレケーノス 「俺たちの日」
1999年10月17日 フランク・マコート 「アンジェラの灰」
1999年10月7日 ジェイソン・スター 「上司と娼婦を殺したぼくの場合」
1999年9月17日 空想科学研究所客員研究員・円道祥之 「空想歴史読本」
1999年8月17日 「ファイナルファンタジー・アルティマニア」
1999年7月30日 コリン・ブルース 「ワトソン君、もっと科学に心を開きたまえ」
1999年7月10日 アントニオ・タブッキ 「供述によるとペレイラは・・・」
1999年6月20日 ポール・オースター 「偶然の音楽」
1999年6月12日 エリック・フォスネス・ハンセン 「旅の終わりの音楽」
1999年12月14日 レイ・ブラッドベリ 「たんぽぽのお酒」
いつのころからか、夏が一年中で一番嫌いな季節になってしまいました。蒸し暑くて訳もなくイライラする季節、アスファルトの照り返しで目は痛むし、冷房の利いた屋内と40度近い外を行き来するたびに目眩はするし、歩いていて、エアコンの室外機から吐き出されるすえたような匂いの熱風をまともに浴びるあの不快感・・・夏なんてうんざりと感じるようになってしまいました。
夏が一番好きだった頃を思い出します。一ヶ月の夏休みは永遠に続くような気がしました。いくら遊んでも尽きることがないような気がしました。その夏一番最初のプールの塩素の匂い、木綿の夏服の糊の利いた感触、裸足で履くビーチサンダル、つばの広い大きな帽子・・・暑くてイヤだなんて一度も思わなかった頃がありました。夏がそれこそ輝いていました。
この本を読むのはほんとうに久しぶりです。かつて高校生だった頃に一度読みました。「SFの詩人」と呼ばれるブラッドベリの美しいリズムを刻む文章にウットリしたことをはっきりと覚えています。でも、今回読み返して、あのころとはまったく違った思いがこみ上げてきました。高校生だった頃は、まだ微かではありますが、夏が輝いていたのです。その輝きをすっかり失ってしまった今、ブラッドベリの文章は全然違うことを語りかけてきます。
1928年、イリノイ州のグリーンタウン、12歳の少年ダグラスのきらきらと輝く一夏の物語です。草原を思い切り駈けるためにどうしても必要な新しいテニスシューズ、それをアルバイトで手に入れた彼は、小さな街の中を風のように飛びながら、いろいろな人たちと夏の思い出を共有していきます。老人と子供たち(彼らはお互いの時間の流れ方がすでにどうしようもなく違ってしまっているのです)の残酷な出会いと別れ、大の親友の引っ越し、大おばあちゃんの死、31歳の青年と95歳の老女の時間を超えた「恋」、闇の中から突然現れて人の命を奪っていく「真夏の氷室」のような「孤独の人」、なぜか誰もを不幸にしてしまう「幸福マシン」、この夏を最後にバスに取って代わられてしまう市電・・・、野原で食べるハム・サンドウィッチ、アイスクリーム、一家で出かける映画のレイトショウ、ポーチで揺れるブランコ・・・、そしてこの夏を永遠にとどめるためのたんぽぽのお酒・・・。美しい道具立てと選び抜かれた言葉で描かれているものは、実は「死」です。ダグラスの真新しいテニスシューズがどんどん古びていってしまうように、ゆっくりと、しかし決してその足を止めることなく近寄ってくる死です。その夏、グリーンタウンでは何人かの人が亡くなりました。そして、12歳のダグラスは初めて死を意識します。機械はやがて壊れる、親友は去っていく、老人たちは死んでいく、そしてやがて、僕も死ぬ。眩しくきらめく夏の陰には冷たい死が存在することを、ダグラスははっきりと学んでいきます。やがて枯れ落ちてしまうから若葉は美しい、やがて去っていってしまうから人が愛おしい、いつか必ず終わってしまうから映画は楽しい、喪失するからこそ今が輝く、高校生だった私には受け止めることのできなかったメッセージが織り込まれていたことを、今回初めて知りました。
でも、きらめいているものを失うことは悲しいことです。いくら必死で記憶にとどめたとしても、その記憶もどんどん色褪せていってしまいます。そんな夏を閉じこめておくもの、それが夏の盛りに瓶に詰められた金色のたんぽぽのお酒なのです。そのお酒があれば、その夏をわずかながら手元にとどめておくことができるのです。
ダグラスのような夏をかつては私も体験していました。その夏は、記憶のどこかにまだとどまっているはずです。一度取り出して埃を拭おうと思いました。一生懸命擦れば、まだ少しは輝くかもしれません。
1999年11月23日 名前はダサいけどいい男〜「マイロン・ボライター」シリーズ
