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2003年12月3日 オペラ妄想日記インデックス
2003年9月18日 来た、来たぁ!
2003年8月10日 『永遠のマリア・カラス』
2003年7月5日 パラサイト
2003年5月6日 『聖なる酔っぱらいの伝説』
2003年4月22日 『ローカル・ヒーロー 夢に生きた男』
2003年4月13日 その声
2003年4月10日 つくね
2003年3月25日 虎ノ門
2003年3月9日 昼下がりの電話
2003年3月4日 彼らは本当に存在するのか
2003年2月3日 私のメメントモリ
2003年1月16日 今年もまた成人式
2003年12月3日 オペラ妄想日記インデックス
「電波ニュース」というサイトを見つけました(リンクは貼りません。検索ですぐに見つかるはずです)。テキストに全く関係のない言葉をランダムに挿入してくれるという遊び心たっぷりのサイトです。で、オペラ日記のインデックスで遊んでみました。読んでみると妙に納得がいったり、じわっと笑えたり・・・。
ワーグナー 「著作権フリーのパルジファルにしては毛の長い生き物」
モーツァルト (1756〜1791) 「多くの場合フィガロの結婚」
「よりいっそうおいしくなったドン・ジョヴァンニ」
「公園の池でゆらゆら泳ぐコジ・ファン・トゥッテ」
「クセのある魔笛返してよ!(半泣き)」ベートーヴェン (1770〜1827) 「事ある毎にらっぱを吹き鳴らして気分を盛り立てるフィデリオ気取り」 ウェーバー (1786〜1826) 「落ちこぼれの烙印を押された魔弾の射手が噛んだ小指が痛い」 ロッシーニ (1792〜1868) 「斧を持って追いかけてくるセビリアの理髪師」
「永遠のライバルの名はランスへの旅」ドニゼッティ (1797〜1848) 「溢れ出る涙の理由はアンナ・ボレーナというライフ・スタイルの提案」
「歌って踊れる愛の妙薬」
「泣く子も黙るランメルモールのルチア」ベッリーニ (1801〜1835) 「疲れた顔でノルマ、ついに映画化」 ヴェルディ (1813〜1901) 「実験段階にあるナブッコを奇声で威圧」
「入退院を繰り返すエルナーニ、キャッチコピーに偽りなし」
「泣き虫二人のフォスカリを夢見て」
「独自の文化を形成するマクベス・疾風怒濤編」
「突然変異で生まれて来たスティッフェリオ風」
「気合いの入ったリゴレット炎上事件」
「少年少女だけで構成されるトロヴァトーレ」
「泣きながら謝罪するラ・トラヴィアータでおびき寄せて全員逮捕」
「最近見ないと思ったらシモン・ボッカネグラ」
「あれ程言ったのに仮面舞踏会」
「瞳孔が開いたまま運命の力」
「さよならの向こう側に見えたのはドン・カルロなんでしょ?何とかなさいよ!」
「アタリが出たら、もう一つアイーダリサイクル大作戦」
「ダミーでオテロはお子様の手の届かない所へ保管して下さい」ワーグナー (1813〜1883) 「狙った獲物は必ず手に入れるさまよえるオランダ人」
「ある意味タンホイザー」
「人間の能力の限界に挑むローエングリン」
「悲壮感漂うトリスタンとイゾルデ」
「寝ているか、食べてるか、ニュルンベルクのマイスタージンガー」グノー (1818〜1893) 「遠い北の国から犬ゾリに乗ってやって来たファウスト」 オッフェンバック (1819〜1880) 「今一つ洗練しきれていないホフマン物語四天王最後の一人」 J・シュトラウス (1825〜1899) 「暇つぶしにこうもりと思っていませんか?」 サン=サーンス (1835〜1921) 「頭にアンテナを付けたサムソンとデリラと神がうるさい」 ビゼー (1838〜1875) 「旧ソ連時代に機密扱いとされ、連邦崩壊後においても全く公表されなかったカルメン」 チャイコフスキー(1840〜1893) 「ドジで泣き虫なエフゲニー・オネーギン、ついに映画化」 マスネ (1842〜1912) 「トラウマの原因はウェルテルと見せかけてチョップ」 レオンカヴァッロ (1857〜1919) 「ついに遺伝子の組換に成功して道化師」 プッチーニ (1858〜1924) 「全国から寄せられたマノン・レスコー」
「奇妙な運命をたどるラ・ボエームネタ一つで荒稼ぎ」
「膝を抱えたままで蝶々夫人な気分にひたすら浸るヨロコビ」
「内戦による政治的措置によりトスカと聞いただけで冷や汗が」
「ジャンニ・スキッキの意味は分からんが、とにかくすごい自信だ」
「限られた命だからこそトゥーランドットは理論上あり得ない」マスカーニ (1863〜1945) 「必殺技の名はカヴァレリア・ルスティカーナ」 R・シュトラウス (1864〜1949) 「自ら志願してサロメ」
「秋になるとやってくるエレクトラ、空に舞う」
「熱に反応するばらの騎士」
「意思とは関係なくナクソス島のアリアドネ」ジョルダーノ (1867〜1948) 「発火の恐れがあるためリコールされたアンドレア・シェニエ」 フェラーリ (1876〜1948) 「スライですか?」 「です!!」 ガーシュイン (1898〜1937) 「不思議な力を身につけたポーギーとベスなのは偶然なんかじゃない」 ブリテン (1913〜1976)」 「働くあての無いビリー・バッド(ここで感きわまり思わす涙をハンカチでぬぐう)」
オペラ・グラス 新国立劇場公演 「あきれたトスカやめないで・署名活動」
2003年9月18日 来た、来たぁ!
