読書日記

手元に本がなければ、電話帳でも
薬の使用注意書きでも読む・・・
読まずにはいられない・・・
末期症状の活字依存症にのたうつ日々

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Leaf2010年8月26日 斎藤明美 「高峰秀子の流儀」

 御歳86歳になられる大女優高峰秀子さん、日本映画にはさっぱりとご縁のない私ですらその名前は知っております。昭和4年、5歳で銀幕デビュー、55歳で引退するまでの半世紀、常に日本映画の頂点にあり続けた大女優の「その後」の日常を綴ったエッセイというか、評伝というか、そんな一冊です。

 5歳でいきなり天才子役、そのまま大女優、50年間で300本を超える映画に出演したとのこと、単純計算で年6本、昔の映画界の仕事ぶりの凄まじさに驚かされます。どんだけ早撮りだったんだ。そんなワーカホリック揃いの映画の世界を生きてきた彼女の人生、当然ですが波瀾万丈です。
 4歳半で実の母を喪い、叔母の養女に。ある日養父に背負われて行った先の撮影所で映画のオーディションを受けさせられ、そのまま子役デビュー。「どんどんお金がとれるようになって、有象無象がいっぱい寄ってきちゃって、稼いでも稼いでもその人達がいっぱい使っちゃって・・・」、ご本人が書いておられます。そのたかり連中の筆頭が養母(ご本人は「デブ」と呼んでおります)なのですから、人間は恐ろしい。人間を恐ろしいものに変えるのは金です。子役スターが稼ぎ出す莫大な金、高峰さんはたった12歳で、デブが呼び寄せた訳の分からない親戚連中十数人の生活を背負わされたのです。撮影が忙しくて学校になんて行けない、小学校に通ったのは延べで1ヶ月にも満たない、独学で字を覚えた少女が後に『私の渡世日記』で名文家と呼ばれるようになるのですから、真の才能というものはいかなる境遇に置かれても勝手に芽吹くものなのか、それとも努力がそれを可能にするのか。
 天才子役、少女スターを経て、大女優へ。そして脚本家である松山善三氏との出会いと結婚、それもただの結婚じゃない、映画一本で百万円のギャラを稼ぐ女と月給一万二千五百円の男という桁外れの逆玉、格差婚です。こんな結婚があれば世間のやることは決まっています、いつまで保つか賭ける。そして夫妻は見事に皆の期待(?)をひっくり返し、ざまぁみやがれとばかり、仲睦まじく今日に至っております。これは幸運だけじゃない、強い意志とたゆまぬ努力がなければなし得ないことでしょう。

 大女優時代の逸話も豪快で楽しいですが、引退後の人生の「片付け方」が素晴らしい。大金のかかった大邸宅をこれまた大金を投じて小さくする、「建て増し」じゃなくて「壊し減らし」、数々のトロフィーも、衣装も食器も一切合切、必要最低限のものだけを残してさっぱりと捨てる。
 松山家で煮素麺を振る舞われた折のエピソードが象徴的です。筆者と松山氏に大きな朱塗りの椀に盛られた煮素麺(腰の強い年代物の素麺ってお出汁タップリで煮ると美味しいですよね)が出されます。高峰さんは食べないまま松山氏が食べ終わる。すると、その椀をさげて台所へ戻った高峰さんが自分の分を入れてくる。松山家には大きな塗り椀が二人分しかない。二人分だけ残して後は捨ててしまったのです。万事がこの調子、男前です。

 章立てにある「動じない」「求めない」「期待しない」「振り返らない」「迷わない」「甘えない」「変わらない」「怠らない」「媚びない」「驕らない」、そして「こだわらない」、てんこ盛りの「ない」の先にあるしなやかな自由、分かっていてもなかなか思い切れないものですが、そこをすっぱりと思い切ってしまえる人なんだなぁ、この人は。

