クリックして下さい。それぞれの日記にジャンプします。  GO HOME HOME Leaf読書日記トップへ



2001年12月15日 エリック・シュローサー 「ファストフードが世界を食いつくす」
2001年11月6日 デニス・ルヘイン 「ミスティックリバー」
2001年10月8日 ジェイムズ・リー・バーク 「シマロン・ローズ」
2001年9月20日 デイヴィッド・ベニオフ 「25時」
2001年8月29日 ジョゼ・サラマーゴ 「白の闇」
2001年8月5日 ハーラン・コーベン 「パーフェクト・ゲーム」
2001年7月23日 ラッセル・アトウッド 「Aアヴェニューの東」
2001年7月3日 飯島勲 「代議士秘書」
2001年6月11日 盛田栄一・森田貴英・片岡朋行 「空想法律読本」
2001年5月9日 リチャード・メイソン 「溺れゆく者たち」
2001年4月20日 アポストロス・ドキアディス 「ペトロス伯父と『ゴールドバッハの予想』」
2001年4月2日 ポー・ブロンソン 「マネー!マネー!マネー!」
2001年3月16日 上尾信也 「音楽のヨーロッパ史」
2001年2月15日 澤口俊之・南伸坊 「平然と車内で化粧する脳」
2001年2月3日 ゲアリー・ブラックウッド 「シェイクスピアを盗め!」
2001年1月15日 ケン・フォレット 「ハンマー・オブ・エデン」

Leaf2001年12月15日 エリック・シュローサー 「ファストフードが世界を食いつくす」

 狂牛病騒ぎの中、一番ショックだったのは牛が牛の餌になっているんだということでした。牛って草を食べている(だってそのために4つも胃があるわけだし)と信じていた私は、なんてバカだったのだろうかと思いました。
 マクドナルドのハンバーガー、世界中どこで食べても同じ味、同じサービス、低価格、これを実現するためには裏で何が行われているのか。まず原材料です。牛肉、放牧して飼育するのはコストと時間がかかりすぎて低価格の障害になります。マクドナルドのバーガーになる牛は「工業製品」です。それを精肉する工場は徹底的なスピード至上主義。1分間に5〜6頭の牛がベルトコンベアーの上を流れてきます。一頭辺りの時間は約10秒、そこで働く人間は恐ろしく良く切れるナイフを10秒毎に振り回す。大変な3K職場を支えているのは主に移民です。そしてお店のキッチン、ハンバーガーを一人で作るにはある程度熟練した調理人でなければ無理です。最低賃金のアルバイトで世界中同じ味に仕上げるには工程を分散する必要があります。冷凍された状態で届いた肉を焼く人、ぴたりと同じ量の調味料を添える人、野菜とピクルスを挟む人、徹底的に役割分担されています。但し、これでは何年やったところで一人前のコックはできないのですが、マクドナルドにはコックを養成しようなんて気は最初からありませんし、熟練したコックは最低賃金では雇えません。全てがコストカットのために計算され尽くした上で、今の激安バーガーが可能となります。
 フライドポテト、これは一緒に食べるハンバーガーへの食欲をそそるために大量の牛脂を使って調理されていました。毎年同じ味のジャガイモを手に入れるために冷凍技術が導入され、薄利多売のジャガイモ農業が行き渡ったせいで、アイダホ州ではジャガイモ農家は減っているのに作付け面積は増えている。当然、土壌の管理や収穫時期の見極めにまで手が回りませんから、ここでも農業技術は衰退していきます。畑と芋掘り機械は必要でも「プロの百姓」は必要ないのです。
 工業製品にはPL法があります。不良品を出せばその会社は破滅です。農産物にはそれがありません。相手が自然なのだから人間の手に負えないこともあるという趣旨で守られてきたわけですが、それが今ファストフード産業を守っています。

 私はファストフードは滅多に食べません。要するに好きじゃないんです。肉より魚が好きですし、ハンバーガーを食べるならまだコンビニおにぎりの方がマシだと思っています。それでも牛肉が原料の食品がなんであんなに安く売れるんだろ?と不思議には思っていました。植物は毎年収穫できますが牛はそうはいかない。食べるまでには時間と手間がかかるわけで、値段が高くて当然、だからすき焼きは「ご馳走」なんだって思っています。