巷で流行りの「架空請求メール」が私のところにも来ました。すっごく楽しい内容ですので、ご紹介致しますね。
最後通牒
前略
この度、弊社は、貴殿が利用されたインターネットの有料サイト利用料金について運営業者より債権譲渡を受けました。これまで再三連絡をさせて頂きましたが、未だ貴殿からの入金の確認ができません。
つきましては以下の通り速やかにお支払いを頂きますよう最終通知をさせて頂きます。
入金期限 平成○○年○月○日(2日後・・・)
振込先 ××銀行××支店
普通口座 ○○○○○○
口座名義 ****
請求金額
コンテンツ利用料 30、000円
遅延利息 22、000円
合計 52、000円
直ちにご入金を頂けない場合には、最終的に担当者が直接貴殿のご自宅などに伺って回収することとさせて頂きます。
△△興業(連絡先 携帯電話の番号)
もう突っ込みどころ満載です。
「最後通牒」=「紛争の平和的処理のための交渉を打ち切り、自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ自由行動をとるべき旨を述べた外交文書」(広辞苑)・・・、おお、これ外交問題なのですね?国際紛争なのですね?小泉首相!川口外務大臣!アナン国連事務総長ぉ〜!
ちなみに私の名前は「貴殿」ではありません。最初から最後まで私の名前が出てきません。債権譲渡を受けておいて債務者(つまり私)の名前知らないんですか?
「債権譲渡」って債務者の承諾が必要なんですよ。私、承諾した覚えないし、譲渡通知も貰ってないんですが。ちゃんと配達証明付の内容証明郵便で送って下さいました?っと、御社は「最後通牒」もメールですよね・・・。
「運営業者」って、この名前も分からないんですか?債権を譲り受けた相手なのに?
請求は会社名なのに銀行口座は個人名です。会社名義の口座持ってないんですか?
「遅延利息」って、いつから遅延しているのか分からないのに、そもそも私がいつ何のコンテンツを利用したのか書いてないのに、どうやって計算したんですか?ずいぶんな利息ですが「法定利息」ってご存じない?
「直接貴殿のご自宅に伺って」下さるらしいです。メールアドレスしか知らないくせにどうやってやって来るのでしょう。いずれにせよ、ご苦労様です。私の住所は稚内かも知れません、波照間島かも知れません。「母を訪ねて三千里」のマルコみたい、いじらしいです。
連絡先が携帯電話・・・、代表番号とまでは言いませんが、せめて固定電話くらい持っていて下さいよー。
ところで、債権回収業は法務大臣の認可が必要なんですよ。でもって、認可の条件には「資本金5億円以上」って決まっているんです。銀行口座も持っていない、固定電話も引いていない御社じゃちと無理かと思うのですが。
えーころ加減なメールアドレスに片っ端から送信しておられるのでしょうね。ご苦労お察し申し上げます。失礼とは思いますが返信は致しません。私、それほどヒマじゃないし。せめてもの御無礼のお詫びまでに、ヘッダフッタ情報とメールをサクっとまとめて警察まで届けておきましたので、後はよしなに・・・。
2003年8月10日 『永遠のマリア・カラス』
1974年の日本公演の後、パリのアパルトマンに引き籠もってしまったマリア・カラス、彼女はこの後1977年9月16日、53歳の若すぎる死を迎えるのですが、この間にひょっとしたら「あり得た」かも知れない物語・・・。
かつてカラス(ファニー・アルダン)と一緒に仕事をし、今はスキャンダラスなハードロックバンドで荒稼ぎしているプロモーターのラリー(ジェレミー・アイアンズ)、誰にも会わないという彼女の元を強引に訪れた彼が提示したのは、リップシンク(顔の動きに合わせて声を重ねる技術)によるディーヴァの復活という魔法のような話。私にインチキをやれと?と激怒するカラスですが、「最低の日本公演」の映像に全盛期の声を被せた「かくありたかった自分」に夢中になってしまいます。
「カルメン」をやるわ!一回録音しただけで舞台では歌ったことがないの、だから新鮮な気持ちで演じられる、カラスは甦るのよ!かくして映画版「カルメン」の撮影が始まります。完璧主義で譲るということを知らないカラス、「カラスと仕事するってことは昼も夜も働くってことなのよ!」、何かに憑かれたかのようにカルメンに没頭するカラス、それを支えるのは最新鋭の技術とカラスの熱気に巻き込まれてしまったオーバーワークのスタッフたち、映画の出来映えが悪いわけがない。
試写室で大写しにされた自分の姿に涙ぐむカラスに、ラリーは次の企画を持ち出します。「椿姫」で行こう!それから「ノルマ」も!・・・私は「歌いたい」の、何だって?今の自分の声で歌いたいの、チャレンジしたいのよ、「トスカ」なら歌えそうな気がするの。
リップシンクではなく本当の声で歌いたい、カラスの挑戦が始まったのですが・・・。
ファニー・アルダンに脱帽です。そっくりさんってわけではないのですが、そっくりさん以上にそっくりさん、特に「ハバネラ」を歌う場面の表情ときたら、カラスがもし舞台に立ったならきっと・・・という私の長年の妄想とぴったり一致。もう鳥肌が立ちました。深夜、「ある晴れた日に」のレコードをかけてたった一人で蝶々さんを演じつつ失った声に泣き伏す場面の痛み、ラリーに引っ張られての久しぶりの外出、カラスよ!カラスだわ・・・、人々の視線によって孤独な中年女が世紀のディーヴァに変貌する瞬間の妖艶さ、神懸かり的名演と言って良いと思います。
ジェレミー・アイアンズが控えめながらも良い雰囲気です。ディーヴァの親友にして戦友、ゲイである彼は、世紀の歌姫と「普通」には生きられない運命を背負った者の孤独と痛みを共有しているのです。
ホセを演じる新人歌手役のガブリエル・ガルコ、なかなかの美形ですが目がきつくてホセよりもトゥリドゥ向きかな。
劇中劇の「カルメン」、これがゼッフィレッリが夢に見た「カルメン」・・・、第一幕、第二幕の汗臭さと熱気、ラストの「あんたね、俺だ」の奇妙な静けさと冷たさ、細部まで凝りに凝った贅沢なセットと衣装、あぁ、ゼッフィレッリのオペラだ。
初めてカラスの録音を聴いた時のこと、はっきりと覚えています。決して美声ではないのになんて美しい、一度聴いたら忘れることのできない強烈な声、そしてフレーズの一つ一つに込められた感情が直接心に訴えかけてくるその表現力、すげぇ、オペラ歌手ってのはこんなことができるんだ!(その後こんなことができるのはほんの一握りの歌手だけだと知りましたが)、そこから私のオペラ遍歴が始まりました。
映画の中で「悪夢」として語られている伝説の日本公演(これがカラスの最後の舞台となりました)、かつての鋼のような高音は無惨にひび割れ、劇場を揺るがせた豊かなフォルテッシモは耳障りな絶叫に変わり、熱狂的なカーテンコールを受けるカラスはどこか不安な表情、まるで「これで良いの?」と問いかけているようでした。
マリア、あの熱狂は「怖いモノ見たさ」でも「勘違い」でもなかったんだよ、あなたの声は失われていた、でも、あなたは奇跡を見せてくれた、マリア・カラスはたとえ声が出なくても「歌える」んだって。
あなたはいなくなってしまったけど、あなたの声は生き続けると信じている。100年後も200年後も人々はあなたの声を聴く。あなたが録音に熱心だったのは、メネギーニの、オナシスの富をもってすらできなかったこと、永遠に生きることを成し遂げたかったから?
