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2005年12月31日 壊す
2005年12月8日 抜け道
2005年11月15日 色褪せる
2005年9月15日 茶碗と箸
2005年9月7日 夏の終わりに
2005年7月12日 さようなら、Mr.マクベイン
2005年4月29日 「スモーク」
2005年3月25日 幸せなお昼ご飯
2005年1月19日 パルナス


Leaf2005年12月31日 壊す

 引っ越しをしました。引っ越しとは知らない間に堆積したあれこれを壊すことでもあります。

 この数年間一度も着なかった服、履かなかった靴をまとめてゴミ袋に押し込みます。もう読み返すことはないであろう本を紙袋にまとめて古本屋に売ります。捨てるに捨てられなかった物を思い切って捨てます。お風呂で足の指の間をゴシゴシ擦るみたいに、ここでの生活の細かいアカを刮げ落としていきます。

 私は自分の意志で壊しているわけですが、それでもその過程でふと手が止まってしまうことがあります。これ、あの時のだ、これ着て行ったんだ、そういえばあの人、今どこにいるんだろ?思いがあらぬ方向に流れ、作業中断、段ボールの中から古い年賀状を探すハメになり、同時に、私、なぜこんなことしているんだろ?ここに留まっていて何がいけない?あぁ、取り返しのつかないことをしようとしているに違いない、誰か止めて・・・胸の奥にちらりと苦みが走ります。

 壊されてしまった人たちもいます。突然の地震、台風、昨日まで、ついさっきまで一度も疑ったことのない生活がいかに脆く頼りないものであったのか、なすすべもなく壊れていく日常を前にして言葉を失った人たち。

 壊さなくてはならない人たちもいます。家族のために思い切って買った夢のマイホーム、35年ローンが肩にずっしり重いけど、真っ新な自分の家で眠れる幸せを思えば頑張れる・・・、そんなマイホームのいくつかが産業廃棄物となり果てた年の瀬でした。

 人の手によって作られたものはいつか必ず壊れるわけですが、しかし、余りに呆気なく壊れるはずがないものが壊れた一年であったと思います。物だけじゃない、あちらこちらで安全や信頼も壊れました。
 壊れる建物を建てたくて建築家になる人はいない、乗客を死なせるために運転士になる人もいない、職業人としてのプライドが経年劣化で蝕まれ、倫理感が誘惑によって揺るがされ、人の心の中の何かが壊れていったのでしょう。結局、最後に残るのは経済効率でしょうか?自分では何も作らず、右のものを左に移す間に稼ぐビジネスが、幾分のやっかみを含みながらももてはやされた年でもありました。ビジネス再編、それも壊すことの一形態でしょう。みんながみんな、そうなったら、誰が物を作るのか?壊す人ばかりになったら後には何が残るのか?

 大変な寒波に見舞われた年の瀬です。暖冬だって予報していた気象庁、いくら自然が相手とは言え、外しすぎ、長官が進退伺い出すとかいう話は出ないのでしょうか?極寒の中で突然の停電、暖房も消え、真っ暗な部屋で情報を手に入れる手段もダウンしてしまった長い夜、黙々と復旧作業を進める人たちがいます。壊れてはならないものが壊れてしまった、その重みを背負って凍てつく夜を徹しての作業が進められます。

 壊れてはならないものを壊してしまった人がいる反面で、壊れてはならないものを必死で守る人もいる、壊さなければならないものに固執する人もいて、普通に生きていても人の形は実に多様です。

 もう用のなくなったもの、クリーニング屋の割引券、レンタルビデオ店の会員証を破いて捨てます。カーテンを外して剥き出しになった部屋、私が暮らした痕跡は家具の跡だけ、そこをゴシゴシと雑巾で擦ります。それは、少し首筋がチリチリするような心細さがあって、少し哀しいし寂しいけれど、新しい町での新しい出会いのための儀式です。



Leaf2005年12月8日 抜け道

 散歩が好きです。特に今の季節の散歩は楽しい。しっかりと防寒対策を講じた休日の昼下がり、枯葉を蹴飛ばしながら、乾いた空気のお陰で抜けるように青い空の下を歩きます。他所のお宅の庭木を観察します。最近はほとんど常緑樹になってしまいましたが、古いお宅ですと柿や桜の赤く染まった葉が美しい。紅葉を楽しむためにわざわざ漆を植えているお宅も一軒だけ知っています。あれ、知らない人だとかぶれてしまいますよね。塀の上の猫に挨拶をし、初めての路地に足を踏み入れます。えーと、確かこっちが駅のはずなんだけど。私は大変な方向音痴でして、たいていの場合、この予測は外れます。ですから最近は「こっちだ」と思ったのと反対の方向に歩くことにしています。人間、何にしても進歩するものです。
 ほら、やっぱり駅前に出た、へぇ、こんな道あったんだ、何年もこの町に住んでいて全然知らなかった・・・、こんな発見があった時はうれしいです。毎朝駅に向かう道、選択肢が豊富な方が絶対に楽しい。季節に、天気に、その時の気分に合わせて道を選ぶことができる、これは贅沢です。

 本来、これが正しい「抜け道」だと思います。広辞苑だって一番最初には「本道以外の近道。間道」と出ています。しかし、最近は「抜け道」というと、広辞苑の二番目の「逃げ道」、三番目の「転じて逃れるべき手立て、言いぬけの手段」の方が一般的なように感じます。

