クリックして下さい。それぞれの日記にジャンプします。
HOME
徒然草トップへ
1999年12月11日 数字は怖い
1999年11月27日 本屋が好き
1999年11月13日 うるさい!
1999年10月17日 群れの正体
1999年10月7日 「グロリア、あんたはすごい。タフで、クールで、・・・やさしいよ。」
1999年9月25日 記憶の中のナポリタン
1999年9月8日 温泉は哀しい・・・
1999年8月16日 先のことは分からない
1999年8月5日 「内」と「外」
1999年7月18日 気になる言葉
1999年6月30日 「みんな」って誰?
1999年6月22日 「冷やしてお召し上がり下さい」
1999年6月18日 正しい雨の日の楽しみ方
1999年6月16日 旋律には意味がある
1999年12月11日 数字は怖い
私は算数が全く苦手なので、いつも電卓を持ち歩いています。これがないと、友人と食事をしても割り勘の計算ができないのです。
数字というのは、結構怖いものだなぁと感じることがありました。ヒマな時に電卓を叩いて発見したのですが、最初に1円持っています。次の日にはその2倍の2円、その次の日にはさらにその2倍の4円、そして8円とお金を貯めていったとします。なんと、1ヶ月後には10億円貯まるんですね!倍々計算というのはすごいものだと感心しました。(ちなみに、この計算をするのに私は電卓で30回「×2」をやりました。電卓には、「M−」とか「M+」とかのキーがついているので、どれかをちゃんと使えば、もっと簡単に計算できるのでしょうが、未だにこのあたりのキーの操作が分からないんです・・・。)昔の日本には、「所得倍増計画」なんて言葉がありましたし、バブルの時には土地の値段はそれこそ倍々ゲームで上がっていきました。しかし、電卓の上では、この倍々ゲームというのは、あっという間に行き詰まります。バブルがはじけるのも当然ですね。「何とか倍増!」なんていう言葉をやたらに使う人間には注意した方がいいですよ。どこかの誰かが倍々でお金を得ていけば、やがて世界中のお金がそこに集まることになります。世界中のお金が一カ所に集まれば、もうそれは流通しないわけです。流通しないお金には何の意味もありませんから、その時点で全てただの紙切れになります。
先日読んでいた本で見つけたのですが、神経の伝達速度は秒速10メートルなんだそうです。人間の場合には大きくても2メートルくらいですから、ほぼ一瞬で刺激が伝わります。ふ〜ん、神経の刺激伝達信号というのは速いなぁと感心していたときに頭に浮かんだのがゴジラです。昔見たリメイク版「ゴジラ」での彼(彼女?)の大きさは確か100メートルだったと思います。とするとですよ、彼が尻尾の先を踏んづけられたとします。彼が「イテッ」と感じるのは10秒後です。「尻尾踏まれた〜」と思って、何だ?と尻尾を動かそうとすると、その信号が尻尾に伝わって尻尾が動くのにまた10秒かかります。これ、実際に自分でやってみて下さい。すごーくゆっくりですよ。これではとうてい宇宙怪獣との戦いは無理ですね。いや、宇宙怪獣も同じようにゆっくりだとすると大丈夫ですか・・・。但し、見ている人間にはスローモーションで見えることでしょう。生き物がむやみに大きくならないのには、ちゃんと理由があるんですね。地球上で一番大きいシロナガスクジラは体長が大きいもので30メートルです。神経の刺激伝達に要する時間は3秒、このあたりが限界なんでしょうね。
ある程度以上の大きな数字になると、全然実感がわきません。先日、新聞で、ある団体の指導者が「2億の語彙を修得した」と発言しているという記事を読みました。私には「億」という単位はまったく実感できません。そこで、調べてみました。広辞苑に出ている単語の数は22万です。これには、現在は使われていない古語や固有名詞も含まれます。華麗な言葉を駆使したシェイクスピアの全作品(戯曲も詩も含めて)に現れる語彙は約1万5千から2万だそうです。さて、2億の語彙となるとどうなるのか?ここで電卓登場。2億というと広辞苑1000冊分になります。広辞苑が1000冊ずらりと並んでいる本棚を想像してみて下さい。語彙ではなくて単語だと無理矢理理解して、外国語を計算にいれるとしても(本とbookを別々に2つと数えます)、1000カ国語(世界中の言葉が日本語と同じ単語数を持っていると大雑把に仮定して)を完璧に(その言葉で広辞苑が書けるくらいに)マスターしなくてはなりません。1998年末現在、聖書(世界で最も多く翻訳されている本です)が翻訳された言語数が、2212となっています。その中には、コートジボアールのバオウル語、ガーナのコンコンバ語、旧ソ連のキルギス語、カメルーンのクゥージム方言、エチオピアのアリ方言、そしてバングラディシュのティッペラ方言、コロンビアのシリアノ方言(いったいどんな言葉なのか、まったく見当もつきません)などの言葉があります。1000カ国語というと、これらも含んでいる聖書が翻訳された言語のだいたい半分ということになります・・・。
数字というのは、怖いものです。調子に乗って大きな数字を無責任に使うと、ひどいことになりそうです。
1999年11月27日 本屋が好き