ラストシーン、一人、街の雑踏に消えていくあなた、胸を張って微かに笑みを浮かべ、真っ直ぐに歩くその後ろ姿こそ、ゼッフィレッリが撮りたかったものだと思う。永遠に生き続けるための代償をきっちりと払った一人の人間の誇りと孤独。
マリア、あなたがいたから地球は少しだけ美しくなったと私は思っています、ありがとう、あなたに出会えて私は幸せです。
2003年7月5日 パラサイト
最近この言葉をよく見かけます。本来は「寄生する」という意味ですが、別にギョウ虫のことじゃなくて、誰かに経済的に依存して生きている人間のことですね。「パラサイト・シングル」、少し前には同じタイトルで本も出ていたはずです。いー年こいて学校もちゃんと出たのに親の家で個室をあてがわれ、家賃も食費も入れない若者が増えている。で、この連中が親に「パラサイト」しているせいで日本は不景気だ・・・って主旨だったように記憶しています(違っていたらごめんなさい)。
確かにパラサイトしている人間は冷蔵庫も洗濯機も買わないし、賃貸住宅も借りてくれないし、食費も家賃も入れないんで、仕事もお小遣い稼げればいー加減でオッケー、餓死する心配はないんで、適当にバイトをしていれば生きていける。
はて、何でこれで生きていけるんか?パラサイトできるからです。一家総出で働いて食べるのがやっとという貧しい国では誰もパラサイトできません。寄生する相手がいないんだから。そのパラサイトを支えているのはパラサイトさせている親です。その親は住宅ローンも残っているし、ガキは寄生するしで、職場にパラサイトする、で、会社は新規採用ができないんで、若年層の失業率が高くなる、で、パラサイトする若者が増える・・・。パラサイトの悪循環に陥っているように思います。
この手の話題で必ず登場するのが「やりたいことを見つけられない若者」ってフレーズです。やりたいことが分からないから仕事につかない、ついても長続きしないと。
やりたいこと仕事にしている人いますか?いるとすればそれはごく少数の幸運な人です。車が好きで自動車会社に入ったとしても、配属先が人事部だったらその仕事は車とは全然関係ないんです。
「やりたいことをやれ」と「やりたいことで食え」は違います。これをごちゃ混ぜにしていたら人生時間切れですよ。やりたいことをやって生きていきたい、それは人間として当然です。でも、それと仕事は別モンなんです、残念ながら。やりたいことをやる時間は「食う」ための仕事をこなした上で自分で見つけるしかないんです。
「好きなこと」が「仕事」になったら素晴らしい・・・でしょうか?それはもう「仕事」であって「好きなこと」じゃないんです。野球が好きな松井選手だってイチロー選手だって、それが仕事になれば大変なプレッシャーがあります。マスコミに追っかけられ、少々打てないってだけで叩かれ、とてもじゃないが楽しいことばかりではありません。シュワちゃんだって同じ型式のターミネーターを3回も演じていて楽しいんでしょうか?
仕事ってのはやりたいことじゃないんです、「食う」ためにやるんです。食えれば良いんです。これはすっごく楽です。少なくともやりたいことを探して彷徨うよりもうんと楽です。だって「食えれば」勝ちですから。やりたくないことだって、何か違ってんじゃん?だって、それで食えればクリアなんです。
やりたいことを探せと言い、生き甲斐を見つけろと言い、やりたいことが分からない(こんなもん、簡単に決められるもんですか)のはいけないことだと育てた子供が、どっち向いて良いのかも分からなくてモラトリアム状態に陥ると「パラサイト」ですか?