ロバート・B・パーカーの「スペンサー・シリーズ」がこのところあまり面白くないのでがっくりきていたところ、元気なニュー・ヒーローが登場しましたね。ハーラン・コーベンの「マイロン・ボライター・シリーズ」です。スペンサーはボストンの私立探偵、恋人のスーザンは精神分析医、相棒のホークはフリーの殺し屋であり高級用心棒。対するマイロンはニューヨークのスポーツ・エージェント、恋人のジェシカは作家、相棒のウィンは大手金融会社のオーナーという設定ですが、キャラクターがよく似ています。
スペンサーは元プロボクサーで元警官、マイロンは元プロバスケット選手で元FBI、どちらも自分のクライアントのためには全力を尽くします。基本的には無益な暴力を嫌い、自分の価値観に固執するタイプで、口が達者です。スペンサーは野球と詩とビールを、マイロンは古き良き時代のブロードウェイ・ミュージカルとYoo-Hoo(チョコレート・ドリンクの一種らしい)を愛しています。
スーザンもジェシカもキャリア志向の女性で、それぞれスペンサーとマイロンとは自由な恋愛を謳歌しつつも、その関係に一抹の不安を抱いています。どちらも恋人の頑固なまでの自立心を持て余している節が窺えます。
ホークは黒人で元ボクサー、ウィンはワスプの名門に生まれ、一見ひ弱な美形のお坊ちゃまですが実はテコンドーの達人。ホークは高額の報酬さえもらえば、ためらいもなく暴力を使いますし、必要とあれば殺します。スペンサー以外の人間とは(魅力的な女性であっても)継続的な関係を持とうとしません。ウィンもマイロン以外に親友はいません。彼は「害虫駆除」と同じ感覚で暴力を使います。そしてマイロンの危機を救うためには顔色一つ変えずに人を殺します(ある刑事曰く「サイコ・ヤッピー」)。この二人はどちらも完全にキレていると言ってよいでしょう。いわば、スペンサーとマイロンの「ダーク・サイド」としてのキャラクターですね。
このところのスペンサー・シリーズの行き詰まりの原因は、事件そのものよりもスペンサーとスーザンの関係に焦点が移ってしまい、そのスーザンがきちんと描かれていないためだと思います。彼女のキャラクターに魅力がないのです。スーザンは精神分析医でありながら不安定な人間で、一度はスペンサーを捨ててギャングのボスに走ったこともあります(こんな精神分析医にかかりたいですか?)。そして異常なダイエット・マニア。スペンサーは美食家で素晴らしいシェフでもあるのですが、スーザンの食べるものといったら「端に少しドレッシングをつけたレタスの葉一枚」とかばっかり。おまけに相当の自己チュー女です。スペンサーの仕事にスーツケースをいくつも持って(持つのはスペンサーなのですが)ついていくような女です。恋人の仕事場にバービー人形みたいに大量の着替えをもってチャラチャラついていくのが「オトナの女」に見えますか?私には彼女の幼稚さと我が儘ばかりが目につき(作者はそこが女らしく可愛らしいと勘違いしているようです)、それをヘラヘラ容認している最近のスペンサーが単なるバカの大男に見えて仕方ないのです。ストーリー自体も謎解きがなくなり、必然性のないアクションとスペンサーとスーザンとの中身のない会話(都会的で洒落ているかも知れませんが、言い回しが気が利いているだけで中身は空っぽです)のオンパレードです。そして最初は謎めいていて敵か味方かハラハラさせられたホークが、最近ではまるっきりスペンサーの忠実な相棒になってしまったのも気に入りません。さすがにシリーズも二桁目を数えるとこうなるか〜と思いますね。
そこへいくと、まだ6作目のマイロン・シリーズは元気です。最後のあっというどんでん返しもきちんと利いていますし、彼の職業柄、クライアントがスポーツ選手なので、それぞれの世界の内幕も丁寧に書かれています。そして、ジェシカとの関係にリアリティがあります。マイロンは彼女に惚れていますが言いなりにはなりませんし、仕事のパートナーである魅力的なエスペランサも気になっています。スペンサーに比べてはるかに自然な男女関係です。「サイコ・ヤッピー」ウィンは時には辛辣にマイロンを批判し(たいていはマイロンの甘さを批判するのですが、ウィンと比べればダースベーダーだってボーイ・スカウトに見えます)、ある時は彼を突き放します(勿論、危機一髪の場面ではきちんと登場しますが)。ともかく、このマイロン、現在のところ目の離せない、一番活きのいいヒーローですね。
このシリーズを読んでいると名前が気になります。マイロンという名前はかなりダサいようです(彼は自分をマイロンと名付けた両親を未だに呪っています)。何しろウィンの本名はウィンザー・ホーン・ロックウッド3世ですからね。この名前からは、ブロンド、色白、華奢な身体に最高級スーツ、車はジャガーというウィンの姿がそのまま浮かんできます。マイロンという名前に、アメリカ人はどんな人間を想像するのでしょうか?