 ファストフード業界のお偉いさんは別に悪人じゃありません。今のやり方が儲かるからやっているだけです。安い牛肉なんていらない、少々高くても草を食べて育った美味しい肉を食べたいってみんなが言えば、彼らは明日にでも経営方針を変えるはずです。
 もう一度、「ご馳走」というのを思い出した方がいいと思います。たまに食べるからご馳走、丁寧に作られて美味しいからご馳走なのです。ファストフードは安くて早くて便利でしょう。でも、そこで供給される「餌」の味に慣れてしまえば、ご馳走を忘れてしまいます。「平日半額」のハンバーガーを毎日楽しむか、月に一度の給料日のすき焼きを楽しむか、問われているのは、例によってお金を払うこちら側なんですね。ファストフード店のメニューを眺める時にちょっとでいいから思い出したいです、太陽を浴びて育った草じゃなくて同じ牛を食べさせられて育ってしまった牛のことを。


Leaf2001年11月6日 デニス・ルヘイン 「ミスティックリバー」

 1975年、ボストン郊外の岬から海を望む町、3人の少年は11歳。岬の一戸建てに住むショーン、下町の集合住宅に住むジミーとデイヴ、ショーンの父は管理職だしジミーとデイヴの父は労働者、それぞれの環境の違いが分かる年頃の少年たち、早くもタフな悪の一面を見せるジミーとそんな彼に苛立つショーン。そして、ある日、路上でこづき合いをしている少年たちに警官を装った2人の男が近づく、そしてデイヴを車に乗せて去っていく。偽警官・・・デイヴはもう戻ってこないとショーンとジミーが思った4日後、デイヴは自力で監禁場所から脱出し帰ってくる。みんなが彼の帰還を喜ぶ。歓声、握手、抱擁、ホットドッグにコーク。しかし誰も決して触れない、その4日間に何があったのかを。なぜって何があったのかみんな知っているから。

 2000年、少年たちは36歳。ショーンは大学を出て州警察の殺人課勤務、検挙率は最高だけど少々勤務態度に問題あり。おまけに妻は家を出てしまっている。デイヴは美容院に勤める妻と息子が一人、マクドナルドの時給より1ドル高いだけの低賃金の労働者。現在は息子に野球(彼が唯一得意だったもの)を教えている。そして、ジミー。17歳で犯罪集団のボスにのし上がった彼は服役中に妻を亡くし、出所後再婚。先妻の娘ケイティに加えて今の妻との間に2人、3人の娘の父。町で一番美味しいコーヒーを出すドラッグストアを経営している。出所以来堅気で通している。なぜって美しい娘がいるから、出所してきた時にすがるような目で彼を見上げたケイティからもう二度と離れたりしないと誓ったから。そんなケイティが公園の片隅で惨殺死体で発見される。同じ夜、なぜかデイヴは全身に返り血を浴びて帰宅した。事件の担当はショーン、そしてジミーは裏社会のルートで犯人を捜し求める・・・。

 3人の男の過去と現在を自由に行き来しつつ、少しずつ謎が解き明かされていきます。ルヘインらしい細部にこだわった描写、小さなエピソードの巧みさ、計算され尽くしたプロット、久々に堪能できる大作です。クルクルと小さな螺旋を描きながら少年たちの今日までのそれぞれの足取りが明らかにされていくのですが、結局、彼らはあの日に帰っていく、あの日から逃げられない。なぜならデイヴが連れ去られたあの日、あの交差点で、少年たちは半分死んでしまったから、無垢な時間の終わりを告げるチャイムを聞いてしまったから。
 ショーンは優秀でありながら証拠の捏造で停職を食らうような刑事です。家出した妻と「無言電話」で辛うじてつながっているような男です。デイヴは、自分の心の中に残忍な少年が住んでいることを、その少年が表に出てきたら何をしでかすかを恐れています。更生したはずのジミーの中には凄腕の強盗がまだ生きています。優しい父、真面目な市民として生きてきた彼は、娘が殺された時、あっさりと犯罪者としての行動基準を選びます。
 なぜ、偽警官はあの日デイヴをさらっていった?誰だってよかったんだ、たまたまデイヴだっただけなんだ、そしてもしもそれが俺だったら?例えようもないほど醜いものがこの世には存在し、それは全く無作為に襲いかかってくると知ったあの日、あの場所の記憶、それが忠実な伴奏者として物語の底を静かに流れています。