仕事は食うためにやるんです。
我が政府は「フリーター」増加に心を痛めておられるご様子です。そりゃ所得税取り難くなりますからね。消費税を上げるしかないでしょう。でも、言っておきたいんです。そういう風にし向けたのはあんたらですよ。
2003年5月6日 『聖なる酔っぱらいの伝説』
続けて好きな映画のことを書きます。1988年のイタリア=フランス合作映画です。
パリはセーヌ河の橋の下、毎晩安ワインをかっ食らっては新聞紙を被って寝ているホームレスのアンドレアスは、ある日一人の老紳士に声をかけられます。見たところお困りの様子だ、200フランを貸しましょう。そんな大金借りても返せないと断るアンドレアスにその紳士は重ねて、返せる時が来たら聖テレーズの像のある教会に返してくれればそれでいい。その時からアンドレアスの周囲で不思議なことが次々と起こり始めます。
アンドレアスには実は暗い過去があります。ホームレスになったのもそのせいです。その哀しみを夜ごとの安ワインで紛らわせるしかない彼なのですが、住所がなくても誇りだけは持っているアンドレアスは、一生懸命200フランを返そうとします。そしてその大切な200フランを返しに教会に行くたびになぜか不思議な偶然が起こって、どうしても200フランを返すことができない状況になってしまうのです。
アンドレアスは昔の恋人と再会します、新しい恋もします(結末は苦いものですが)、友人と再会します、別の友人を助けようとします(たとえ騙されているとしても)、生まれて初めて豪華なホテルに泊まります、夢の中で懐かしい両親に不在を詫びます。そして、何よりも、200フランを返さなければという目標を持ちます。
アンドレアスは近々死ぬはずだったのです。しかし、神様は彼の哀しみをご存じなのです。だから彼に数日の猶予を与えた、そして律儀なアンドレアスが200フランを握りしめて教会へ向かうたびに、彼をそっと生に押し戻す、あれもまだだろ?これだってやっておきたいだろ?だからまだその200フランは返さなくていいよって。
私は信仰を持っていません。ですからキリスト教の愛も仏教の慈悲も理屈で知っているだけです。でも神様がアンドレアスが出会ったような存在であるのなら、信じようが信じまいが、どこかにいてくれるってだけで幸せだと思います。そして、世の宗教はどうしてこの優しさが持てないのかと哀しくなります。
原作はヨーゼフ・ロート、オーストリア・ハンガリー帝国で生まれたユダヤ人です。祖国の崩壊とナチスドイツの台頭により亡命生活を余儀なくされた彼は、強制収容所の恐怖に追い立てられるまま、1939年5月27日、放浪の果てに辿り着いたパリで酒に溺れて44歳の若さで世を去ります。ロートがアンドレアスの前に登場させた神様は、ロート自身の前には現れてはくれませんでした。
監督がイタリア(エルマンノ・オルミ)、主演がオランダ(ルトガー・ハウアー)、音楽がロシア(ストラヴィンスキー)、そして舞台がパリ・・・、ヨーロッパごた混ぜの混成チームによって端から端まで丁寧に作られた映像と、話が分かるか分からないかのギリギリまで削られた台詞、暗い色調の無言のシーンが多いのですが、そこを満たしている静かな詩を感じます。
但し、ご用心、『ローカル・ヒーロー』とこの映画と続けて見ると、確実に仕事辞めたくなります。
2003年4月22日 『ローカル・ヒーロー 夢に生きた男』
1983年のイギリス映画です。誰か劇場で見た人いる?ってくらい、おっそろしく地味な映画です。間違っても「大作」ではありません。「名作」かって聞かれると、うーん、ビミョーです。
アメリカの大手石油会社が巨大コンビナート建設のためにスコットランドのド田舎の土地買収に乗り出します。一応ヤリ手社員のマッキンタイア、彼は名前に「MaC」がついているせいでスコットランド系と勘違いされ(ホントは全然関係ない)、地上げのためにそのド田舎に派遣されます。ついでに天体マニアの社長から北の夜空の天体観測まで押しつけられ、アバディーンを経由してやっとたどり着いた村は人口百人未満、ホテル兼レストラン兼会計士事務所、パブ、郵便局兼雑貨屋が各一件、暴走族が一人、パンクも一人。堂々と漁船で乗り付ける陽気なロシア人(もちろ不法入国)がいて、村でただ一人の赤ん坊を交代でお守りしている男たち(父親は誰だ?)がいて、タガがゆるんで水漏れのする風呂桶みたいな小さな漁村です。
降って湧いたような土地買収の話に村の衆は「捕らぬタヌキ」で大いに乗り気なのですが、肝心の浜辺を所有している地主のノックス爺さんだけはその気なし。海沿いの小さな小屋に住んでいるノックス爺さん、ご先祖様が国王様の弟君を殺して(!)差し上げた報酬に賜った浜辺、何の価値もない土地なのですが、毎日流木を拾い集めているノックス爺さんは、きれいな浜辺がきれいだってだけで十分、それ以上何も欲しくないのです。
全然進まない用地買収、毎日、村でたった一台の公衆電話から社長に「お星様レポート」を報告するマッキンタイア、彼は少しずつ何をしに来たのかを忘れてしまい、村に同化していきます。
手始めにスーツとネクタイを脱ぎ捨てて古ぼけたセーターを着るようになり、裸足で貝殻拾いに興じるようになり、ひげを剃るのをさぼり始め、決まった時間にアラームの鳴るハイテク腕時計を岩場に置き忘れ、その後は時計なしでも全然平気になり・・・。
とうとう、社長自らが村に乗り込んできます。といっても、遅々として進まない買収話にしびれを切らしたからではなくて、マッキンタイアのレポートした見事な北のオーロラを自分で見たくて堪らなくなったからなのですが。
どこかずれている村にやってきたまともなビジネスマンがどんどんずれていく、その過程が実に自然で優しくて、暖かくて懐かしくて、そしてほろっと哀しくて。そして、最後にはどっちがまともなのかが分からなくなってしまう・・・。
