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2010年8月20日 早起き
私は夏が嫌いです。子どもの頃から嫌いでした、少なくとも好きではありませんでした。インドア派の子どもでしたので(許される限りずーっと本を読んでいたかった)、やれ、ラジオ体操だ、プールだ、虫取りだ、外で元気に遊べ、子どもはこんがり小麦色に日焼けするもんだとか何とか、インドア派が何かと迫害を受ける夏は、決して楽しい季節ではありませんでした。しかし、今年の夏の暑さはこれ反則でしょ?ここまで暑いと嫌いを通り越して怒りを感じます。こんなに暑い夏が許されると思ってんのか?ここは日本だぞ、日本は温帯だぞ、亜熱帯じゃないぞ、等々。
こうなると子どもの頃の夏は、あれで今よりマシだったのかも知れません。日射病は聞きましたが、熱中症で人が死んだなんて聞いた記憶がありません。家にあるのは扇風機だけでエアコンはありませんでした。だからといって夜眠れなかったわけではなく、窓を閉めた部屋で(さすがに窓を開けたままで眠ることは防犯上しなかった)普通に眠っていました。夏休みの学校の図書室(私のお気に入りの潜伏場所)も窓が全開で蝉の声が喧しかった記憶がありますから、当然に冷房はなかったのでしょう。
駅ではホームに滑り込んでくる電車の窓が開いているか閉まっているかで一喜一憂したものです。窓が開いていれば冷房車ではないわけで、ちぇっ、残念、次のを待とうかな、でも次が冷房車という保証ないしな、仕方ないか、そんな感じでした。鉄道各社の車輌冷房率が100%になったのっていつ頃なのでしょうか。
夏に暑い土地も今とは違っていました。沖縄は別格として、広島(瀬戸の夕凪)や京都(盆地)が毎年のように「今年の夏の最高気温」を競っていました。東京の練馬や埼玉の熊谷が登場したのは最近だと思います。夕立はありましたが、豪雨という言葉は使いませんでした。さっと降ってさっと止んで、大人たちはこれで涼しくなると言っていました。夕立で道路が冠水したなんて見たことも聞いたこともありませんでした。しかし、最近のゲリラ豪雨って止んだ後もちっとも涼しくならない、あれ、不思議です。
今年の夏、エアコンなしで眠るというのはもう土台無理です。一晩中動かしても身体が冷えない程度の温度に設定して眠ります。それでも早朝、寝苦しくて目が覚めます。エアコンのリモコンによれば室外温度は早くも30度超え・・・。「夏休みの宿題は朝の涼しいうちにやりましょう」、学校の先生は今も同じことを言っているのでしょうか。先生方、朝はもう涼しくないのです、涼しい時間帯などもはや存在しないのです。
当たり前ですが休日の朝も同じです。うんと寝坊が出来るというのに早朝に目が覚めてしまう。時計を見ます。まだ6時前・・・、暑い、エアコンの設定温度を一度下げて、しかし、なかなか上手に二度寝が出来ません。体温が上がっているせいかな。仕方がないのでベッドを出ます。冷蔵庫から冷たい麦茶を出して飲みます。窓の外は早くも夏空が広がって、今日も真夏日、いえ、35度超えの猛暑日決定。しかし、40度を超えるようになったら何日って言うんだろ?激暑日?烈暑日?字見ているだけで暑い。新聞、取ってこようかな。哀しいことに、私の住んでいるところはオートロックの集合住宅なので、1階のエントランスまで下りないと新聞が手に入らないのであります。つまりは着替えなければならないのであります。Tシャツに綿パンに着替えて1階におります。早起きしてしまったものは仕方ない、少し歩こうか。新聞を持ってそのまま外へ出ます。
窓が開いているお宅が多いです。私と同じ、暑くて目が覚めて、取り敢えず窓全開で空気の入れ換えなのでしょう。何軒かのお宅の窓から蚊取り線香が匂います。懐かしい匂い、私はもう何年も使ったことがありませんが、根強い人気があるようです。テレビの音も漏れてきます。隣同士で同じ番組を見ているのが分かります。そういえば、子どもの頃の夏、夕食の時間、あちこちの家から同じニュースの音声が聞こえてきました。エアコンがなかったからどの家の窓も開いていたんですね。
道に水を撒いている人がいます。塩素の匂い、そして、暑いアスファルトの上で水が水蒸気に変わる時の匂い、パリパリに乾いた洗濯物に水を振ってアイロンを掛ける時と同じあの匂いです。アイロン掛けは嫌いなんだけど何故かあの匂いは好きです。