 今、連日マスコミを賑わせている「耐震擬装」もそうです。普通に作って普通に売るのでは、普通にしか儲からない。手抜きして作って安く売ればうんと儲かる。この世界の全ての会社の目的は利益追求ですから、世の社長さんは全員こんなことを考えているのかも知れません。しかし、日本には「職人気質」という損得抜きで良い物を作る人を尊敬する伝統があるはずなのです。
 「建築の職人」じゃなくて「金儲けの職人」だった?他人が思いもつかない方法で儲けるのであれば立派な職人ですが、誰でも思いつくけれどやばいから誰もやらないことで儲ける、これはただの犯罪者です。
 この事件、ほとんどの検査会社が業界の出資を受けていたり天下りの役人を受け入れていたり、身内の設計を身内が検査するという体制に問題があると思います。どう考えたって馴れ合いになるに決まっている。サッカーの審判がどうして中立国から選ばれるのか、子供だって分かる理屈です。この場合、一番審査に向いているのは、何か欠陥があった時に資金回収が難しくなる銀行だと思うのです。銀行は建築は素人ですが、損こくかも・・・となった場合のしつこさはダントツです。この場合、抜け道を塞ぐには、重箱の隅まで小姑みたいに突っつき回す「金貸し根性」というこれも一種の職人気質が要求されると思います。
 いや、銀行だって自分たちのための抜け道を探しますか。銀行にとって理想的なマンションとは・・・、35年ローンの返済が終わった日に壊れるマンションです。そうすれば立替資金需要が発生する、相手は退職金を持っている、親子二代ローンを勧めてもいい、それを狙わない手はないですよね。しかし、震度5強では壊れないけど35年経つと壊れるマンションを作るというのは、ある意味究極の「職人」かも。
 となると、保険会社が審査する?しかし、徹底的に安全性を追求したマンションが建ってしまうと、誰も保険に地震特約をつけなくなるような気もします。不安な人間に安心を売る、これが保険の本質ですから、最初から安心を与えちゃまずい・・・ですか?

 そういえば、2008年から「タバコカード」なるものが登場するそうです。身分証明書と顔写真を提出すると手に入るタバコ専用のプリペイドカードで、これをかざさないと自販機ではタバコは買えなくなり、未成年の喫煙防止対策なんだとか、これも甘いんですよね。
 タバコは自販機以外でも買えます。制服を着ていない高校生の年齢、分かりますか?下手に年を尋ねると逆切れされる可能性もあります。お店の人はそこまでのリスクを負ってくれるでしょうか?このカード、プリペイドカードであって本人確認の機能はありません。つまり、貸し借りできるし、盗むこともできる、カード自体がアンダーグラウンドで売買される闇商品になる可能性が高いと思います。自販機の前で待ち伏せしていた高校生にオヤジがボコられる事件だってきっと起こります。そして、喫煙する成人の膨大なデータが管轄官庁に集まることになります。これを何に使うやら、まー、私が腐った役人だったら色々とオイシイこと考えて楽しみますね。こんな面倒なことするんだったら、宝くじみたいにタバコ専売所を作って、そこでしか買えない、そこでは身分証提示が義務ってことにする方がうんと簡単だと思うのですが。因みに、カード発行と自販機のアップグレードにかかる費用は約800億円だそうで、未成年にタバコを買わせないための出費ですが、おそらく抜け道だらけになると私は考えます。

 抜け道を歩きながらいろんな抜け道を考える、これはこれで休日の楽しみではあるのですが、最近あちこちが抜け道だらけであることが判明してきた我が日本、楽しんでばかりもいられないわけでして。



Leaf2005年11月15日 色褪せる

 いー年こき過ぎて何やっていると思われてもいいんです・・・。

 「MOTHER 2」というゲームがあります。ずっと昔に任天堂のスーパーファミコン用に売り出されたゲームで、今はゲームボーイアドバンスで遊ぶことができます。基本はオーソドックスなRPGなのですが、物語の設定が1960年代から70年代のアメリカをモデルにしているので、従来の剣と魔法のRPGとはかなり印象が違います。主人公は剣の代わりにバットを持って、兜の代わりに赤い野球帽を被って、魔法の代わりに超能力を駆使して、薬草の代わりにハンバーガーで体力を回復させ、自転車で走り回り、バスを乗り継いで、友達と一緒に旅を続けます。

 で、このゲームに「駆けつけるのも早いが撮るのも早い天才写真家」というキャラクターがおります。これがいつ出てくるのか分からないという非常に厄介なキャラでして、次の町まであと僅か、しかし最後の回復アイテムを使ってしまって、超能力も使えない、あと一回、ちょい固めの雑魚敵に当ったらまずいかも・・・、という場面でも、そんなこっちの事情には一切お構いなしに登場するのです。
 突然、派手なファンファーレが流れ、うわっ、こんな状態で、まさか中ボス戦?だめだ、最後にセーブしたのどこだっけ?あぅー、って状況で、なぜかくるくる回転しつつ空から降ってくる写真家、黒いシルクハットに黒ぶちメガネ、箱型のカメラと三脚。この自称天才写真家、どんなところにでも登場します。砂漠のど真ん中くらい当たり前、魔境とか地底大陸とか、あんたどうやって来たの?こちとらここまで来るのにどんだけ苦労したか知ってんの?んなら、最初からあんたが全部やりゃーいーじゃん!一瞬とは言え全滅を覚悟した私はしばしば逆切れ。しかし、そんな私の事情を知るはずもない彼は、箱型カメラを地面に据えて、「はい、笑ってぇ、チーズ・サンドイッチ!」と極点の寒さのギャグ。で、登場人物たちは仲良く写真に納まります。時には周囲の雑魚敵も一緒に・・・。「いやー、良い写真が撮れた。良い思い出になりますよぉ」と再びくるくる回転して飛び去る写真家。
 これ、いつまでたっても馴れないんですよ。そろそろ来るか?って身構えるにはあまりに無意味なイベントなので、何回遭遇してもその都度ご丁寧に忘れてしまうのです。

 で、ゲームが終了しますと、この自称天才写真家、主人公の家に32枚の写真を収めたアルバムを届けてくれるのです。一緒に旅した友達にさよならを言って一人で帰り着いた懐かしい我が家、ママと一緒にこのアルバムを眺める、ここでこのゲームは終わりです。次々と登場する写真と一緒にエンド・クレジットが画面上をスクロールしていきます。

 アルバムは、旅に出る時に我が家の前で撮った一枚で始まります。ママと妹と愛犬が一緒に写っています。それから散々迷った末にたどり着いた遠い町で一枚、最初はどうにも手強くて、何度も逃げ出して、でも最後には向こうが逃げ出すようになった雑魚敵も一緒に一枚、旅の途中で友達が増えていって、二人で、三人で、そして四人で一枚、主人公はいつもピースサインで笑っています・・・。
 あんなに苦労したけど、今になってみれば何てことなかったなー。あー、ここね、ここの雑魚敵イヤだったよなー。この町、こんな近くなのになんであんなに大回りしたんだろ、私。おぉ、ナイスなバンドじゃん、今頃どこでライブやってんのかなー。ライブ、もう一回見たい、あのブルースハープ、カッコよかった・・・。