表意文字である漢字の名前の場合には、かなりはっきりとしたイメージが浮かびます。例えば「朱雀院玲子」さんと「米田亀代」さんではイメージが全然違って響きますよね(あくまで例えですが)。朱雀院さんの場合には自動的に、青い芝生の庭、グランドピアノ、ベルベットのドレス、お祖母様から贈られた真珠のネックレス、といった道具立てが浮かんできます。それに比べて文字に意味のないアルファベットの名前というのは、どの程度までイメージをかき立てるものなのでしょうか?ロバートはジョンよりもハンサムで、アイリスはキャサリンよりもお金持ちというようなイメージがあるのでしょうか?どなたかご存じでしたらお教え下さい。
ただ一つ残念なのは、日本語訳のタイトルです。「Deal Breaker」が「沈黙のメッセージ」に、「Fade Away」が「カムバック・ヒーロー」に、「Backspin」が「ロンリー・ファイター」に何でなるかな〜。直訳が良いとはいいませんが、これでは全然関連性がないじゃないですか。訳の分からないタイトルを付けるのは止めてほしいですね。せめて元のタイトルの香りだけは残してほしいと思います。
1999年11月3日 テレンス・ファハティ 「輝ける日々へ」〜(ネタばれあり!)
1950年代の華やかなハリウッドが舞台のハードボイルドです。主人公は、かつてそこそこまで売り出した俳優でしたが、戦争から帰ってきたら仕事がなくなっていました。ハリウッドを去り難い彼が選んだ職業は、映画会社専門の警備員。シナリオライターとして売り出し中の妻と子供に囲まれた平凡な男です。主人公が平凡なのを補うように、回りはくせ者だらけ。警備会社のボスは色彩センスゼロのワースト・ドレッサーにして口の悪い、でも頼りになるオヤジ。仕事の依頼主はかつての名映画監督で、チョーのつく変人、誇大妄想気味ですし、虚言癖もあり、いつでもどこでも演技している、というか演技が第二の天性になっているという厄介な人物です。このかつての巨匠が自分の作品をリメイクしようとした途端に事故が多発します。スタジオが焼け、ロケ先では広報担当が殺される。誰かがこのリメイク企画を妨害しようとしているのか?それとも個人的な(何しろこの巨匠、敵には不自由していない)恨みなのか・・・。KKKまで登場する中、地味な主人公は事件の核心に迫ります。
(主人公以外の)人物描写がとても丁寧です。アル中のプロデューサー、いかにもアメリカ南部の田舎町に相応しい(この手の人間をRed neckといいますが)保安官(でも、結構いい人です)、企業を切り回すやり手の未亡人、誰も彼もが怪しい、誰にも秘密がある、というハードボイルドのおきまりをきちんと守っている作風も好感が持てます。主人公のスコットを地味で常識的な人間に設定してあるのは、彼に聞き役に徹してもらうためでしょう。確かに彼はとても聞き上手です。ウィットに富んだ会話も楽しいし、古い映画の話題が満載されているのも、サービス満点です。
ただ、最後にがっくりきました。この作品は禁じ手を使っています。ここから先はネタばれですから、この本を読むかも知れない方は読まないで下さいね。
犯人を多重人格に設定しているのです。これは反則でしょう。これを使えば何でもありってことになります。二重人格の殺人犯が許されるのなら、三重人格、四重人格と増やしていくだけで、どんな犯罪のプロットも成り立ちます。これだけはやってはいけないと思います。ミステリーには、最初に思いついた者の勝ちというところがありますが(クリスティの「アクロイド殺し」のプロットが有名です)、犯人を多重人格にするというのは、誰も思いつかなかったのではなくて、思いついても使ってはいけないという暗黙の前提があったからだと思います。それに、途中で「ひょっとしてこの人は多重人格か?」と思われる布石も全く打たれていません。いきなり最後に「多重人格だったのです!」とやられたのには正直ガッカリしました。反則は反則、会話の部分や50年代の描写が巧みなだけに、惜しかったな〜。
そして、もう一つ ジョージ・P・ペレケーノス 「俺たちの日」
こちらも舞台は50年代のワシントンDC。ギリシャ系移民の子ピートとイタリア系移民の子ジョー、少年時代から戦争を経てギャングの縄張り争いに巻き込まれていくまでの、長くて熱い友情と対立の大河小説風ハードボイルドです。戦争でシルバースター勲章までもらったピートですが、帰国してみたら居場所がない。そのままジョーと組んで借金の取り立て屋を始めますが、彼は非情になることができません。そのおかげでジョーに裏切られ、片足を潰されてしまったピートは、同じギリシャ系移民の経営する食堂で働き始めます。その食堂にある日、今ではギャングのボスの懐刀に出世したジョーが現れます。ピートは食堂を、同胞を守るために、敢えて再び武器を手にします。そしてジョーはまたしてもピートを裏切るのか・・・。
一昔前の任侠映画みたいな設定ですが、骨太で勢いのある文章でぐんぐん読ませます。荒っぽい少年時代の風景にはどこか優しさが溢れ、レイテ島の戦争場面はそのままノンフィクションとして通る精密な描写です。そしてギャングとの抗争シーンは、暴力的でありながら、決して下品に流れない抑制された文章です。一冊で三冊分読んだ気分です。ハードボイルドにお決まりの大量に消費されるタバコとアルコールもきちんと出てきます。なにしろ近頃のハードボイルドの主人公は、早起きしてジョギングして、ダイエットコークとカフェイン抜きのコーヒー飲んでるのばっかりですから、タバコの煙と強いアルコールの香りが立ちこめている50年代の風景はかえって新鮮ですね。タイトルの「俺たちの日」は、ピートがレイテ島で感じ取った言葉です。どんな激しい戦闘でも不思議と分かるんだ、今日は俺の死ぬ日じゃないって・・・。ラストシーンでこの言葉は再び登場します。ピートがジョーに囁きます、「俺たちの日が来たんだ」・・・。久しぶりにこってりとしたハードな男の世界ってやつ(この言葉自体、既に死語ですが)を堪能しました。この作品は是非映画で見たいですね。若き日のアル・パチーノだったら最高だと思いますが、今映画で見るんなら、絶対にブラット・ピット!