百日紅が咲いています。この花、ホントに暑さに強い、炎天下でも全然グッタリしない、偉いというか空気読めないというか。そういえば最近は向日葵と朝顔を余り見かけません。夏休みの宿題の定番、向日葵の向く方向とか朝顔の蔓の巻き方とかの観察、なくなったのかな?思い出せばどちらも秋口になって片付けるのが大変だったような。向日葵はメチャクチャ嵩張るし、朝顔は生い茂った蔓と支柱の片付けが面倒だった、それで減ったのでしょうか。
近所の公園、木の下のベンチで新聞を読みます。猛暑列島、救急車出動、水難事故、そんな文字が並んでいます。アイス食べたいな。あの棒が突っ込んであって添加物タップリの水色のアイス、あっ、私、新聞と鍵しか持ってないんだ、財布持ってないんだ、残念。次は小銭持ってこよ。夏は嫌いです、早起きも嫌いです、なのに結構楽しんでいる私です。
2010年6月30日 持ち歩く
蒸し暑い日が続きます。梅雨から夏にかけて、出かける時の持ち物が格段に増えます。私の場合、夏場は、通常装備に加えて、晴雨兼用の傘(最近はいきなりのゲリラ豪雨というのがありますから)、冷たい麦茶を入れたサーモスのボトル(中身が入っている時は結構重たい)、サングラス、タオルのハンカチが増えます。かなりの量です。男性の場合は、この季節、上着がなくなります、つまりはポケットがなくなります。そのせいか、最近はリュックを背負う人が増えたように思います。かなり大型のバッグがパッツンパッツンで蓋が閉まらないという女性も見かけます。開いた口からはペットボトルにスナック菓子の袋、傘の柄に雑誌、分厚いシステム手帳、雑誌が顔を覗かせています。バッグ自体も昔に比べると大型のデザインのものが増えたように思うのですが、中身の方は更に増量しているようです。
先日、地下鉄の駅のホームで携帯電話を落とした男性が、列車が迫っているというのにホームの端に屈んで拾い上げる場面を見ました。けたたましい警笛と共に電車がその頭の先ほんの10センチメートルほどのところを通り過ぎ、あと少しで大事故(想像するだけでもう・・・)、あんたは携帯電話と心中するつもりかい!近頃は街を歩くかなりの人が携帯をバッグにしまうことなく、ずっと手に握り締めています。もう携帯電話は身体の一部と化しているのでしょうね。つい10年ほど前まで、こんなもんなくても全然平気だったのに、今では、私も近所のコンビニに出かける時ですら携帯電話は忘れません。さすがに握り締めて歩いたりはしませんが。
ゲーム機を1台どころか2台持ち歩いている人を見たこともあります。ソニーのPSPと任天堂DS、確かに互換性がありませんが、どっちか一つ終わらせてからもう一つをやればいいんじゃないでしょうか。その前に、外出中によくそんなに時間があるなぁと。その人物はDSで話題のRPGをやりつつ、合間でPSPで格闘ゲームをバシバシ、サウナと水風呂を行ったり来たりするようなものでしょうか。
携帯電話にはワンセグのテレビ視聴機能がついており、ゲームも出来るし、音楽だって聴ける、こうなると、携帯電話1台持って出れば電話とテレビとゲーム機とウォークマン(死語?)を背負って出かけているのと同じコトになります。そうそう、更にその上を行くi Padなるものが登場したんですよね。まだ実物に触ったことはありませんが(しかし、あれだけ大騒ぎして行列まで出来たという割に電車とかで使っている人をまだ見かけません。ひょっとして「i Pad狩り」が発生しているのでしょうか)、あれを持って出れば、PC、テレビ、ゲーム機、ステレオ、山ほどのCD、本と雑誌の山、システム手帳と、あと何だっけ、ともかくあれやこれや色々なものを持って出かけているのと同じ、ということですよね。もうこうなると、自室に引き籠もったままちょっと渋谷まで行ってくるというイメージです。どこへ行くにも自室を担いでいる状況、要するにカタツムリですね。人類は急速にカタツムリ化しつつある。
というわけで、ある休日にやってみたのです。何も持たずに散歩に出かけるという、現在においては大冒険とも言える行動に挑戦してみたのです。厳密には家の鍵は持って出ましたが、それ以外は、携帯電話も財布も、SuicaもPASMOも持たずに出かけてみたのです。途中で喉が渇いても自販機で何か買うこともコンビニに寄ることもできません。何ごとかに巻き込まれても誰かに電話を掛けることもできません。頼れるものは己のみ、チョモランマ無酸素登頂というか、フリー・ダイビングのグラン・ブルーというか、自力で行って自力で帰ってくるという清々しくも凛々しい「お散歩」です。