 最先端のゲームから見れば既に化石であるドットで描かれた二頭身の主人公たち、それなのに、このアルバムの場面がどうにもこうにも懐かしくて切ない。このゲーム、ラストのボスを倒してしまうともうセーブすることができず、否応なしにエンディングに向かってしまいます。アルバムをもう一度見るためには、最後にセーブできるのはラストのボス戦の前のダンジョンの中なので、ここからやり直さなければなりません。こんな面倒なことをしてでも、何度も見たい、現に私は何度も何度もラスボス戦を繰り返しました。今でも時々やっています。あのハタ迷惑な自称天才写真家が撮ってくれたのはそんな写真なのです。

 それらの写真は微かに色褪せています。ゲームが始まった時は、ボロのバットを握りしめ、カラスに突付かれただけでダメージを食らっていた主人公が、悪者にさらわれてぬいぐるみを抱えて泣いていた少女が、鉛筆とチューインガムをポケットに学校から抜け出したメガネくんが、山深い故郷から一度も外に出たことのなかったさる国の若君が、主人公の愛犬から「君たち、ひょっとして世界で一番強いんじゃない?」と言われるようになるために必要なだけの時間が確実に流れたことを、同じ場面には決して戻ることはできないということを、終わってしまったものは消えていくのを待っているだけなのだということを、優しく、そして容赦なく教えてくれるのです。
 一つの旅が終わって帰って来る、町も我が家も家族も少しも変わっていないんだけど、でも、どこかうっすらと埃を被ったように見える。それは僕の背が少しだけ大きくなって、ママと向き合った時ママが少しだけ小さくなっているから、それは僕の声が少しだけ低くなって、パパと電話で話す時の声がパパに似てきたから、それは僕が少しだけ大人になって、いくつかの大切なものを過去に置き去りにしてしまったから・・・、たかがゲーム、されどゲーム、天才写真家の写真は、思わずそんなことを考えてしんみりしてしまう、そんな絶妙な色褪せ方をしているのです。

 色褪せるってすごいことだ、悲しいことだけど、すごいことだ。だって、必要なだけの時間が流れないと絶対に手に入らないのだから。デジカメで撮れば色褪せない、いつでもすぐにプリントできる、それはとっても便利なことではありますが、それと同時に「色褪せる」というかけがえのない情報を、私たちはあっさりと捨ててしまったような気がするのです。

 「色褪せる」が色褪せてしまうのはどこか哀しい。



Leaf2005年9月15日 茶碗と箸

 日本人の食卓にずーっと昔から乗っている茶碗と箸。世界は、素手で食事する人たち、ナイフとフォークで食事する人たち、そして箸で食事する人たちの3グループに分類されるそうです。その箸文化圏(日本・中国・韓国・北朝鮮・台湾・シンガポール・ベトナム)の中でも、箸「だけ」で食事ができるという特殊な技能を持っているのが日本人。毎日、何も気にしないで箸を使っておりますが、日本人はこれで何通りのことができるのか?
 挟む(お刺身や肉の切り身)、混ぜる(生卵や納豆)、切る(大根や芋の煮物)、割く(明太子や秋刀魚のお腹)、剥がす(塩鮭や焼き茄子の皮)、掬う(ナメコみたいな小さなヌルヌル物体も平気)、載せる(イクラの醤油漬けを熱々ご飯の上に)、包む(白菜のおしんこの葉っぱの部分にちょろっとお醤油つけて、これでご飯をくるっと包むわけです。冷たい白菜にしゃきっと歯を立てると中から熱いご飯の熱気が・・・)、摘む(五目寿司の中から嫌いなニンジンだけ摘み出す、たとえみじん切りでも軽くクリア)、押える(陶板焼きなんかで肉を上からじゅわっと)、これだけのことをやってのけるのです。たった二本の細い棒で、しかもそれを片手で操って、小さい子供でも軽々と。

 フランス料理のフルコース、テーブルの上にずらっと並んだ様々な形のナイフとフォーク、そしてスプーン、品数ではそれに勝るとも劣らない日本の懐石料理、卓上にあるのは・・・箸だけ、何と言う潔さ。これも箸の多機能性とそれを使いこなす日本人ゆえです。
 箸文化発祥の地(であろう)中国では、ご飯と汁物にはレンゲを使いますし、韓国と北朝鮮の食卓にも箸と一緒に必ずスプーンが用意されます。中国の箸は長くて重たい、料理を大皿から取り分けるには便利ですが、先端が丸くて太いのでご飯を小さくまとめて口に運ぶには向きません、レンゲがあった方が便利です。韓国の箸は金属製のことが多くてこれまた重たい、そしてご飯とおかずを混ぜて食べる習慣がありますから、やはりスプーンの方が便利です。

 日本人って茶碗と箸は自分専用のものを持っているという人がほとんどだと思います。吸い物椀や刺身皿や煮物鉢は全員で共有しても、茶碗と箸は自分だけ。これは私の知る限り、日本人だけです。なぜ、自分の茶碗と箸に拘るのか?
 勝手に想像してみますと、日本には「お膳」という文化があります。宴会なんかで自分用の小さなテーブルを前にして、自分用の食器で自分にだけ割り当てられた料理を食べる、という文化です。大人数が一緒に暮らしていた昔の商家や農家では、もっと極端な「箱膳」というものが使われていました。木の箱の中に自分専用の茶碗、汁椀、湯呑、箸が入っていて、それを取り出して蓋の上にセット、そのままお膳として使うというものです。大皿に盛り上げた料理を各自が好きなだけ取って食べる中国や韓国には、こんなMy茶碗、My箸の習慣はありません。でも、西洋では料理は全て各人割り当てですが、食器は同じサイズ同じ形のものを共有、Myスープ皿、Myフォークなんて聞いたことない、あれ?