 食べることを大切にして、日々の生活には欠かせないやらなければならないことを一つとして疎かにしない、でも必要ない物事は義理がどうであれ、しがらみがどうであれ、一切寄せ付けない、そんな日常生活の描写には是非とも見習いたいことが多いです。登場する高峰さんの手料理はどれも美味しそう、「高峰さんは鍋で何か煮ている。その時、台所にあるのは、ガスコンロの上の鍋だけ、まな板もボウルもザルも包丁も、料理に使ったであろう物は全て片付いている」、料理が出来上がった時に片付けも終わっている、これが自然に出来るのが良い料理人です、こういう人の作る料理は美味しいんです。明日から、いえ、今日から、私も一つ一つの動作を慈しんでみよう、高峰さんの日常からはそんな元気が貰えます。

 ただ、この一冊、素材は超一流ですからそれだけで十分に読む価値アリなのですが、書き方に些かの難が・・・。

 まず同じ話が何度も出てくる、これは元々が雑誌に連載されていたものなので致し方ないかとも思いますが、いくら何でも多すぎる、これカットしたらボリュームが三分の二くらいになってしまう、単行本で出す以上は加筆なりなんなりして貰いたかった。

 高峰秀子さんが素晴らしい人であることを何とか伝えたいという筆者の熱意は分かります。しかし、イヤなエピソードが一つも出てこない、ここまで素晴らしい人だと、観賞用としては宜しいでしょうが、近くにいたら、私はイヤです。なんだか途中で背中やらお尻やらがこそばゆくなってきます。はいはい、分かりましたとひねくれたくなってきます。

 そして、これが一番の問題だと思うのですが、その素晴らしい対象と筆者との間の距離にある種のイヤらしさがあるのです。筆者が高峰ご夫妻を「かあちゃん、とうちゃん」と呼んでいるとあります。そして、この称呼が繰り返し登場します。対象と自分との密接さを強調する、これはこの本には必要ないでしょう。この本は「高峰秀子の流儀」なのであって、そこに価値があるのであって、大部分の読み手は、筆者には興味ないのです。何だか自分の知り合いの偉い人を褒め称えて自慢をすることで、結局は自分の自慢をしている酔っ払いの繰り言の感があります。
 身内同然の親しい間柄だからそれは当然というのであれば、この本は身内褒めの本になってしまい、そんなもん、私は読みたくありません。はっきり言って書き方に品がないのです。まして対象は現在もこの世にある人です。死んだ人なら「本人はもう文句言えないしなぁ」と思いますが、まだまだお元気な方でこれをやられると、「こんな書き方されて平気って、案外なもんだな」、書き方の品のなさが対象を貶めてしまっております。これがつくづく残念。


Leaf2010年7月8日 ジョン・ハート 「ラスト・チャイルド」

 この作品、ハヤカワ文庫とハヤカワポケミスで同時発売という変則的な販売方法です。両方で食い合う可能性もありますが、当たったら倍になって返ってくるというギャンブル性の高い売り方です。帯には「早川書房創立65周年&ハヤカワ文庫40周年記念作品」のコピー、それに加えて、「アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞受賞」、「英国推理作家協会最優秀スリラー賞受賞」、早川書房さん、力入っています。しかし、売り方に力入っているからといってその本が決して面白いとは限らないということは、もうええ年こいた本の虫の私は充分承知しております。コピーと受賞歴を信用した結果が「嘘こいてんじゃねぇ」で終わることだって結構あります。しかし、ジョン・ハートは注目している作家です。第一作の「キングの死」、第二作の「川は静かに流れ」、どちらも失われた家族の風景を情感たっぷりに描き出す繊細さと、二転三転するストーリーをラストまで破綻させない豪腕を感じさせるレベルの高い作品でした。その第三作となれば読むしかないでしょう。久々のポケミス(私はこちらを選びました)、独特の黄色い切り口とタフなビニールカバー、ずっしりと重たいボリューム感、これだ、これだ、これがポケミスだ。

 読み始めたのは午後9時間30分でありました。そしてふと気付けば日付が代わっている、明日の(いや、今日か)仕事どーすんの、わたし。私とてまともな社会人でありますから、途中で一回、灯りを消して寝ようとはしたのです。しかし、眠れっこないじゃん、これ置いて眠れるヤツいたら出てこい、と訳の分からないことを呟きつつ、きっぱりとベッドを離れて、スコッチ・ウィスキーのグラスを傍らに本格的に読み進み、午前3時に読了。やられました、参りました、お見事です。まだ今年は半分残っておりますが、2010年度ベスト・ワン、決定です。

