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2008年12月22日 下がる
2008年10月9日 食べづらい
2008年8月1日 東京タワーの下で
2008年6月20日 御飯
2008年4月24日 JTの明日
2008年2月17日 海月くんと海星ちゃん
2008年1月31日 「ケータイ小説」




Leaf2008年12月22日 下がる

 今年はいろいろなものが「下がった」一年だったように思います。

 年の瀬が近づくに連れて、株価が下がって、地価が下がって、賃金が下がって、消費が下がって、円は上がっているわけですが、私はアホなので、1ドル=100円が1ドル=88円になると、一瞬、下がったって感じてしまう人間です(その後、ちゃう、上がってんだって訂正するのに1秒ほど要します)。で、全部ひっくるめて景気が「下がった」と。

 麻生総理の支持率も下がりました。総理の座に着いた途端に、まだ何もやっていないのにいきなりの「悪口」でしたもんね。一流ホテルのバーで酒飲んでると連日のように報道されましたが、これってわざわざニュースにせんといかんようなことだったのでしょうか?ホテルのバーなら私だって時々使います。あそこは年中無休だと分かっていますから、人と待ち合わせするのに便利なんですよね。それに、トイレは広くて清潔ですし、バーテンダーやウェイターはちゃんと訓練されていますし、酔っ払いに絡まれてもセキュリティ要員もばっちりおりますし、いざとなればホテル・ドクターだっていますし、何かと安心な場所だと思います。それに女の人が侍るようなところと違って、そこそこの銘柄を飲んでいる分には、その使い勝手の良さの割に経済的です。「ホテルのバーで飲んでいて庶民の気持ちが分かるのか」という論調が多かったように思いますが、一国の総理大臣が「庶民」なわけないでしょ?「庶民の生活を理解する」と「庶民として生活する」をイコールで結ぶ思考方法が私には理解できません。この思考方法でいくと、良いミステリーを書くには人を殺さんとならん、時代小説やSFはどうすりゃ良いんですか?
 で、支持率が「下がった」わけですが、この場合は、「俺たちが下げた」が正しいと思います。

 その「下げた」マスコミですが、先日たまたまつけたテレビで、延々と漢字を読むことをやっているクイズみたいな番組を放送していました。どう見ても任天堂DSの脳トレゲームのレベルのものを、公共の電波に乗せて商売しようというのは、厚かましいというか、情けないというか、怠惰というか。何でもいいから放送しないといけない、でも、金もアイデアもやる気もない、そんな「貧」のイメージを感じます。2011年、こんなのをわざわざデジタルで見る意味があるのでしょうか?

 定点カメラで海をずーっと映すとかの方が見ていて楽しそうです。台風の時に延々とどこかの漁港や灯台が映っていることがありますが、あれ、結構楽しい。波や空ってずーっと見ていても不思議と飽きないんですよね。各地の駅前中継をひたすらリレーするというのも是非やって欲しい。JRや私鉄の何とか線の各駅前にカメラを置いて、その風景をBGMもナレーションも無し、町の音だけ拾って映していく。幼馴染みがカメラの前を通るかも知れない、駅前の書店がコンビニに、喫茶店がコインパーキングになっちゃっていたり、毎日乗った路線バスが懐かしい行き先表示を掲げて出ていく、毎朝聞いた学校の始業のチャイムが遠くから聞こえる・・・。故郷や思い出のある土地だったらたまらなく甘酸っぱい、帰ろうかなって思う、知らない土地ならワクワクする、今度訪れてみようと思う。「貧」を通り越した先の「清」の感覚があって楽しそうだと思います。

 テレビ局と新聞社の赤字決算が話題になりましたが、そりゃそうだよなと思います。「貧」の番組もともかくですが、連日、「不景気だ」「将来が不安だ」「ものが売れない」と連呼しているのに、CMはどんどんやってくれってどこかおかしい。自分たちだけは例外なんてあり得ませんよね。
 人員削減を実行すれば、マスコミは本社前に陣取って延々と社屋とロゴを映します。全国ネットでこれやられたらもの凄い「負」の宣伝になってしまいます。私が会社の偉い人なら、広告宣伝費を削って人件費に回して雇用を維持します。どれほど素晴らしいCMを流しても、その後に「非情!リストラ加速!」とか真っ赤な太字のテロップ入りで流されたら、何にもなりませんもんね。

 そもそも、テレビや新聞のCMってどれほどの効果があるのか、正確に測定できているものなのでしょうか?ネット広告であればすぐにクリック、その場で購入できますから、効果の測定は簡単でしょうが、テレビCMを見てその場で買いに行く人はまずいません。「ふーん」で終わっているような気がします。企業のイメージアップのために、高いお金払って、一流スタッフ集めて、海外ロケして、短編映画並みのクオリティのCMを作ったとしても、その前後にパチンコ屋と消費者金融のCMを流されたら、泣きたくなると思います。CMの効果がはっきりと分かるのは通販番組だけでしょう。
 ところで、全く関係ありませんが、某通販番組のあのテンション高い社長さんを見ていると、黒っぽい短毛の雑種の犬がずぶ濡れになってヒャンヒャン啼いているように感じるのは、私だけ・・・でしょうね。