 たくさんの血と涙が流れます。悔やみきれないタイミングのずれがあります。誇りと卑しさが、怒りと諦めがゴタ混ぜになっています。みんな、みんな、とても哀しい。だからこそ、ラストシーンの陽の光が眩しい・・・、そんな傑作です。



Leaf2001年10月8日 ジェイムズ・リー・バーク 「シマロン・ローズ」

 舞台は土埃とタンブルウィードの舞うテキサス、主人公のビリー・ボブは、元テキサスレンジャー、元連邦検事補、そして現在は小さな町の弁護士というややこしい男。彼はさらにややこしい状況を抱えています。テキサスレンジャー時代に誤って射殺してしまった相棒の亡霊が見えるのです。彼の名はL・Q・ナバロ、彼の姿はビリーにしか見えません。
 少女がレイプされた事件の容疑者としてビリーの隣人の息子であるルーカスが逮捕され、ビリーが弁護を引き受けます。無実を主張するルーカスですが、被害者は意識を回復しないままに死亡、容疑は殺人に切り替えられます。ビリーはルーカスの無実を信じて調査を開始します。彼とルーカスもややこしい関係にあります。ビリーとルーカスの母はその昔わけありで、ルーカスは実は彼の息子であり、ビリーもルーカスもそのことに触れないようにはしているものの、それを知っており、お互いに相手が知っていることも知っている。
 これにさらに被るのはビリーの曾祖父の日記です。大酒飲みの牛追いだった曾祖父はある日突然神に目覚め、伝道師として人生をやり直した男、タイトルのシマロン・ローズとは、その曾祖父が心から愛した女性の愛称です。

 脇を固める人間も皆一筋縄ではいきません。自分の息子の出生を知っており、息子に辛く当たることで自分も傷ついているルーカスの父、母親のせいで胎児性アルコール中毒の障害を持って生まれた町一番の実力者の息子、そんな息子を愛していいのか憎んでいいのか分からない両親、酒と男のトラブルを繰り返す安食堂のウェイトレス、その息子でビリーを慕う少年ピート、潜入捜査中の連邦捜査官である保安官助手のメアリー・ベス、彼女とビリーの関係を嫉妬と諦めと容認の入り交じった感情で見つめる私立探偵のテンプル・キャロル・・・、よくもまあ、ここまでややこしい設定をしたもんだと感心します。
 ところがその複雑さが何の違和感もなくすんなりと入ってくるのです。それはひとえに人物たちの抑制の利いた描写にあります。誰にだって人には言えないことの一つや二つある、相手がそれをぶつけてきたら受け止めてやればいい、そうでないなら知らないふりをしていればいい、そんな距離感が独特の「優しさ」を感じさせる、ハードボイルドの王道を行った作品です。
 緊張感のある人間関係の中でキラリと光るのはビリーとピート少年の関係、この孤独な少年は幼いなりに自分の孤独を理解しており、それを受け入れる以外に生きる道がないことを知っており、しかし、そこから逃げないという勇敢で賢い少年です。そしてナバロ、時折登場してはシニカルでかつユーモラスな会話を残して去っていく亡霊、この亡霊は彼を恨んで出るのではなくて、死んだ後も彼をサポートし続ける相棒なのです。少年と亡霊、そして曾祖父という過去と未来からの贈り物に支えられて辛い現在を顔を上げて前進する男、やられた!って言いたくなるような香り高いハードボイルドの傑作です。バーボンのグラスを片手にどうぞ。