 主人公は13歳の少年ジョニー、彼の家族は一年前の出来事によって崩壊してしまいました。彼とそっくりの真っ黒な瞳を持つ双子の妹アリッサが何者かに攫われたのです。ジョニーの親友であるジャックの目撃証言によれば、学校帰りの道で突然車に引っ張り込まれて連れ去られたアリッサ、警察の懸命の捜索にもかかわらず、妹は発見されませんでした。そして、母キャサリンに責められ続けた父(あなたがあの子を迎えに行かなかったからよ、あなたのせいよ)も忽然とその姿を消してしまいます。家族4人で暮らしてきた家は銀行によって差し押さえられ、酒とドラッグに溺れるようになったキャサリン、そんな母とジョニーは、今では町の有力者で大金持ちのケンが町外れに持っているあばら屋に家賃1ドルで暮らしています。床が擦り切れ、隅がまくれ上がっている家、吸い殻で一杯の皿、酒の空き瓶と汚れたショットグラス、そして、テーブルの上の鏡の表面には白いコカインの筋が残っている、荒れ果てた家。町中の男たちが夢中になった美しいジョニーの母は今ではケンの囲い者、気紛れに現れては母と寝室に閉じこもり、情事の代価としてドラッグを与え、当然の権利のように母とジョニーを殴るケン、ジョニーの真っ黒な瞳は全てを見、全てを記憶し、全てを呪っています。

 ジョニーはただ一人妹を捜し続けています。学校をさぼり、図書館の本で周囲の地形と歴史を調べ上げ、周辺に住む小児性愛者たちのリストと書き込みで一杯の詳細な地図を握り締め、昼は自転車を走らせて、夜は母の車を勝手に運転して、日夜必死で妹を捜しています。警察が諦めたって僕は諦めない、アリッサを取り戻す、そうすれば父さんだってきっと帰ってきて、母さんはあのろくでなし野郎のケンを放り出して、ドラッグや酒を止めるんだ、僕はこの手で僕の家族を取り戻すんだ。

 そして、事件を解決することができなかった警察では、刑事のハントがジョニーを見守っています。警察だって諦めたわけじゃない、でも君はまだ子どもだ、勝手に車を運転し、学校をさぼり、前科者たちの周囲をうろつくのは止めるんだ、何かあったらいつでもいい、ここに電話をくれ、ハントがジョニーに渡した名刺は少年の机の引き出しの中で山をなしています。警察はアリッサが死んだって思っているでしょ?アリッサは生きているんだ、前にも誘拐された女の子が、何年も経ってから監禁場所から助け出された事件があったじゃないか、ジョニーの非難を黙って受けるハント、アリッサ事件のファイルを家に持ち帰り、休日も捜査に当たり、仕事を理解しない妻は家を出て、息子はそんな父に反発する、ハントの家庭もやはりあの事件をきっかけに崩壊していたのです。

 ジョニーと一緒に学校をさぼってアリッサ捜索に付き合っているジャック、事件の唯一の目撃者である彼は、4歳の時にトラックの荷台から落ちて腕を酷く損傷し、それが原因で腕の骨の成長が止まり、「6歳児の腕をその倍の歳の子にくっつけたように見える」障害を負っています。兄のジェラルドは野球選手として大学進学が決まり、プロからも注目されている地元の花形、父は出来が良くて将来は大金を稼ぐことが約束されている兄だけを可愛がり、ジャックは全く顧みられることのない存在です。「あの日のことはよく覚えている。曇天で、涼しかった。先生から手をつなぎなさいといわれたが、女の子は誰もジャックと手をつなぎたがらなかった。」「彼はそこで同級生に背を向け、・・・泣いてなんかいないというように、標識に見入っていた。」、ジャックにとっても家庭は崩壊しています。