 新聞の折り込み広告も減っているようです。私はあれ資源ゴミに出す時に面倒くさいので、販売店に頼んで広告抜きにしてもらっています。マンションにもパチンコにも興味ありませんし、スーパーのチラシは店頭で見れば済みますし、最近の広告はツヤツヤ紙で両面印刷なので、メモ用紙にもなりませんし。新聞といえば、この前配達の人に聞いたのですが、最近は新聞を取らない家が増えていて、配達地域がすごく広くなってしまっているのだとか。一軒入れたら次はうーんと先、という状態なのだそうです。朝の電車でも携帯でニュースを見ている人が多い、新聞を読む人はずいぶんと減ったように思います。

 今年一番「下がった」もの、それは「マスコミ」だと私は思います。


Leaf2008年10月9日 食べづらい

 夏の間のスタミナ食といえば「鰻」ということになります。私も大好きですが、鰻はたまに食べるのが美味しい、毎日食べればすぐに飽きてしまう(毎日食べたことありませんが、たぶんそうだろうと思います)。聞いたところでは、鰻屋さんはアルバイトのための賄い食で苦労するそうです。鰻料理ばかりでは飽きてしまってすぐに辞めてしまうからです。でも、食材は鰻しかないし、厨房の端っこでカレーや焼きそばを作ったりしたら、鰻のたれと匂いが混ざって営業に支障を来たしそうだし。最近では賄い食は出前という鰻屋もあるそうです。
 もう一つの夏のスタミナ食は「シジミ」です。こちらは毎日でも全然飽きない、シジミの味噌汁なら毎日、毎食、美味しく飲めます。特に夏の土用シジミと冬の寒シジミは栄養たっぷり、私のように酒を好む人間は、お椀の中のシジミに思わず「頼んだぞ!」と語りかけることもしばしばです。

 スーパーの鮮魚売り場で、粒が大きくて真っ黒でツヤツヤのヤマトシジミを発見した時は嬉しいです。パックのシジミを全部一度に味噌汁にしてしまうと、何回かに分けて煮返しを飲むことになりますが、味噌汁は作りたてが断然美味しい。よって、買ったシジミの量によっては2、3日の間、シジミを「飼う」ことになります。ボールに水を張って砂抜きをして味噌汁にします。残ったシジミたちは翌日のためにボールの水を換えておきます。これ、翌朝見ると皆して白いベロみたいなの(あれ、「足」だそうです)出して元気良いんですよね。水を換えるといっせいに足を引っ込めて、しばらく見ていると、また恐る恐る出してくる、あの恐る恐るって感じが面白い。さっと最初に足を出すおっちょこちょいもいれば、いつまでたっても様子見の気の小さいのもいます。
 さて、このシジミ、当然、また味噌汁にするわけですが、煮立った鍋の中に投じるのは、おっちょこちょいにするか、小心者にするか、ここで悩んでしまいます。何だか眺めているうちに情が湧いたというか、可愛らしく見えてきたというか、おっちょこちょいとか小心者とか、個別に特徴を認識した時点で、食材からペットに近づいてしまうわけです。で、またボールに戻して水を換える、これを繰り返してしまうと本当にペットになってしまいますので、次回、もう、えいって全部鍋に投入、思わず合掌、出来上がった味噌汁は美味しいのですが、お椀の中の「死屍累々」がちょっと辛い。

 最近、スプラウトという野菜の新芽を売っています。透明なプラスチックパックに白いウレタン素材のマットが敷いてあり、その上に蒔かれた種から小さな新芽が伸びている。先日、ブロッコリーとマスタードのスプラウトを買いました。しゃきしゃき感があってクセの強そうなマスタードをポテトサラダに混ぜて、残ったブロッコリーのパック、マットの上に水を足して、冷蔵庫に入れると萎れてしまいそうですので、日当たりの良いテーブルの上に置いておきました。
 翌日、見てみると、たった一日なのに数ミリ伸びている、それも個体差がちゃんとあって、昨日はきちんと同じ長さだったのに、今日は背丈がばらついている。このちっこいのは日当たりが悪かったのかな?などと余計なことを考えてしまって、パックの向きを変えます。翌日、ちっこかったのが伸びて、大きかったのは更に伸びて、伸びる方向もバラついてきて、それが嬉しい、なぜか嬉しい。よし、とまたパックを回転させて、さらに翌日、おぉ、皆パックから葉っぱを外に広げて元気よろしい。こうなると、根っこに包丁を入れて食べるより、栽培する方に興味が移ってしまいます。しかし、これ、放置しておいたらブロッコリーになる・・・よな、ブロッコリーの芽なんだから。そんなに大きくなったら困る、食べなきゃ、洗ってサラダにします、育った分だけ固くなってしまい、食べ頃ってあるよなぁ、だいたい、野菜を買ったのであって、観葉植物買ったわけじゃないんだから、ちょっと反省します。