1999年10月17日 フランク・マコート 「アンジェラの灰」
1930年、ニューヨークの貧しいアイルランド系移民の夫婦に男の子が生まれました。それが著者です。彼は長男でした。それからが大変。時は大恐慌のさなかです。それなのに弟、妹がコロコロ生まれてくる。家族はどんどん増えますが、お金は全然入ってこない。なにしろ、このお父さんが問題です。大柄で力も強く、働き者という典型的なアイリッシュなのですが、どうしても給料を家に持って帰ることができないのです。職場と家との間に飲み屋があるからです。根は真面目な男なのですが、どうにもこうにも、飲み屋の前を素通りできない。一杯飲むともう止まらないので、日当は全部飲み屋のレジに消えていきます。幼い妹を亡くしたこともあって、一家は故郷のアイルランドに戻ります。しかし、そこもやっぱり不景気、そしてお父さんの日当が飲み屋のレジに消えるのも同じ。失業保険に頼りつつ、一家はそれでも生き延びます。主人公は長男ですから、弟たちを抱えて悪戦苦闘の日々です。拾えるものは何でも拾い、時にはかっぱらいまでやってのけます。生きることは、生活は戦いです。長男として小さなうちからパンのための戦いに参戦せざるを得なかった著者の、幼年時代から青春の入り口までが綴られた自伝作品がこの「アンジェラの灰」です。
もう悲惨の極みのような生活なのですが、なぜかおかしい。ぎりぎり追いつめられていても、一家は笑うことを忘れません。夕食時になってもテーブルの上には何もなく、深夜にご帰宅のお父さんは失業手当を全部飲んでしまって一人でご機嫌、アイルランド愛国歌をがなっているという有様なのですが(ここまでくると、失業者という定職についているといった方がいいみたいです)、この一家には暖かさがあります。どんな貧困もそれを消すことだけはできないようです。
一家を取り巻く人たちの描写がとびっきり素敵です。ニューヨーク時代、これは捨てるんだからね、拾いたい人は拾っていいんだ、とバナナやリンゴを入れた袋を幼い著者の前に置いていくイタリア系の果物屋さん・・・普段は悪態ばっかりついているくせに、学校を出て電報配達になった著者が仕事に着ていくものがないとちゃんと知っていて、黙って衣料品店に入って安物のシャツや靴を一式そろえてくれる叔母さん・・・せっぱ詰まって(お父さんは出稼ぎ中、お母さんは入院中)、お金持ちの家の勝手口から配達された食料品をかっぱらってきた著者の家を訪ねてきた警官(別に犯罪捜査じゃなくて単に心配して様子を見に来ただけなのですが)は、開き直って僕はもう無法者だと粋がっている著者に対して優しくこう言います、「11歳だろ?無法者と父親の両方をやるには若すぎる、もっともどっちの方面にも素質がありそうだが。」・・・一番素敵なのは、何もかもに絶望して教会の中で泣きじゃくる著者の隣に何も言わずに座った神父さんです。もう僕なんか地獄行き決定ですと泣き崩れる彼に神父さんはこう言います、「神様はおまえを許しておられる、おまえを愛しておられる、だから、おまえも自分を許して、愛さないといけない」。これらの人たちの描写が心に残るのは、彼らが実在した人たちだからです。人間の頭が作った人物像ではなく、生きた人間だからです。矛盾だらけで、けっこうせこくて、利に賢くて、でも愛を持っている、そんな生きた人間だからです。
今、日本は不景気です。失業率も高くなっています。でも、フランク・マコートくんの生活に比べたら、私たちの暮らしは王侯貴族のような生活です。それなのに何でこんなに自信がなくて、不満だらけなのでしょう?表紙の写真を是非見て下さい。フランクなのか、弟の誰かなのか、泥だらけの裸足の足で笑っている頭でっかちの幼い男の子の笑顔を見て下さい。この写真には何か大切なものが写っています。
1999年10月7日 ジェイソン・スター 「上司と娼婦を殺したぼくの場合」
ビルは30歳のニューヨーカー。かつては大手広告代理店で高給取りの管理職だったけど、クビになって、現在は時給16ドルでパートタイムのテレ・マーケター。電話をかけまくり、セールストークをまくし立てる日々。とりあえずのつもりだったけど、こんな毎日がもう2年続いている。何しろ家賃は払わなきゃならないし、食べていかなきゃならないんだから。当然不満でいっぱい、勤務態度悪し。ある日上司と衝突、上等じゃないか!こんな会社には僕はもったいないんだ、辞めてやる!ところが翌日から話がガラリと変わる。管理職に抜擢され(何たって履歴書は立派、経営管理の修士号も持っている)、社長にもうまく取り入って、仕事人間復活。しかし、ビルは少し急ぎすぎたようだ。上司はビルを脅威に感じ始める。ビルのあら探しを始める。そして、ある日、彼のついたウソを発見する。誰もいなくなった夜のオフィスで突然の解雇通知。カッとなったビルは彼の首を締め上げて殺してしまう・・・。何とか強盗の仕業に偽装して(会社の中で強盗に会う?かなり無理があると思うけど)、ひとまず安心。しかし、これは計画的な犯行じゃない。あちこち穴だらけ。警察だってバカじゃない。少しずつ輪が絞られてくる。目撃者まで現れる・・・。こいつも殺すか?