私は買い物が嫌いです。特に洋服を買うのが嫌いです。デパートやブティックであれこれ選んでいると、必ず「親切な」店員が寄ってきて、「こちらの方がお似合い」とか(悪いけれど、こっちはあなたよりもずっと長い間この顔と身体に付き合ってきていますから、何が似合うか、何が似合わないか、教えて貰わなくても分かっています)、「今年はこれが流行で」とか(私はヒトと同じ格好をするのはいやです。それにいくら流行っていてもいらないものはいりません。似合わない物を流行だからと着てわざわざ醜くなることないでしょう?)、「こちらの方がお品物が良くて」とか(お品物が良ければ当然値段だって良いんです。払うのは私であなたじゃない)・・・。そのくせ、材質やサイズ、取り扱いを聞くと知らなかったりして、これはかなり疲れます。頼むから、お願いだから、万引きなんてしないから、少し放っておいてくれ!って言いたくなります。やっと欲しい物を見つけると、今度はお店のヒトがだれもそばにいない、呼べど叫べど来てくれない、これは意図的なものではないかと日頃から疑っています。
そこへいくと本屋は大好きです。自由にあれこれ好きなものを選べるし、店員が寄ってきませんから。考えると、本屋がブティックみたいだったら怖いですね。「お客様でしたら、こちらをお読みになった方が」、「それを読まれるのでしたら、こちらもご一緒に合わせられたら」などとなんだかよく分からないうちに本を押しつけられる、これは身の毛がよだちますね。
理想の本屋は、静かで(BGMもいらない)、棚が適当な高さで、もしも高い場合には要所要所に踏み台が置いてあって、分類がきちんとなされているお店です。例えば、歴史小説と時代小説、ミステリーとホラーがちゃんと区別されている、司馬遼太郎と山本周五郎が、ジョン・グリシャムとスティーブン・キングがきちんと分けてあるお店です。文庫本の場合は数が多いですから、アルファベットあるいは五〇音順に正しく並んでいるお店です。最近は素敵な本屋が少なくなりました。たいていの駅前には本屋がありますが、漫画と雑誌、学習参考書ばかりで、文房具まで置いている店が増えました。これでは普通の本の品揃えは悪くなる一方です。しかたなく繁華街の大型書店に出かけます。大型書店は、場所と時間によってはとても混んでいます。特に新刊本のコーナーが混んでいます(混んでいると言えば、文庫本で一番人が集まるのは、私の見るところ、新潮文庫と早川ミステリーです。この二つを一つの通路に向かい合わせに置いている某大型書店は少し考えて欲しいですね。通路が歩けないし、取って見たい本に手が届かないことが多いのです。)。お店が混んでいる時は新刊書は諦めて古い本を探します。フロアの真ん中あたりで回りを見渡していると、本が向こうから呼んでくれる時があります、こっち、こっちって。こういう時は良い本に巡り会えます。前から欲しくて探していた本、その時の自分の興味にぴったりの本というのは、たいてい向こうから呼んでくれた時に見つかります。一冊も呼んでくれない時もあります。こんな時は文庫本で昔読んでとてもおもしろかった作品を選びます(私は文庫本は原則としてとっておかない主義なので)。
良い本屋さんの近くには良い喫茶店あるいはバーがあるとうれしいですね。買ったばかりの本をめくりながら、ゆっくりとコーヒーを飲む、夜でしたらビールを飲む、これは、ささやかですが、とっても幸せな時間です。音楽は控えめに、できればクラシックの室内楽か静かなジャズ、適当な明るさがあって、隣のテーブルとの距離が程々に空いている、そして、酸味の強いコーヒーかよく冷えた瓶入りのハイネケン(缶入りはなんだか読書と合いません)を出してくれるお店が理想的です。
そんな本屋さんを実は一軒だけ知っています。宝物のような本屋さんです。
1999年11月13日 うるさい!
電車に乗っていて、のべつまくなしにしゃべっている車掌が気になります。あれは勝手にしゃべっているのでしょうか?それとも電鉄会社の方で、こんだけ喋れってことで台本かマニュアルが渡されているのでしょうか?
朝の通勤時間帯が特に気になります。起きて間がない耳が過敏な状態のところに、あの性能の悪いスピーカーから変に鼻にかかった声でまくし立てられると、急速に不機嫌になっていく自分に気づきます。通勤電車に乗っている人間というのは、言ってみればその路線のプロなのです。若い車掌なんかよりもずっと昔からその路線に乗っているのです。座って眠りこけていても、自分の降りる駅がきたらちゃんと体内時計が作動して目が覚めるくらいのプロなのです。そんな人間に向かって、次はどっちのドアが開くだの(通勤のプロは何両目の何番目のドアから降りれば最短距離か計算して乗っています)、揺れるから吊革に掴まっていろだの(人間というのはたいてい転びたくないと思っています。ですから言われなくたって掴まっています)・・・。ラッシュの時間帯というのは自分の吊革を確保することが難しいのです。その時頭上からこれを言われると「うるせぃ!」としか思えませんね。電車の車内放送は、次の駅と乗り換えを正確に簡潔に言ってくれればそれで用は足ります。でも、肝心のこの次の駅というのが結構いい加減なんですね。「次は、・・・(し〜ん)・・・」ってことがよくありませんか。「大手町だろうが、大手町!」と頭の中で突っ込みを入れてしまいます。それから「デイバックなどのお荷物は」と「携帯電話のご使用は」の『他のお客様のご迷惑』系の放送も全く無駄ですね。まともな人間はそんなこと言われなくても分かっています。人に迷惑をかけるなって、小さい頃から100万回くらい言われて育っていますから。この手のことに気がつかない人間というのは、そもそも最初からヒトの言うことなんて全然聞いていません。今言われているのが自分のことだなんてこれっぽっちも思わない人間なのです。周囲なんて全然見ていないのです。バカというのは、自分がバカかもしれないなんて全然思わないのです、だって、バカなんですから。ですから、この放送も単なる騒音に過ぎません。