 しかし、2、3日「飼った」からって食べづらいようでは、自給自足の生活など到底無理ですね。昔の人の話では、庭先で飼っていた鶏や兎、たとえ子供でもペットではなく食材とはっきり認識していたし、自宅でさばいて調理して食べるのに何の違和感もなかったということです。食べるために飼っているのですから、それが当たり前ですよね。

 これは友人の話なのですが、子供の頃、魚屋の店先のドジョウがどうしても欲しくて、母上に散々ねだって買ってもらったんだそうです。家に帰った彼女は、ポリバケツをきれいに洗ってドジョウを飼う用意をしていたところ、その夜の食卓にささがきゴボウと一緒に卵でとじられたドジョウが現れて、大泣きに泣いたそうです。でも、ドジョウは美味しかったとかで(今でも時々食べるそうです)、涙ボロボロ、うぇっ、うぇって泣きながら柳川のドジョウを食べているところを想像すると、これは結構かわいいです。

 少し話は変わりますが、以前、海外旅行のお土産に陶器の皿を頂いたことがあります。色違い二枚で、一つは黄色い地に白い鳥の絵、もう一つには青い地に茶トラの猫が描かれていました。で、鳥の模様の皿には何でも盛れるのですが、猫の模様の皿に熱いもの、ソース料理やシチューを盛るのに少し抵抗が。だって、猫が火傷しそうで。私の感覚では、鳥はペットより食材に近くて(「鳥、好きですか?」って訊かれたら、私は、インコやオウムではなく、鳥肉料理のことだと思います)、猫は完全にペットということです。この皿、いちいち熱いから鳥、冷たいから猫と使い分けているうちに面倒になってしまって、食事に使うのは止めて、机の上に置いて買い物のレシートとかペーパークリップとか予備の単三乾電池とか、そんなものを放り込んだりして使っていたのですが、ある日登場した友人、「灰皿ある?」「その上の皿使って」、彼女、猫のお腹の部分でタバコを揉み消しました。鳥の方は白いから汚したくなくて、だから茶トラの方を使ったそうです。彼女の場合は、鳥と猫ではなく、色によって抵抗感が違ったというわけです、なるほどね。


Leaf2008年8月1日 東京タワーの下で

 東京タワー、私、一度も上に登ったことがありません。何度も何度もその下を歩いているのですが、登りたいという意欲が湧いたことがない。私にとってあのタワーは「下から見上げる」ものであって、「登る」ものではないようです。見上げるのは大好き。

 その東京タワーの下にその店はあります。小さなフランス料理の店です。レストランとビストロの真ん中あたりという気楽な店です。上から下までのガラス戸が表に面しているのですが、間接照明のおかげで外から中が見えづらいのが嬉しいです。食事しているところを他人様に見せる趣味は私にはありません。そのガラス戸は細い木の枠に薄い素通しのガラスがはまったもので、大風が吹けばかたかたと震えそう、大雨が降れば桟から水が滲みそう、そんな繊細さが美しい。そして、いつだってピッカピカに磨かれています。
 床は昔の小学校の床みたいな寄木です。たっぷりと使い込まれていて、艶々に磨かれていて、細かな傷がたくさんあって、歩くと実に気持ちのいい音がします。壁は赤煉瓦、目地がうっすらと珈琲色に染まっています。全てが程よく使い込まれていて、初めて入った時から妙に懐かしくて、「やって来た」というより「帰ってきた」という気分になります。

 お料理は、2000円台から8000円台までのコースの他にアラカルトがいくつか。洗練されているとは言えませんが、すごーく真面目です。全部きっちりと基本通り、工夫が足りないと言えばその通りでしょうし、田舎臭いと言われればそうかも知れません。でも、真面目さがしっかりと伝わって心地よい。

 狭い店内はテーブルが8席のみ、フロアを一人で仕切るのは、今は「健気」という感じですが、あと何年かすれば「いなせ」になりそうな若い女性です。愛想はそこそこですが、こちらも真面目、キリリと束ねたナチュラルな黒髪が男前な雰囲気です。