主人公のビルは一見まともな男です。同棲している恋人もいます。そのうち広告業界に返り咲いて、いい給料を貰って、結婚して、郊外に家を買って、そんな当たり前の夢を持っている平凡な人間です。とても殺人犯にはなれそうにもない男です。その彼が何で連続殺人を?軽いタッチの語り口を読んでいると、彼のやっていることが当然のことのように感じられてしまいます。仕方ないじゃないか、こうする以外に方法がないんだ、彼の話につい引きずられてしまうのです。でも、彼はどこかおかしい。どこがおかしいのか?
行き当たりばったりの殺人の動機がおかしいのです。文句たらたら、いつも悪口ばかり言っていた会社なのに、管理職になった途端に、もう仕事と出世のことしか考えられないビル。彼にとってそれだけがこの世界で意味のあることらしいのです。彼は仕事に依存してます。経済的に仕事に依存するのは正常だと思いますが、彼はその範囲を超えて、全人格を仕事に依存しているのです。彼は仕事がないと文字通り生きていけない。彼に解雇通告をする人間は、彼の目には殺人鬼に映るのです。だから彼は殺します。殺さないと殺されるからです。ビルにとって、これは正当防衛以外のなにものでもないわけですから、彼の自分を正当化する語り口が、滑らかで説得力があるのは当然です。本人が本当にそう信じているわけですから。
会社から「おまえには用はない」と言われるのはとてもつらいことでしょう。でも、こっちから会社に「おまえには用はない」と言う自由だけは大切に持っていたいと思います。誰かが突然いなくなったって会社は少しも困りません。だいたい組織というのは、一人の人間がいなくなって、それでどうこうなるようにはできていないのです。代わりなんていくらでもいるんです。では、自分は?
会社を捨てる勇気をしっかりと隠し持っていないと、明日にはビルになってしまうかも知れませんね。
1999年9月17日 空想科学研究所客員研究員・円道祥之 「空想歴史読本」
「空想科学読本」という本がしばらく前に話題になりました。これは、私もとても面白く読みました。ゴジラは重すぎて生まれた瞬間に即死するとか、ウルトラマンや怪獣がマッハ何とかで空を飛ぶと身体が裂けるとか、その昔の懐かしのヒーロー達の世界を大まじめに検証した労作でした。この手の本の嚆矢は「ウルトラマン研究序説」だったと記憶しています。子供の頃に真剣に受け止めていたお話が、実はとんでもないものであるということを、大人になってから距離を置いて知るというのは、意外に楽しいものなのだと思いました。同じ年頃の友人たちと一緒にお酒を飲んでいるとしましょう。「あれ、ほら、あの怪獣」、「あの宇宙人が操っていたやつでしょ?」、「それそれ、国会議事堂踏みつぶしてさぁ」、「あれっ、東京湾のガスタンクじゃなかった?」、こんなやりとりを楽しむところを想像してみて下さい。この手のお楽しみに欠かせないのは、記憶力抜群の友人です。いろいろなヒーローと怪獣の武器と弱点、宇宙人の形態と侵略意図、登場した年代、こんなことを細かく覚えている人が一人いれば、もう最高に楽しいひとときになります。これらの本は、まさにその記憶力抜群の一人という役割を果たしてくれます。
今度は文科系の検証です。実際の歴史と空想科学上の歴史を対比させ、どちらにも同じ比重を置いて検証してあります。これによると、6億5千万年前にクラゲが文明を作ったとか、聖徳太子はロボットを製造したとか、人類の祖先はタイムスリップした未来人である(考えると時間がグルグルと輪をかいてしまうわけで、頭痛くなりますね)とか・・・。一番気に入ったのは東京タワーです。あのタワー、できてから6年連続で毎年破壊されていたのですね。やっぱりあれを見ると怪獣だって壊したくなるようですね。あのつんつんした形は破壊本能を駆り立てるのでしょうか?60年代の日本は毎年東京タワーを再建していたのです。しつこい!