 日本人って茶碗を持ってご飯を食べます。韓国ではこれ、すごくお行儀が悪いのだそうですが、日本では茶碗を置いたまま食事すれば逆に周囲の顰蹙を買ってしまいます。右手に箸、左手にご飯、咄嗟に左右を判断する時にご飯を食べるパントマイムをやる人もいるくらい(えー、私のことです)、日本人にはこれが当たり前。ここで夫婦茶碗を考えます。男性用の方がサイズが大きい。これは男性の方が沢山食べるからですが、食べる量だけが問題なら大は小を兼ねるので、男女同じサイズで盛る量を調整すればいいわけです。男性の方が沢山食べるのはどの民族でも共通ですが、洋食器には男女のサイズの別はありません。これは手に持った時の姿の良さと使い勝手ゆえですね。手のひらにきれいに収まる大きさの茶碗と、手の大きさに合わせて使いやすい長さの箸、夫婦茶碗や夫婦箸のサイズが違うのは食欲じゃなくて手のサイズのためです。
 ここまで見た目と持った感じに拘れば、どうしてもMy茶碗、My箸でないと納得いかないというのが日本人なのでしょう。

 お弁当についてくる割り箸、高級なお弁当ですと、先端を細く削った長い箸がついてくるのですが、安いお弁当ですと、角材のミニチュアみたいな短い寸胴割り箸、これが使いにくい。先が太いので鮭弁の鮭もほぐしづらい、煮豆も摘みにくい、ささくれ立っているのでご飯粒がくっつく、正しい日本の食事のためにもう少しましな箸をつけて貰いたいです。逆にうどんや蕎麦は割り箸の方が食べやすい、ただうどんは荒削りで先まで角ばったものが、蕎麦は滑らかに削った細身のものが使いやすいです。蕎麦とうどんを両方出す店は箸も両方揃えて・・・ってのは無理ですか。

 私がお箸を使っていて一番充実感を感じるのは、塩鮭の切り身の分厚いのを焼いて食べる時です。鮭の身は箸をぐいっと押し当てるとピンク色の身がきれいに剥がれます。その剥がれ加減が食欲をそそります。それを摘んで熱いご飯の上に着地させて、下のご飯を適量掬ってお箸の先、ピンポン玉より少し小さめに乗せて口へ・・・幸せ。
 一番達成感を感じるのは、握り寿司を食べる時です。目の前に中トロが一貫、それをお箸の先でひょいと横に倒して、そのまま挟んで醤油の小皿へ。ネタの部分に半分くらい醤油をつけて、それをそのまま口へ、今まで踏ん張ってきたご飯とネタがその瞬間にほろりと崩れる・・・やった。もっとも、こちらは寿司を握る方の技量の方が重要ですね。

 自分の手に合った大きさと重さの自分だけの茶碗と箸、毎日使うものなのに、なぜか壊れやすい陶器や磁器、なぜか剥がれやすい漆塗り、それは、食べるという動作を美しくするために必要な緊張感を生み出すためなのでしょう。

 何だかつまんない、ムシャクシャする、そんな時、デパートの食器売り場へ行ってみませんか?自分のための茶碗と箸を探しましょう。一つ一つ持ち上げてみて、握ってみて、右手と左手が納得するまで丁寧に選びます。それを持ち帰ったらご飯を炊いて塩鮭を焼きましょう。鮭が面倒ならお新香で良いです。新しい茶碗と新しい箸で食事を頂きます。茶碗と箸、数千円の出費で手に入る清々しい贅沢です。


Leaf2005年9月7日 夏の終わりに

 今年の夏は最後の最後まで蒸し暑い。気分をすっきりさせようと美容院に出かけました。シャンプーしてもらって(しかし、頭って人に洗ってもらうと何であんなに気持ちいいんでしょ)、もう全てを人任せにして照る照る坊主スタイルで普段は読まない雑誌のページを次々とめくります。
 韓国の俳優ペ・ヨンジュン氏の露出度、すごいですね。女性誌だけじゃない、一般誌にまで進出、この人の写真が載っていない雑誌ってないんじゃないですか?しかし、いくら仕事とは言え、これといって面白いわけでもないのに、あんなに年中笑っているのって疲れるだろうなぁ。で、某誌の記事、「ヨン様、『極秘』来日でファン600人成田にお出迎え」「ヨン様、『極秘』離日でファン300人成田でお見送り」・・・、あの、こういうのって韓国ではどうか知りませんが、日本では『極秘』って言いません。『見え見え』と言います。

 「見え見え」と言えば、高校野球、優勝校の暴力事件騒動がありました。優勝した直後に報道される当り、何やらモヤモヤしたものを感じないでもありません。名門野球部となると、甲子園での成績を引っさげてプロ野球に売り込もうという選手ばかりなのですから、その大切なビジネスチャンスを一人の教師の暴力でフイにされる方はたまったもんじゃないです。今までに投資した時間と労力を換算すれば莫大な損害になります。だから隠そうとする、隠そうとするから余計スキャンダルになる。
 しかし、高野連も朝日新聞も、もういい加減に「純真」だの「正々堂々」だの、見え見えのお題目にこだわるのは止めたらいかがでしょう。18歳といえば昔も今も「純真」じゃないです。名門高校が大金かけて集めた選手は、3年間の成績によってプロ野球、社会人野球、大学野球に振り分けられ、そこから漏れてしまえば中高の6年間、ろくすっぽ勉強していないわけで潰しも利かず、この不況下就職もままならず、それが現実、学校も選手たちもその親たちも、お花畑で野球やっているわけじゃないんです。どうしても「純真」で行きたいなら、リトルリーグで主催・後援することをお勧めします。ま、そっちも最近はどうか分かりませんが。

