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2004年12月28日 デイヴィッド・リス 「珈琲相場師」
2004年12月3日 今野勉 「テレビの嘘を見破る」
2004年11月25日 山田悠介 「リアル鬼ごっこ」
2004年11月3日 リチャード・ノース・パターソン 「ダーク・レディ」
2004年10月1日 早川いくを 「へんないきもの」
2004年9月3日 アラン・グリン 「ブレイン・ドラッグ」
2004年7月23日 ダン・ブラウン 「ダ・ヴィンチ・コード」
2004年6月18日 シャンタル・トマ 「王妃に別れをつげて」
2004年5月14日 ジェイムズ・パターソン 「黒十字の騎士」
2004年4月11日 T・J・マグレガー 「エヴァーグレイズに消える」
2004年3月1日 リチャード・ノース・パタースン 「子供の眼」
2004年1月23日 サラ・ウォーターズ 「半身」
2004年12月28日 デイヴィッド・リス 「珈琲相場師」
デビュー作である「紙の迷宮」で、18世紀初頭のロンドンを舞台に株式相場の世界を生き生きと描いたリスの新作、今度は17世紀半ばのオランダ、アムステルダム、切った張ったの舞台は商品相場。主人公であるミゲル・リエンゾは、「紙の迷宮」の主人公ベンジャミンの祖父に当たります。
「碗の中でそれはとろりとしたさざなみを立てた。黒く、熱く、まずそうだった」「なんです?」「途方もないものよ」「この悪魔の小便はね、あたしたち二人を大金持ちにしてくれるの」
主人公ミゲルはポルトガルのリスボン生まれ、外はがちがちのカトリック、中は欲ボケ色ボケ、それを客観視することもできなければ、世界の現実を見る目も持っていなかったぼんくら揃いのハプスブルク家の都で隠れユダヤ教徒として育ったミゲルは、人種の坩堝にして商品と金銭の交差点であったオランダのアムステルダムで一旗上げるべく、ありったけの財産を握り締めて故郷を捨てた数多くのユダヤ人の一人。相場師として売り出したものの、半年前の砂糖相場の暴落で借金まみれ、そりの合わない弟の家の地下室に居候している身、返済の当てもなく借金の期限は迫り、起死回生の大勝負以外に彼を救うものはなく、しかし、そのためのネタもなければ資金もない、ツキに見放された相場師なんぞ誰も相手にはしてくれません。
そんなミゲルの前に、裕福で魅力的な男勝りの未亡人ヘールトロイドが差し出した奇妙な飲み物、恐る恐る口を付けてみると、蠱惑的な苦味、きりりと簡素な刺激。ヘールトロイドが熱弁を振るいます、「ビールやワインは眠気を誘うけど、コーヒーは目を覚まし、頭をはっきりさせてくれる・・・、コーヒーは商売人の飲み物よ」。トルコ人がヨーロッパに持ち込んだコーヒー、イギリスでは既にワインやビールのかわりにコーヒーを出す店がいくつも開店しているの、アムステルダムほど商売好きな町ならば需要は来るわ、新しい、すごい投機事業よ。
借金から自由になれる、弟の面を見ないで済むどころか、自分の邸宅を構えることもできる、再婚して、子供を持って・・・、相場師ミゲルは夢と現実を天秤に掛けて人生最大の大博打に挑みます。
昔も今も、商品相場の主戦場は情報戦にあります。後がないミゲルの前に、ユダヤ人世界を取り仕切る共同体の監視組織マアマド、かつてミゲルの口車に乗って一切合切を失ったオランダ人相場師、冷徹な高利貸し、二股膏薬上等の情報屋、小心者で吝嗇家の夫にはない魅力を持つ義兄ミゲルに惹かれる弟の嫁、その嫁の弱みを握っているしたたかな女中、あらゆる人間が欲と色で絡み合うアラベスク。
作者はフロリダで生まれ育ったユダヤ系アメリカ人、元々は金融の勉強をしていたそうで、ぶつ切りの文体と陰影のない人物描写は、確かに本作の弱点です。しかし、それを補って余りある相場の熱気、天下公認の大博打、そこでは人種も生まれも関係ない、持って生まれた才覚と不屈の闘志、そしてほんの僅かな幸運が運命を決める、剥き出しの欲望、苛酷な平等、冷徹な「神の見えざる手」が支配する世界。
ミステリーというには弱く(これといった事件は起こりません)、コン・ゲームというには甘く(どんでん返しが途中で分かってしまう)、正直、賛否別れそうな作品です。しかし、マネーゲームの原則を知っている人間、そして17世紀のヨーロッパの歴史に興味を持っている人間には堪えられないであろう作品です。経済音痴の私は勿論後者です。
祖国を持たず、自分たちを迫害するキリスト教徒の世界で生きるしかなく、信じられるものは己の頭脳と金だけ、今日までつきまとうユダヤ人のイメージそのままのミゲルたち、かつて「エコノミック・アニマル」と呼ばれ、札びら切って世界に打って出た我が同胞たちがあっさりと返り討ちに会ったのも当然か、何しろその執念を培った歴史が違う・・・。
私は人間を人種で判断するのは嫌いです。だって、アインシュタインはユダヤ人でしたが、ロックフェラー財団から貰った高額の小切手を本のしおりにしていて本ごとなくすような人間でしたし、取り敢えず分からないことは全部「ユダヤの陰謀」で片づける一部の経済著作人を軽蔑しています。この作品の主人公はユダヤ人ですが、彼には、そんな薄っぺらなユダヤ人像を否定する、自分を守ってくれる存在を持たない人間が何を信じて生きていくのか、という誰にでも起こりえる事態への普遍性があります。
シェイクスピアの「ヴェニスの商人」のシャイロックは、相手がとんだ出来損ないのアントーニオ(全財産をたった一隻の船に投資する分散投資も知らない初心者、よりによって借金のカタに自分の肉を差し出すアホ)だったので「自殺点」で負けてしまいましたが、ミゲルの相手はそれぞれが百戦錬磨の相場師、プロ同士の駆け引きには一流アスリートたちだけが醸し出すある種の奇妙な「芳しい死臭」が感じられます。
加えて、同胞を監視し罰することはするけど守ることはしない宗教戒律の虚しさ、ユダヤ人を軽蔑しつつその金には憧れるキリスト者の浅ましさ、等身大の人間像、これといった魅力的な人物が登場しないので小説的には弱いですが、そこが歴史小説としては堅実、コン・ゲームとしてはプロットが平凡ですが、そこが経済小説としてはリアル、ある意味、読む人間を選ぶ傲慢な作品ではあります。
でも、あなたが珈琲がお好きでしたら是非どうぞ。異教徒のイスラム人がこよなく愛した悪魔のはらわたのように真っ黒な液体が、瞬く間にキリスト教徒を虜にし、虜になれば、そりゃ相手が異教徒だろうが何だろうが欲しいわけでして、そのジレンマを取り持ったのがユダヤ人、珈琲を通して学ぶヨーロッパ史。傍らには濃くて熱い珈琲のカップを置いて、束の間の歴史旅行、その味わいは勿論ほろ苦くて刺激的、ミルクもお砂糖もなし、そんなものは通用しません。
2004年12月3日 今野勉 「テレビの嘘を見破る」
毎日放送されているニュース番組、インタビュアーの質問に対して話題の人が熱っぽく己の心情を語ります。その言葉に深く頷くインタビュアー、この場面には「嘘」があります。テレビクルーはカメラを一台しか持ち込んでいません。時の人とインタビュアーを一緒に撮影することは不可能、質問している、あるいは頷いているインタビュアーの映像は、後から撮影して挿入されたものです。