 テーブルについて、まず生ビールとソーセージを頼みます。この生ビール、冷え過ぎておらす(日本の店はビールを冷やし過ぎるところが多いです)、クリーミーな泡がちゃんと上から20%、テーブルに届いて10秒くらいでグラスが汗をかき出すという理想的なビールです。あの真面目な彼女が真面目な顔して注いでくれたので、ビールも真面目です。このままCMに使えるくらい姿勢がよろしいです。ソーセージ、これも真面目です。低い温度のフライパンでじっくりと温められていますので、皮はどこも弾けておらず、ナイフを入れると溢れる脂の温度も理想的。ソーセージって冷たいのは論外ですが、熱すぎても美味しくないんですよね。

 コースは魚料理を選びます。スズキのポワレをトマトのソースで。お皿からつーんと立ち上るバジルの香りが食欲をそそります。スズキの皮がパリッと香ばしく、付け合せのジャガイモとインゲンも熱々。もっと凝ったソースはたくさんあるでしょうが、お皿の上で正座しているような律儀さがうれしい。
 サラダ、こちらも何の衒いもなく、ほうれん草にルッコラ、エンダイブ、プチトマト、これにオリーブオイルと酢と塩のドレッシングがかかっているだけ。ドレッシングの塩加減がお見事です。サラダって塩が多いと野菜からどんどん水が出てしまうのですが、ここのサラダは最後までしゃきっ!野菜がどれも元気です。バケットもちゃんと熱い。バターが自然と溶けていく温度がうれしい。

 白ワインを頼みます。高いワインは置いていませんが、手頃な価格のアルザス産の美味しいのが揃っています、勿論、シャブリも。今夜はシャブリを頂きます。口当たりが優しくて、適度に重くて、温度も理想的。白ワインの温度は、冬、水仕事を終えたばかりのお母さんの手のように、最初ひやっとして、でも、すぐに暖かみが伝わってくる、そんな感じが私は好きです。

 食後には紅茶を。真っ白な薄いカップに琥珀の色が美しく映えます。

 外へ出ます。目の前にはライトアップされた東京タワー、影が濃い分だけ昼間よりも高く大きく見えます。一度くらい登っておくべきなのかなぁ、でも、登ったらタワー見えないもんなぁ・・・。この店を出て歩道から見上げる東京タワーが、私は一番好きです。


Leaf2008年6月20日 御飯

御飯(ごはん):めし・食事の丁寧な言い方。なるほど、で、めしとは、
飯(めし):穀類、特に米を炊いたもの。毎日、時を定めてする食事。

 日本人は、ただの白飯も御飯なら懐石フルコースの食事も御飯と言います。「御飯ですよ」「そろそろ飯にしよう」と言う時、真っ白い飯だけ食べるんだと考える人はいませんし、その食事だってサンドウィッチだったりラーメンだったりするわけですが、それでも日本人にとって食事とは即ち米の飯なのです。例えば、食事にしましょうと言う場合、アメリカ人は「トム、
breadですよ」とか「そろそろrollにしよう」は言わないでしょうし、イタリア人は「カルロ、spaghettiですよ」とか「そろそろpenneにしよう」とは言わないでしょう(と思う)。しかし、日本人にとっては、食事をすることは炊きあがった「米の飯」を食べること、たとえそれが米の飯ではなくても、御飯(食事)=御飯(米の飯)なんですね。何しろ美味しいもんなぁ。

 このところの炊飯器の進化はすごいらしいです。IHとか圧力とか、中で何がどうなっているのか、私にはよく分からないのですが、お値段も8万円、9万円するものがドンドン売れるとか。美味しい米の飯は日本人の財布の紐を緩めてしまう魔力を秘めているらしいです。しかし、9万円は高いよなぁ。

 そして、私が出会ったのが、この土鍋です。普通の土鍋と違って炊飯用の二重蓋構造、噴きこぼれないし、蓋の縁を塞がなくても大丈夫、これだけでホカホカ御飯が上手に炊き上がります。炊飯器みたいに保温は出来ません、でもね、フランス人はパンの買い置きはしないし、イタリア人は宵越しのパスタは食べない、主食にちょっとした手間を惜しまない、それって、食べることの基本だと思うのです。だって、ほら、「御飯」ですから。



 二重蓋はかなりしっかりした構造、ころんとした艶消しの黒で丸っこい形に愛嬌があります。



 炊き立て艶々の御飯、これを見て興奮しない日本人はおりません。



 魅惑のおこげ、これで握る塩むすびは絶品です。

 炊き方は至って簡単、米を研ぎ、30分水に浸します。で、中火で10分炊いて、火を落として15分蒸らす、これだけ。ずーっと中火、「初めチョロチョロ何とかかんとか」は忘れて大丈夫です。これだけで、立派なオコゲつきで艶々御飯が炊き上がります。これが美味い!もう、一個の卵、一切れの明太子があれば、いえ、塩むすびでも十分美味しい、日本人なら誰にでも幸せな食事が約束されるのです。これでこの土鍋、お値段千円でお釣りが来ます。9万円あれば約90個買えます、毎月一個ずつ割ってしまっても8年もちます。8年の間には炊飯器はずいぶんと進歩するでしょうが、こちらは進歩もへったくれも、弥生時代のまんまです。