お星様マニアの社長を演じるバート・ランカスター、これがもうふるいつきたくなるくらい素敵にとぼけた老紳士。マーク・ノップラーの音楽がこれまた絶妙、北の夜空を囁き声で満たすオーロラ、どこまでも続く何もない砂浜、長い長い時間をかけて砂に帰っていく岩、どこからかやって来てどこかへ去っていく風、そんな自然の一つ一つに丁寧に上品にイメージを与えています。
バート・ランカスター以外の俳優は全然馴染みがないのですが、どのキャストもこれ「素」でしょ?ってくらいに見事にはまっています。
ビデオは早々に生産中止、レンタルショップでもまずお目にかかれず、テレビでは深夜枠で一回か二回放送されたきり、やっと、DVDで登場ですが、何しろこれ以上ないってくらいに地味な映画ですから、DVDも取り寄せになると思います。でもそれだけの手間をかける値打ちのある映画です。
そう、「大作」ではありません、「名作」かと言われればビミョーです。しかし、心の奥の方がポッと暖かくなる、押しつけられるものは何もなく、感動に震えるわけでもなく、しかし決して忘れられない、本当に気持ちの良い映画です。是非、ご覧になって下さい。
2003年4月13日 その声
本日は統一地方選挙の投票日です。私は喧しいのが大嫌いですので、選挙となると毎日が憂鬱です。毎朝、駅の改札口の前でスーツの上にたすきがけという珍妙なスタイルで、「おはよーございます!」「いってらっしゃませ!」と繰り返している候補者、温泉旅館の番頭さんじゃあるまいし、だいたい番頭さんはお金払ったお客様に挨拶しているんだ、私はまだあんたに投票していないって。先回りしてヘーコラするなんて卑屈なことをやるから、当選したとたんに仰向けにひっくり返って後頭部を打ちそうなくらいにふんぞり返ることになるんだ・・・。
連日町を「お騒がせ」している選挙カー(お騒がせって分かっているならやめろよなー)の連呼を聞いていて、ふと思いました。どの候補者の車の声もみんな同じだって。
オペラでは声はその人物の性格を表します。テノールとソプラノは若く、情熱的な恋人たち、たいてい少々現実離れしておりまして、幼く愛らしい。バリトンとバスは、経験、知恵、権力、そして苦悩を表します。メゾ・ソプラノとアルト(滅多に登場しませんが)は、成熟した女性、あるいは男勝りの強い女性を表します。
選挙の際にテレビコマーシャルが認められているアメリカ、CMで流れる声は男性のバリトンが多いです。たまに女性がナレーターを務める場合はメゾかアルト、低い声が主流です。沈着冷静で意志強固な指導者をイメージしたものが多いようです。
さて、日本の選挙カー、スピーカーから響く大音量の声は9割方若い女性のソプラノです。それも声質も口調もみんなそっくり。どれが誰の車だかさっぱり分かりません。
若いおねーちゃんのソプラノで繰り返される意味不明の言葉から伝わってくるもの、それはこの国の政治の状況がいかに幼いものであるかということです。
「お願い致します!」「どうか、どうか!」の哀願、明確な政策と実行力を持った信頼できる人物なら、こちらからお願い致します。そんなに卑屈になられると、こいつにはプライドってもんがないのか?と思います。
個性もへったくれもない同じ声と口調、それでもって「改革」とか「個性重視の教育」とか「新しい政治」とか言われても、何の説得力も感じません。ソプラノは、恋愛はともかく、およそ政治の世界には似つかわしくないのです。
候補者自身は脂ぎったタヌキオヤジであろうが、民間ならとっくに定年のお年でっせ、あんた今から政治やって10年後に責任とれるの?ってじーさんであろうが、みんな同じ若くてきれいな女の声、個性を嫌う横並びの思想、争いや忍耐を避けて通る事なかれ、先送り主義、裏はともかく表向きはみんな仲良くというイメージ、幼稚園のお砂場では褒めて貰えるかも知れませんが、政治とは主義と政策を巡る闘いです(決してお金を巡る闘いじゃありませんよ)。こんなんで大丈夫なんでしょうか?
そのうちにサンリオのキャラクターをくっつけた選挙カーが走ったとしても、私は驚きませんね。しかし、たまにはオペラを聴いて、声の持つイメージと訴求力を研究なさってはいかがでしょう?
2003年4月10日 つくね
たっぷりと時間のある休日、散歩をかねて町を歩き、目についた魚屋さんで鰯か鯵を買い込んで山ほどのつくねを拵える、最近、これにはまっております。
魚、特に鰯のような小さな魚を下ろすのは難しいのですが、叩いてつくねにしてしまうわけですから、切り方なんてどうだって良いってところも気に入っています。
頭と尻尾とワタを適当に処理して、えら蓋とかゼイゴとか堅そうなところを切り落とし、後は適当に下ろします。真っ当な板前さんが見たら気絶しそうな「惨殺現場」になりますが気にしない、小骨が残っても気にしない。背骨にくっついた部分をスプーンでこそげ落とします。肉というのは骨にくっついている部分が一番美味しいですから、ここは気長に丁寧に。
まな板の上に包丁をがんがん叩きつけ(できれば二刀流の方が気分が良いです)、つなぎに少量の小麦粉、そして塩を振って、すり鉢でこね回します。思いの外粘りますから、ここは床の上にあぐらをかいて、すり鉢をしっかりと両腿で挟んで、禅寺の賄いさんスタイルでまいります(この時、頭に鉢巻きをするといっそう気分が盛り上がります)。
これにあれこれと薬味を混ぜるのが楽しい。みじん切りのワケギ(鍋に合います)、ショウガの針千本や叩いた梅干しを入れれば臭みがとれますし、季節によっては茗荷も美味しい。大量生産したつくねは真ん中を少し凹ましたピンポン球大に丸めて、そのままジッパー付きの袋に入れて冷凍庫へ。これさえあれば買い物する時間がなくても、金欠になっても心強い。
冬の間はちゃんこ鍋にします。豆腐とたっぷりの野菜、醤油でも味噌でもいけますよ。大根や人参、キノコと一緒にコトコトと煮込んでもいい、薄く伸ばしてゴマ油で揚げれば薩摩揚げ、トマトソースで煮込む時のためにニンニクと松の実のみじん切り入りのイタリアン・バージョンを作っておくのも便利です。意外と美味しいのが、そのまま何も付けずに網焼きにして醤油を垂らしてフハフハ食べるっていうのです。
問題は大量に出るアラなんです。猫でも飼おうかな?