世界中の辺境の地に乗り込んでいくテレビ局、しかし、往路でUターンして撮影した映像が帰路の光景として使われています。その方が経済的だし、帰路に起こるかも知れないアクシデントを避けられるからです。
野生動物の生態を紹介する番組、危険な猛禽類に鋭い瞳で迫る映像作家、しかし、彼の姿を捕らえた映像は、当然に別の時に安全を確認した上で撮影されたものです。いくら何でも猛禽類が徘徊している時に、その撮影者を撮影することはできません。喰われちゃいます。
毎日目にしている映像が実は「作為」の結果の「再現」であるという事実を、テレビの前に座っている多くの人間は知らないか、知っていても気にしないか、あるいはそれに慣らされてしまっているか。
これが温泉に浸かって美味しいもん食べてっていうお気楽な番組なら、見ている人間もそれなりに引いて見ていますから、害はありません。たまたま野良仕事をしていた地元の人に話しかけたら、その人が都合良く山奥の隠れ宿を知っていて、じゃ、そこに案内して貰えますか?えーとも、となって、夜にはシシ鍋でもつついて、、で、その温泉に伝わる落ち武者伝説なんぞを、ついさっきふらりとやって来たはずのタレントの「旅人」がなぜか予習していて、隠れ宿の女将は昨日美容院に行ったばかりの髪でメイクもやけに念入りで・・・、この手の「「再現」というより「やらせ」は、誰でも見抜けますし、見抜いたところでいちいち抗議する人もいないでしょう。これは報道というより娯楽です。野良仕事のおじさんは実は村役場の職員でも、混浴露天風呂が撮影用のもので、実は男湯と女湯に別れていても、楽しければ良い。
しかし、「ドキュメンタリー」と銘打った作品にも頻繁に「再現」が使われているという現実、これに見る人間はどう対処すべきなのか?ありのままを撮影するとすれば、一ヶ月フィルムを回しても何も起こらないかも知れません。作り手は過去に起こった事実を「再現」し、それを「事実」として伝えます。それは果たして「事実」なのか?
テレビのドキュメンタリーを見るときに、無意識のうちに映画を重ねている自分に気付く時があります。前線を挟んで対峙する兵士たち、片方にくっついている報道陣には相手方の陣営など撮影できるはずもありません。しかし、映画ではこれが当たり前に登場します。連合軍の司令官の叱咤激励を見て、その後に枢軸軍の下士官の恐怖と苦悩を見て、ついでにレジスタンスのリーダーの恋模様まで見えてしまう、これをドキュメンタリーで撮影できるとすれば、そのクルーは透明人間です。そして、知らず知らずのうちにドキュメンタリーにもそれを期待して見ている自分。
映像は力強い媒体です。数分のビデオが何万語の文章を軽く凌駕する現実を私たちは知っています。そして、この力がある一点を超えた時、映像はあるがままを伝えるのではなく、かくあるべきものを伝えたいという誘惑に駆られてしまうようです。それを「再現」として容認すべきなのか、「やらせ」として排除すべきなのか、問題はとことん深くて、私には到底答えが見出せません。一ヶ月撮影したけどなーんも起こりませんでした、では環境ビデオになってしまい、これでは商業的には成立しないでしょうし、かといって「再現」がどこまで再現なのかを確認する方法がこちらにはないのです。
長年ドキュメンタリーの世界にいる著者の主張は、ある面では説得力がありますが(「華氏911」のマイケル・ムーアの手法は、ドキュメンタリー的には問題があっても、彼の怒りと抗議、その対象が権力者であるという作品の成立要素からすれば正しいとか)、ある面では言い訳じみています(こうでもしないと誰も見てくれない、誰も見ない映像には何の意味もない)。
敢えて回答を出すまいとする著者の姿勢は、彼が撮影する側の人間であるから苛立たしくもあり、しかし、見る人間の判断を信頼するという根本においては、誠実であり、結局、「分からない」ということが「分かった」というのが正直な読後感です。
しかし、人間というのは何かを誰かに伝えるということに、かくも真摯であるという圧倒的事実、それは繋がろうとする意志の表れであって、それだけは大切にしたいと思います。伝える側であっても、受け止める側であっても。
2004年11月25日 山田悠介 「リアル鬼ごっこ」
注意!:本日の読書日記は「激辛」です。刺激物の苦手な方はお読みになりませんように。
私は、生まれて初めて、読み終えた本を二つに引き裂いてゴミ箱に放り込みました。
以前から気になっていた本でした。シックなんだけど、どこかおどろおどろしい装丁、若い世代が大絶賛という帯の謳い文句、積極的に読みたいとは思いませんでしたが、ま、いつか機会があったら読んでみっかと思っていた本でした。先日、古本屋にて250円で売っていたので入手、家に帰って1時間で読了、で、即刻八つ裂きの後ゴミ箱行きです。
「時は西暦3000年」、この出だしでまずコケました。しかし、こんなのは序の口、恐ろしいのはそこから先だったのです。
現在の日本のパラレル・ワールドであるらしいどこかの王国、その国の王様は佐藤さんと仰いまして、で、自分以外の500万人の佐藤さんを全員亡き者にしようという壮大かつ馬鹿馬鹿しいプランを思いつきます。一日のうち1時間、百万人の兵士たちが全国の佐藤さんを追いかけ回し、捕まえたら片っ端から処刑してしまうのです。主人公の佐藤翼くんは幼い頃に生き別れになった妹の愛ちゃんを助けるべく、大阪に向かいます・・・。
西暦3000年の日本らしき国なんですが、地名は全て現在の日本と同じ、町にはコンビニがあって、ファミレスがあって(このファミレスの描写が異様に詳細です)、タクシーが走っていて、翼くんは新幹線で大阪を目指します。21世紀の日本と全く同じ、おそらく作者は冒頭の「西暦3000年」を、書いているうちに忘れてしまったものと思われます。
主人公は父親から虐待されて育ったという設定ですが、作者が児童虐待について一冊の本も読んでいないことは明らかです。書くなら調べなさい、調べるのが面倒なら書きなさんな。児童虐待が軽々しく扱ってよい問題ではないことくらい分かるでしょう。
佐藤さん狩りは一日のウチ1時間、残りの23時間は自由です。海外に逃げるとか田中さんや鈴木さんの養子になるとかいう方法を、500万人の佐藤さんの誰も思いつかないようです。
文章がメチャクチャです。悪文とも呼べないシロモノです。「罪として重罪が下される」「愛をさがすしかほかないのだ」「営々と逃げ続けた」「グラウンドをひた歩き」「九人の足跡がピタリと止まった」「人々の間とともに長く受け継がれていく」・・・こんなのをいちいち書いていたらサーバーの容量がいくらあっても足りませんから止めますが、全編この調子です。読みづらいったらない、途中で目眩がしてきました。担当の編集者、校正しなかったんですか?ラストの文章は「王子以外を除く佐藤姓」、王子以外を除いたら王子しか残りませんが・・・。
宮廷の家臣たちは彼らの支配者に「王様」と呼びかけます。いきなり童話チック、「陛下」という呼称を知りませんか?ついでに言いますが、敬語もメチャクチャです。
人がバタバタと殺されていくのですが、この文章のおかげで緊迫感ゼロ、読んでいるうちにこちらの口元が自虐的にゆがんでいくのが分かります。こんな本を読んでいる私って何なのよ・・・?