 電気やガスの炊飯器に比べれば時間がかかりますし、保温もできません。忙しい朝、お弁当を作ったりするにはちょっと無理があるでしょう。でも、時間にゆとりのある夕食、そして休日の朝、この土鍋でゆっくり御飯を炊くのは本当に楽しい。勢いよく上がる白い湯気が静かな透明の湯気に変わり、グツグツと低音で歌っていたのがチリチリと高音で歌い出し、漂ってくる匂いが微かに焦げ臭くなってきたら、火を消して蒸らします。時計をチラチラと見ながら料理を作ります。季節の野菜をささっと和えたり、旬の魚を香ばしく焼いたり、コロコロの肉をたっぷりの出汁で煮含めたり、生卵を割りほぐしたり、納豆をかき回したり、海苔をさっと炙ったり、タクアンをざくざく切ったり、味噌を溶いたり。キリリと生姜、ぴりっと山椒、ツーンと山葵、あぁ、米ってすげぇな、こんなにいろんな食べ方があって、それが全部美味しい、これって反則だろ?そんなこんなで15分はあっという間です。

 炊飯器をケチっておきながら何ですが、もっと美味しく炊こうという欲望が膨れあがって制御不能に陥り、実は浄水器を新調してしまいました。やはり、米の飯には魔力があるようです。


Leaf2008年4月24日 JTの明日

 「たばこ購入者の成人認識を行う自動販売機用ICカード「タスポ」が5月から21道県に導入されるが、現在の利用申込者は喫煙人口の8%にとどまり、自販機の売上高減少などの影響が広がりそうだ」(2008年4月17日 読売新聞)

 今年、タバコの自販機が劇的に変わるらしいです。この「タスポ」(「タバコ・パスポート」の略なのかな?)というカードをかざさないと自販機でタバコが買えなくなる。自販機天国の日本ですが、中でもタバコの自販機は、何というか手間と経費のかからない「いい子」という印象があります。中身のタバコは軽いから詰め込み作業も楽でしょうし(うちの近所の酒屋さんの自販機では、毎朝お婆ちゃんがやっておられます)、飲料みたいに冷やしたり暖めたりしなくていいから電気代も安い。そこへ登場したこのタスポのおかげで、タバコ自販機一台当たり15万円以上かかってしまう事態なのだそうです。そのタスポが普及しないとなれば、この15万円を回収するのは薄利多売の自販機の場合、かなり難しいことになります。

 買う側から見て、このタスポを入手するにはどうすればよいのか?タバコ店で申込用紙を入手する→本人確認書類(運転免許証、各種健康保険証、住基カード、年金手帳住民票等々)のコピーと3ヶ月以内に撮影した顔写真を用意→申込用紙に記入して写真を貼って判子押して郵送→2週間程度で配達記録郵便で自宅に届けられる、となっております。面倒くせぇ、たかが自販機でタバコ買うのにンなことするんだったら、普通にコンビニやあのお婆ちゃんからカートンで買う、そう考えるのが普通のオトナってもんでしょう。
 タスポをピッとかざす時、自販機から取り込まれる情報はどこへ行くのでしょうか?こいつ本日二箱目とか、いつもの銘柄じゃないっすよとか、一箱目は有楽町で二箱目は浦安、ターゲット千葉方面に移動中とか、そんな情報がどっさりと集まりそう。そして、情報というのは高価なもの、高価なものは常に誰彼から狙われる危険な状態にある、そんなことしてまで自販機でタバコを買わなければならない人って、そもそもいるんでしょうか?それにですよ、将来、タバコが原因で病気になってJT相手の訴訟の原告になったとしたら、「原告はタスポを所持しており、つまり、明らかに自発性をもって喫煙を継続していたわけで、JTの販売戦略云々という原告の主張は失当である」とか言われそうです。

 要するに未成年がタバコ買えないようにしたいんでしょ?だったら、こんなカード作るより自販機なくして対面販売にした方が、早くて安くて確実です。かつての町のタバコ屋さんは、「お父ちゃんのお使いか?エライなぁ」の一言で、好奇心からタバコを吸おうとする子供を水際で止めていたものです。まぁ、カード作る会社、自販機改造する会社なんかはJTと財務省の偉い人たちの大切な天下り先でしょうから、その数を減らすわけないというのは分かりますが、ここまで「惨敗」したらもうしょうがないでしょ。ヘタな悪足掻きは止めましょう、損切りは早めが良いです。あっ、損するのは偉い人たちじゃないからいーのか。