この手の話は、5年くらい年齢が違うと通じないという問題があります。ウルトラマンの場合は極端で、初代ウルトラマン派とウルトラマン・ガイア派では、ちょうど親子くらいの年齢差になります。だいたいが1年のテレビシリーズなので、5年の違いは大きいんですね。この本は、鉄腕アトムからエヴァンゲリオンまでカバーしていますから、お見事です。作者がどれほど一生懸命勉強したか、目に見えるようです。この客員研究員は、いったい何本のビデオを見たんでしょう?
ごく狭い年代でしか通じない話が多いので、一歩踏み込むとマニアックになってしまい、とても閉鎖的な一種独特の会員制クラブのようになる話なのですが、この本はその直前でぴたりと止めています。踏み込めるところを踏み込んでいないのです。このあたりがとても気持ちがいいですね。来る人を拒まない大人の余裕です。大のオトナが(大のオトナだからこそ)こんなことに一生懸命になれるなんて、遠くから見ているぶんには楽しいものですね。間近で見るとなると、少し何ていうか・・・まして自分が当事者になるのは、少し困ったというか、という、何とも微妙な力作ですが、私は100%楽しみました。何しろ、鉄腕アトム以降の私たちは、みんな「科学の子」ですから。
1999年8月17日 「ファイナルファンタジー・アルティマニア」
今年2月に出た人気ゲーム「ファイナルファンタジー8」のいわゆる攻略本ですね。ゲーム自体はとっくに終わっているのですが、なんだか懐かしくて、そういえば結構苦労したもんなと思いつつ、ついつい読んでしまいました。現在の心境は、「読まなきゃよかった・・・」です。
全く知らないイベントが山ほど出てくるのがショックでした。こまめに歩き回り、情報収集もしたつもりですし、ゲーム自体はクリアできているわけですが、通常の進め方では絶対に分からないイベントがたくさんあることが判明したのです。私はこれでも結構プライドの高いゲーマーなので、この手の攻略本はまず読みません。ファイナルファンタジーシリーズ自体、これまで全てプレイしていますから、大体の構造は理解していますので、今までその必要も感じませんでした。しかし、このアルティマニアを見ると・・・「オーベル湖ってどこ?」、「三つ編みの図書委員って誰?」、「コマンドに『食べる』なんてあったの?(食べるという能力を持った召還獣がいたらしいのです)」、「トンベリ(このシリーズの名物キャラクター。包丁持って出てきて『みんなのうらみ』というかなりきつい攻撃してくれます)のキング?」、どうやら私はゲームに組み込まれたイベントの半分くらいしかやっていないことが判明しました。
通常の進め方では遭遇できないイベントがテンコ盛りなのです。これではこの本を買わない限り、ゲームをクリアすることはできても、楽しむことは半分しかできないということです。自分で解かなければならない謎がたくさんあることは、ゲームとして当然であって、全く問題ありません。今回の作品でも、最後のアルティミシア城の謎はとても良くできていて、ノーヒントでも時間をかければ解くことができましたし(私は3日かかりましたが)、謎解きの過程を十分に楽しめました。たとえ時間がかかっても自分で進むことができるものであること、それがゲームの基本です。今回の作品はそれを踏み外しています。攻略本を買って、そこに書かれている通りに進まないと十分に楽しむことができないのです。なまじグラフィックスが美しく洗練されたゲームであるだけに、自分が見ることができなかった(これは決して私の責任ではありません)イベントがたくさんあるということがとても悔しいのです。しかし、もう一回プレイする気力はないし・・・。これが「読まなきゃよかった」になるわけです。
それにしても、私のスコール(主人公の名前です)、貧弱な装備でよく闘ったものです。偉かったなぁ。
1999年7月30日 コリン・ブルース 「ワトソン君、もっと科学に心を開きたまえ」
学生時代に早々と理科系のお勉強をギブアップしてしまった私ですが、この本は面白いですよ。これが教科書だったら、私の人生は違ったものになっていたかも知れないのに(おーげさな)。
相対性理論、フーコーの振り子、エネルギー保存の法則・・・かつては目にしただけで「ダメだ、こりゃ」だったお話がこんなに面白くなるなんて、大発見です。何しろ、かのシャーロック・ホームズとワトソン博士が、次々と起こる難事件(疾走中に爆破された王室列車の謎、冷たい海底で熱死したダイバーたち、同時刻に生まれた双子はどっちが年長か等々)を物理の理論でもって解決していくのですから。以前に勉強した時にはさっぱり理解できなかった「双子のパラドックス」、「光より速く進むことは不可能である」、「波は一定の波長で増幅し、あるいは相殺される」といった理屈が、とてもわかりやすく書かれているんです。いかにもビクトリア朝のイギリスらしい挿し絵も気が利いていますね。