出版元は文○社、ここは実質は自費出版を扱っている会社です。費用は作者持ちですから、会社としては印刷して書店に配給すれば後はどうでもいい、売れようが売れまいが貰うものは貰っていますからね。ところがこの本が文庫になってしまったのです。文庫の出版元は幻○舎、こちらは普通の商業出版の会社です。
この本が売れた理由、それは「あまりにひどいから」でしょう。文芸的には全く無価値、森林資源の無駄遣いでしかありませんが、ここまでひどいとどうしたって話題になってしまう、話題になると怖いモノ見たさで読みたくなる人も出てくる、その相乗効果がある点を超えると売れ筋になってしまうんですね。幾多の名作映画を差し置いて「シベリ○超特急」がDVDになっているのと同じことでしょう。
自費出版の方はともかく、これを商業ベースに乗せた出版社に私は問いたいと思います。売れれば何でも良いですか?これを印刷して世に送り出すことに何の疑問も感じませんか?あなた方には出版人としてのプライドはないのですか?
インターネットで調べたところ、ほとんどの方が「最低」と評価しているので安心したのですが(日本の読書人は出版人ほど腐っていない)、これを面白いと評価する人が僅かとはいえ存在するのはショックでした。これが面白い?あなた方、今までどんな本を読んできたのですか?そもそもまともな本を読んだことありますか?
何人かの人は「自分でこれを超える作品を書いてから文句言え」と発言しています(確かにこれを超える作品を書くことは、日本語を母国語としている人間には『ある意味』困難です)。はぁ?これは商品です。買った人間はお金を払ったのです。寿司を握れない人間は腐ったネタを出されても文句言うな、ですか?外科手術のできない人間は盲腸の代わりに膵臓を切られても抗議するな、ですか?資本主義社会で生きている以上、商取引の意味くらい勉強しなさい。
はっきり言います。この本の存在が意味するものは出版界の「自殺」以外の何物でもありません。間違っても読まれませんように。道に落ちているのを発見された場合には、誰かが拾って読まないように速やかに廃棄して頂きたいと思います。
2004年11月3日 リチャード・ノース・パターソン 「ダーク・レディ」
アメリカ中西部の都市スティールトン、その名前の通りかつては鉄鋼業で栄えた町も今はすっかり寂れ、時代に取り残されてしまっています。今、その町に大きな転換期が訪れました。新たに球場を建設しメジャーリーグチームを呼び戻そうという景気のいい話、その是非を巡って、白人富裕層に押される現職市長と、この町では未だマイノリティの黒人である郡検事ブライトの熾烈な市長選挙戦が町を二分しています。そんな町の検事局で不敗神話を誇るのは「ダーク・レディ」の渾名を持つ女性検事補ステラ。上司であるブライトが当選すれば当然に彼女の将来も前途洋々、彼の後を受けて検事補から「補」がとれることも夢ではありません。
立て続けに2件の殺人事件が発生します。球場建設の責任者を務めるトミーが黒人娼婦と共に麻薬の過剰摂取によって死体で発見されます。真面目一方の堅物男がなぜ?そして、何かと噂の絶えないやり手弁護士ジャックが、自宅の寝室で黒いストッキングとガーターベルトをまとっただけの裸体で首を吊った姿で発見されます。そして、ジャックはかつてのステラの恋人、彼との関係がステラの野望にとっては致命傷となるかも知れない状況で、ステラは捜査を開始します。何が出てくるか分からない、でも真実を知らなければならない・・・。
かつて鉄鋼によってこの町を支配した一族の末裔であるホールは、現職市長を後押しして球団経営による町の再生を狙いますが、そんな景気のいい話には当然に裏がある、莫大な税金を投下した建設工事は、曲がりくねった契約書の細道を抜けてみればすべてホールの所有会社が請け負っている、そしてトミーはそれを知っており、それを嫌悪していた、トミーに死んで貰いたかった人間は山ほどいます。
かたや、その寝室から「オカマ向けの薬局を開業できそうな」ほど大量の亜硝酸アミルが出てきたジャック、夜のお楽しみが少々行き過ぎた結果の事故死か。やり手弁護士ジャックの弁舌と法廷手腕が守ってきたのはスティールトンの裏社会を支配する伝説のギャング、ヴィンセント・モロ、その冷たい手は司法にも行政にも経済にも巧みに入り込んでいます。モロが彼らしい手法でジャックをリストラしたのか?
アメリカは直接選挙の国です。保安官も検事も市長もすべて直接選挙で選ばれます。選挙とくれば当然に金がいるわけで、金を手に入れるにはともかく何でもいいから成功しなければならないわけで、成功するには何かを犠牲にしなければならないわけで。夢は金で買えるもの、そんなアメリカの現実を、家族を捨てることで貧しいポーランド移民からはい上がってきたステラは知り尽くしています。かつての恋人の無惨な遺体に動揺しつつも、ステラは職務を全うすべく闘います。それは次の検事を狙う彼女にとって避けては通れない戦いなのです。
パターソンお得意の法廷シーンがありません。リーガル・サスペンスから家族の物語、政治の物語へ、若干の路線変更が感じられます。登場人物の描き分けと複雑なプロットを操る手腕は相変わらず、目下のところ、一番安心して読める作家です。
選挙において致命傷となるのが「金」じゃなくて「性的趣味」ってとこがアメリカの選挙の怖さです。政治家として職務を誠実に全うしてくれれば職務時間外の寝室で誰と何やっていようがいいじゃないか、という考えがこの国にはありません。候補者は清廉潔白、完全無欠の人物を演じ続けなければならず、そんなしんどい人生をどうして選ぶかなぁっていうと、そこにとてつもない金と権力があるからです。
アメリカは暴力によって作られた国です。先住民を殺し、その土地を奪い、富を求めるあらゆる人間が群がって作り上げた国です。暴力によって「神の国」を建設するという、かなり無理のある理屈でスタートした国です。そんな彼らのピルグリム・ファーザー以来の伝統は、成功こそ善。成功できないことは、ついてなかったね、間違えちゃった、では済まされない、神から見放された証拠に他ならないのです。しかし、成功しなくたってそこそこ楽しい人生は送れるし、それも一つの選択だろうと怠惰な私は思います。
底辺から頂上を目指す大勢の人々の野心がこの国の原動力であることは事実、しかし、上に登るために誰かを踏み台にし、たった一度落っこちただけで退場を言い渡される過酷なシステムが、大きな犠牲を要求するのも事実、それはステラの場合は「家族」であり、ジャックの場合は「良心」であり、ブライトの場合は「ありのままの自分」でした。
切り捨てたものは本当にいらなかったのか?これが私の夢だったのか?私は野心を夢と思いこんでいたのではないか?ステラは自分に問い続けます。
社会的に成功しなくても自分的に成就すること、大きな野心ではなく小さな夢を抱き続けること、傷跡の傷みに耐えつつ最期まで歩き続けることは「負け」なのか?