 コロンブスの時代にアメリカ大陸から世界に広まったタバコですが、現在のように大量に消費されるようになったのは、第一次世界大戦で戦場の兵士のために紙巻が登場してからだそうです。日本では室町時代末期にポルトガルの宣教師が持ち込んで広まったようですが、こちらも明治時代に紙巻が登場することで消費量が爆発的に増えたそうです。確かに、煙管とタバコ盆と火種がないと吸えないのであれば、歩きタバコなんてできっこありません。だいたいですね、携帯灰皿を持つのがマナーと言うCM自体がもうボツなんですよ。灰皿のないところで自前の灰皿出して吸えっておかしいでしょ?灰皿がないということは、ここでは吸わないでくれってことなんですよ。マナーを守れば携帯灰皿なんて不要なはずです。

 タバコが健康に害があり中毒性があるとはっきりしてしまった以上、もう自販機は止めた方がいいです。そういえば最近はお酒の自販機を見なくなりましたね。お酒のメーカーはJTみたいに天下りさんに気を使っていないのかな?

 ただ、タバコと人間の長いお付き合いの歴史は様々な美しいものを生み出しました。趣向を凝らしたキセルやパイプには美術品として価値のあるものが多数ありますし、実用一点張りのジッポも黒と金のダンヒルのライターも、それぞれ美しい。歌舞伎の「源氏店」、洗い髪のお富さんの前にはタバコ盆、その手の長い煙管のあだっぽさ。これが豆大福の入った菓子鉢と番茶では男を狂わせる女にはなれません。「脱出」や「三つ数えろ」のローレン・バコールもそうだな。J・D・サリンジャーは「ナイン・ストーリーズ」や「フラニーとゾーイー」で実に効果的にタバコを使っています。バスタブの縁に置かれて静かに煙を上げている吸いかけのタバコは、触れれば手が切れそうな緊張感を描き、パーティーで誰からも声をかけて貰えない女の子のシガレットケースの中のタバコは、彼女の孤独をどんなセリフよりも雄弁に伝えます。

 薄利多売のマーケティングを止める、タバコを値上げする、子供には買えないところまで値上げする、高価なものなんだから勿論自販機なんかでは売りません。タバコは煙管で吸うものというイメージを浸透させる、そうすれば歩きタバコもポイ捨ても減るでしょう。そして、町には、販売するだけじゃなくて吸わせるタバコ屋が登場します。刻みタバコのパッケージが並んだ店の奥、上がりかまちにタバコ盆、常連さんがそこで煙管に吸い付ける、そして、その煙管や煙草入れや根付の自慢をし合う、お店によってはコーヒーや濃い煎茶が振る舞われる、何だか、楽しそうです。

 JTさん、今の時代、タバコを売って利益を得るということは、ヒールであると宣言することです。腹くくった方がいいです。覚悟を決めれば明日が見えてくるはずです。どんな明日かは分かりませんが、見ないふりをしたところで、その明日はやってくるのですから。


Leaf2008年2月17日 海月くんと海星ちゃん

某日、某所にて

「最近忙しい?」
「うーん、そうでもない、受験の時期に突入しちゃうと、もう何やっても手遅れだしね(彼女は小学生が対象の学習塾の先生です)」
「手遅れ・・・、もうね、手遅れの集大成なのよ、人生は。ところで、お茶、もう一杯下さい」
「あいよ」

「あの、さっきから気になっていたんだけど、その答案、枠の中に書いてあるのってその子供の名前でしょ?」
「そうよ」
「それ、まさか『クラゲ』・・・じゃないよね」
「これはね、○○みづき君ですね」
「でも、『海月』って、そりゃ無理矢理『みづき』って読めないこともないけど、普通は『クラゲ』だよね」
「うん、クラゲ、クラゲに憧れていたのかねぇ、彼の親は」
「骨のない人間になれ、と」
「んでもって、流れに身を任せて」
「ゆらゆら漂って生きろ、と」
「実際のところ、親が漢字知らなかったんだろうね」
「でも、自分の子供の名前でしょ?辞書くらい調べるでしょ、普通」
「その普通をしないんだよね」
「役所の窓口の人、それとなく止められなかったんかな。えー、これは何とお読みするお名前でしょうね、『クラゲ』さんってことはないでしょうし・・・とか」
「そこではっと気づくようなら良いけど、大きなお世話とか、表現の自由の侵害とか言い出すんじゃないの、んで、役所も触らぬ何とかなんじゃない?」
「表現の自由ってさ、クラゲって名前付けられた子供はどうすんの、大きくなって読み方知ったらグレるよ、これ」
「虐められるね」
「改名できるけど、あれって手続、結構面倒だし」
「んなこと考えてないんだろうね、海の月、何かオシャレ・・・ってだけで辞書引かないで届出しちゃうんだ」