 ジョニーとジャックが学校をさぼり、ジャックが父の冷蔵庫からくすねてきたビールを煽り、ハントのいつもと同じお説教から逃れて、二人並んで川伝いに歩いていたその日、近くの大学で教鞭をとる一人の男が、趣味のマウンテン・バイクとロック・クライミングを楽しむべく、渓谷を目指してトラックを走らせていました。そして、保護観察違反で収監されていた作業場から抜け出した大男の黒人は、その肩に大きな箱を担いで、彼にとって、彼の家族にとって、彼の先祖にとって特別なある場所を目指して歩いていました。全身傷だらけ、何日も食事も睡眠もとらずに歩き続ける大男、彼の耳には「神の声」が聞こえます。彼はただただその声に忠実に従いつつ、ある使命を持ってひたすら前進します。

 ここまでで導入部、みっちりと書き込まれた崩壊した家族の情景、アメリカの田舎町の埃っぽさと気怠い熱気、身体と心が上げる悲鳴、痛みと孤独、微かな光と圧倒的な闇、祈りと呪詛、諦めと抵抗、あらゆるものが詰め込まれ、しかし、少しももたれない、重さはしっかりと感じるのですが、長さを感じさせない文章、翻訳(東野さやか)もその密度をしっかりと捉えて素晴らしい。

 それぞれ家庭に居場所がないジョニーとジャックが、それぞれの苦悩を知った上で知らないふりをしつつ、お互いの涙を見ないふりをしつつ、不器用に助け合っていく様子は、「スタンド・バイ・ミー」を彷彿とさせる切なさです。神の声を聞く大男の黒人の長くて辛い贖罪と巡礼の旅と、その過程でのいくつかの偶然は、「グリーン・マイル」を思わせる哀しさです。子どもに対する犯罪がどれほどその親を傷つけ、時に狂わせるか、一旦人の心に巣くった闇はどこまでおぞましく成長していくのか、「ミスティック・リバー」のあの底が見えない絶望がここにあります。そして、ただ一人、決して諦めず、決して引かず、大人顔負けの悪知恵と機転、子供らしいオカルトとおまじないでもって武装した、暗黒面に墜ちた「ハックルベリー・フィン」とも言うべき愛すべきジョニー。

 いつものことながら、ハートは執拗に壊れた家庭、失われた家族を描きます。無惨に砕け散り、荒廃し、踏みにじられた家族の風景、微笑みがあるはずの場所に涙が居座り、労りの代わりに憎悪が飛び交い、守るべき者が守られるべき者を傷つけ、傷つけられた者の悲鳴が虚しく反響する、そこに描かれるものは、かつては家庭と呼ばれた廃墟です。しかし、ハートの描く主人公たちはその廃墟の真ん中で決して諦めない、あるべきものをあらしめんためにその歩みを決して停めません。一種の「家庭原理主義」ともいうべき頑固さが基本にしっかりとあるからこそ、崩壊した家庭の再生のための犠牲と痛みに正当な価値が与えられる、片親家庭、児童虐待、ネグレクト、ドラッグ、暴力、現代アメリカの病理を描きつつも保守本道の作風は、どこかイーストウッドの映画のテイストをも感じさせます。

 複雑な要素をいくつも盛り込んだ圧倒的な重さを持つシチュエーション、これだけ積み上げておいて、どうやってラストへ持っていく?下手すると自重で潰れるかも・・・、今時のミステリーとしては少々長すぎるページをめくりつつ、早く先が読みたいし、でも残りのページが減っていくのは悲しいし、スコッチの酔いも手伝って、私も気が気ではありません。しかし、二転三転の果ての思いがけないラスト、真犯人とその「犯行」に唖然とすると共に、そこには紛れもない救済があります。タイトルの「ラスト・チャイルド」とはいったい誰のことなのかが明らかになった時、全てのシチュエーションがピタリと収まり、大きいのから小さいのまで、全ての謎がするりと解けて、絶望と崩壊の物語は、希望と再生の物語にそっと転換するのです。まさに圧巻のラスト、一気読みに一片の悔いなし!(翌日きつかったけど・・・)