アメリカの価値観の接続詞には「and」はあっても「but」がないような気がします。「誠実でお金持ち」は理想でしょうが、「誠実だけど貧乏」とか「お金持ちだけど不誠実」とかいう生き方だってあるわけで、それをみんなして「誠実でお金持ち」を目指していたら、そりゃ辛いでしょうよ。第一、そんな世界は成立不可能、負ける人がいなきゃ誰がどうやって勝つんですか。
貧しい生まれを克服したことの誇りと家族を捨てたことの痛み、正義を司る者としての責任と不正を要求する成功の誘惑、ステラの苦悩はそのままアメリカの苦悩なのかも知れません。中盤に登場するステラと部下のマイケルとの淡い恋が痛々しくも清潔で、重たすぎる展開の中、ホッとできるのはうれしいです。
アメリカでは大統領選挙の投票が行われています。競い合う二人の人間が、もうすぐ一人の勝者と一人の敗者に分けられることになります。
2004年10月1日 早川いくを 「へんないきもの」
この本を書店で見かけて手にとらずに素通りすることはかなり困難です。帯に描かれた「?」な物体の正体を確かめずにはいられなくなるからです。何と言いましょうか、音符(♪)をひっくり返したような、ゴルフのドライバーのアタマのようなものがですね、地べたから生えております。そやつはオバQも裸足で逃げ出すタラコ唇を、ちょうどトイレの便座のようなU字型にニーって持ち上げて大口開けて笑っております(何が面白いのか知らないけど)。一体これは何だ?コイツの正体は「オオグチボヤ」、あの三杯酢で和えると酒の肴にもってこいのホヤの仲間です。これがホヤ?絶対に食べたくない、いえ、食べる食べないの以前に、到底、銀河系の生物には見えません。
コイツ以外に登場致します面々はといいますと、150度の高温で炙られても、絶対零度(マイナス273度)で冷やされても、真空中に放り出されても、放射線を浴びても、6000気圧に押し潰されても、全然平気、その上100年生きるという、一体全体何のためにそこまで丈夫でなきゃならんのか不明の「クマムシ」、両方のハサミにイソギンチャクを持ってそれをせっせと振り回しているチアリーダーの「キンチャクガニ」、アタマの大部分が突き出した目玉という深海魚「ボウエンギョ(望遠魚・・・まんまです)」、目も鱗もないくせにやったらめったら口だけは大きいエイリアン(あの映画でジョン・ハートのお腹を食い破って飛び出してきたヤツ)もどきの深海魚「ワラスボ」・・・。何がどうなってこんな奇天烈なデザインになったのか、誰か教えて下さい。誰に聞けばいいのかな?ダーウィン?ドーキンス?それとも神様?
その奇天烈な彼らの不思議な知恵、例えば「ミミックオクトパス」、縞々模様のタコですが、コイツは形態模写ができるのです。獲物相手には弱い生き物(カニとか)の、強敵相手には有毒生物(ウミヘビとか)の真似をするのです。そのレパートリーは40を超えます。擬態のできる生物は数多くおりますが、相手に合わせてネタを変えるなんてこと、このタコはいったいどうやって覚えたのでしょう?それをどうやって子孫に伝えているのでしょう?
ページの左には作者の軽妙な紹介文、右には精緻な鉛筆デッサン、見開き一ページの構成ですから、適当にめくって適当に読んで十分に楽しめます。滅多な生き物には驚かないD・アッテンボローのファンもえぇっと驚くことができ、この手の生き物には興味のない人も、少々悪ふざけ加減の文章で笑えます。
登場する生物はたいていが深海とか砂漠とかに住んでおりますので、おそらく私は一生お目にかかることはないでしょう。それがちっとも悔しくない。深夜、喉が乾いて水でも飲もうとキッチンの灯りを付けたところに茶羽ゴキブリ一匹、これでも十分にショックなのに、そこにいるのがガハハハハと大笑いしているオオグチボヤだったりした日には、心臓発作での死亡者が少なくとも現在の数倍に跳ね上がることでしょう。
イラストがモノクロなのがちょっと寂しいのですが、カラーだったら面白いを通り越しておっかないになりそうでもあります。普通に作れば「図鑑」のたぐいの本なのですが、そこをわざと外して、子供雑誌の付録の「怪獣大図鑑」のノリのチープさを狙っています。そこが楽しい。
この本の正しい読み方、それは気の合う友達とお酒でも飲みながらの秋の夜長、おっ、すげー!と騒ぎながら回し読む、または、一人でこっそりと読んで、何かの拍子にウンチクを披露する(但し、なかなか信じてもらえない危険はありますが)、あるいは、ベッドサイドに置いて眠る前の数分間、適当なところをパラパラと拾い読みして、あー、こんなのが海の底や砂漠の真ん中にいてウチの押入にいないのはうれしいなー、私も人間で良かったなー、次もできれば犬か猫、それが厚かましいならせめてカラス当たりに生まれたいなー、でも私、前世で何だったか覚えていないから、次に生まれても同じで、オオグチボヤで良かったなーで終わりか、しかしオオグチボヤはそんなこと考えんのか?考えないよなー、この世界は結構良くできてんなーと幸せに眠りにつく(私はこれ)・・・です。
間違っても真面目に読まないで下さい。一生懸命お勉強したところで、何の役にも立ちません。
2004年9月3日 アラン・グリン 「ブレイン・ドラッグ」
売れない物書きのエディ・スピノーラ、お腹がぽっこり、顎がぽってりの中年に差し掛かった冴えない男、今日も雑誌の締切を目の前にして、二日酔いのアタマからは一行の文章も出て来ません。現実逃避で町をうろついていたところ、別れた妻の兄ヴァーノンにばったり遭遇。彼から貰った一錠の薬、それは脳を飛躍的に活性化させる新薬MDT-48。その効き目たるや大変なもの。脱ぎ捨てた衣類、ピザの空き箱、タバコの吸い殻、汚れたグラスの散乱していた狭いアパートの一室はあっという間にピカピカに磨き上げられ、締切目前の原稿どころか、画期的な新刊書のアイデアまで湧き出てきます。薬の効き目が切れた時、エディはヴァーノンのアパートのドアをノックします。あと一錠、せめてあと一錠あれば・・・、そこにあったのは何者かに殺害された元義兄の死体、そして500錠のMDT-48・・・。
一日一錠で冴えない負け犬が万能の天才、現代のダ・ヴィンチに変身。楽譜が読めなかったのに数時間のトレーニングでビル・エヴァンズを小粋に弾きこなし、文法書を一読しただけでイタリア語がペラペラになり、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を原書ですらすら読み、画廊に入れば誰もが耳をそばだてる斬新な美術評論が口から溢れ出て、町を歩けば女が熱い視線を送ってくる。薬の作用による異常な行動力のお陰ですっきりとダイエットにも成功、高級ブランドのスーツがばっちり似合うイケメンに変身。じゃあ、何だってケチなフリーライターなんてやっている?いくら書きまくったところで実入りは知れています。金が欲しい、それも夢のような大金が欲しい、金はどこにある?決まっています、ウォール街!