Leaf2001年9月20日 デイヴィッド・ベニオフ 「25時」

 凍てつく寒さのニューヨーク、イースト・リバーに沿って愛犬のリードを手に散歩しているモンティ・ブローガン。川向こうのクィーンズの町並み、ラガーディア空港を離陸する飛行機、そんなものをひたすら見つめるモンティ。彼にはあと24時間しか時間がありません。25時、つまり24時間後には彼はオーティスヴィルの州立刑務所の中。刑期は7年、容疑は麻薬の密売です。
 27歳、白人、豊かな黒髪、きれいに揃った歯並び、真っ直ぐ伸びた鼻、透き通るような肌、誰もが息を飲む緑色の瞳、こんな美貌の青年が刑務所に放り込まれればどうなるか、モンティには分かっています。彼のこれからの7年間は間違いなく地獄です。それを逃れるための選択肢は二つしかありません。逃亡する、ひたすら逃げる、カナダかメキシコの国境を目指して、あるいは銃で頭を撃ち抜くか。
 逃亡すれば彼の保釈金の担保に店を差し出した父は破産します。頭を撃ち抜けば全ては終わりますが、まだ27歳の彼は死を受け入れることができません。残された24時間、恋人、友人、彼に死んで貰いたがっている麻薬組織の元締め、そして父、様々な人たちが絡み合ってモンティのこれまでを浮き彫りにしていきます。
 彼が麻薬の密売に手を染めたのは何ともつまらないきっかけからです。貧しかったわけでもない、他に仕事がなかったからでもない、たまたまクラスメートがマリファナを買う相談をしていたところに居合わせて、つい格好良いところを見せようと、ヤクなら自由になると一言口走ってしまったからなのです。マリファナなんて吸ったことも見たこともなかったモンティは、この時からアメリカを覆う巨大ビジネスの末端に連なります。高価なスーツに身を包み、札びらを切って高級クラブで遊ぶ日々、美しい恋人、プレゼントの宝石、そしてシャンパン、そんな彼の生活は麻薬取締局のバッジを持った男たちがドアをノックした時に終わりを告げます。
 モンティを取り巻く人たちは、なぜあの時彼を止められなかったのか、なぜ知らないふりをして今日まで来てしまったのか、自分自身に問いかけます。そんな彼らの間を彷徨うモンティは、ある奇妙な空想に取り憑かれています。消防士になりたい、消防士になって燃えさかるビルの中から人々を救いたいと。それは現実逃避なのか、それともそうなるはずだった彼本来の姿なのか。

 俺はこのままあそこには行かない、最後のモンティの決断、ラストの余韻が悲しいです。人が転落するのに大層な理由は要らない、愛されていても、裕福でも、人は踏み外すし、孤独でも、貧しくても真っ当に生きることだってできる。淡々とした24時間の描写が怖いくらいリアルです。どんなドン詰まりの状態だって、ドン詰まりなりに人生は流れていく・・・。これは是非とも映画で見たいです、叶わぬことですが、今は亡きリバー・フェニックスの主演で見たかった。



Leaf2001年8月29日 ジョゼ・サラマーゴ 「白の闇」

 1998年のノーベル文学賞を受賞したポルトガルの作家、御年79歳のヨーロッパ文壇の大ベテラン、サラマーゴの作品です。何しろノーベル賞作家、すっごく難しいだろうな。おまけに分厚い、読み応えありそう、これで当分楽しめる、と思って買いました。私の目論見は全て外れました。どうしてもページをめくる手を止めることができない、あっという間にラスト。難解な表現かと思えば、素直過ぎて怖いくらいの文体、そして作品としては「ホラー」です。

 それはある日突然、一人の男から始まります。信号待ちをしている車の一台が信号が青になっても発進しない。ざわざわと周りを囲む人々に向かって彼が訴えます、「目が見えない、真っ白なんだ」。普通、失明というと真っ暗になるわけですが、彼の場合、ミルクの海に放り込まれたように視界一面が真っ白に輝いて、そして何も見えない。彼を家まで送っていった男、彼の妻、眼科の待合室にいた人たち、受付係、そして眼科医、この「白の闇」は恐ろしい感染力で広まっていきます。パニックに陥った政府は患者を全て廃墟となった精神病院に隔離します。しかし患者は増え続け、隔離された人々は飢えと乾きに苦しみ、一部の暴徒と化した患者たちは食欲と性欲の怪物になり果てます。感染を恐れる見張りの兵士は外に出ようとする者を容赦なく射殺し、精神病院は閉ざされた地獄の様相を呈します。ただ一人目の見える眼科医の妻(彼女は咄嗟に私も見えないと嘘をついて夫についてきたのです)の視線の先に広がる「世界の終わり」の光景。そして、とうとう全世界の人間の目が見えなくなります。もう見張りの兵士はいない、もう政府はない、もう文明もテクノロジーもない(全ての文明の利器は目の見える人間が操作することを前提に設計されています)、そして、もう礼儀も良識もない、あるのは本能だけ。なぜかいつまでたっても失明しない眼科医の妻、彼女は押し潰されそうな恐怖と重圧の中、自分たちのグループが生き抜くために必死で闘います。その勇気、その判断力だけが彼らを生かすことができるのです。
 突然世界中の人間の目が見えなくなった世界、電気も水道もガスも電話ももうそこにはありません。食料だって生産する人間が全員失明してしまえば、今あるものを食べ尽くせばそれでお終いです。せめて家族と、親しい人たちと一緒にいたいと思ったところで、外出先で突然失明した人間が自宅に帰ることはまず不可能です。今いる場所で手探りで生き延びる他ない。それができなければ待っているのは死です。