Leaf2010年3月27日 お知らせ

 突然ですが、私、夏目漱石にはまってしまいました。その昔、全ての作品を読みました、正確には、中高生の頃に何だかんだで「読まされ」ました。そんな私にとっての漱石とは、明治の文豪、イギリスへ留学したエリート、最近見なくなったけど千円札の人、胃が痛かったんだよね、と認識されている人物でした。恥ずかしい限りです。
 少しだけ自己弁護をさせていただきますが、「坊っちゃん」や「猫」はともかくとして、中高生に「こころ」だの「それから」だのを読ませた(今でも読ませていますか?)文部科学省やPTAは、一体全体何を期待していたのでしょうか?子供が読んで分かるわけないじゃないですか。分かるわけないということが分からないのだとすれば、ひょっとして、あんたらも読んでない?と邪推したくなります。文豪の作品だからって何でもかんでも推薦図書にして読ませれば良いってもんじゃないでしょう。

 腹立ちついでに書きますが、中学校の音楽の授業で私が最初に鑑賞したオペラは、モーツァルトの「魔笛」でした。ダメです・・・、全くもってよろしくないです。モーツァルトなら何でもいいって安易に考えていませんか?コンチェルトや弦楽四重奏ならともかく、ことオペラに関しては、モーツァルトは決して初心者向けではありません。モーツァルト・オペラは釣りでいうならヘラ鮒です。鉢植えでいうなら万年青(オモト)です。酒の肴でいうなら炙ったイカです。あれもこれもやり尽くした人間が最後になってさらりと楽しむ、それがモーツァルト・オペラなのです。人生最初に聴くオペラではありません。おかげで私はオペラの楽しみにたどり着くまでにどれほど遠回りしたことか。

 話は戻って、私はこの年になって突然に、いえ、当然に(ダテに年喰ってないんすよ)、漱石が「分かる」ようになってしまったのです。というわけで、目下その全作品を順番に丁寧に読み直しております。昔好い加減に読み飛ばした(全然記憶に残っていない)行が意味するところに唖然としたり、退屈だと感じた細やかな風景描写の確かな筆使いに驚嘆したり、何かややっこしいのうと感じた複雑な継ぎ手のような人物の立ち位置の妙に惚れ惚れしたり、年を重ねてからの恋愛はなりふり構わない厄介事になると言いますが、年を重ねてからの読書の「ツボ」も同様に厄介なのです。

 かくして、当分の間、漱石三昧が続くこととなります。他の本を読んでいる時間が惜しいものですから、「読書日記」の更新はしばしお休みを頂くことになりそうです。勝手をお許し下さい。


Leaf2010年2月1日 椎名誠 「新宿遊牧民」

 古くからの愛読者には、「椎名さん」よりも「シーナさん」と表記した方が収まりがよろしいのですが、そのシーナさん(こちらもちょっと面倒なので以下敬称略の「シーナ」)の、身辺雑記かと思えば舞台は日本を飛び出して秘境辺境へ飛び、酒飲みバカ話かと思えば胸の奥がじーんと少し熱くなる感動エピソードが登場し、シーナの本には珍しくはありませんが、分類不可能、しかし、すこぶる楽しい一冊です。

 「名作『哀愁の町に霧が降るのだ』から二十五年」、「輝けるバカたちの物語」、「おうい、みんな、あそぼうぜ!」、帯のコピーが泣かせます。25年、美味くて安くて量の多いラーメンとギンギンに冷えた生ビールをこよなく愛し、イザとなれば喧嘩ジョートー、腕力勝負も辞さない、そんな過激なおっさんシーナも還暦を超えました。

 シーナという作家、見る角度によって全く別人に見えるという不思議な作家です。世界の秘境でタフな冒険を繰り広げる「現場型」の紀行作家であり、身辺数百メートルにアンテナを張り巡らせ、小さな「カチン」を大きな「怒!」に広げていく「重箱型」のエッセイストであり、「火宅の人」になりたかったのに、奥様と息子さん、娘さんが先に「火宅の人」化してしまい、結果としてお留守番担当の「お宅のヒト」になってしまった父の心情を綴る「小津型」私小説家であり、そして、慣れを通り越して存在を感知できないような日常の出来事の小さな裂け目から、異形と恐怖と郷愁を紡ぎ出す「水平目線型」のSF作家でもあります。これに加えて、写真家であり、映画監督であり、ちょこっとだけタレントでもあります。しかし、この多面体は「マルチな才能」という言葉を贈るには少々大雑把というか適当というか、シーナのあっちこっち高感度アンテナは、知性とか知識ではなくて、あれっ?なんだっ?っていう夏休みど真ん中の小学生みたいな行き当たりばったりの好奇心なのだと思います。