2003年3月25日 虎ノ門
東京都港区虎ノ門、サラリーマン天国の新橋(気楽な飲み屋や中古のゴルフクラブを扱う店がたくさんあります)と巨大お役所地帯の霞ヶ関と道を隔てて接している地帯です。この一帯は日本でも有数のおじさん生息地帯です。町を歩くのは圧倒的に昔ながらの「ドブネズミ」スタイルのビジネスマンが多くて、その平均年齢も高い。私はこの辺りをよく歩きます(なんでよく歩くのかは内緒)。
最近、この辺りを歩いていて感じるんです、ここ数年、おじさんたちの服装が格段に汚くなっていると。
この辺りでは滅多にイタリアンブランドのソフトスーツにはお目にかかりません(同じ港区でも六本木、青山辺りとは別世界)。保守的なイギリススタイルのシングルのダークスーツと黒い革靴という組み合わせが圧倒的に多いのですが、それが最近汚いのです。別に高いスーツを着ろって言っているわけじゃありません。数十万円する高級ブランドスーツでも、だらしなく着れば金回りの良いチンピラにしか見えませんからね。安売り店の2着セール(今なら替えズボン一本サービス!)でも良いんです。ただ、汚いっていうのが気になります。あなた、昨夜それ着て寝ました?って感じのおじさんが増えているんです。そして、そんなおじさんたちは例外なく歩く姿に元気がない、背中を丸めて手入れの悪い靴をずるずる引きずって歩いている、何かもの悲しい光景です。
家に帰ったらともかくブラシを当てましょう。そしてズボンの折り山と上着の襟と肘の部分だけでも当て布をして霧を吹いてアイロンをかけましょう。そして、肩の部分が分厚く湾曲した真っ当なハンガー(薄っぺらいハンガーは服の型を崩すだけです)にきちんと吊しましょう。アイロンが面倒だったら、せめて入浴後の湯気の立ちこめた浴室に吊すだけでも違います。靴は古くなったTシャツの切れ端でいいですから汚れを落として、週末にはクリームを塗り込みましょう。そのついでにベルト(特に留め金の当たる部分)も一緒に磨きましょう。ネクタイは毎日換えなくても良いんです。でも結び目のところに皺がよりますから、ほどいたら厚い本(辞書なんか)に結び目のところを挟んでおきましょう、朝にはぱりっとします。
いつまでたっても好転しない景気、リストラ(企業再編)ってのは人を減らすことだと信じているお偉いさん(人を減らさなければならない事態に陥った場合、最初に辞めるべきはその事態を招いたお偉いさんなんですけどね)、銀河系の外の言語を話す若い部下・・・そりゃ毎日大変だということは分かります。そんな時だからこそ、身だしなみに気を配れば気分が変わるんですよ。奥さんがやってくんない?それくらいのこと自分でやりましょう。幼稚園児じゃないんだから。
丁寧にブラシを当ててプレスしたスーツ、ぴかぴかに磨いた靴、自然と背筋が伸びてきます。お腹が少々出ていようが関係ない、何たって男は背中です。
元気ってそんな一日20分くらいの身だしなみへの気配りから沸いてくるもんだと思いますよ。
2003年3月9日 昼下がりの電話
先日、体調が悪くて一日家で寝ていました。そして痛感しました、今のニッポン、昼間は寝かせて貰えないんですね。
得体の知れない電話が3回。
【一回目】
「どうも、こちら***センターと申しまして、奥様でいらっしゃいますね(勝手に決めるな)?本日は、ご自宅で簡単にできるデータ入力のお仕事のご案内なんですよ」
「・・・」
「パソコンお持ちですかぁ?」
「はい、一応」
「そのパソコンで簡単なデータを入力して頂く、どなたでもできるお仕事ですし完全出来高制ですから、お時間のある時に安心して自由に働いて頂けるんですよ」
「データ入力ってワードとかエクセルとかですか?」
「はい、で、責任あるお仕事をして頂くためにですね(誰にでも出来るんじゃないの?)、当社の決まりとしてワープロの教材を終了して頂きまして、それからお仕事の登録ということなんです」
「ワープロ打てますから教材なんていりません」
「お出来になると言われましても、当社のクライアントは一流企業さんが多くて(今時、「一流企業」がワープロ入力を外注するか?)、信頼できるスタッフさんが必要なんですね(だったら電話なんかで募集すんな!)」
「めちゃ出来ます」
「は?」
「話すスピードで打てます、ATOKがあれば(ありがとう、ジャストシステム)変換ミスもしません。そんじょそこらのプロの人よりも早くて正確です」
「はぁ・・・」
「一つ質問なんですが、この電話、在宅ワークの募集なんですか?ワープロ教材の売り込みなんですか?」
ガチャン。
【二回目】
「こんにちは!こちら、○○○サービスと申します!(すげぇハイテンション、聞いているだけで疲れる)」
「・・・」
「お宅の換気扇、汚れていませんかぁ?プロのスタッフがお掃除に伺いまして、もうホント、お時間はかからないんですよー、あっという間に新品同様、換気扇のお掃除ってご家庭ではなかなか大変でしょー」
「換気扇の掃除くらい自分でやりますから」
「ご自分でやられるとなると何かと大変でしょー、それにどうしてもプロとは仕上がりが違うんですよー」
「大変なのは私ですから、あなたが心配しなくてもいいです」
「・・・、えー、今、キャンペーン中でして、換気扇お一つ3000円でお掃除させて頂いているんですよー」
「で?」
「は?」
「プロを派遣して3000円というのはどうしたって採算合いません。他で収益を上げなきゃ会社が倒産します」
「・・・」
「換気扇ってことは台所ですから、浄水器の販売と見たのですが、これ、当たってます?」
ガチャン。
【三回目】
「あの、こちら△△△ビジネスと申します」
「で、何?(いー加減、機嫌が悪い)」
「先日お送り致しました当社の資料、お読み頂けましたでしょうか?」
これは知っています。送りもしない資料を読んだかって聞くヤツ、あれ、捨てちゃったかな?って一瞬不安になるこちらの隙につけ込んで・・・
「お読み頂いていないのでしたら、今、お電話でご説明だけでも」(と、こう来る)
「はい、読みました」
「・・・」
「読みましたよ」
「・・・(存在しない資料を「読んだ」と主張されて電話の向こうで凍りついている)」
「読みましたから説明は必要ありません、ついでに内容についても全く興味ありません」