デイ・トレードを始めたエディは瞬く間に伝説のディーラーとして話題の人に、そんな彼に目を付けたのは企業買収を手がける大物投資家、彼の右腕となったエディ、何しろ難しい財務資料も会計書類も彼にかかれば絵本も同じ、今まで雲の上だった世界への扉がついに開かれます。
しかし、MDT-48には恐ろしい副作用がありました・・・。
一気に駆け上るサクセスストーリーのスピード感、そして副作用が出始めてからの転落の怖さ、良く出来ています。ラストまで一気に読めます。とりあえず目の前の仕事を片づけたかっただけだったのに、エディの欲望には際限がありません。8桁の年収、更にその10倍の価格の豪華マンション、高級車、美しい女性、人も羨むキャリアと名声、そして・・・。人間の欲望の際限のなさ、エディは恐ろしい副作用を知ってからも薬を止めることができません。一度火がついた欲望は死の恐怖にも止めることはできないのか?こうなったら最期には神にでもなる以外にないという馬鹿馬鹿しさ、しかし、この馬鹿馬鹿しさの恐ろしさ。
筋立てとしては突拍子もないものですが、デイ・トレーディングの手法やM&Aの駆け引き、平行して進められる殺人事件の進展、別れた妻とのやりとりなどが実にリアルなのでぐんぐん引き込まれてしまいます。新人とは思えないかっちりとまとまった文体、ラストまで緊張感を失わないきちんと張られた伏線、ひょっとして作者も何か変なクスリでもやってんじゃなかろうか?
ただ一つ、問題があるとすれば、私がエディに感情移入できなかったという点ですが、これは著者のせいじゃなくて私のせいですね。恐ろしい代価を支払えば、つかの間世界の頂点に君臨できる薬、未来をカタに現在を買って何が悪い?どうせ人間いつかは死ぬと決まっているわけだし、ここまでの「欲望」は何とか理解することができるのですが、そこから先の「実践」についていけませんでした。
だって、エディ、1週間で5時間くらいしか眠らないで金儲けに精を出すんです。休日の朝、時計に目をやって、そうだ、今朝はあと1時間寝ていられるんだって再び枕を抱え込んで微睡む瞬間の幸福、あれはお金では買えません。数十億円の収入ったって、金利だって使い切れません。「使い切れないお金」と「持っていないお金」の違いが残念ながら私には良く分かりません。どちらも使えないということでは同じじゃないですか?
王を殺したマクベスが「眠りを殺した!」と嘆いた時、こんな恐ろしいことがあっていいのかと震え上がった怠け者の私としては、いくらお金があっても、いくら名誉が降り注いでも、眠れないのは絶対にイヤです。
最期の10行、これが怖い、どんなホラー小説よりも怖いです。間違っても最初にここを読んでしまわないで下さい。
2004年7月23日 ダン・ブラウン 「ダ・ヴィンチ・コード」
閉館後のルーブル美術館、一人の男が遺体で発見されます。彼はルーブル美術館館長のソニエール。その夜たまたま彼とアポイントのあったハーヴァード大学で象徴学を教えるラングドンは、否応なしに事件に巻き込まれてしまいます。なぜか全裸でダ・ヴィンチの有名な「ウィトルウィウス的人体図」の形で横たわっていたソニエールの遺体、これはダイイング・メッセージなのか。ソニエールの孫娘でフランス警察の暗号解読調査官であるソフィーは、現場に駆けつけるなり祖父が自分に残した暗号に気づきます。捜査協力を求められるラングドンですが、彼はすぐにそれは名目、自分は第一容疑者であるという現実に気づきます。ソフィーとラングトンは犯人検挙のために、無実の証明のために、何よりもキリスト教世界を揺るがす大スキャンダルを解き明かすために、警察を出し抜いて走り出します。
フィボナッチ数列(どの項も、その前の二つの項の和となっている数列)、アナグラム、「最後の晩餐」、「モナ・リザ」、「岩窟の聖母」、テンプル騎士団・・・、こうくればもうお分かりですね。答えは「聖杯」です。ソニエール(この名前は聖杯伝説とは切っても切れません)の死は聖杯の所在と関係しているのか、物語は自動的にここから現代のアーサー王たらんとするラングドンとソフィーの冒険話に突入します。
おもしろいんです、すごくおもしろいんです。上下2巻を一気に読めます。イエスとマグダラのマリアの結婚、彼らの子供たち、325年のニケーア公会議でイエスは「神の子」となり、ローマ教会は「人間」イエスの記憶を抹殺していきます。そんな彼らとテンプル騎士団の「神」を巡る死闘は現在も続いている、キリスト教世界の裏面史と暗号解読の楽しみ、ダンジョン攻略のワクワク感とタイムアタックのはらはら感、これらがテンコ盛りなんですからおもしろくないわけがない。
反面、読んでいて「これって小説?」って気がしないでもありません。何しろこの作者、人物を一切描かないのです。ラングドンを取り巻く人々の人物設定とその役割は前作の「天使と悪魔」(これもイルミナティと反物質を巡るバチカンの陰謀物語でした)と全く同じ、名前が変わっただけです。登場人物は作者の都合で動くだけですから、はぁー?なんていう唐突な展開もあちこちに見受けられ、ミステリーとしては一級品なのですがサスペンスとしては三流です。
作者が描きたかったのはキリスト教の歴史の暗黒面とそれを裏付ける膨大な証拠(と作者が信じている)の解説だったようです。
大ベストセラーで書店ではずっと平積みですし、有名な方々も大絶賛しているのですが、私は「?」です。ジェットコースターと同じ、乗っている(読んでいる)時はスリリングでスピード感最高でアドレナリン大放出なのですが、終わってみれば「あー、おもしろかった」だけ、綿飴よりも早く溶けてなくなります。
「聖杯」を巡る物語、これはキリスト教徒以外には何の意味もない、イエスが使ったコップはイエスが神の子だから「聖杯」なのであって、そうでなければ大昔の大工の倅が使ったただのガラクタです。
確かにダ・ヴィンチはテンプル騎士団の総長を務めましたし、彼の生涯には謎が多いことも事実、しかし、彼の作品を全てその視点で捉えるのはどうかと。「テンプル騎士団の立場ではこう解釈できないこともない」というだけの話をかくも堂々とまくし立てられると・・・。聖杯を巡る様々な説はいわゆる「と説」(とんでも説)が多いのも事実なのです。空想とこじつけの産物である「と説」ときちんと検証された「史実」を見分けられない人がこの本の説を鵜呑みにするのは非常に危険です。
圧倒的なウンチクとパズルを楽しみつつ一気に読んでさっと忘れる・・・これしか読みようがない作品ですし、これ以外の読み方はヤバイと敢えて申し上げます。