 読後に部屋で目をつぶってみました。自分の部屋ですから目をつぶっても歩くことは何とかできました。でもこれがJRの渋谷駅だったら?新宿の伊勢丹の前だったら?私は壁に手を這わせて恐る恐る歩くでしょう、どこに向かっているかも分からずに。そして伸ばした手が誰かに触れるでしょう。その人は善であるよりも悪である可能性の方が高いでしょう。何しろみんな飢えているのです。昨日まで世界を支配していた理性が無力になった世界の恐怖、サラマーゴは、人物にも街にも一切固有名詞を与えません。全ての人間が何も見えない世界では具体性というものは無意味であるという主張、それと同時にこれはどこででも起こっているのだという主張でもあります。

 「人間が理性の使用法を見失ったとき、たがいに持つべき尊重の念を失ったとき、なにが起こるのかを見たのだ。それはこの世界が実際に味わっている悲劇なのだ」と作者は語ります。
 日々報道される憎悪や愚かさが生む悲惨な戦争や犯罪、いざとなったら誰も頼れないという現実、自分だけが、あるいは自分の群れだけが大切で、他者は存在していないかのような、他者を全く見ていないかのような人々の行動・・・これは現在進行形の社会の姿です。人間の本質が「悪」であるとしたら、「誰かが見ているから」という抑止力がなくなった時、人間は理性によって行動できるのか、見えることを前提に組織された体制が全く無意味となった時、人はそれでも人を信じることができるのか。
 私たちは本当に見えているのでしょうか?

 しかし、この作品にはほのかな希望も見えます。失明した人々の網膜に映るのは「真っ暗」ではなく「真っ白」な闇なのです。その向こうには光があるのでしょうか。文句なしに読み応えのある作品です。



Leaf2001年8月5日 ハーラン・コーベン 「パーフェクト・ゲーム」

 ニューヨークのスポーツ・エージェント、マイロン・ボライターを主人公に据えたこのシリーズ、6作目を迎えました。軽いフットワークと減らず口が売り物、アメリカ中産階級の良識と元プロ・バスケット選手の体力、元FBIの行動力を併せ持った魅力的な主人公マイロン、彼にいつも影のようについて回る「サイコ・ヤッピー」、優雅な殺し屋にして指折りの名門の御曹司であるウィン、この絶妙のコンビネーションで、これまでの5作すべてで軽く水準を超えてきたシリーズですが、今回は少々様子が違っています。
 前作で女子バスケットボールの選手と恋に落ちてしまったマイロンは、おかげで長年の恋人ジェシカと破綻、落ち込んだ彼は南の島で「行方不明」中(その間もイイことあったりするんですけどね)、そこに、いつもいきなり現れるウィンが豪華クルーザーと自家用ジェット機で派手に登場。マイロンの行方不明中に彼のビジネス・パートナーであるエスペランサが逮捕された、容疑はクライアントの一人である野球選手の殺害、彼のビジネスは風前の灯火です。なぜか何も語ろうとしないエスペランサ、殺されたヤンキースのリリーフ投手クルーはドラッグ検査で陽性だった、ヤンキースの新オーナーの娘の15年前の謎の失踪、もつれ合った関係をたどるマイロンは、やがてすべてが「自分」を指していることに気づきます。
 テンポの良さとレギュラー陣のチームワークは相変わらずなのですが、今回はどこか微妙な「路線転換」が感じられます。キーワードは「ファウルライン」。どこまでが良くてどこからが悪いのかの境界線です。何度もその上を走っているうちに境界線が曖昧になっていく、ちょうど野球のグラウンドに石灰で引かれたファウルラインが、ゲームの5回裏当たりから薄れていくように。マイロンはその事実に気づきます。
 彼の相棒であるウィンは、必要と判断すれば何のためらいもなく暴力を行使し、法律を破ります。ナンバープレートを偽造した何台もの使い捨ての車、届けられていない武器(小国を侵略できるくらいたくさんある)、そして何よりもテコンドーの達人であるウィン自身。そして、これまでのマイロンは、それを承知で彼のバックアップに頼ってきました。今回、自分自身が標的であることを知ったマイロンは、自分が善であることに不安を感じてしまっています。ファウルラインがぼやけてきてしまっていると。
 彼とウィンの関係が微妙に変化していきます。自分の判断に絶対の自信を持っているウィンに対して、マイロンは彼はいつでも正しかったと思いつつ、いらだちを覚えています。ラスト、彼らのいつものお楽しみ(ウィンのダコタ・ハウスの自宅でピッツァを摘みつつ昔のテレビのビデオを見る)を断り、マイロンは両親と食事に出掛けます。彼を育んだ中流のユダヤ人家庭の良識を再確認するかのように。シリーズとして次回作当たりで完結するのか、新しい相棒が登場するのか、楽しみな反面、少し寂しいです。
 