ガチャン。
こっちは体調悪くて仕事休んで寝ているんです、寝かせてくれよぉ。
2003年3月4日 彼らは本当に存在するのか
最初にお断りしておきますが、私は経済音痴です。円高と円安を未だに時々間違えます。1ドル120円が1ドル110円になったら、一瞬、単純に数字だけで「円安」と感じてしまう人間です。内閣府の「何とか白書」の市場動向の分析なんかを新聞で読んでもさっぱり分かりません。
最近、経済記事で「バブル世代」という言葉をよく目にします。バブルの時代に青春真っ盛りで遊んだ世代、彼らは高級ブランド品に身を包み、夜ごとあちこちの盛り場で高い酒を飲み、高い食事をして遊んでいたから、この不景気の下でもブランド品にはお金を遣う、そして子供にも高い服を着せて着飾らせる云々という分析です。大学の先生やシンクタンクの研究員なんかがそうおっしゃるのですから、たぶんそうなんでしょう。しかし、私にはいったい誰を指すのかさっぱりです。
私もバブルの時代をちゃんと生きていました。でも当時だって別に金持ちじゃなかったですよ。企業は大儲けしていたのでしょうが、そこで働く人間の給料が2倍、3倍になったわけじゃありません。不動産や株式に投資しない限り大金が転がり込むことはありませんでしたし、投資したくても投資するお金もなければ投資する知識もありませんでした。その日常は今と変わらず慎ましいものでした。
住んでいたマンションの時価が2倍になったという人は沢山いたでしょうが、2倍になろうが10倍になろうが、そこを売って現金にしない限りそれは数字の上の話でしかありません。それに売ったら住むところなくなっちゃうでしょ。
私も、私の周囲の人も、ごく普通に暮らしていました。そりゃ一点くらいはブランド物を持っていましたし、今でも持っていますが、何十万円もするブランドバッグをいくつも買う人はいませんでした。どうせ一度に一つしか持って歩けないわけですし、普段に持つのは使い勝手で選んだ普通の品でした。長く着る物は高価な物も買いましたが(そして貧乏性らしくせっせと手入れして今でも使っていますが)、一シーズンの流行で終わりそうなものは安物で間に合わせていました。高いレストランで食事をしたこともありました、今でもあります。でも、それは年に数度の「晴れ」の場合であって、普段は当たり前にカレーライスや肉じゃがや焼き魚を食べていました。お酒を飲んで遅くなった時もちゃんと電車で帰りました。第一、終電の時間に帰らないと次の日がつらい。当たり前の生活というのはそうそう変わるもんじゃありません。
「バブル世代」や何とか世代の消費動向を定義する人たちは、いったい誰を見ているのでしょうか?雑誌の読者モデルになるような人のコメントや「あなたの身に付けている一番高価なものは?」なんてアンケートの結果を元にしているのではないでしょうか?
普通の人は「雑誌に載せますから写真撮らせて下さい」と言われれば断ります。だって、どこの誰が見るか分からない、知り合いが見たら何を言われるか分からない、第一めんどくさいって思うのが普通だと思うのです。今日の持ち物で一番高価な物は?なんて尋ねられれば、そそくさとその場を逃げます。そんなこと、アカの他人に言いたくありません。
結局、この手のデータは露出を好む、露出しやすい、そんな特殊な人たちの特殊なデータなんではなかろうか?
高級ブランド品には目がない贅沢好きな「バブル世代」、明日に希望を持てない「若い世代」、生き急ぎ死に急ぐ「団塊の世代」、そんな人たちがいつの時代でも存在することは分かります。しかし、彼らは「世代」として存在しているのでしょうか?人間って何年に生まれたからっていうだけで一つのカテゴリーにくくれるものなのでしょうか?
2003年2月3日 私のメメントモリ
中世のヨーロッパには「メメントモリ」(死を思え)と呼ばれる絵画がありました。大鎌を持った骸骨が描かれた絵です。びっしりと描き込まれた死者たちの群れ、それを睥睨する死神・・・、これらの絵画は食堂に飾られるためのものでした。美味しい料理に舌鼓を打ち、葡萄酒に酔い、和やかに歓談する人々をこの死神が壁から見下ろしていたのです。
悪趣味といえば悪趣味です。しかし、食事という生命を維持する営みの最中だからこそ、「死が待っている」「死神が見ている」というメッセージが重要性を増します。ペストの流行、飢饉、戦争、中世を生きた彼らにとって、死神も彼に魅入られて向こう岸に行ってしまった死者たちも、至って日常的な存在でした。自分もいつか、ひょっとすると明日、あの死者の群れに加わる、だからこそ今日のこの一皿を、最後の晩餐となるかも知れない一皿を大切に味わおう・・・、この命はつかの間のものでしかないのだから。
さて、私にも私の「メメントモリ」があります。さすがに骸骨の絵ではありません。それは、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」。
深夜、おそらくもう12時を回ったと思われる街角、マクドナルドやスターバックスが登場する前のアメリカではどこにでもあった、ありふれたコーヒーショップの光景です。暗い通りでその店だけが無機質な蛍光灯の光をアスファルトの街路に投げかけています。お向かいのビルは、一階の店(何の店か分からないのですが)も、その上のオフィス、あるいはアパートの窓も真っ暗。
店の中のカウンターには4人の人間、白いお仕着せを着て前屈みの姿勢で、おそらくシンクの中のコーヒーカップを洗っているであろう店員、こちらに背を向けて一人で座っている男は、傍らに白いマグカップを置いて本か雑誌を読んでいるようです。カウンターの向かいには、ソフト帽を被った痩せた男と赤いドレスの女の二人連れ、男はタバコを手に、何やら店員に話しかけてる様子。隣の女はと言えば、いかにも退屈そうな表情で、手にした四角いもの(おそらくブックマッチだと思われます)を眺めています。4人とも若くはありません。赤いドレスの女はかなりの厚化粧ですが、深夜ということで、やつれた顔は赤いルージュと濃いアイシャドーが既に滲んでしまっている。