一番素晴らしいと思ったのは、コナン・ドイルの文体を完全になぞった文章です。表紙を見ないで読み出したシャーロキアンがいたとしたら、未発見のホームズ物(シャーロキアンはホームズ物を恭しく「聖典」と呼びます。)があったんだ!と狂喜すること請け合いです。特にホームズとワトソンの会話の部分の完成度は驚くほどです。ホームズの兄、マイクロフトが大活躍するのも楽しいですね。「聖典」では滅多に登場しない彼ですが(確か実際に出てきたのは2回くらいだったと思います。)、この本では何度も鮮やかな推理を披露してくれます。そういえば、「聖典」の中で、ホームズがマイクロフトを評して、職場とクラブと自宅の間を規則正しく移動する、決してそこから外れない男、と言っていました。そのマイクロフトが惑星の運動や相対性理論について語るのがとてもおかしいです。
ただ一カ所気になったのは、ホームズの「僕は昔からチェスが好きなんですよ。」というセリフです。ホームズはチェスはやらなかったはずですが・・・。「引退した絵の具屋」の中で、彼は、チェスが強いのは策略家的人間の証拠だ、と非難しています。彼のように論理的思考に優れた人間がどうしてチェスをやらないのかについては、結構いろいろな意見があって、ホームズの女性に対する冷淡さの現れ(チェスで一番強いのはクィーンです。)という説まであるくらいですからね。
ともかく、この本は理科系音痴の方には絶対のお薦めです。自分には理解不可能であると諦めていた物理法則が基本的なところで理解できるようになります。万が一理解できなかったとしても、ホームズ物として読んで十分に楽しめるわけですから、絶対に外れがないというお得な本ですよ。
1999年7月10日 アントニオ・タブッキ 「供述によるとペレイラは・・・」
華麗な文体と幻想的な作風で知られるタブッキの意外な、そして心の深いところに染み込んでくるような作品です。本を閉じた後、無意識のうちに表紙を繰り返し撫でている自分に気がつきました。
ファシスト政権下のポルトガル、夏のリスボン、息が詰まりそうな時代と季節。シケた夕刊紙の文芸部長(といっても部下なし、彼一人です)である冴えない孤独な中年男ペレイラは、ロッシという若者の書いた論文を読んだことから、少しずつ政治に巻き込まれていきます。若者とその謎めいた恋人は、反政府運動の闘士だったのです。気が弱く、優しく思いやりのあるペレイラは、彼らの輝くような若さと無鉄砲さにとまどいつつも、どんどん引き込まれていきます。政治的動機があっての事ではなく、そこにあるのは子供を心配し、彼らを守ろうとする父性的な感情です。金を渡してやり、偽造パスポートで入国した仲間をかくまってやり、一見、いいように利用されているだけに見える状況の中で、ペレイラは少しずつ変わっていきます。判で押したような日常生活、話し相手といえば死んだ妻の写真だけ、そんな彼が一歩、いえ半歩ずつ自分の殻から踏み出していきます。休暇を兼ねて訪れた療養所の医師(知的で優雅な人物です。ヨーロッパの良心を体現しているように思います。)の、新しいエゴに自分を任せてみる、そうすれば新しい自分を生きることができるという言葉が印象的です。それまでファシスト政権の蛮行に心を痛めることはあっても、それと対峙することはしなかったペレイラの中に新しいエゴが生まれます。それは相変わらず孤独なものですが、しかし、今までにはなかった勇気をもったものでした。それを作り出したのは、無鉄砲で無責任でいい加減で、つまり全てにおいて若さに溢れているロッシのあり方だったと思います。ロッシが秘密警察に殴り殺された時、ペレイラは淡々と行動に移ります。まるで、そうすることが当たり前であるかのように。彼はたった一人でとんでもない行動を起こします。それは命をかけたものなのに、彼には失敗することへの恐れはあっても、死ぬことへの恐れはありません。そして、とんでもないことを何とかやり遂げた彼は、鞄に妻の写真を入れて、偽造パスポートを持って我が家を後にします。どこにいくのか、彼にはもう安心して眠れる場所などないのです。
自分一人で(ペレイラは「私の同志は私だけです」と語っています)考え、決定し、行動することの孤独を想像します。それは底なし井戸のような救いのない孤独です。でもその孤独を引き受けることで、半分死んでいたペレイラは生きることができたのです。一人であることの意味をタブッキは丁寧に日常を書き込むことで表現しています。レモネード、オムレツ、行きつけのレストラン、電話、こんな道具立ての中で描かれる「一人であること」に、タブッキのペレイラに対する優しさが見えますね。タブッキはきっとペレイラに「生きて」ほしかったのでしょう。