「クラゲって言えば、海の星って書いて何て読むか知ってる?」
「ヒトデ」
「これで、『みほ』って読ませる名前の子、いた、女の子だけど」
「クラゲくんと結婚すりゃいい、あの磯野家と張り合える」
「海星ってつく学校はあるでしょ?あれ、どうしてかな?」
「カトリックだとね、海の星はマリス・ステラで聖母マリアのことになるんだけどね」
「だったら、そのまま『マリア』って付けるよね、ヒトデにはしないでしょ」

「トコロテンも急増してる」
「トコロテン?」
「『心太』君、『しんた』とか『ここた』とか読むの」
「トコロテンねぇ、突き出されるんだ、ムギューって、で、細かくなっちゃんだ」
「そっから先の人生が二択しかない、酢醤油か黒蜜か」
「絶対酢醤油っしょ、あれは」
「これも読み方分かったら虐められるね」
「掃除用具入れに押し込められてモップで突かれる」

「『ゆう』って名前あるでしょ?あれ、どんな字使う?」
「普通は『優』でしょ、あとは『祐』、『裕』、『悠』もある、『勇』とかね」
「『憂』って子がいたらしいのよ」
「生まれてきたばかりで、もう憂えちゃってんの?」
「人偏の書き忘れかもね」
「子供の名前書き間違えて届けるの?つーかさ、辞書引けっての。それとも普通に『優秀』を『憂秀』だと思ってるとか?」
「ま、『ユウ』って音だけ知っていて『憂う』っていう日本語知らないんだろうと思う」
「親のオツムの方を憂えてしまいますねぇ」

「『絵麗菜』って何て読む?」
「・・・えれいな?」
「『えれな』ちゃんね」
「最初に音、後から漢字をハメたんでしょうなぁ」
「でも漢字には意味があるから厄介でしょ、絵のように麗しい菜っ葉?ワックスでツヤツヤとか、意味を持っちゃう」
「絵に描かれたきれいな野菜とか、ジャガイモやキュウリの絵の横に仲良きことは美しき哉とか書いてあるの」
「武者小路実篤かい!」
「要するに、表意文字の漢字を表音文字として使ってる」
「でも、漢字を表音文字にしたものが仮名でしょ?昔に戻ってんの?」
「何か古事記みたい、須佐之男(スサノオ)とか」
「万葉仮名ね。でも、あれは音だけで意味を持たせていないでしょ。こっちは意味ちゃんとある」
「画数が多いし、何かくどいよね、音読みと訓読み、ごた混ぜだし」
「うん、脂身の天ぷらのあんかけみたい」
「簡単に読まれたら負けみたいな雰囲気あるよね」
「脳トレみたいな」
「すっごい名前思いついた!『蘇鸞』、これで『ソラン』、どんなもんじゃい」
「ソランって何よ?」
「アトムの妹」
「あれはウラン!」

「しかし、人間って年取るんだよね、名前は年取らないけど。どうすんの、絵麗菜ばぁさん82歳は」
「そのころは、んな名前ばっかだからいいんじゃない?」
「で、隣の老夫婦がクラゲとヒトデですか」


Leaf2008年1月31日 「ケータイ小説」

 週刊誌やネットで良く目にする本のベストセラー・ランキング、このところ、ずらーっと上位に並んでいる本に、えぇー、全然知らんでぇというタイトルが増えました。先日もあるランキングを覗いたのですが、「ハリー・ポッター」しか知らなかった・・・。最近の売れ筋本を手にとって確かめるべく出かけた書店で、今、中学生・高校生に多くの読者がいるというケータイ小説というものを発見、立ち読みをしてみました。結果、唖然。

 ケータイ「小説」と銘打ってありますが、これらは小説ではありません。何というか、夏休みの最後の日になって作文の宿題があったことを思い出した小学生が、ヤケクソで書いた「自称ドラマの台本」というか。
 やたらめったら妙な擬音が出てきます。言葉で表現するのが面倒なところを全部、擬音におっ被せている感があります。しかし、そもそも、小説というものは言葉で表現するものなわけでして、根本のところに修復不可能な破綻を感じます。
 文法を無視した文章、それが、おそらく携帯電話の画面で読まれるためなのでしょうが、極端に短く、乱雑に繋がっています。日本には短歌や俳句の伝統がありますから、多くの日本人はその言葉の向こう側を読む術を身につけています。が、その向こう側に何もなければどうしようもありません。「含ませる」、これは高度なテクニックですので、「グッワ!」「ボコッ!」とか、「(笑)」「↑」を平気で連発する人間には到底無理です。つーか、その↑なんやねん?結果、その内容以前に、生理的な不快感を感じます。
 語彙が絶望的に乏しい。「ヤバイ」という単語で「素晴らしい」も「ひどい」も、肯定も否定も済ませてしまおうという省エネ表現。極端な話、「あれ、ヤバクない?」「いや、ヤバイっしょ」「お前、マジでヤバイし」が、「素晴らしいと思いませんか?」「私はひどいだと思います」「貴方の考えは間違っている」になる。おそらく携帯電話の予測変換機能の影響だろうと思います。