これがやってみると、結構ドキドキするものです。RPGの勇者は「ぬののふく」と「ひのきのぼう」でスタートしますが、あれをリアルでやっている感じ、上級ツールを持たない旅(というかお散歩)はそれだけで背中の辺りがすーすーと頼りない。建物の外へ出ます。何か妙に慎重になります。何しろ「ぬののふく」と「ひのきのぼう」ですから、雑魚敵と遭遇しても全滅(一人だけど)必至、左右を確認し、時々後ろも確認しつつ歩きます。車のクラクションがいつもよりもはっきりと聞こえるような気がします。お店のショーウィンドー、買いたくても買えないわけで純粋に見るだけ、これが結構気楽です。両手が空いている、それだけで歩く姿勢が良くなります。両手を振って真っ直ぐ歩く、だんだん気分が良くなってきます。例えば今ここで急に倒れたら、誰かに救急車を呼んで貰う以外にない、例えば今ここで事件に巻き込まれたら、誰かに110番して貰う以外にない、そう考えると、行き交う人たちが何だか頼もしく、そしていつもよりちょっぴり良い人みたいに見えてきます。薬局の前では法被姿の店員が化粧品を積み上げたワゴンの前で、今日だけ10%オフ!しかもポイント2倍!と絶叫しています。はっはっ、まさか目の前のこの私が無一文だとは思うまい、何だかお金を持っていないくせに偉くなったような気がしてきます。駅前には待ち合わせ相手を待つ人たち、ほぼ全員が携帯電話をいじっています。そう、昔はそんなもんなかったから、指定した喫茶店が休みじゃないか前もって電話して調べたり、途中で電車が止まってしまっても連絡する手段はありませんから、十分に時間に余裕を持って家を出たり、待ち合わせという行為には緊張感がありました。
空を見上げます。西の方角に何やら暗い雲発見、しかも下の方が真っ黒、これは雨が来ます。どしゃーっと降ってきます。しかし、降ってきても私には傘もないし、ビニール傘を買うお金もない、撤退です。時々空を見上げては雲の成長速度を確認しつつ、家に向かってやや早足で歩きます。部屋に入って、窓を開けた途端にぽつり、またぽつり、雨が落ちてきます、計算通り。雲の色とその流れる方角と速度なんて随分長い間真面目に見たことありませんでした。そういえば、駅前の人たち、どうしてるかな?携帯電話で天気予報を見ることはできますが、頭の上の空を見た方がずっと正確なんだってこと、忘れていました。
何も持たないで街を歩く、何か癖になりそう。
2010年5月10日 離れる
何だか若者がありとあらゆることから「離れて」いるらしいです。
ざっと拾ってみただけで、テレビ、車、読書、新聞、酒、旅行、プロ野球、腕時計、CD、スポーツ、山葵、タバコ、パチンコ(この二つはむしろ離れることを推奨したいです)、映画、果物、百貨店、等々から若者が離れているらしいです。しかし、見事に脈絡がない。
そもそも、どうやって計算したのか、その根拠がよく分かりません。売上全体に占める若年層の割合が減ったということでしょうか。若年層の人口が減っているのですから当然です。団塊世代と同じだけ「くっつこう」と思ったら、何でも倍近く購買しなければなりません。
車離れと言われますが、世間はもうずーっと長いこと、エコと地球温暖化、この二つの言葉をサブリミナルのように繰り返しております。その成果が出ただけだと思われます。そして、我が政府は二酸化炭素の25%削減を掲げてしまいました。車を買わないからといって大っぴらに文句言われる筋合いじゃないでしょう。新聞はネットで無料で読めます、CDを買わなくても、好きな音楽は24時間自室にいながらダウンロードで購入できます、腕時計は携帯電話を持っていれば必要ありません。メールが主な通信手段である若者は、常に携帯電話を握り締めております。あれでは腕時計と同じです。
プロ野球は、ルールが複雑な上に、例えばピッチャーとライトでは極端に運動量が違っていて、ゲーム全体を見渡す場合の視線をどこに当てていればよいのか良く分からない、ある程度の経験がないと楽しむのが難しいスポーツだと思います。草野球のための空き地を全部囲い込まれた環境で育てば、野球ファンは当然に減少します。山葵、これは味覚がきちんと生長しないと美味しいと感じられない非常に高度な香辛料です。そして、使用する食材が限られます。刺身を食べる機会が減れば山葵の出番も減ります。