 ところで、早川書房さんにお願い。この表紙のイラスト、何とかならないものでしょうか?私は本屋でこれを見る度に、お尻がムズムズするくらい恥ずかしいのです。普段は断っている書店のカバーをこの時ばかりはお願いしてしまうのです。



Leaf2001年7月23日 ラッセル・アトウッド 「Aアヴェニューの東」

 「ジェフリー・ディーヴァーも脱帽」、腰巻きのこの一言で買ってしまったのがこの一冊。舞台はマンハッタンのグリニッジヴィレッジからローアー・イーストサイド辺り、明るいうちは楽しいと言えば楽しいけど、暗くなったら一人では歩けないという界隈です。ここにしけた事務所を構えるしけた探偵のペイトン・シャーウッドが主人公。9日間ニューヨークを留守にして帰ってきたけれど、事務所には未払い請求書の山とカード会社からの督促状、ご丁寧に自己破産を勧める弁護士からの手紙、そして冷蔵庫は空っぽ。ミルクを買いに深夜の路上に出たのが間違いの始まりです。路地裏でちんぴら3人に絡まれている少女を見つけたのが運の尽き、9日間田舎にいたせいか、やばいものは見ない振りというニューヨークのルールを一瞬忘れてしまいます。ミルクパックで一人の頭をぶん殴り少女を逃がしたまではかっこよかったけど、その後ちんぴら3人に袋叩きに。路上に倒れた彼の元にそっと近寄った少女は、お礼を言うどころか、助けてくれるどころか、彼の唯一の財産と言っていい金のローレックスを外してトンズラ。翌日からペイトンのローレックス探しが始まります。
 俺のローレックスとマントラのように唱えているペイトンですが、本音はホームレスらしい少女が気になって仕方ないのです。あちこちを突っつくうちに、やばい連中がどういうわけかみんな少女を追っていることが分かります。この少女にはとんでもない危険な匂いがします。ローレックス一つじゃ割が合わないのですが、ペイトンは諦めません。
 ハードボイルドの伝統である「騎士道」がきちんと生きている作品です。何だかんだ言いつつもこの手の作品の主人公には「照れ」と「優しさ」が不可欠です。その意味では王道を行っています。ペイトンはごく普通の男、武術の達人でもなければ射撃の名手でもなく(そもそも銃を撃つシーンは出てきません)、経済状態はかなりやばい(クレジットカードを使うたびに「これ使用できません」って言われるんじゃないかってハラハラしています)、去っていった恋人が未だに忘れられず、追いつめられる度に彼女に電話したい、彼女の声を聞きたいという衝動に駆られて、それを必死で押し殺す。それでもめげずに汚れた町を徘徊して少女を探します。途中でローレックスを取り返した(そのすぐ後に壊れてしまうのですが)にもかかわらず、みんなからバカだって言われつつも。
 おそらくシリーズ化を狙っていると思われます。脇役のくせ者たちが魅力的ですし、電話でしか登場しない元上司との会話もテンポが良い。しかし、問題もあります。第一に悪役に魅力がない。第二に怪しい人間をたくさん出したは良いけれど、彼らが散漫になってしまって途中でどれが犯人でも同じじゃん、って感じになってしまうということ。この辺りを少し工夫しないと、シリーズの維持は難しいかなって思います。
 腰巻きの文句は少し誉めすぎ、あと2、3作出た後でもよかったと思います。