今の時期ですと、焼き芋屋も気になります。だいたい、焼き芋というのは、ものの弾みでふと買ってしまう商品でしょう。本日は何としても焼き芋5個を購入しなければならない、なんてことはまずありません。車で流して売っているものですから、確実に手に入れることを当てにすることはできないんです。寒いなぁって手を擦りながら信号待ちをしていると、向こうから焼き芋屋がやってくる、あ、なんか久しぶり、食べようかな、とふと思って買うものです。あるいは、家の前の通りを焼き芋屋が通る、ねぇ、食べようか?と言って財布を持って小走りに外に出る、家のすぐ前だからコートなんか着ていない、う〜寒って足踏みをしながら、おじさんが包んでくれるのを待つ、受け取るととっても暖かい・・・そんな食べ物なんです、焼き芋って。最近の焼き芋屋はたいてい車の上に大音量のスピーカーを乗せています。これだと声は聞こえるけど、肝心の焼き芋屋がどこにいるのか全然分かりません。遠くから聞こえてくる音を頼りに何百メートルも車を探して買うなんて、そんなハイテク追撃ミサイルみたいな人間は滅多にいません。ですから、焼き芋屋の声はせいぜい車の見える範囲の人に聞こえればそれで十分で、それ以上の音量は無駄で迷惑です。
この国は、マイクとスピーカーが多すぎます。あれは使用すると電気を使うのです。騒音をまき散らしつつエネルギーを無駄にするのは、もう止めませんか?
と思ったところではたと気がつきました。選挙のある度にもうどっかに行ってしまおうと思うことを。巨大なスピーカーから流れる大音量のぶっちゃ切れ声、無意味な名前と「お願いします」の連呼を。立法担当の指導者と言われる人間からしてスピーカー大好き、マイク命人間なんですね、この国は。静かになるわけないか・・・。
1999年10月17日 群れの正体
用事があって夜の渋谷を歩いていたとき、急に頭の中に「群れ」という言葉が浮かびました。
渋谷の交差点は、人間でいっぱいです。髪の毛の色が金・銀・銅の上げ底の靴を履いた少女たちの群れ、ニットの帽子を目深に被って(あれ、中で蒸れると思うんですが、将来はげないといいんだけど)少年たちの群れ、ダークスーツにネクタイ、片手にブリーフケースを下げたおじさんたちの群れ・・・。上げ底靴の少女たちの群れにおじさんが一人だけ混ざっているということはないようです。もしあったら、これはかなり人目を引く目立った光景でしょう。それは、群れというのは同じ種類同士で構成されるものだということが、誰の中でも確立された定義になっているからでしょう。
小さな魚たちも群れを作ります。彼らもその小さな脳でどう処理しているのか分かりませんが、動作や色で自分と同じ魚を認識しているそうです。回遊するときにはとても大きな群れを構成しますが、これは別に一緒にいたいからじゃないんですね。彼らは全員が安全な群れの真ん中にいたいと思って行動します。外側は捕食者に捕まる可能性が高いのです。全員が真ん中を目指して押し合いへし合いしている結果として、大きな群れが出来上がるというわけです。要するに、それぞれ勝手に自分の身の安全を考えた結果です。
スズメを観察していると面白いですね。近くのお米屋さんの前によく集まっているのですが、こぼれた米を見つけたら、彼らは必ずチチチとさえずって仲間を呼びます。うるわしい友情だのう、と思っていたのですが、これは全くの勘違いでした。散らばった米を一羽だけでついばむのは危険なのです。時間がかかりますし、その間自分だけで警戒しないといけません。でも仲間が集まると、自分の取り分は少なくなりますが、たくさんの目で見張ることができます。自分が下を向いていても、他の誰かが敵を発見してくれますから、安全なのです。大きなパン屑を見つけたときなんかは、スズメは決して仲間を呼びません。自分一人でさっさとどこか安全なところに運んでいって食べます。この場合には短時間で済むので、見張り役は必要ないのです。草食獣が群れを作るのも同じ理由です。大勢でいるからこそ、安心して草をはむことができます。
生物が群れを作る場合には、常にマイナスとプラスを計算しています。スズメの場合には、「餌の取り分が減る」というマイナスよりも「安全に食べられる」というプラスが大きいのです。自分の身を守りたいという「利己的な動機」が、仲間を集め、互いに餌を分け合うという「利他的な結果」を生むのです。
渋谷の交差点は、まるでサバンナの水場のように様々な群れが行き交っています。彼らは何から自分たちを守ろうとしているのか、彼らは何を求めているのか・・・。一人で歩いていた私は、そんなことを考えました。
1999年10月7日 「グロリア、あんたはすごい。タフで、クールで、・・・やさしいよ。」