「買いたいけれど欲しいものがない」のか「欲しいものがあるけれど買えない」のかという大きな問題がありますが、これは置いておくとして、単に人があるモノ・サービスから「離れる」のは、それが「要らない」からでしょう。第一に所得に制限がありますから、これというものを何でもかんでも買うのは、当然ですが無理です。そして、東京で一番高価なものは「空間」です。その空間を「何となく良いかなって思って」や「まぁそのうちに使うかも」で買った物で満たすわけにはいきません。人は学習するのです。そして、腕時計と携帯電話の関係のように、多機能の商品が増えれば要らなくなるものも増えます。商品は進化するのです。
加えて、私個人の印象ですが、かつて景気の良かった頃にあれこれに「くっついた」人々というのが、どうも余り幸せそうにも格好良さそうにも見えなかったんですよね。何だか物を欲しがるのが「格好悪い」という感覚が、あの右肩上がりのグラフ曲線のどこかの地点で生じてしまったように感じます。
私自身、この数年で色々なモノから「離れ」ました。まずテレビ、これはもう、暇潰しどころか不快感しか感じなくなり、DVDを見る以外に使用目的がなくなりました。地デジ開始でさよならする予定です。それからパンスト、これは片足が伝線すれば自動的に無傷の相方もお終いという構造的な問題に加えて、綿のパンツを着る機会が増えたから。ヒールの高いパンプスからも離れました。いざという時を想定すれば(そして、東京というのは想定せざるを得ないところなのです)、肝心な時に戦えない靴はリスクが大きい。つまり私は、テレビ離れ、パンスト離れ、ハイヒール離れを起こした訳ですが、ひっくり返せばDVDに、綿パンに、ローヒールにくっついたわけです。
幾何学的には離れる一方というのは想像し辛い、若者にもくっついているモノがあるはずなのですが、離れたという報道があってもくっついたという報道がありません。まぁ、報道しているマスコミ自体が思いっきり「離れられている」みたいですので、「くっつかれている」対象については触れたくないのかも知れませんが。
思うに(思うだけで何の根拠もありません)、「離れられる」対象物と違って「くっつかれる」対象物は、マスコミに露出することに価値を見出さないという感覚の上にあるのでしょう。だから、探し方を知らない人には見えづらいのではないか、それは若者が「くっつく」モノほどそうなのではないかと。かくして、「離れる」だけが露出し、「くっつく」はどこかでひっそりと息をしている、そんな気がします。
しかし、「若者=年長者の言いなりにはならない」という古典的な定義からすれば、年長者が好んだありとあらゆるものから「離れている」若者は、極めて真っ当な存在ということになります。どんどん離れて良いんじゃないでしょうか。離れなくなる方が私は気持ち悪いです。離れて、そして、くっついて、そうして世界はじわじわ大きくなっていく。
やがて今の若者の子供たち世代が、親世代が離れたものに新しい価値を見出す時がやって来ます。その時まで残れたモノたちだけが残れば良いだけのことです。
2010年3月25日 春間近
JRのSuica、地下鉄のPASMO、両方を使う生活をしています。これらが登場するまでは、磁気カードの定期券を定期券入れから出して改札の投入口にシュパって吸い込ませておりました。今はターゲットにカードをタッチするだけで改札を通過できます。便利になったなぁ、と思っていて、ふと気がついてしまったのですが、実は昔はもっと便利だったんですよ。ご存じないという方もおられるでしょうが、その昔、電車の定期券は必要事項が印刷してある「タダの紙切れ」だったんです。改札ではその紙切れを定期券入れごと駅員にチラ見させれば良かった、タッチの手間すら要らなかったわけで、こっちの方がずっと便利だったわけです。勿論、今のシステムによって鉄道会社では大幅に人手を節約できるわけで、だからこそあっという間にSuicaやPASMOは普及したわけですが、電車に乗る側にしてみれば、ぐるーっと回って元に戻ったと言っていいように思います。このSuicaやPASMO、ラッシュの時間帯に次から次へとタッチしていくと、前の人のデータ(定期使用か否か、チャージの残額、たまには定期券の期限)が見えてしまうんですよね。あれ、何とかならないものでしょうか?