Leaf2001年7月3日 飯島勲 「代議士秘書」

 目下支持率85%、もう畏れ多くて誰も何も言えないという小泉総理の政策担当秘書さんの本です。但し、この本が書かれたときはまだ総理じゃないんですけどね。
 ま、こんなもんなんだろうなぁとは予想していましたが、政策担当秘書の仕事は全然政策に関係ないんですね。就職の斡旋、大学入学の口利き、冠婚葬祭への目配り、やばい儲け話を持ち込んでくる連中をセンセイの手前で阻止すること、そんなこんなの内情は面白いというよりもむしろ情けないです。
 選挙区の川に橋をかけるとか(そんなこと県庁の土木課の仕事でしょうが)、海外旅行中に急死した後援会の人の遺体の輸送とか(大使館がやればいいんだってば)、国会議員というのは実は国のことはあんまり考えていないみたいなんですね。ここで疑問、じゃこの国ではいったい誰が国のことを考えているんだろ?分からない・・・不思議です。
 それから摩訶不思議な選挙、「ミッション・インポッシブル」みたいなスパイ行為もあれば、ひところには選挙本部で出される炊き出しのおにぎりの中にお金が入っているなんてこともあったそうです。私、ただの一度も「買収」ってのやって貰ったことがないんです。もしお金くれるって言われたら、ヨロコビ勇んで警察に通報してから他の人に投票するんだけど(こんなこと考えているから買収してもらえないのかしら?)。

 ところどころに自嘲的な表現が出てくるところからも分かる通り、筆者本人も、なんか情けないって思っているようです。しかし目の前に情けない現実があって、それをクリアしないと次の選挙ではセンセイが落選してタダの人になってしまう、そして自分も自動的に失業してしまう、この仕組みが問題だと思います。何年か議員や秘書をやった後は元の職場に戻れるってシステムがないから、政治家は皆浅ましくなってしまう。例えば今は経済の建て直しが必要と言われています。だったらあちこちの企業やシンクタンクから我こそはっていう経済の専門家がたくさん立候補すれば良い、議員立法を出して一生懸命働いて貰う。で、終わったらお疲れさんって元の職場に戻る、こんな仕組みが必要だと思いますね。考えているのは次の選挙のことだけ、議員立法なんて一度も出したことない、週末毎に地元と往復、夜は料亭、国会では疲れて寝ている、という議員にまともな仕事ができるとは思えないのです。

 ところで、かちんと来たのは「女の子は役所でアルバイトするのが最高だ」という下り。曰く「石を投げれば東大出に当たる中央官庁」「どんな男に引っかかっても人生は最高」「親も大喜び」、今時こんなこと大真面目に書いて恥ずかしくないですか?東大出ていてもバカはバカってことくらい、もうみんな知っています。第一女の子って何です?子供を雇っているのですか?(だとしたら法律違反です)、男子職員を「男の子」と呼ぶのでしょうか?十把一絡げで玉の輿狙いってどうして分かるのです?彼女は、その分野の仕事に興味があって現場で見てみたいのかも知れません。極秘資料を手に入れての一発スクープを狙っているフリーライターかも知れません。

 今をときめく小泉さんの政策担当秘書さんがこの程度の意識の持ち主なのかと、また別な意味で情けなくなった本でした(こんなこと書くと抗議のメールがどひゃっと来るんだろうなぁ。って、書いちゃったんだけど)。