ところで、ブラウンさん、「最後の晩餐」はフレスコ画じゃありません。フレスコは漆喰が乾かないうちに顔料を塗り込めるので、早描きが要求されますが作品は長持ちします(ポンペイの壁画だってちゃんと残っています)。遅筆で有名だったダ・ヴィンチはこれができなかったがために、この作品をテンペラで描きました。テンペラは板に描く時の手法なのですが、彼はこの手法を使って乾いた漆喰の上に顔料を重ね塗りしたのです。だから「最後の晩餐」は描いている時から剥落が始まっており、1566年の時点で既に「染みのかたまり」(美術史家ヴァザーリ)だったのです。これをフレスコ画と言い切っちゃまずいっしょ。
2004年6月18日 シャンタル・トマ 「王妃に別れをつげて」
1810年2月、凍てつく寒さのウィーン、小さなアパートの一室でささやかな誕生日パーティーが開かれます。出席者は革命後のフランスから亡命してきたアンシャン・レジームの生き残りの老人たち。コーヒーとケーキだけのささやかな祝宴の後プレゼントの包みを開けた老女が見たもの、それは鮮やかなトルコブルーのエナメル塗りのペンダント、その透き通った青はある女性の瞳の色、そう、マリー・アントワネットの無邪気で物憂げな瞳の色。
物語の語り手アガートは王妃よりも10歳年上、生真面目で引っ込み思案で、本を愛し、豊かな感受性を持った無口な中年女性。彼女の仕事は王妃に本を朗読すること、控えめなアルトの声を見込まれてヴェルサイユの片隅に一室を与えられ、地味なドレスと肩掛けを纏ってひっそりと影のように歩くうつむきがちな女。
1789年7月14日、いつものようにミサに出席した後プティ・トリアノン離宮の王妃の元に本を抱えて参上したアガート、部屋着のままコーヒーを飲みながら彼女を迎えるマリー、じきに詩に飽きてしまったマリーはアガートの存在も忘れてファッション雑誌に夢中、色とりどりの刺繍、絹、ビロード、レース・・・、いつものようにそっとマリーの寝室から立ち去るアガート、しかし、この日は「いつも」とは違った日だったのです。
怠惰で贅沢ないつも通りの時間が経つに連れ、少しずつ不協和音が聞こえてきます。バスティーユが襲撃されたらしい、誰に?貧民たちに、なぜ?軍隊は何をしているの?それが連中どんどん膨れあがって・・・、もう手の施しようがないらしい、どうなるの?どうなるって・・・、どうするの?誰が?誰が何をどうするんだ?
たった3日のうちに花とクリスタルと絹に覆われたヴェルサイユ宮殿は呆気なく崩れ去ります。
アガートは贅沢で移り気で優雅で無神経なマリーを、誰にも嫌われたくないがために誰にも無頓着に優しく、結局、誰からも信頼も尊敬もされないマリーを、王妃になるべくして生まれ、王妃でしかあり得ず、しかし、王妃が何であるかを理解できず、理解しようという意志さえない砂糖菓子のようなマリーを、ひたすら愛しています。奇妙にリアリティを欠いたマリー・アントワネットの描写は、悲劇のヒロインでもなく、国家収入をひたすら浪費する贅沢なバカ女でもなく、最初から広大なヴェルサイユを彷徨う幽霊であったかのよう。その幽霊は深夜、お付きも従えずに一つ一つのドアをノックして回ります。王妃のおなりというのにドアは一つも開きません。みんなヴェルサイユを捨ててしまったのです。
アガートも自分に与えられた小さな部屋を出て行きます。ドレスを犠牲にして本を詰め込んだ鞄を抱えて。湿地帯の上に築かれた巨大な「セット」、外を否定しひたすら内側だけを飾り立てた人工の夢の浮島、ヴェルサイユは現実の前に意味を失い、無人の廃墟と化します、ただ王と王妃を残して。
7月14日の日記にすら「何もなし」と書いたルイ16世、ファッションとダンスと音楽にしか興味が持てず、持たないことを期待され、その通りに生きたマリー・アントワネット、この夫婦を取り巻く人々、情報から閉ざされたままジワジワと広がっていく不安、その不安が沸点に達したパニック、「プロジェクトX」ならどんだけ盛り上げるかという緊迫の3日間なのですが、物語はダラダラと進行し、山も谷もありません。
作品としてはそこが弱いかも知れません。しかし、このダラダラ加減がじんわりと怖くなってくるんです。現実を無視して虚飾と消費にのめり込むヴェルサイユ、その片隅の小さな部屋をなかなか捨てられないアガート、止むなしと全てを捨てた時には既に手遅れ、一度動き出した巨大なエネルギーはもう誰にも止められない。
この状況が何か今の日本とダブるんですよね。何とかなるさ、そのうち誰かが何とかしてくれるさ、自分は何もしないけど、だって何をすればいいのか分からないんだもん、誰か分かっている人に任せるしかないっしょ?誰が分かっているのか分からないけど。
永田町のあの石造りの建物を取り巻く空気、虚しい言葉に疲れてしまって無力感の上にとぐろを巻く怠惰な快感、そして大切なことは知らされないまま、その場限りのウソをウソと知りつつ信じるフリをすることに慣らされてしまって、行き場を失った巨大なエネルギーが出口を求めて彷徨う薄暗がり・・・、21世紀のヴェルサイユは今ここにあるのかも。
2004年5月14日 ジェイムズ・パターソン 「黒十字の騎士」
11世紀の南フランス、新婚ホヤホヤの恋女房ソフィーと宿屋を営むユーグ、小さな村は強欲な領主にむしり取られるばかりで生活は苦しいけど、村の衆は皆、生真面目に、優しく、そしてしたたかに生きています。そんなある日、ボロを纏った修道僧に率いられた薄汚い団体さんが登場、「神の御旨だ!」、遙か彼方のエルサレムを目指す十字軍の一行です。着の身着のままで鍬や鎌を振りかざし、異教徒に奪われた聖地の奪還を叫ぶ一団、十字軍に加われば領主から自由になれる、そうなればもっと良い暮らしができて、ソフィーにきれいなおべべも買ってやれて、小金を貯めればボロ宿だってリフォームできて・・・、そんなささやかな望みを抱いて宗教的熱意ゼロで十字軍に加わったユーグ、必ず帰ってくるよ、ソフィー、お土産持って帰ってくる、帰ってきたらまた君の好きなひまわりの花を贈るよ。
トルコに到着したユーグが見たもの、それは「神の御旨」とはほど遠い胸の悪くなるような残虐行為だけでした。女も子供も見境なしに殺しまくる神の軍隊、略奪、仲間割れ、黒こげの死体、廃墟、これが十字軍か?神はこれを望んでおられるのか?もううんざりだ、家に帰りたい、ソフィーが待っている家に・・・、俺は血塗れの英雄になんかなりたくない、貧乏な宿屋のオヤジで十分だ。殺された司祭の持ち物だった杖を頼りに半年がかりで帰ってみれば、夢にまで見た宿屋は無惨に焼け落ち、愛するソフィーは行方不明。村人の話では黒い十字を身に付けた謎の騎士たちがソフィーを連れ去ったと。畜生、ボードワンだ、あの強突張りの領主が俺の大切なソフィーを。取り返す、絶対に救い出す、だから、ソフィー、死ぬなよ!