 この「新宿遊牧民」、例によってストーリーはあるようなないような、まぁ、無理矢理まとめてみれば、いー年こいたおっさんたちが紆余曲折、右往左往、あれよあれよを経て、新宿の雑居ビルの屋上に自前のゲルを建てた話、ということになるでしょう。ゲルってあの、モンゴルの遊牧民が使う丸い骨組みに布を張って天井に穴のある移動式住居ですね。これを大真面目で建ててしまったわけですが(証拠写真あり)、そこへ至るまでのおじさんたちの、涙と笑いと感動と、主に酔っ払いの与太が綴られております。

 いろんなおじさんが登場します。新宿の居酒屋店主とその「弟子」たち、東京、新宿という場所は地方から上京した人間の吹き溜まり、たいていはどこかに流されていくものですが、そこに根を下ろすだけじゃない、上へ上へと幹を伸ばしていく、照れも衒いもない真っ向勝負の熱い成り上がりパワー、これはもう平成の日本では絶滅間近のレッドリストでしょう。あるいは、同人誌規模の極小出版社をジワジワと全国ベースに載せていく、あるいは、撮りたい映画を撮りたい人たちと撮りたいように撮る、どれも根気と馬鹿力と運が必要な難しい作業ですが、目の前の障害を一つ一つ乗り越えていく誠実さ、読んでいて元気が出てきます。溜息は沢山つくけれど、文句は一杯ブーたれるけど、気に入らないヤツには思い切りガン飛ばすけど、後悔だけはない、そんな真面目な不良おじさんたちの物語です。
 これがどこでどうして屋上ゲルにたどり着くのか、その辺りの伏線があるようなないような、そこは計算をしたくてもできない(と思われる)シーナのことですから、何か読んでいるうちにそーなっちゃうわけで、いろんな人たちが絡み合ってはほぐれる様をさらりと描きつつ、所々に真っ当な怒りとクスクス笑いを交えてガシガシ進むシーナ・ワールドは健在です、

 しかし、シーナ・ワールドにも時は流れます。過去の同様の作品、「哀愁の町に霧が降るのだ」や「あやしい探検隊」シリーズにはないものが本作にはあります。それは「死」です。幼馴染みが、無名時代からの友人が、共に辺境を旅した相棒が、共にバカ野郎と闘った戦友が、何人か死んでいきました。思いがけない突然の死があって、割り切れない無念な死があって、60歳代の死というのは何というか、言葉にし難いものがあります。若者の死のように転げ回って嘆くには成熟しており、あぁ、逝ってしまったんだと静かに納得するには生々しい。そんな死を前にして寡黙になるシーナですが、死を見つめることと平行してゲル建てるぞぉというバカ計画が進んでいく、致死率100%の人生、きちんと生きるってきちんとバカやることなのかも知れないな。

 死って背中から近づいてくるような気がします。本人には良く見えない、ある時突然に背中に張り付いていることに気づく、面と向かって顔を合わせる時にはこちらは死ぬわけで、死ねば死の恐怖はなくなりますが、生きている限り死の恐怖はあるわけで、でも、死ぬのが怖いから死ぬわけにもいかないわけで・・・。死ぬって誰でも必ず一回やることで、やり損なった人というのはこれまで一人もいないわけで、もっとも「ありふれたもの」であるのに、なぜこんなに難しいものなのでしょう。

 さて、本作を読んで知ったこと、生ビール命!のシーナですが、生ビールの美味さはただただビールサーバーの掃除にかかっているのだそうです。毎日徹底的に洗われているサーバーで注げば即ち美味いのだとか。私もビール大好きですが、生よりも瓶が好きなので余り考えたことなかったです。しかし、この店、ビールサーバーを毎日洗っていますか?と聞くわけにもいかないしなぁ・・・。



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