1999年6月20日 ポール・オースター 「偶然の音楽」
キーワードは「壁」です。
ナッシュの生活はある日を境にグラグラと崩れていきます。彼は、妻と娘を失い、2才の時以来会っていない(全然覚えていないと思います)父の死を知り、職場を去り、家を捨て、赤いツードアのサーブ900に乗り、ハイウェイを漂流し始めます。行きたいところなんてないんです。ただ移動すること、それがナッシュの唯一の目的になります。この辺り、道がどこまでも、どこまでも続いているという感じがアメリカですね。日本の道路事情だとこうはいきません。そして、ある日、よれよれの若者、ジャック・ポッツィを拾います。ジャックも漂流している人間です。彼はポーカーをしながら街から街をさまよっているギャンブラーです。ジャックも父に捨てられています。彼らは二人とも「父」という存在から切り離されています。この「父」とは、家、定着すること、何かとつながることの象徴に思えます。子は父から何かを受け継ぎ、それを次に伝えていくものだとすれば、彼らは何も受け継がず、伝える相手もいません(ナッシュは離婚して娘と離れています)。
ある奇妙な金持ちとのポーカー勝負に大負けした二人は、カフカ的世界に入り込みます。借金を返すために「壁」を作ることになるのです。来る日も来る日も規則正しく、石を積み上げて壁を築く、それだけ。その壁は「無意味」な壁です。奇妙な金持ちがアイルランドの古城から持ってきた石をただ単に壁に積み上げることを思いついただけ、壁として存在するということ以外に何の意味もないのです。
壁とは外と内を隔てるものです。外から内を守るものであると同時に、外に対して内を閉じこめるものでもあります。ナッシュとジャックの二人は「壁」に囚われることになります。でも、彼らは囚われているだけなのでしょうか。彼らは同時に守られているのかも知れません。「壁」から逃れようと外の世界に逃亡したジャックは大けがをして、(おそらく)死んでしまいます。そして、完成した壁から久しぶりに離れたナッシュにも、あることが起こります。
壁とは何なのでしょう。目の前に壁を想像します。今、私の立っているところは、私にとっては内側です。でも、それは壁の向こう側から見れば外側になります。堅い石の壁が隔てるものは一見とても明瞭のように思えます。それが読後には全く曖昧なものになってしまいました。この不安感がオースターの世界なのかも知れません。
1999年6月12日 エリック・フォスネス・ハンセン 「旅の終わりの音楽」
とてもボリュームのある本なのですが、どんどん読みました。途中で、読み終えてしまうのがもったいなくて、スピードを落としたのですが、どんな本にも最後のページがありますね。これは、タイタニック号の楽団員たちの話です。但し、フィクションです。運命の船に乗り合わせた7人の音楽家たち。彼らは皆才能に恵まれ、感じやすい心をもっています。豊かな才能と繊細な心を一緒に持つというのは、とても不幸なことなのかもしれません。どちらか一つだけを持っていたのなら、彼らの人生は全く違ったものになっていたでしょう。豊かな才能でどんどん世界を切り開いていくこともできたのに、繊細な心がそれをさせませんでした。7人ともに、少しずつ予定された人生の航路からずれていってしまったのです。ヨーロッパの各地から流されてきた彼らが最後に行き着いたところがタイタニックだったのです。流れる水が最後には一番低いところで淀むように、彼らは死を予定された船に乗り合わせました。あの船に乗った多くの人たちにとって、それは偶然だったでしょう。でも、彼ら7人にとっては、それは必然だったように思えるのです。少しずつ崩壊の過程をたどっている彼らにとって、沈没する船で最後の演奏をすることは、最初から予定されていたように思えるのです。
最後に彼ら7人が演奏したのは、ヘンデルの「ラルゴ」です。ラルゴ・・・とてもゆっくりという意味ですが、表情豊かに、という意味もあります。今にも沈んでいく豪華客船の甲板の上をヘンデルのラルゴの旋律が流れます。ゆっくりと、ゆっくりと、そして表情豊かに。この光景は、彼ら7人だけではなく、タイタニックだけでもなく、全ての衰退し、崩壊していく過程にあるもの(衰退せず、崩壊しないものがこの世にあるとは思えません)に対する思いやりを感じさせます。登ってきたんだから、もう降りてもいいんだよ、ただ、ゆっくりと、ゆっくりと・・・
最後に見返しにある作者の紹介を読んで驚きました。1965年生まれとあるんです。私は読んでいる間ずっと、60才、70才くらいの作者を想像していました。1965年に生まれた人間が、これほどまでに優雅に細やかに、没落と衰退を描くのか、本当に驚きました。