ボードワンの城に潜り込むために道化師となったユーグ、彼のソフィー恋しさの捨て身の行動はやがて村を、国を巻き込む大きなうねりに変わっていきます。
読み始めたら徹夜覚悟の「止められない、止まらない」パターソンのこと、物語の展開のスピード感は抜群です。異端狩りで踏み潰される前の豊かな南フランスの伸びやかさを感じさせる貴族の令嬢エミリー、敵か味方か見当のつかない謎めいた公爵夫人、いつしか自由と尊厳に目覚め、牢獄の生よりも自由な死を望み立ち上がる貧しい人たち。何でソフィーが?何で俺が?俺たちがいったい何をした?ただ毎日日の出から日没まで働いて、夜は暖かいベッドで女房を可愛がって、ガキができたらひもじい思いはさせないようにして、お迎えが来たら静かに我が家で死にたい、それっぱっかりの夢を持って生きている俺たちが何だってこんな目に!ユーグの怒りは、彼を取り巻く人々の心に次々と火を付けていきます。
11世紀フランスの片田舎の農村の風景、訳も分からず「神様がそうしろって言うとられんだから、鍬持って付いていけば何かエエことがあるに決まってるだ」と田畑捨ててノコノコ従軍した多くの農民、そんな虫けらどもなどお構いなしに黄金に群がる名誉ある騎士たち、本当のところ、神の名を借りた強盗団であった十字軍の姿を地べたに目線を据えて書き込む描写には力強さがあります。
反面、やっぱりねというか、ラストのどんでん返し(とはいえ、途中から何となく分かっちゃうんですけどね)がハリウッド的ご都合主義で少々辛い。この辺りの「正義」と「善悪」のいささかお手軽な割り切り方が今のイラク情勢にもしっかりと反映されているような。
お互いに相手を真っ二つにしてやろうと向かい合って、最後にはなぜか命のやりとりが馬鹿馬鹿しくなって大笑いする「キリスト教徒じゃない」ユーグと「イスラム教徒じゃない」トルコ人の短いエピソードが美しい、できればこの名無しのトルコ人をもう少し活躍させて欲しかったな。
2004年4月11日 T・J・マグレガー 「エヴァーグレイズに消える」
1998年10月10日、合衆国フロリダ州の川沿いに人工的に組み立てられた映画のセットのような村を閃光が覆い尽くし、軍の極秘実験「テスラ・プロジェクト」は成功しました。それは物質と人間を透明にする試み、もしこれが実用化されれば、万能のスパイが縦横に世界中の権力中枢に侵入し、ステルス爆撃機など過去の遺物と化します。しかし、実験は成功したものの、被験者の一人ローガン・グリフィンは警備の穴をかいくぐって失踪、透明人間が現実世界に紛れ込んでしまいます。
それから3年後、キャンプにやって来た医師アンディと妻レニー、そして一人娘ケイティのタウンゼント一家は、カヌー下りの最中に偶然にもテスラ・プロジェクトの実験地に入り込んでしまい、実験用の黒いラブラドール犬と一緒にあの閃光を浴びてしまいます。極秘事項を守るためならば暗殺でも誘拐でもやってのける軍は、透明人間一家と犬を執拗に追い詰めます。それをじっと見ているのは3年前からずっと透明のまま生きてきたローガン・・・。
この手の作品のお約束、ありとあらゆる手を使って自己保身を計る権力と、それに徒手で立ち向かう仲間たち、設定はいささか手垢がついております。第一、透明人間になっちゃたらどうするという魅力的な命題は、セイントの「透明人間の告白」という名作で詳細にマニュアル化されています。たとえば、体は透明でも食べ物は見える、何かを食べたら透明な消化器官はどうなる?とか、必要な物を手に入れるためには、どこのどんな情報を操作すればいいか?とか、透明人間になった方必読!のノウハウは全てセイントが書き尽くしておりますので、この本を読んだ方ならお馴染みの話で新鮮みはないかも知れません。でも、丁寧に描かれています。
ミステリーと呼ぶには躊躇いがあります。解くべき謎がありませんし、秘密実験、国家権力の陰謀、タフで自立心旺盛な素人と不気味な軍との追っかけっこは、この手の話の定石で先が読めます。軽めのSFと呼んだ方がいいでしょう。
作者も何とか透明人間という古典的な物語に新しい風を送り込もうと苦労した様子、ラテンアメリカのネイティブのシャーマンが登場します。これは好き嫌いが別れそうな設定、オカルト風味が強くなるとSF風味は薄れてしまいますが、危ういところで踏みとどまったと思います。
秘密施設をぶっ潰すべく大活躍する見えないコマンドーも、権力と富を目指して野心満々のクールな敵役も、どちらも女性という設定は楽しいです。対して男どもはいささか冴えませんが、これもご愛敬でしょう。透明人間一家の小さなヒロインがパニックを起こす大人たち尻目に妙に冷静なのもじんわりと楽しめます。
アメリカ探偵作家クラブの最優秀ペイパーバック賞受賞とのことですが、これは疑問、そもそもミステリーじゃないし、マグレガーに関しては「闇に抱かれた女」の方がうんと出来が良かった、正直言うと、この賞も最近あまり当てにならないみたいです。
2004年3月1日 リチャード・ノース・パタースン 「子供の眼」
辣腕弁護士クリストファー・パジェットを主人公とするこのシリーズ、私もこれまで何作か読んだのですが(「サイレント・スクリーン」「罪の階段」「サイレント・ゲーム」)、ちゃんと時系列順に読んでないもんですから、人間関係がちょっと混乱しております。但し、どれから読んでもちゃんと楽しめますから、ご安心を。
かつて大統領を向こうに回して法廷で戦ったスター弁護士のクリス、妻と別れて以来一人息子のカーロと二人暮らし、仕事にも家庭にも一生懸命のシングルパパ、仕事のパートナーであるテリと恋愛中、そんな彼に上院議員選出馬の要請が。その気になったクリスなのですが、テリの別れた亭主リッチーのお陰で殺人罪で起訴され、被告席に座るはめに陥ります。
物語の中心は法廷の内と外で繰り広げられる検察側と弁護側の果てしないファイトです。陪審員を選ぶ時点で既に裁判は始まっています、当方に不利な陪審員を見抜いて排除することができなければ負けたも同然。一つ一つの証拠、証言も光の当て方によって全く色合いを変えてしまう、言葉を武器に殴り合う検事サリナスと弁護士キャロライン。しかし、奇妙なことに、法曹界の伝説のヒーローであり法廷を知り尽くしているはずのクリスが頑として本人の証人尋問を拒み続けるのです。クリスはなぜ証人席で自らを弁護しない、証人席に立てない秘密があるのか?