 「野球」と言えば、某お金持ち球団が某マニアックなファンの多い球団の元監督を10億円という破格の待遇で新監督に招いているとか。自前のテレビ局を通じての圧倒的情報量で「人気球団」を作り上げ、それを利用して本業の新聞の売り上げを伸ばし、そのお金で4番打者ばっかり集めて、お陰でプロ野球はサッパリ面白くなくなり、スーパースター選手は更に上のアメリカを目指し、その次の準スター選手は、どんなチームでも4番打者は一人しか必要ないのでベンチでごろごろ塩漬けになっている、で、最近では視聴率5%台・・・、この悪循環の原因と言われている球団がとうとう監督まで買い漁るらしいです。そのうち、よそなら監督って人が2軍コーチで多摩川でごろごろ・・・ですか?
 ギリシャ神話では、ミダス王はその手が触れるもの全てが黄金になってしまって、ご飯も黄金になってしまうので何も食べられず大層困ったそうですが、この球団のワタナ○王がその手で触れるものは全て鉄屑になって輝きを失ってしまいます。今一番やらなくてはならないことはそんな自分の「自己否定」だと思うのですが、古来、権力者というのは自己否定が大の苦手ですので、無理・・・でしょうね。しかし、10億円、すごいです。私ならその金利で引き受けますが。これでも「実況パワフルプロ野球」で日本一になったことあります。

 「権力者」と言えば、選挙ですね。私のところの選挙区は、地味な候補者が地味なわりに喧しく騒いでいるだけの選挙区ですが、激戦区と言われるところにはあれこれ有名人が登場してニュースネタを提供しています。新潟の田中真○子さん、相変わらずの毒舌ですが、何かこれ、聞く方はちょっと疲れてきましたね。この方の演説は面白いけど、そこから先がないんですね。だからその場のインパクトは強いけど印象が残りません。それから今回の選挙でも「そうはいか○ざき!」と見得を切っている方もそうなんですが、何か、この方たち見ていると、昔ちょろっと当った一発芸持って地方のヘルスセンター回っている芸人って雰囲気がないでもありません。この手の「どこかうらぶれた雰囲気」というの、私は好きです。中央区入船や港区西新橋あたりの築40年の雑居ビルの裏を鑑賞するのなんか大好きです。
 正当な「うらぶれ」にはある種の美しさがあります。それは、鏡に映った自分の頬にそっと手をやって、ほつれ毛をかき上げてはみたものの、そこに白髪が混じっているのに気がついて、ふんって軽く鼻から息を吐いて鏡に背を向ける、かつては若く美しかった女、別に不幸ってわけじゃないけど、ただ忘れられている女、そんな女だけが醸し出せる独特の美しさです。しかし、つくづく権力者ってのは「枯れる」のが下手な人たちだと思います。

 「選挙」となれば、9月11日の投票日は各テレビ局とも特別番組を放送します。テレビ東京まで選挙特番やるらしいです。しかし、ここはテレ東さん、いつも通り「旅先で温泉とグルメ」で頑張って頂きたい。だって、テレ東って、他の局の2時間ドラマが台本ずぶずぶで全然面白くない時、野球中継が5回表で既に11対0で救いようがない時、お風呂上りのお父さんがビール飲みつつ新聞を広げて、「なんだ、今日のテレビは面白いもの何もないな」って時、そして、他の局が全部選挙速報や台風情報でてんてこ舞いの時、ここにチャンネルを合わせれば取り敢えず温泉とご馳走が見られます、っていう「トワイライトゾーン」なとこに存在意義があるわけで。皆が一緒にお遊戯している時に一人だけ砂場でボーっとしているトロい男の子、みたいなとこが魅力じゃないですか。今からでも遅くありません。考え直して下さいませ。



Leaf2005年7月12日 さようなら、Mr.マクベイン

 米国の作家エド・マクベインが78歳で亡くなりました。世界一(おそらく)の大河警察小説「87分署」の記念すべき第一作「警官嫌い」が世に出たのは1956年ですから、1926年生まれの彼はちょうど30歳、それから最新作の「歌姫」まで、この架空の町アイソラの警察署を舞台にしたシリーズは50冊を超えます。ほぼ半世紀に渡って綴られてきた物語、これに比べれば某テレビ局の大河ドラマなんぞ水溜りでしょう。

 私はこれで気に入った作家とはきちんとお付き合いするタチですので、このシリーズも第一作から順を追って全て読んできました。最初は黄色い背表紙の早川文庫で、表紙の折り返しの部分で読む順番を確かめながら(さすがに全部揃えている書店はないものですから、結構足を使いました)。文庫化に追いついて追い越してしまってからは、ビニールのカバーも頼もしい(これジーンズの尻ポケットに押し込んでも平気、冷たいビールのグラスから水滴が落ちても気にならないという、どこでも読書の私にはうれしい作りです)ポケミスで。

 刑事たちの勤務シフトから現場での縄張り争いをスルーする方法まで、微妙な状況で逮捕状をゲットするテクニックから調書の書き方、あるいはそのタイプ打ちを誰かに押し付ける方法まで、実際の捜査方法を忠実に再現したきびきびした文体。パサパサのドーナッツを熱いコーヒーで胃に流し込み、家を出た時にはパリッとアイロンがかかっていたのに今では少しくたびれたシャツ、その襟元に手をやってネクタイを直して我らの街に飛び出していく男たち、愚痴に冷やかし、軽口に遠まわしの皮肉の少々過剰な饒舌さ。そして、一転、犯人側に回った場面での心理描写の古典的な言い回しの華麗さ。マクベインという人は実に多彩な文体を操る人でした。30歳にして早くも名人でした。

 第二作「通り魔」で彼のエンターテイナーとしての計算高さが証明されます。「警官嫌い」で主役を張ったキャレラがほとんど登場しない(新婚旅行中)のです。これによって、このシリーズが一人の刑事の物語ではなく、分署そのものが主役という画期的な作品であることが明らかになり、つまりはここから先、いろいろな刑事を描き分けていかなければならないわけで、これは筆に自信がないとできない芸当です。
 マクベインの自信は正当なものでした。模範的な警官から汚職刑事まで、マメな家庭人からプレイボーイまで、チビの東洋武術の達人から無駄にでかい税金泥棒まで、彼が描き分けた人物は、どれも等身大をちょこっと誇張した、現実以上テレビシリーズ未満の存在感を持っています。
 半世紀の間、世界はずいぶんと姿を変えました。ファイルキャビネットを引っ掻き回していた刑事たちがコンピュータ検索を始め、捜査方法も現場の鑑識方法も驚くほど進化を遂げました。しかし、犯罪だけは少しも変わっていない、動機は常に色と欲、それによって一番得をする人間がいつだって一番怪しい、怪しいところを突付けば何かが動く、何かが動けば痕跡が残る、その痕跡が刑事たちを真実に導いていく・・・、犯罪というものが人間の根っこの奥深くに巣食ったものであることをこれほど長く記録したシリーズもないでしょう。