そんな電車の中吊り広告に、予備校や学習塾のものが目立つのも春って感じですね。悲喜こもごもの光景があちこちで見られる季節です。その中にみすず学苑(「がくえん」で変換できませんでした。当て字でしょう)という予備校の広告があります。朝、この広告がある車両に乗った時の微妙な「朝からこれ・・・っすか」感は他の地域の方には想像できないでしょう。思いっきり下手くそなコスプレをしたおにーさんの写真のコラージュ構成、何故かカスタードプリンの写真もある、そして、やけに古めかしい書体で真っ赤に印刷された「怒濤の英語力」というコピー。しかし、コスプレの人物は、ヤマトタケルだったり縄文何たら(意味不明の人物)だったり、かぐや姫だったり白雪姫だったり、忠犬ハチ公だったり宇宙人だったり、「怒濤の英語力」を強調しつつも英語を話す人がただの一人もいない(白雪姫はたぶんドイツ語を喋ると思う)・・・、とか何とかもそうですが、関連性が全く見えてこない人物(犬と宇宙人を含む)のコスプレを、場末のゲイバーの今月もどーせ赤字なのよ、もうヤケクソなのよ的ショータイムを連想させるチープさで見せる意味が私には全く分かりません。この広告の向こう側になにがあるのか、調べようかと思わないでもありませんが、あまり楽しいものが見えてこないような予感がするので止めておきます。
この季節、冬物のクリーニング代がお財布には少々痛いです。しかし、クリーニング店が随分減ったように思います。最近ではドライマークの製品を家で洗える洗剤が沢山出てきましたからね。因みに、あのドライマーク、ドライクリーニングでないとダメ、ではなくて、ドライクリーニングしても良いよ、という意味なんだそうで、私は最近まで知りませんでした。天気の良い休日、セーターやマフラーを一枚一枚洗い桶に押しつけて手洗いして、タオルを巻き付けて水気をとったものを干すという作業は、春が来た!と実感できて私は結構好きです。さすがにコートやジャケットはクリーニング店のお世話になるのですが、今は取り次ぎだけでそこで洗っているわけではないという店がほとんどで、店の奥の薄暗がりに作業場があるような店は滅多に見かけなくなりました。以前に利用していた店では、店頭で職人さんと一緒になって、この染みはどうかなぁとか、ボタンとれかかっているので付け直しときます?とか、そんな確認作業にも冬を仕舞って春を迎えるという小さなウキウキがありました。フリース素材とか、冬物でも普通に洗濯機に放り込んで洗えるものが増えましたが、少しだけ手間をかけてお金をかけることで、春を迎える気分がうんと華やぐ、小さな贅沢です。
子供の頃の春は、宿題のない春休みが嬉しかったけれど、カレンダー一月分以上が丸ごと休み、その終わりは遙か彼方という夏休みのような圧倒的な開放感もなく、クリスマスとお正月という二大イベントが詰まっている冬休みのような待ち遠しさもなく、ただのほほんと明るかったなぁという印象です。年を重ねるに連れてその春の近づく気配が何とも愛おしく感じられるようになりました。今年の春は冬の寒さが厳しかったせいか、いつにも増して濃厚な気配を振りまきつつ近づいてくるように感じます。近所の桜の蕾も綻び始めました。
2010年2月18日 あれやこれや
ふとした思いつきで旅に出られるってことは幸せなのか、不幸せなのか、なんつーことはどうでもよろしい。いくら考えても、人間には同時に二つの生き方はできません、考えるだけ無駄です。で、ぶらりと新潟へ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」、余りにも有名な川端康成の「雪国」の冒頭ですが、これが実にバリバリの写実表現であることを実感、本当にトンネル一つ抜けたら辺り一面真っ白です。青い空と黒々とした土の風景が、鉛色の空と白い土に一瞬で替わり、空と土の明度が入れ替わったせいか、下からの光のレフ板効果のせいで辺りが妙に明るい。しかし、これで陽が落ちればその夜空に月はないわけで、なるほど「夜の底が白く」なるわけです。康成がたった一行で鮮やかに切り取ってみせた風景。