グロリアが帰ってきました。私は、ジョン・カサベテスの映画が好きです。荒れた不安定なタッチの画像に描き出されるのは、どうしようもなく弱くて哀しい人間なのですが、それに注がれるカサベテスの優しい目がきちんと感じられるところが好きです。彼の作品の中で一番ポピュラーだった「グロリア」が20年ぶりにリメークされて帰ってきました。実はまだ見ていないんです。何だか怖いんですね。昔の恋人と再会するような気持ちです。
マフィアに家族を皆殺しにされた5歳の少年フィルを、なりゆきで連れて逃げることになってしまった中年女のグロリア。彼女は、謎めいていて、自立した、タフな女です。真っ直ぐに背筋を伸ばして一人で生きる人間です。そして子供が嫌いです。フィルはと言えば、さすがにラテンの男、5歳にしてしっかりと一人前のマッチョのつもりです。
子供に迎合しないグロリアが素敵です。ハイヒールを打ち鳴らしながら、お構いなしに大股で歩きます。当然、チビのフィルはチョコマカと小走りについていくわけですが、こちらもグズらないところが良いですね。マッチョな男は泣き言なんて言わない!目玉焼きも作れないグロリア(失敗した目玉焼きはフライパンごとゴミ箱に放り投げた)ですが、ホテルではスーツケースを解いて、きちんとドレスの皺を伸ばします。髪も毎朝きれいにセットします。たとえ逃避行のさなかでも、命を狙われている状況でも、彼女は自分の日常を頑として維持します。この強固な自己こそが、グロリアの魅力です。
アクションシーンが話題になりましたが(グロリアは銀色のリボルバーを握り、きっちりと片手を伸ばした軍隊スタイルで、追ってくるマフィアを撃ちまくります)、これは絶対にラブストーリーです。中年女のグロリアと5歳のフィルは、親子でもないし友達でもない、どう見ても一人の女と一人の男、恋人同士というほかない関係です。つまらないことで喧嘩もします。そして相手がいなくなって初めてその存在の大きさに気づいたりもします。最後近くのグロリアのセリフ・・・「あの子は特別なの。今まで一緒に寝た男の中じゃ最高ね。」・・・ラストシーンで、白髪のカツラを被って変装したグロリアに抱きついたフィルは、そのカツラを掴んで投げ捨てます。これはフィルの「愛の告白」です。そう、フィルにとってグロリアはおばあさんなんかじゃないのです。美しいブロンドの髪をなびかせた大切な恋人なのです。
カサベテスといえば、意外なことに、今世紀最高の歌姫、La Divinaことマリア・カラスと接点があります。自分の映画にカラスの歌うアリアを使いたかったカサベテスが彼女に連絡をとったのです。カラスの答えは「いいわよ、ジョン。100万ドルね。」、「予算がないんだ。ただで使わせてくれないか。」、「ジョン、同じギリシャ人(カサベテスはギリシャ系アメリカ人です)じゃないの。100万ドルちょうだい。」、「同じギリシャ人じゃないか。ただにしてくれ。」、結局話はつかず、彼の映画にカラスの歌声が流れることはありませんでした。私はこの話が大好きです。自分の歌声には100万ドルの値打ちがあると譲らなかったカラス、それに対して、ただで使わせろと迫ったカサベテスも、さすがに低予算インディ映画の父だけのことはあります。どちらもプロとしてのプライドをもって頑張った結果、話がつかなかったのでしょう。カサベテスの映画でいったいどんなふうにカラスの歌声が使われたのか、聞いてみたくてたまりませんが、結局お流れになったことが、この場合には正しい結末でしょう。
さて、リメーク版「グロリア」、見に行ったもんでしょうか・・・
1999年9月25日 記憶の中のナポリタン
突然あるものが食べたくなって、頭の中はそれで一杯、他のことが一切考えられなくなることってありませんか?私は、今日いきなりスパゲティ・ナポリタンにとりつかれてしまいました。昔食べたあのナポリタンがどうしても食べたい!イタ飯ブームなんてどこにもかけらもなかった頃、あまり上等でない喫茶店やドライブインでずるずるとすすったあのナポリタンです。
スーパーマーケットの棚の前で記憶をたどります。材料は、パスタ、ケチャップ、タマネギ、ピーマン、マッシュルーム、そしてハムでした。パスタはなるべく太くて腰がなくて水っぽいのが理想的なわけで、あれこれ迷った末に国内メーカー(この場合、イタリア製だのデュラム・セモリナだのはとんでもない)の一番安いのを選びました。ケチャップも同様、私の記憶の中のナポリタンで使われたケチャップというのは、トマトなんておよそ連想させない代物でした。勿論原料はトマトだったのでしょうが、それにいろいろな添加物が山盛り入って、もうトマトの風味なんて全然残っていない、「私、トマトとは何の関係もありません」というケチャップです。タマネギとピーマンは生ですが、マッシュルームは当然に缶詰。ハムもなるべくまずそうなのを選びました。普段の買い物では、少しでも良いものをと思っているわけですが、本日は少しでも悪いものを選ぶわけです。これがやってみると結構楽しい。
麺はなるべくぐちゃぐちゃがよろしいわけで、「アルデンテ」なんて言葉は忘れます。クッキングタイマーも当然なし。べたべたした仕上がりにするために鍋の水も少なくして、麺を放り込み、ほったらかしにします。ここで、本日の基本方針として「いい加減」を正式に採択。タマネギとピーマンをいい加減にスライスして炒めます。勿論オリーブオイルなんて論外、バターです。今日はダイエットもなし!思い出してみると、タマネギとピーマンは結構ナマっぽかったような気がします。ジョリジョリとした歯ごたえが記憶に残っています。麺はぐちゃぐちゃでもタマネギとピーマンはきちんとアルデンテだったんですね。というわけで、さっと炒めてお終い。ハムを短冊に切って、これもいい加減に放り込みます。この投げやりな感じがいいんだなぁ。