 一番新しい作品は「歌姫」、名作中の名作(だと私は思います)「キングの身代金」以来の誘拐事件、新曲プロモーションのパーティー会場から誘拐された新人歌手、派手な事件でメディアはヒステリー状態、それに加えて9.11以来、全ての事件にテロリストの関与を想定して食い込んでくるFBI、87分署の連中は最新鋭の機器を駆使するGメンたちと地味に渡り合います。この辺のギクシャクした感じをイライラに変わる寸前まで引っ張る名人芸は、マクベインのお手の物です。
 あらゆる人、思想、価値観がごった煮の大都会アイソラ、例によって路地の一本一本まで足を運ぶ刑事たちには、ささやかな出会いと恋の予感が用意されています。どちらも人間のやること、犯罪が変わらないなら恋愛だって変わりません。この「歌姫」、このシリーズ51作中でも指折りの出来です。

 もう、キャレラとテディ、そして双子のマークとエイプリルも加わった賑やかな手話の語らい(文章は変ですが、本当に賑やかなんです)も、辛抱強く外の事件と内輪のトラブルを片付けていくマイヤーのため息も、またまたナンパした新しい彼女に電話するコットンの甘いバリトンも、なぜか女運が悪いクリングが聞き込み先のドアを開けた美女に躊躇いがちに自己紹介する声も、聞くことはないんですね。

 Mr.マクベイン、お名残惜しいけどあなたに「さようなら」を言いましょう。半世紀の間、あなたのタイプライター(当然最近はワープロでしょうが)から生まれた群像は私を楽しませてくれました。新作のポケミスを手にとってあの独特の黄色がかったざらついたページをめくる時、私は自然と微笑んでいたと思います。

 アイソラでは今日もサイレンもけたたましくパトカーが行きかっているのでしょう。分署の刑事課の電話は鳴りっぱなしでしょう。キャレラは受話器を肩に挟んでメモを取っているのでしょう。それを肩越しに覗き込んだマイヤーが何てこった・・・と眉間にシワを寄せているのでしょう。「ですから、それはですね、奥さん」、ちょこっとオツムに電波の来てしまったご婦人からの電話に汗をかきかき答えているのはクリングですか?コーヒーのカップを手に狭い刑事部屋のキャビネットの間を猫のようにしなやかに通っていくのはウィリスですか?

 Mr.マクベイン、私はもう見ることはありませんが、彼らは今日も相変わらず、ずっと元気でいてくれますよね。



Leaf2005年4月29日 「スモーク」

 ポール・オースターは、新作が出れば無条件で購入する大好きな作家の一人です。彼がニューヨーク・タイムズのクリスマス特集のために書いた「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」、これを読んだ香港出身の映画監督ウェイン・ワンが映画化を申し出て、それならばとオースター本人が脚本を担当した映画、それがこの「スモーク」。

 1990年のニューヨーク、ブルックリン、交差点に面した古ぼけたタバコ店の雇われ店長オーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)。彼の奇妙な日課、それは毎日欠かさずに午前8時きっかり、同じ場所から交差点の写真を撮ること。365日、雨の日も風の日も雪の日も休みなし。時計の針が8時ちょうどを指した瞬間、日本製のカメラのシャッターがパシャリと落ちる。撮り溜めたモノクロの写真は日付順にアルバムにまとめられ、ひょんなことからそのアルバムを鑑賞するはめになったのは、タバコ店の常連の一人、作家のポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)。全部同じじゃないか・・・、ゆっくり見ないとだめなのさ、明日、明日、明日、時は小さな足取りで一日一日を歩むんだから。これは「マクベス」の有名なモノローグ、「明日、また明日、また明日、時は小刻みな足どりで一日一日を歩み」の引用ですね。タバコ屋のオヤジがシェイクスピアを暗記している・・・、くたびれたおっさんにしか見えないオーギーにはどんな過去が?ほとんど同じに見える写真ですが、季節によって光の角度が違い、影の濃さが違い、行きかう人の服装が違い、そして、ポールは発見します。4年前のあの朝、たまたま銀行強盗の現場に居合わせたばかりに、お腹の中の赤ん坊と一緒に命を奪われた最愛の妻エレンが傘を傾げて歩いている姿を。
 「エレンだ、僕の最愛のエレンだ・・・」、照れも恥じらいもなく号泣するポール、その肩にそっと手を添えるオーギー・・・。

 大切なものを失ったのはポールだけではありません。片腕を失った自動車修理工(フォレスト・ウィテカー)、片目を失った中年女(ストッカード・チャニング)、父親に捨てられた少年(ハロルド・ペリノー)、母親を捨てた娘(アシュレイ・ジャッド)・・・。永遠に失われたものもあります。ひょっとしたら取り返せるかも知れないものもあります。人は毎日を生き、毎日何かを失い続けています。

 そして登場人物は、ドアのベルをチリンと鳴らしてオーギーのタバコ店に入ってきて、見知らぬ誰かとすれ違って、そして出て行きます。どこかで誰かとつながって、誰かに裏切られ、誰かを裏切り、誰かを助けて、誰かに助けられます。オーギーのカメラの三脚と同様、交差点のタバコ店が人物の描くいくつもの同心円の中心、交わって重なって離れていく運命の回転扉のドアマンを勤めるのも、やはりオーギー。

 大切なものってタバコの煙のようなもの、目に見えるけど手を触れることはできない、つかの間この世を漂ってふと気づいたら消えてしまっている、形あるものは壊れる、命あるものは死ぬ、当たり前のことだけど、それはとても辛いこと、でも、みんなが辛いのだとしたら、それはひょっとして素晴らしいこと?頑張らなくていいよ、そのままでいいよ、大丈夫、それでも人は生きていける。