 ストーリーの方はというと、「高校生」「いじめ」「虐待」「援助交際」「レイプ」「妊娠」「不治の病」「死亡」、手元にこれらの単語を書いた数枚のカードを用意して、適当にシャッフル、出た順に書いていけばよろしいみたいです。ここからここには絶対に繋がりません!という状況が生じた場合は、ある人がある年に売り出されたジャンボ宝くじで、全て一等に当選するくらいの確率でしか起こり得ないことをさらっと起こし、それでも間に合わなければテレパシーとかその手の超常現象でオッケー、どこがオッケーやねん!と私は思うのですが、ケータイ小説的にはオッケーらしいです。
 
 不治の病に犯された主人公が残り少ない人生を懸命に生きる、この設定は古今東西たくさんありますし、多くの名作が書かれています。古くは結核、最近は癌、そして、ケータイ小説ではAIDSが登場します。が・・・、どう読んでもその病気、AIDSじゃないですから。HIVに感染するとどうなるのか、一度Google先生に訊いてみて下さい。「HIVの検索結果 約67,900,000件中 1−10件目 (0.21秒)」、これだけの情報が出るんですよ。せめて、この検索結果の上から幾つかを読んではいかがでしょうか。この世界には本当にAIDSで亡くなる方が大勢いるという事実が、頭からすっぽりと抜け落ちているようです。第一、登場人物は全然「懸命に生きて」いませんから、不治の病という設定が無意味、別に虫歯でもいいんじゃなかろうか。
 登場人物たちは、金銭が必要となるとすぐに「援助交際」に走る、これが日本の女子高校生だとしたら、彼女たちの大部分がパートタイムの売春婦ということになります。何かが気に障るとすぐに「レイプ」に走る、日本の男性は3人以上集まるとそのまま自動的に暴行魔と化すようです。何の必然性もなく、売春とレイプが交互に登場するので、作者は、この二つの行為が重大な犯罪であることを知らないんじゃなかろうかと少々心配になってきます。犯罪を描くにしては、葛藤とか躊躇いといったものが皆無だからです。日本人というのは、その活動時間の大部分を性行動に費やしているかのような錯覚に陥ります。年明け早々に日本株が低迷している原因はこれだったのか!

 愛という言葉が頻繁に登場するにも関わらず、愛の表現は皆無に近いです。その代わり、下品で粗野な性描写はてんこ盛り。確かに性愛は愛の重要な要素の一つですが、その描写が余りに稚拙で露骨、これでは性愛というより交尾です。エロスの欠片もない。終電車で寝込んでいる酔っ払いの足元に落ちているタブロイド夕刊紙のポルノ小説以下。こんなもの読んでいたら君たちの性生活はお先真っ暗ですよ。例えばD・H・ロレンスとかヘンリー・ミラーとか、エロい名作はたくさんあります。ジェームズ・ボールドウィンの「ジョヴァンニの部屋」とかヒューバート・セルビー・ジュニアの「ブルックリン最終出口」とか、若者の性衝動は、変な擬音ではなく普通の言葉を駆使することで、ここまで荒々しく、かつ哀しく表現できるのだということを知ってください。

 何とも凄まじいものが出版され、販売されている、人間の適応力は侮れないもので、この手の本を数冊パラパラと立ち読みしていると、かの「リアル鬼ごっこ」がまともだったような気がしてくるから恐ろしい。だって、このケータイ小説、立ち読みが限界、私にはこれをレジに持っていく勇気はありません。赤の他人のレジ係が相手でも恥ずかしい、死にたくなる。

 このケータイ小説に感動するという人もいるようです。いったいどうやったら感動できるのか?唯一考えられること、それは、登場人物の行動の原因と結果の間にきれいさっぱり何もないということです。もうすぐ死ぬから、いじめられたから、虐待されたから、売春をしても、レイプをしても良いんだ。この原因と結果の接続部分、つまり追い詰められて一線を超えてしまう人間のぎりぎりの苦悩や不安、あるいは狂気が描かれていないので、結果の「何をしても良いんだ」の部分が原因と関係なしに一人歩きしやすい構造になっているのです。結果、愛読者は、可哀想な自分(100%幸せな人間などいません)は何をやっても最後には救済されるのだ、というインスタントの自己正当化が得られるのでしょう。

 こんなケータイ小説が売れるのと同時に、なぜか「カラマーゾフの兄弟」が売れているとか。「カラ兄」と「ケータイ」の間には恐ろしく深い谷が広がっているように思います、決して行き来することのできない谷が。
 人々はその谷によって隔てられ、決して交わることなく、各々別の進化を遂げるのでしょう。そして未来、両者の間で意志の疎通を可能にする言語表現は存在するのでしょうか?

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