缶詰のマッシュルームは、茶色くて小指の先くらいの大きさ(小ささ?)でいかにも貧相で、こうでなくっちゃという納得のいく代物です。これも放り込んで、さて、十分に茹ですぎた麺をざるに明けます。オイルを絡ませるのは本日は反則ですから、そのまま放置。くっつきたかったら勝手に好きなだけくっつきなさい、という寛容な姿勢が大切です。ざるの中で団子状態になった麺をフライパンに移し、菜箸でグルグルかき回しつつ、塩、胡椒、そして大量のケチャップを絞り出します。さらにグルグルかき混ぜて完成。
一番安いお皿にこれを乱暴に盛り上げます。チーズもタバスコも出番なし。スプーンを添えて食べるのもなし。フォーク一本ですすり上げるのが本日の場合にはマナーにかなっているのです。よって、当然ワインもなし、水道の水をガラスのコップ(酒屋さんでもらった景品)に注ぎます。ずるずると盛大な音を立てて一気にすすり込みます。そして水をごくごく飲みます。一つ残念だったのは、ケチャップの品質がずいぶん向上してしまっていたことです。きちんとトマトの風味がするんですね。次回はこれに少し甘めのウスターソースを混ぜると良い線いくかも知れないな。
あの頃の味をおなか一杯食べて、とても充実した食事でした。そして、ほんの少しですが、タイムトラベルのスリルも味わえました。しかし、これ、病みつきになったらどうしよう・・・。
1999年9月8日 温泉は哀しい・・・
なんか疲れたなぁ、のんびりしたいなぁ、こんな時の日本人には温泉があります。ゆっくりとお湯に浸かって、美味しいお料理とお酒を楽しんで、朝寝坊もしよう・・・こんなことを期待して温泉に行くのは私だけではないと思います。でも、この期待、満足させることは難しいですね。
部屋に通されると部屋係の仲居さんが現れてきちんと両手をついて挨拶をして下さいます。それからお茶をいれて下さいます。私としては、お茶や大して好きでもない和菓子なんてどうでもいいのですが、時代劇みたいな仰々しさでお茶をいれられてしまうと、仕方なしにきちんと正座なんかしてそれを頂くことになります。これ、止めてほしいですね。お茶なんかほしければ自分でいれますから、放っておいて頂くわけにはいかないでしょうか?正座なんかしてお茶を飲みたくない、足を投げ出してビールを飲みたいのです。
やっとこさ仲居さんがいなくなって、やれやれと浴衣に着替えてお風呂に向かいます。手足を伸ばしてゆったりと浸かりたいところなのですが、最近の温泉は温度が高いですね。殺菌のためなのか、長湯防止対策なのか知りませんが、のんびり長時間浸かっているとひっくり返ることになります。で、そこそこに切り上げてしまいます。これも哀しい。
そして、夕食。たいてい食事の量が多すぎます。こんなに食べられるわけないだろうと思うのですが、これも料金のうちかと思ってしまう貧乏人は、無理して食べまくります。結果、美味しいものを頂いたという余韻なんてどこにもありません。なんか必死になって詰め込んだっていう印象だけです。温泉旅館では懐石料理が多いわけですが、私の場合、焼き物の後の揚げ物はきついからパスしたいと思うことが多いのです。事前に献立を見て、これとこれを食べる、というふうにチェックをするようなわけにはいかないものでしょうか?都会のホテルの朝食などでは、卵料理やシリアルをチェックする注文用紙がおいてありますが、是非あれを採用してほしいと思います。
翌日の朝食時間が早すぎます。8時に朝食では朝寝坊ができません。せめて9時以降にしてほしいものです。そりゃ、早く出ていってほしいという気持ちも分からないではありませんが、現代人には朝寝坊もご馳走のうちということを理解してもらいたいですね。それに献立が問題です。朝から焼き魚に茶碗蒸し、卵料理も煮物も、というのは、前夜に食べ過ぎている人間には酷です。結局たくさん残してしまいます。これも哀しい。一つの調理場で別の献立を用意するのが無理であるということは理解できます。コーヒーとオレンジジュースとクロワッサンだけという選択肢を加えてほしいと思います。これなら調理場を増やさなくても可能なはずです。
温泉旅館というのは、日本の誇れる贅沢な文化だと思います。外国のホテルのように、夕食のために着替えをして(女性の場合、せっかくお風呂に入ったのに、お化粧も気合いをいれてやり直さないとなりません)ダイニングルームに出かけなくても、浴衣でくつろいだままで食事ができるというのは、本当に素晴らしいサービスです。だからこそ、もう少し柔軟になってもらいたいと思います。いつまでも変わらない良さ、どんどん変わることの良さ、両方あっていいと思うのです。
1999年8月16日 先のことは分からない
何やら恐ろしいことが起きると言われていた1999年7月も終わり、そのあとで暦の関係で8月半ばまでは7月だという新説(なんかよく分からない)も登場しましたが、それも終わってしまいました。