 オーギーを演じるカイテル、うっすらと汚れた中年男、粗野でありながら知的、せこくて寛大、どん底で笑える男、誰も見ていないところで泣いているはずの男、ちょっと饐えた体臭とタバコの匂いが入り混じった感じ、目尻に深く皺を刻んで悪戯っぽく笑う表情がどんな二枚目よりも美しく見えます。
 熊のような巨体、母鹿のような優しさ、ウサギのような小心さの自動車修理工を演じるウィテカー、ちょっと頼りなくて、危なっかしくて、血のような涙を流して、それでも人を思い遣ることを決して忘れないポールを演じるハート、頭の回転が速くて如才なくて、そのくせ肝心のところが幼くて切ない不器用な少年トマスを演じるペリノー、キャストはどれも申し分なし。
 台詞の一言一言を本当に大切にしている脚本、どーんと正面に据えられて、光と影どころかブルックリンの排気ガス臭い空気まで伝えるカメラ。とことん丁寧な仕事ぶり、お金をかけなくても、CGがなくても、美男美女が映らなくても、言葉と絵だけで十分、それさえあれば世界は描ける、オースターとワンのプロ意識が小気味いい。

 私が一番好きなのは、時代遅れのグラマラスなブロンドヘア、安っぽくて色っぽい黒のドレス、極めつけはヴォータンも裸足で逃げ出すアイパッチ!のチャニング演じるルビーです。海千山千のあばずれ女、口八丁手八丁のやり手女、醜い現実の前にひるむことなく立ちはだかるアマゾネス、全ての傷ついた者のためにひたすら祈る聖女、そして、上目遣いに大人を見上げて泣きじゃくる迷子の少女、オースターのワープロが叩き出したルビーという架空の人物にこれだけの女を投影させる演技は、もう鳥肌もんです。

 登場人部はみんなして盛大にタバコを吸います(未成年のトマスまで葉巻をくわえてむせてます)が、ハートの演じるポールのタバコの扱い方が本当に素敵。上品で自然で繊細で、こんな演技を見せられると、タバコを止めたことをちょっと後悔してしまうような美しさです。

 ラスト、トム・ウェイツの歌声に乗せてオーギーがポールに淡々と語る「クリスマス・ストーリー」、彼がカメラを手に入れたあのクリスマス、嘘と嘘が触れあって、孤独と孤独が抱きあって、心と心が暖めあった聖夜の出来事。人はなぜ「物語」を求めるのか?それは儚い物語だけが強固な現実を超える可能性を持っているからなのか。

 大切な何かを失った時、一人ぼっちだって感じた時、印をつけておかないと区別のつかないような日々の繰り返しに疲れた時、そんな時は、よれよれシャツのオーギーがタバコを吹かしつつ常連と無駄口叩いている、タバコを持つ手をひらひらさせながらポールが薀蓄を披露している、このタバコ店を思い出して下さい。
 この作品が生まれた1994年から既に10年以上、今のニューヨークではタバコに火を付ければ即テロリスト扱いかも知れません。でも、このオーギーの店だけはなくならない、永遠にあの交差点に向かって建っているはずなのです。


Leaf2005年3月25日 幸せなお昼ご飯

 「イギリスで美味い食事を取りたければ、一日三回朝食を食べることだ」、どこかのえらい人がこんなことを仰ったそうですが、確かに、イギリスの伝統的な朝食は気合入ってますね。ベーコン、ハム、ソーセージ、卵、トマト、ポテト、フレッシュジュースにバタートースト、そしてポットにたっぷりの紅茶。この伝統的朝食は産業革命の時期に確立したそうです。お腹一杯食べてガンガン働くためのメニューです。ボリュームたっぷりの朝食に比べて、お昼は冷たいサンドイッチを紅茶で流し込み、仕事が終わった後にビスケットとケーキと紅茶、夕食は、何しろもうクタクタですし、早く寝ないと明朝も早いということで、チーズとパン、ミルクで終わり、さっさとベッドに潜り込む、まさに質実剛健、労働者のメニューです。

 ガンガン働きたくなんかないというラテン民族のイタリアやフランス、こちらの朝食は取り敢えず目が覚めればいいわけで、コーヒーとパンだけ、お昼は軽くスープかパスタ、そして勝負は夕食です。2時間、3時間は当たり前、時には4時間超、当然に午前様。満腹だと寝つきが悪いので食後には強めのアルコール、当然、翌朝は二日酔いの消化不良・・・、まさか毎日これをやっているとは思いませんが、しかし、日本人の私にすれば、考えるだけで胸焼けしそうです。

 一日を元気に過ごすための朝食、一日の終わりを楽しく締めくくるための夕食、それに比べて昼食って何か冷遇されているように思います。ファストフードでさっさと済ませたり、麺類を啜って終わりだったり。確かに時間に制限がありますし、お酒を飲むわけにも行かないし、何でもいいからその辺で済ませましょって感じ。三食のうちで昼食に一番気合入れているという国も聞いたことありませんし。

 私も普段は食べたり食べなかったり、食べるとしてもさっさと済ませてしまう昼食ですが、たまに「気合入れてお昼を頂きますかぁ!」って時、とっておきの『あのお店』に行きます。