一人娘エリナの親権を抱え込むことで高給取りの元女房テリの稼ぎで遊んで暮らそうともくろむリッチー、唯一の飯のタネである娘を手元に置くためなら何だってやる、脅しにストーカーに詐欺、そしてティーンエイジャーに幼児への性的虐待の濡れ衣を着せることまで。しかし、ここまでイヤな男っての、久しぶりに読みましたね。張り付いたら離れないヒルのようなしつこさ、何の根拠もないプライドを守るために幾重にも張り巡らせた嘘、溢れるばかりの自己愛ときれいさっぱりひとかけらもない思いやり、もうあまりにイヤなので読むの止めようかと思ったくらい(作者的には逆効果なんじゃなかろうか?)。ここまで書かれると、こんな男死んで当然、何なら私が殺してやる、評決がどう出ようが、被告は無罪!無罪でないなら私が許さん!って感じになってしまい、美男でリッチで誠実で優しい(考えてみればこれもずいぶんな設定です)被告のクリスがどうでもよくなってしまうところがちと辛いです。
人生最大の危機に見舞われたクリス、公私ともにパートナーであるテリは何故かさっぱり役に立たず、息子カーロ共々追い詰められた「王子様」を救わんと颯爽と登場するのは「白馬に乗った女戦士」キャロラインってところが新しい。クリスの無罪を信じてるわけではない、疑っているわけでもない、闘争本能の命じるまま、論理と弁舌で検察側をぺっしゃんこにする快感はひょっとして正義よりも魅惑的?謎めいたキャロラインの果敢なファイターぶりが一番の見所です。
「O・J・シンプソン事件」ってありましたよね。O・Jは殺人に関して無罪となりましたが、O・Jが無罪ってことはロスの高級住宅地をまだ知られていない「殺人犯」が徘徊しているということですよね。しかし、誰もそのことには触れません。みんな本当のところは彼がやったと信じているんです。何しろ奇妙なことに民事ではO・Jは敗訴したのですから。ところが評決ではそうはならない、法律家の華麗なパフォーマンスとややこしい訴追手続が時として事実をねじ曲げてしまう、キャロラインの奮戦ぶりからアメリカの司法制度のある種の怖さが伝わってきます。
文庫本で上下2冊、みっちり書き込まれておりますが、一気に読めます。最大の山場である裁判の描写も分かりやすく丁寧ですし、最後に明らかになる真相も、何となく途中でそうなんじゃないかってわかってしまうにも関わらず、きっちりと収まっております。トリックとトラップを駆使する華麗な立ち回りはキャロラインにお任せ、ミステリーとしては小細工なしの素直な仕上がり、このバランス感覚がさすがにパタースンって感じです。強いていえば、クリスが完璧すぎるところが難点か。私は、最後に鮮やかなスクイズを決めてくれる検事のサリナスの存在感が好きです。
2004年1月23日 サラ・ウォーターズ 「半身」
1874年、秋、ロンドン。テムズ川の畔にそびえる五角形の中庭を囲んだ6つのこれまた五角形の建物、上から見れば美しい幾何学模様、子供が描く花のような形状をした石造りのラビリンス、それがミルバンク監獄。
マーガレット・プライア、上流家庭の令嬢ですが、唯一の理解者であった歴史学者の父を亡くして以来鬱状態。弟は既に家庭を持ち、さらに妹の結婚までが間近に迫り、気難しい俗物の母と二人きりで屋敷に閉じ込められた格好。このまま、誰にも愛されずにただ老いていくだけ・・・。知性も教養も十分持ち合わせているマーガレットですが、そんなもん、この時代の女性にとっては、地味な容貌と地味な性格の埋め合わせにはなりません。そんな彼女は、刑務所の囚人を慰問するボランティアがあることを聞いて初めてミルバンク監獄に足を踏み入れます。詐欺に嬰児殺しに贋金造りに売春、数多くの女囚の中、不思議な雰囲気を持つ物静かな若い女、19歳のシライナ・ドーズがマーガレットの心に引っかかります。大変強い力を持つ霊媒だとか、交霊術中、雇い主の貴夫人がショック死したために詐欺と暴行で有罪を宣告されたシライナ。シライナとの交流を深めていくマーガレットの周辺で次々と奇怪な出来事が起こります。これらは霊の仕業なの?シライナの力は本物なの?シライナは私を愛しているの?私が彼女を愛するように?
ミルバンク監獄の描写が見事です。足下から這い上がってくる冷気、黴と汚物の臭いが入り交じった空気、塩味だけの食事、粗い毛織の囚人服の肌触り、細かな描写がこの世の最底辺にある空間を立体的に映し出します。ヴィクトリア朝ロンドンの取り繕った偽善的なお上品さも至る所に垣間見え、それらの背景の上、上流階級の不器量なマーガレットが最底辺の美貌のシライナに惹かれていき、やがてシライナが女王様に、マーガレットが奴隷に、それぞれの位置を変えていく同性愛(なのかな?)の恋愛心理もガッチリと書き込まれています。
しかし、しかしなのです。肝心のところで肝心のテーマを裏切ってしまっております。タイトルの「半身」は自分の片割れを探し求めて彷徨う人間の底なしの孤独からの救済を意味しているはずなのです。そして、マーガレットはシライナにその半身を見出し、一生で一度の賭けに出たはずなのです。その結末が・・・。
これ以上どうしても書けないのです。オカルト的に展開した物語が最後の数十ページで別の物語に入れ替わります。筋立てのトリックは見事なのですが、どうにも納得できないのです。半身を求める孤独な魂をこんな結末に追い込む物語が書かれる必要があったのか?作品の出来具合とは全く関係なく、すごく後味が悪いのです。
孤独というのは取り扱い注意の劇物です。どれほど美しく描いたところで、必ずどこかで人の心を蝕みます。なぜなら誰もが孤独を恐れますが、誰もが孤独だからです。
この作品は孤独とそこから逃れようとする人間の葛藤をテーマに据えながらも、孤独を小道具として弄んでいる、そして孤独は弄ぶ手を確実に傷つける鋭利な刃物なのです。
マーガレットがシライナに惹かれていく理由に孤独という人間の宿命を持ってきた以上、肝っ玉据えてかかるべきだと思うのですが、その肝っ玉が感じられないのです。
オレオレ詐欺ってありますよね。遠くにいる息子あるいは孫から助けを求められた(と信じ込んだ)お年寄りが、通帳と判子を握りしめてよろめく足で駅前の銀行に急ぐ、一分でも一秒でも早くお金を振り込んでやらないと、どうか、どうか、五体満足でありますように。できることならあの子の代わりにこの年寄りを殺して下さい、お金ならありったけ払いますから、勘弁してやって下さい・・・。その心を想像すると、この詐欺は詐欺罪ではなく傷害罪に該当すると思うほど醜い罪です。なぜなら、それは孤独を弄ぶ犯罪だからです。
読後感がなんかこのオレオレ詐欺に似ているんですよね、この作品。
帯に燦然と輝く2003年度「このミステリーがすごい!」海外編第1位の文字、ホントですか?確かにストーリーの転がり具合といい、描写の丁寧さといい、優れた作品だとは思います。ただ、私はこの作品を第1位に選ぶ感性が好きではありません。