私が死ねばそれは私にとって「世界の終わり」ですし、私個人にとても恐ろしいことが起これば(車に轢かれるとか、強盗に会うとか、雷に打たれるとか、大金払って買ったオペラのチケットをなくすとか)、それは私にとって十分立派な「恐怖の大王」です。そんなことは1999年でなくても、いつでも起こり得ます。毎日が世紀末であり、「世界の終わり」を孕んでいます。何も今年に限って騒ぐことないと思うのですが。
そういえば、「ハルマゲドンが起こる」と騒いだ挙げ句、自作自演のハルマゲドンを演出して目下裁判中の宗教団体がありますが、あの理屈も不思議ですね。ハルマゲドンというのは聖書に書かれています。ハルメギドという地名(中東のどっかにあるらしい)から来ており、そこで善と悪の最終決戦が行われると書かれています。聖書はご存じの通りもともとユダヤ教の聖典です。旧約・新約の約は契約の約で、ユダヤ人と彼らの神との間の約束のことです。そして、ユダヤ教というのは極めて排他的な宗教です(何しろ神様と契約を結んだ当事者はユダヤ人であって、他民族はその契約から除外されているわけですから)。そこに書かれているハルマゲドンを何で日本人が心配するのか、敬虔なユダヤ教徒が知ったら絶対に怒ると思いますね。契約当事者以外には全く関係がない話なのです。しかも、そのハルマゲドンはとっくに終わっています(ローマ戦争がそうであったと言われています)。どうりで、中東戦争でも湾岸戦争でも、イスラエルの人たちはハルマゲドンと言わなかったわけです。もう終わっているのですから。
人間には先のことは分かりません。分からないから生きていけるのだと思います。何かいいことがあるかも知れない、素敵な人と出会えるかも知れない、つらいときだって、明日こそきっとうまくいく・・・そんなふうに思えるから生きていけるのだと思います。明日は全く未知の世界です。明日何が起こるかは誰にも分かりません。すごく単純なことです。それでいいじゃないですか。私は、占い、予言の類に全く興味がありません。世の中にはそれを生業としている方も多くおられるようですが、本当に未来が分かるのならば、その人は競馬と株で十分生活できるわけで、占い師という職業は成立しないと思います。
先が分からないから希望や期待が生まれます。それを楽しみにしませんか?たとえ、がっかりするような結果であっても、生きている限り、またその次の明日に期待できるわけですから。ありがたいことに、生きている間は明日は誰にでも必ずやってきます。
1999年8月5日 「内」と「外」
いったいどこまでが「内」でどこからが「外」なのか、最近混乱している人が多いように思います。電車の中で一心不乱に化粧をしているおねえさんは、自分の部屋のドレッサーの前にいるつもりのようですし、そこかしこにお構いなしに痰を吐いているオヤジは、これも自分の家のトイレにいるつもりのようです。大股開きでエロ漫画やスポーツ紙のポルノ欄を読みふけっているサラリーマンも多いですね。エロ本やポルノの類は自分の部屋でこっそりと見るものであって、電車の中で口を半開きにして読みふけるものではないと思うのですが。これに拍車をかけているのが携帯電話です。かつての電話は動かせませんでしたから、当然に家の中か電話ボックスの中で使うものでした。せいぜい家族が聞き耳を立てている程度のことで、赤の他人に話を聞かせるなんてあり得ないことでした。今では周り中赤の他人という状況で電話をかけているわけです。全然知らない人に電話での会話を聞かれるということに対する抵抗感というものは、いったいどこに行ってしまったのでしょうか。それとも、あれは聞かせようと思って話しているのでしょうか。しかし、聞きたくない人間はどうすればいいのでしょう?
こんな事を考えると、いつも私はアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を思い出します。孤島の館の中で一人また一人ゲストが殺されていきます。犯人は絶対にそのゲストの中の一人なのです。その島には他には誰もいないのですから。太陽が沈んで闇が迫った時、彼らは断固として一人ずつ部屋に入って鍵をかけるのです。これが「個人主義」なのかと思います。みんなで一番大きな部屋で雑魚寝をすれば、殺される確率は低くなるはずです。交代で(一人だとまずいので、二人ずつのシフトで)不寝番でもすればさらに安全です(もっとも、これでは小説が成立しませんが)。しかし、彼らはそれをしないのです。それぞれの部屋でたった一人で夜を過ごすわけです。結果として次々と殺されていってしまうわけですが、そこには神聖にして不可侵の「内」と「外」という境界線があります。そして、この小説の登場人物たちにとって、それはまさに死守すべきもののようなのです。
木と紙でできた家に住んできた日本人は、全部筒抜けという生活を長く送ってきた、それに対して石でできた家に住み、鍵をかける習慣を持っている西洋文化は、ドアの内と外を厳しく区別してきたからだ、という説を読んだことがあります。でも、今の日本には鍵の文化が既に十分根付いていると思うのです。マンションなんて鍵一つで完全な密室です。なのにどうも違う方向に動いてしまったようですね。「外」からの干渉は拒むけれど、「内」は垂れ流しというのが今の状況ではないでしょうか。自分が今いる場所イコール自分の居間、これでは「外」が存在しようがありません。存在しない「外」に対して何の気配りもしないのは当然ということでしょうか。
ここらで一度、「内」と「外」をじっくりと考えた方がよくはありませんか?