 そのお店はご主人と奥さん(確かめたわけじゃないけど多分そうだと思います)だけでやっている、4人掛けのテーブルが4つだけの小さなお店です。昼食以外に夜もやっているのかも知れませんが、私はお昼しか知りませんし、それで十分です。
 厨房はご主人が、店は奥さんが切り盛りしているその店の昼食は、「定食」と「丼」しかありません。席につくと奥さんが煎茶とお新香の小皿(たいていはキュウリと茄子の糠漬けとイブリガッコ)を持って来てくれます。熱いおしぼりを使いながらその日の定食と丼の内容を聞いて(この店にはメニューがありません)、どちらかを選びます。
 定食のメインディッシュは町の洋食屋さんの定番メニューです。ハンバーグ、コロッケ、ロールキャベツ、チキンカツ、牡蠣フライ、鮭のムニエル、そんなものの日替わりです。お味噌汁は季節に合わせて、寒い冬場はナメコとお豆腐の赤だしや大根、春先には新キャベツと油揚げを少し甘めの合わせ味噌で、夏はアサリ、秋はキノコやお芋類が多いですね。メインディッシュには料理に合わせて千切りキャベツやニンジンのバター炒めやブロッコリーの塩茹でが添えられるのですが、これと一緒に必ず自家製マヨネーズ(これも確かめたわけじゃないですが、一口食べれば分かります)で和えたポテトサラダが付きます。ご飯は玄米が混ざっていて少し固め、お茶碗に大と小があるので、小を選べば女性でも残さないできれいに食べられます。
 丼の方は、親子丼、すき焼き丼、ヒレカツ丼が交替で。私はいつもは定食を頼むのですが(ポテトサラダの魅力には逆らえない)、親子丼の日はハムレットの心境、両方を食べられない自分の胃袋を呪います。ここの親子丼、ちょっと変わっているんです。柔らかい胸肉じゃなくて手羽先を使っているんです。さっと塩して軽く炙って余分な脂を落とした手羽先を骨から外してぶつ切りにして(これまた調理過程を見た訳じゃないんですが、どうもそうらしく思われます)出汁で煮てあります。ネギはタマネギじゃなくて下仁田ネギ、甘みが充分出るまでじっくり火を通し、薄い塩味の噛み応えのある手羽先、あっさり加減の出汁、卵は限りなく生に近い。これがホントに美味しい、ご飯の最後の一粒まで美味しい。

 ご馳走というわけではありません。ありふれた素材を使ったありふれたメニューなんですが、どれもこれも食べているうちに顔がほころんでしまうんです。拵えた人の手が感じられる、胃袋だけじゃなくて心も満たしてくれるような料理なんです。

 この店、BGMもテレビもありません。店の中の16人の客は、ある人は隣の連れとひっそりと話を交わし、ある人はテーブルの上の一輪挿しの季節の花を眺めつつ、お新香を囓りながら煎茶を啜って料理の出来上がりを待ち、これまた静かな奥さんが「お待たせ致しました」とそっと前に置いてくれるお盆の上、一口頬張る毎に食べ物から元気を貰います。

 食事が終わると、奥さんが今度は熱い焙じ茶を運んでくれます。それを頂いて、定食は900円、丼は700円、これほど贅沢な昼食を私は知りません。

 このお店、私は今まで誰にも教えたことがなく(だからいつも一人で行きます)、これからも絶対に内緒、墓場に行くまで秘密ですが、ヒントを一つ、ご主人、「爆笑問題」の小さい方の人を大きくして(ややこしい言い方だな)20歳ほど年を重ねたような人です。



Leaf2005年1月19日 パルナス

 
先日、知り合いのお宅を訪問するための手土産を買いに行きました。以前からこれはとっても美味しいと思うフルーツタルト、包装が出来上がるのを待つ間、ケースに並んだ色とりどりのケーキを眺めていて不意に頭に浮かんだ言葉、「パルナス」・・・。

 パルナスって何?という方、あなたは関西に縁がなかったでしょう?この言葉に記憶中枢のどこかがぴくんと反応した方、あなたは関西で育った人ですね。そう、このパルナスというのは関西に展開していた洋菓子店の名前でして、長年、日曜日の午前中のアニメ番組枠のスポンサーだったせいで、この名前を知らない子供は関西にはいなかった、ナボナが「お菓子のホームラン王」だなんて全然知りませんでしたが、パルナスが「モスクワの味」であることは関西のガキは皆知っていたと断言できるのです。私なんて未だにCMソングちゃんと歌えますもん。

ぐっと噛みしめてごらんー
マァマの暖かい心がお口の中に染み通るよぉ、パルナス・・・
甘いお菓子のお国の便り
お伽の国のロォシアの夢のお橇が運んでくれたぁ
パルナス、パルナス、モスクワの味
パルナス、パルナス、パルナァース


 このCMソング、なぜかじとーっとした短調でして、黒い影絵風のアニメーションに短調の旋律が被るという、今考えればおよそ日曜日の朝には似つかわしくない、一種異様なCM、これを毎週アニメの真ん中15分のところで見ていたわけですから、忘れようにも忘れられません。モスクワの味がロシアの橇に乗って来る、当時、かの地にはロシアなど存在せず、ソビエト社会主義共和国連邦がでーんと鎮座し、世界は冷戦下であったわけですが、お菓子の方はソ連じゃなくてロシアだったんですね。
 パルナスとはギリシャ神話でアポロンたち神々の暮らすパルナッソス山のこと、パリのモンパルナスもこの山が語源です。それがなぜ日本の、関西の洋菓子店の名前になったのか?そういえば、今や全国区の「モロゾフ」も確かロシア人が神戸に開いた洋菓子店がルーツでした。

 ケーキと言えばパルナスかヒロタだったっけ。お土産に貰うのうれしかったな。そういえばタカラブネっていう店もあった、あそこのCMソングもかなり強烈だったな、「タッカラブネ、GO、GO!」ってやつ。何しろあの頃はコージーコーナーなんて聞いたことなかったもんなー。しかし、パルナス、今どうしてんだろ?ってことで、検索してみました。

 パルナスは2002年に廃業しておりました。ヒロタは2001年に経営破綻し、民事再生法の適用を申請、GO、GO!だったタカラブネも2003年に洋生菓子・焼き菓子部門を売却し、スイートガーデンと名前を変えておりました。そうか、パルナス、もうないんだ・・・。
 ロシア菓子店ということで、パルナスの店頭ではピロシキも売られていました。あのピロシキ、一度も食べたことがないんです。子供には挽肉入りの揚げ饅頭よりも、カスタードがぎゅーっと詰まったシュークリームの方が遙かに魅力的だったから。でも、一度食べておけば良かった、もう食べられないと思うと余計に美味しそうに思えます。

 今では私も口が肥えてしまいまして、ブラマンジェなら半蔵門のどこそこ、モンブランなら自由が丘のあの店、チーズケーキなら恵比寿の・・・等々、うるさいこと言うようになりました、それが美味しいと思えば1ダースでも買えるようになりました。でも、黄色くねっとりとしたカスタードクリームをいつかお腹一杯舐めてやると思っていたあの頃に食べた、あのパルナスのシュークリームが一番美味しかったような気がします。今となっては、もう二度と食べられない、記憶の中にしか存在しない幻の一品なのですから。


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