どうしようもなく孤独な風景です。まるで、この町では彼ら4人を残して他の全員はいなくなってしまったかのよう。彼らはこのコーヒーショップに集まって途方に暮れているのかも知れない、そんなSF的な雰囲気もあります。
背中を向けている男:「帰るところがないんだ。家ならあるさ、でも、あそこへは帰れない、なぜって女房の趣味のゴテゴテした花柄の壁紙、ソファーにまで染み付いた安物の香水の匂い、ガンガン響くラジオのトークショー、俺の居場所なんてありゃしない」
女連れの男:「この女、さっきからこちらの話にナマ返事、俺の話なんて聞いていないんだろ?もっとも俺も話したいって訳じゃない。話すことなんてないんだ。間が持たないから、この店員にヤンキースの勝率の話か明日の(いや、もう今日か)天気の話でもするしかないだろ、俺はここで何をしているんだ?ベッドで暖かいミルクを飲んで眠るべきなのに、こんな深夜に不味いコーヒーを飲んでいるなんて・・・」
赤いドレスの女:「この人の話、もうウンザリ。決まりきった答えを期待している決まりきった話、何でこんな話を聞いているわけ?マッチに書かれた宣伝文句とどこが違うの?あれっ?やだ、マニキュアが剥げているじゃない、あぁ、さっさと帰って爪を磨いた方がいいのかしら?でも、あの暗い部屋に一人で帰って灯りをつけるまでの間がイヤなのよ」
店員:「こんな時間まで店を開けていて、売り上げはコーヒー3杯・・・、電気代にもならないね。俺は家に帰りたいんだよ、靴を脱いでスリッパを履いて、ウイスキーのグラスを片手に新聞を読んでさ。この男、何か俺に話しかけているようだけど、これに付き合って粘られても困るんだよな、ヤンキースがどうしたって?あいにくと俺はアイスホッケーのファンで野球は興味ないんだよ」
ホッパーの「ナイトホークス」はシカゴ美術館で見ることができます。そして、そのポスターが私の部屋にあります。孤独な風景、孤独な人間・・・、でも、そこにいる、真っ暗な町の中で唯一明るい空間の中に彼らはいる・・・。孤独を忘れるな、孤独は今ここにある。
このコーヒーショップのドアを開けてカウンターの空いている席に座り、コーヒーを注文する自分が見える時があります。静かな諦観が溢れ、しかし、どこか懐かしい。孤独から逃げたところで行き場所などない、孤独であることに目をつぶったところで孤独は存在する、ならば、孤独を受け入れた上で、そこから始まる人間のつながりこそが、真っ暗な夜を照らす「コーヒーショップ」なのかも知れません。
シカゴ美術館 エドワード・ホッパー http://www.artic.edu/aic/collections/modern/75pc_hopper.html
2003年1月16日 今年もまた成人式
さて、今年もまた成人式です。この行事、最近はほとんどシュールなギャグの域に達しています。毎年毎年楽しい(?)ネタが登場します。
1月15日の朝日新聞の記事、大分県姫島村での成人式で和服姿の女性が出席を拒否されたとのことです。この村の成人式は和服ご法度が伝統なんだそうで、その理由は「貧富の差が出るから」なんだそうです。つまり、和服を買えない家庭もあるだろうから、一律禁止というわけ。
和服を着ているとどうして金持ちなんでしょうか?ヴィンテージ物のリーヴァイス、ロンドンで仕立てたパンクスタイルのジャケット、フランス製オートクチュールの白いシャツ、靴はミラノのオーダーメイド、時計はスイス製のアンティーク、上から下までしめて300万円の「ボロ着」だってありですし、36回の分割払いで買った問屋直売の少々キズありの「振袖」だってありです。
あるいはお祖母さんの形見の花嫁衣裳という大切な思い出の詰まった振袖だってあるでしょう。中学を卒業した時から、成人式には和服を着るんだって毎月毎月せっせと働いて貯金して買った涙ぐましい振袖だってあるでしょう。
「貧富の差が出る」のはいけない、となると、大きな門構えの家やガレージのメルセデスはどうするのでしょう?この村では全ての家に青いビニールシートを被せているのでしょうか?貧富の差はどうやったって出てきます、貧富の差が現実に存在する限り。一生のうちのたった一日、貧富の差という現実を隠したところで、人生の終わりまで貧富の差はついて回ります。
和服を着ている人間を「貧富の差が出るから」と排除する成人式があるのなら、ジーンズにセーターの人間を「貧富の差が出るから」と排除する成人式もありということになります。
買えるから買う、買えるけど買わない、買えないけど無理して買う、買えないから買わない、それはその人の「生き方」の問題であって、他人が、まして強制力を持った行政が口出しすることではありません。成人式は大人になることを祝う行事です。大人というのは、自分の生き方を自分で選択し、それに責任を持つ人間のことです。
敢えて一人だけ和服を着て行こうというのも選択ですし、敢えて一人だけゴジラの着ぐるみで出ようというのも選択です。目立ちたいだけなのかも知れませんが、目立ちたいのも目立ちたくないのも、それぞれの自由です。目立った結果とんでもないことになるかも知れませんが、それは本人の責任です。
衣服は所詮体の上に被せるものに過ぎません。人間国宝が作った和服を着たところで中身の人間が上等になるわけではありません。たとえ盗んだお金であろうが、お金を出せば誰にでも買えます、人間のクズと呼ばれるような人にだって買えます。そんなものにことさら意味を持たせてどうするんです?
憲法が保障しているのは「法の下での平等」です。それ以外は人生不平等だらけです。金持ちもいますし、貧乏人もいます。誰もがブラット・ピットやキャメロン・ディアスとお付き合いできるわけでもありません。いくら努力したって全員が100メートルを10秒で走れるもんでもありません。その現実に気づいて初めて、人は多様な価値観を持てるのです。
何でも好きなモノ着て来なさい、裸でない限り構いません、そんなものでごまかしが効くほど世間はバカじゃないんだから。但し、中身の方は自分次第、今日から自分で責任持ちなさい。これが「成人式」だと思います。
この村の行政担当者さん、貧乏を隠して上げようというあなた方が一番貧乏を蔑んでいるんですよ。そんなあなた方にイタリアのことわざを進呈致します。「地獄の町の道筋は『善意』で敷き詰められている」。