1999年7月18日 気になる言葉
電車に乗っている時、手元にあいにく本がなかったりすると、仕方なく吊り広告に目がいきます。週刊誌のものが多いように思いますが、最近この手のものの見出しが気になるのです。「美人OL殺害」とか「美人看護婦失踪」とか、そんな見出しが多いのです。美人というのは殺されたり、事件に巻き込まれる可能性が高いのでしょうか?それに反して、「ハンサム会社員殺害さる」とか「美男組長射殺」なんて見出しを見た覚えが、少なくとも私には全くありません。そのかわり男性には別の形容詞が用意されているようです。「大物」と「実力派」です。「あの大物俳優が・・・」(実際に読んでみると、名前も知らない人だったりします)とか「実力派社長」(あの〜、世の中には実力がなくても社長をやっている人がいるのでしょうか?だとしたら、その会社お先真っ暗ですよね。)なんかがよく見られますね。要するに女性は容貌、男性は実力、あるいは経済力という区別がなされているように思います。こういう言葉をくっつけるのはもう鬱陶しいので、止めて頂きたいですね。
雑誌の見出しや新聞広告には、これ以外にも気になる言葉があります。最近になってやっと「激」という文字に慣れたせいか(別に慣れたくはなかったのですが、やたらと出てくるんです、これが。)イライラしなくなりましたが、これも私には気になります。私は、この文字の持つ禍々しい字体、文字の表情というものが好きではありません。「激安」、「激辛」(この二つは変換してみたところ候補にありましたから、私の知らないうちに市民権を得ていたようです)、「激ウマ」、「激愛」・・・。やっとこれらに慣れたと思ったら新手が登場しました。「爆」です。「爆安」という文字を広告で見たときは、頭がクラクラしました。だいたい全く意味不明ではないですか。「激安」ならば「激しく安い」(日本語として変ですが)という意味が辛うじて(不愉快ながらも)伝わりますが、「爆安」って何です?つい昨日、また新しいのが出てきました。「爆誕」です。もうこうなると、全く意味が分かりません。
このままエスカレートすると、いったいどうなるのでしょうか?普通に「大安売り」とか「特価」などと書いてある広告を見ると、かえって清々しさを感じるようになってしまいました。これで十分意味は伝わると思うのです。
1999年6月30日 「みんな」って誰?
電車の中で高校生らしい男の子二人の会話を聞きました。「だって、みんな、それで怒っているんだぞ。」、「みんながそうだって言ってんだから。」、細かい内容は分かりませんが、こんな会話が聞こえてきました。よくある会話ですから、そのまま手にした文庫本を読み続けていたのですが、急に気になったのです。「みんな」って誰だろう?
この言葉、よく聞きます。でも、考えるとおかしな言葉ですよね。「みんな」・・・それは全人類を意味するのか、日本人全員を意味するのか、あるグループの構成員全員を意味するのか、それとも誰かと誰かと誰か、たった数人だけなのか。一番気になるのは、「みんな」の中にそう言っている当人が含まれるのか、ということです。「私はこう思っている。」なら分かるのですが、「みんながこう思っている。」となると、その人がそう思っているのかどうかがとても曖昧になります。「みんな」というのは意味の通りですと「全員」ですから、当然にその人も含まれる、というのが正しい解釈なのでしょうが、そうは聞こえないのです。たまたま聞いた話だから伝えている、私は聞いたことをそのまま伝えるだけ、こんな雰囲気がありませんか?「みんな」と「私」の間に、はっきりと距離を置くのが感じられるのです。
これがうれしいことならば、「みんな」ってほんとうに素敵な言葉だと思います。「みんな、あなたのことが好き。」、「みんな、とても喜んでいる。」、厳密に言えば、一人や二人、好きじゃない人も、喜んでいない人もいるのでしょうが、「みんな」と言った方がずっと素敵に聞こえますし、いいことなんですから、少々誇張しても誰も傷つきません。聞くほうだってずっとうれしいでしょう。問題は、ネガティブな話の場合です。「みんな、あなたが嫌い。」、「みんな、とても怒っている。」・・・言われた方は打ちのめされると思うのです。だって、「みんな」なんですよ?全員なんですよ?これほど人を孤独にする言葉もないと思います。これほど無責任な言葉もないと思います。その時、そういった本人の意思が明確ではないからです。そういった本人が逃げているからです。
この言葉をもっと慎重に使おうと思いました。とくに、いやな話の時には。きちんと自分の責任で、「私は(あるいは私と誰かさんと、誰かさんとは)あなたが嫌い。」、「私はあなたに怒っている。」、こう言わなければならないと思いました。言葉で相手を傷つける場合には、それが追いつめられての自己防衛であれ、悪意に満ちた時であれ、自分の責任で言う、これは最低の礼儀でしょう。
「みんな」というとてもきれいな言葉は、使い方によってはとても卑怯な凶器になりますね。
1999年6月22日 「冷やしてお召し上がり下さい」
スーパーマーケットの果物売場を歩いていて、足が止まってしまいました。4分の1にカットした西瓜を売っていたのです。その西瓜の上にシールが貼ってありました。「冷やしてお召し上がり下さい」。これは何だ・・・思わず考え込んでしまいました。
西瓜って冷やして食べるものではないのですか?冷蔵庫に入れて、冷蔵庫ができる前の人たちだって、井戸に吊したり、川の流れに漬けたり、何とか冷やして食べようとしてきましたよね?だって、冷えている方がうんと美味しいわけで、誰だって同じ食べるなら美味しい状態で食べたいと思います。冷やすなと言われても冷やして食べるものなのです。だとすると、このシールは何だ?