冬の日本海と言えばもう美味しいモノだらけです。私は魚と酒が大好物です。ここは食い倒れるっきゃありません、覚悟はできています。ホテルのフロントご推奨の寿司店へ出かけます。好き嫌いありません、何でも食べます、美味しいモノを端からお願いします、沢山食べたいのでご飯小さめでお願いします、ストップって言うまでお願いします、というこちらの条件を提示、ゆるゆると冷酒を頂きつつ至福のひとときを楽しみます。魚が新鮮でお米が美味しいのだから、寿司が美味しくないわけがない。そのお店には幸いなことにテレビもなければBGMもない、包丁の切っ先が俎板の上を滑る音、銚子と杯が触れ合う音、鉄瓶のお湯がたぎる音、そんな小さな音を楽しみます。周囲が静かだと人間は自然に小声で話すようになります。半分くらい席の埋まった店内を囁き声が泡のように浮かび上がっては沈んでいく、だいたいですね、喧し過ぎるんですよ、最近の飲食店は。
夜中降り続いた雪も朝には止んで、外に出れば要所要所きちんと雪かきが為されています。皆、雪のないところを歩くわけですが、私は真っ白い雪をシャクシャクと音を立てて踏んで歩くのが嬉しいという観光客丸出しのスタイル。空はどんよりと灰色の雲に覆われていますが、雪の上はほんのりと明るい。待てよ、明るいんでしょ、天然のレフ板でしょ、目の前のビルの窓に映る自分を眺めます。いつも通りで別に少しは美人に見えるってこともありませんでした。
バンクーバーで冬季オリンピックが始まりました。しかし、開幕直前の国母選手の服装を巡る騒動は情けなかったですね。回りの誰かが「ちょい、そのカッコまずいって」って一言言ってあげれば済んだ話でしょうに。誰も何も言わなかったのだとすれば、回りに良い人材がいない可哀想な選手ですし、誰かが言ったにも関わらず、あの格好で報道陣の前に登場したのだとすれば、ちゃんと躾をして貰えなかった可哀想な子供です。オリンピックの出場費用は日本国の税金で賄われるということ、自分でどう思っていようが代表選手に選ばれた瞬間から日本を代表しているということ、それがイヤなら出場しない自由は保証されていること、それを承知で出場すること、ちょっと考えれば分かるでしょう。
スポーツ・エリートには「変な人」が多いことは事実だと思います。突出した才能はバランスの取れた人格とは相性が悪そうですし、未成年の時から特殊な環境で育つわけですし、少々捻くれていようが生意気だろうが、成績さえ上げていれば周囲は寛大でしょう。でも、世界最高峰の舞台での服装のマナーが本人にもその周囲にも分からないとなると、情けないとしか言いようがありません。しかし、カジュアルな服とは違ってきちんと採寸して仕立てられたスーツって、あんな着方するとすごく着心地悪いんじゃないでしょうか?着心地の良い服を着心地悪く着るって、デザイナーと仕立て屋に対してすごく失礼だと思うのです。
スーツはきちんと着るように考えて作られていますから、きちんと着た方が絶対にきれいです。私が思うにスーツの着こなしがとても素敵なのは、若かりし日のジョージ・ペパードと年を重ねてからのシドニー・ポワチエですね。
私はスキーもスケートもやらないので(冬は断然温泉派)、冬期オリンピックは何がどう面白いのか今ひとつ良く理解できませんが、カーリング、あれ見るのは大好きです。あれは追い込んだり追い込まれたり、ジワジワとスリルがせり上がってくる、その程良い緊張感が心地良い。あのカーリングを、モコモコに着膨れして、10分に一回くらい寒いんだよとブーたれつつ、ぬる燗か赤ワインなんぞを飲みながら4、5人でわいわい言って観戦したらすっごく楽しそうです(オリンピック・スタジアムって当然ですが禁酒ですよね・・・)。
ところで、先日、スーパーのレジですごく変な買い物をしている初老の男性を見かけました。タバコのカートンを買っているんです。1カートン3000円のマイルド何とか(青いパッケージ)を3カートン買ってはカードで9000円の支払を繰り返しているんです。3+3+3+・・・って具合で結局レジ横のタバコケースの中のマイルド何とか全てお買い上げ。そのレジだけ処理が遅れて長蛇の列ですが一切お構いなし。最初からマイルド何とかをあるだけ全部って言えばいいのに、と隣のレジで眺めている私は思ったのですが、あれっ、ひょっとして他人のカード使ってる?ひょっとしてカードの裏と同じサインができない?そのスーパーは食品売り場では3万円以下ならサインレスなのですが、おそらく1万円以下ならほとんどの店で問題ないからということ?盗難届が出てカードが止まる前に換金しやすいタバコだけをせっせと買っている?変なものを見てしまったようで気分が悪いです。
家に帰って気分直し、ラッセ・ハルストロムの「アンフィニッシュ・ライフ」を見ます。モーガン・フリーマンのブルー・ジーンズの着こなしが実に良い。ロバート・レッドフォードよりうんと似合っています。