考えられることは、スーパーマーケットの方で、「何も書いてないから冷やさないで食べたら美味しくなかった」という苦情を予防しているということです。ほんとうにそんなことを心配しているのですか?もし万が一そんな苦情を言う人がいたとしたら、その人は単なる「バカ」なのですから、放っておけばいいんです。そんなことを心配している方がどうかしています。次に考えられることは、あらかじめ冷やして売っている(アイスクリームのように)と思いこんだ人が、自分の家の冷蔵庫で冷やさないで食べてしまう場合。でも、その西瓜が冷えているかどうかは、触れば分かることでしょう。そして、全く触らないで西瓜を家まで持って帰り、そして食べるということはかなり大変な作業だと思うのですが。
西瓜は普通は冷やして食べます。でも、世の中には西瓜は暖かいのに限ると思っている人だって、ごくごく少数だとは思いますが、存在するかも知れません。そんな人は勝手に暖めて食べればいいんです。だいたい、自分のお金を払って買った西瓜をどうしようと、その人の自由ではないですか。冷やしてもいいし、暖めてもいいし、トマトソースで煮込んでも、醤油と味醂で照り焼きにしても、そんなの勝手じゃないですか。みんな、自分の一番良いと思う方法で食べればいいんです。いったいいつから、こんなことをわざわざシールを作って貼るようになったんですか?このシール代がなければ、西瓜、少しは安くできるのではないですか?
ありふれた、いつものスーパーマーケットの光景が、なんだか急に薄ら寒く感じられました。
1999年6月18日 正しい雨の日の楽しみ方
東京では、やっと梅雨空が戻ってきました。今日は朝から雨模様です。雨というと、うんざりという人が多いと思いますが、私は雨が好きです。雨はその下にある全てのものをきれいに洗ってくれますから。今日は、雨の日の楽しみ方についてです。
今日は雨か・・・朝、目覚めてそうと分かったらすぐに起きましょう。雨の日に大切なのはゆったりとした時間を保つことなのです。いつもよりも少し早めに家を出ましょう。いつもの通りをいつものように歩いて駅に向かいます。ここが大切、急いではいけません。ゆっくりと歩きましょう。時間のことを気にするのを止めましょう。道路のアスファルトが今朝はきれいに洗い流されています。足下の感じが違うでしょう?そんなことを丁寧に感じながらゆっくりと歩きましょう。雨の日には決して急いで歩いてはいけません。傘をさしたまま急いで歩くとトラブルが向こうからやってきます。すれ違う人がいたとしたら、一歩引いて「さぁ、どうぞ」と道を空けましょう。そのために早起きしたんですよ。あなたの時間はまだまだ大丈夫ですから、ゆとりを持ちましょう。街路樹の葉が音楽を奏でているのが聞こえますか?彼らは雨を歓迎しています、雨を喜んで飲み干す彼らの喉を感じて下さい。信号で待ちますか?いいですね。雨の日の信号はいつもとは色が違っているんです。赤、黄、青、よく見てご覧なさい。普段よりも水分の多い空気を通して見ると色が違うでしょ?これも雨のお陰ですね。信号が変わってさらに歩きます。踏切ですか?音を聞いて下さい。カンカンカンという例の音です。すごく柔らかく響くでしょう?これも雨のお陰です。あのイライラした音と同じ音とは思えないでしょう?水が何もかもを柔らかく変質させるのです。音・・・そういえば、道路を行き交う車のエンジン音もいつもと違ってまろやかですよね。水は音を優しく包み込んでくれるんです。ゆっくりと歩いて駅につきました。傘をたたんで辺りを見て下さい。どぎつい赤を使ったサラ金の看板も、ファーストフードの店の看板も、いつもより優しいでしょう?雨がそうしてくれたのです。今日は雨でよかった・・・そう思いませんか?その幸運を他の人にも分けて上げましょう。傘を静かにたたんで、ホームに出ましょう。優雅に、静かに、でも背筋を伸ばして。あなたの幸運はきっと他の人にも伝わります。だって、雨はみんなの上に同じように降っていますから。
1999年6月16日 旋律には意味がある
街を歩いていて、不意に耳に飛び込んできた旋律に気持ちが乱れることってありませんか?「音」ではなくて「旋律」が問題なのだと思います。単なる音は耳から入ってそのまま抜けていってしまうので、大して気にならないことが多いのですが(もちろん、とても大きな音や不快な音は気になりますが)、旋律は脳にしっかりとメッセージを伝えますよね。うれしい、悲しい、楽しい、苦しい・・・。音楽は感情の表現の一手段ですから、これは当然のことです。街に溢れている旋律が最近とても気になるのです。いきなりヒトの脳に一方的に特定のメッセージをねじ込むのは、とても失礼なことではないかと思うのです。さぁ、この旋律を聴いて下さいと言われても、その旋律の気分じゃないヒトはどうすればいいのでしょう?今はレクイエムの気分というヒトの耳にレゲエをねじ込むのは暴力だと思います。ざるそばを食べたいと思っている人の口に無理矢理ピロシキを押し込んだとしたら(まぁ、こんなことはないと思いますが)、これは立派な事件でしょう。
先日、信号待ちをしていた交差点で少し離れたところにあるブティックから辺りを震わせる大音量のロックが流れていました。その旋律から私が受け取ったメッセージは「激しくて真っ黒」というものでした。きっとそのお店で売っている服は「激しくて真っ黒」な服で、そのお店では「激しくて真っ黒」な装いをしたい人たちが買い物をするのでしょう。でも、それと信号待ちをしている私とは全く関係がありません。そのお店は小型のスピーカーを外に向けて設置していました。最近こんなお店が増えているように思います。繁華街ですと、時には複数の旋律があちこちから聞こえてきて、頭がグラグラするときがあります。
旋律には意味があります。メッセージを押しつけるのは止めて下さいと言いたいですね。せめて、脳の片隅をかすめていくくらいの音量にして頂けないでしょうか?