Leaf2001年6月11日 盛田栄一・森田貴英・片岡朋行 「空想法律読本」

 このシリーズ、もう何冊目かしら?理科系の分析が多かったと思うのですが、今回は「法律」です。怪獣と格闘する際に周囲の建物を破壊するウルトラマンに現住建造物破壊罪は適用されるのか?怪人を蹴り殺す(「ライダーキック」とか言っていますが要は蹴り殺してる)仮面ライダーは殺人罪に問われるのか?音速を超えて走るサイボーグ009やエイトマンはスピード違反の切符をもらってしまうのか?ゴジラに踏んづけられて死んじゃった場合、国家賠償はどうなる?生命保険は支払われる?アメリカ軍だって持っていないようなハイテク武器を満載したマジンガーZをおじいちゃんから貰っちゃった主人公の相続税はどうなる?
 軽く読める(1時間くらい)内容です。法律のお勉強にはなりませんが、法律というのはこういう具合にものを考えるという「考え方」のお勉強にはなります。
 ただ読んでいるうちに私はどんどんアサッテの方角にアタマがずれていってしまって・・・。「怪獣出現!」「了解!出動します!」と国家機関(なのかな?)が出動し、でも全然歯が立たないので、そこで正義のヒーローが登場し怪獣をやっつけてめでたし、これがお決まりなのですが、何で「怪獣」だって分かるんだろ?そもそも怪獣の定義とは何ぞや?大きさ?シロナガスクジラだって大きいけど怪獣とは言わない。未知の生物=怪獣なのか?そして、怪獣は何であんなに暴れるのか?普通、動物は補食行為以外の時はダラッと寝ているものです(でないと無駄にお腹が空く)。彼らの行動は極めて不自然で、とうてい淘汰に勝ち残れるとは思えない(あっ、だから最後の1匹にまで減っちゃったのか)。ウルトラマンに登場したバルタン星人は、遠くの星から地球までやって来る技術力に加えて、地球上の言語の中でも難しい部類に属する日本語を流暢に喋っていました(ウルトラマンだって「シュワッ」とか「ジョワッ」とかしか言えなかったのに)。でもその両手は大きなハサミ、手がハサミ型の生物の脳がどうやってここまで進化した?
 あれ、ウルトラマンって喋れないのにどうして我々には彼の名前が分かるんだ?名乗ったことあったっけ?そもそも最初に彼が登場した時、なぜ彼が正義の味方だって分かった?怪獣を倒したから?たまたまその怪獣が大好物であったための補食行動、あるいは怪獣の方が正義の味方でウルトラマンが宇宙のワルということだってある、それとも地球人を油断させといて後で・・・、何て陰険なことを考えていないとどうして分かる?やっぱ見た目かぁ、見た目で決める、困ったもんだ。じゃ彼よりも見た目の良い宇宙人が侵略してきた場合、人類はどうする?どんどん余計なこと考えてしまう・・・。

 肝心の法律の方ですが、これは誰が読んでも「そりゃそうでしょう」という結論に落ち着いています。法律というのは最低の常識、これくらいのルールも守れないようだと社会的に制裁を受けますよ、という常識なのですから当然ですね。



Leaf2001年5月9日 リチャード・メイソン 「溺れゆく者たち」

 「きのうの午後、45年連れ添った妻のサラが、拳銃で自らを撃ち抜いて死んだ」、「もちろん、妻を殺したのは、この私である」・・・衝撃的な出だしです。淡々と殺人を告白する老人ジェームズ、物語は50年前に遡るのですが、彼の譜面台に刻まれた日付から事件が起こったのは21世紀も半ばであり、50年前が現在であることが分かります。
 才能に恵まれたヴァイオリニストであるジェームズは名門ハーコート公爵家の令嬢エラと出会います。貴族に生まれたエラですが、アメリカで成長したためにイギリスの上流階級にはどうしても馴染めず、しかし馴染めない自分を否定して憂鬱に沈んでいる美しい女性です。当然に二人に恋が芽生えるのですが、ここでエラの従姉妹であるサラ(後にジェームズと結婚し、そして殺される)が登場します。三角関係・・・なのですが、これがすんなりとはいかない。フランス人ピアニストのエリックの痛ましい自殺が絡み、公爵家の隠された秘密が絡み、物語はミステリアスな展開を見せます。
 なぜジェームズがエラではなくサラと結婚したのか、そしてなぜ彼女を殺したのか、近親憎悪と復讐に由来するドロドロとしたゴチック風悲劇なのですが、風景や建物の細かい描写、愛情を持って書かれていると分かる丁寧な音楽の描写などのお陰で、口当たりが良く仕上がっています。
 反面、イギリスの貴族社会など私には分かるはずもないのですが、この悲劇の一番の原因は「こいつらがヒマだから」と感じることも否定できません。過去の遺産の上でグータラしているからロクでもない考えや憂鬱に捕まるんだ、「小人閑居して不善を為す」ってこのことか、って感じです。
 だから、創造的な音楽に天分を持ち、天才ヴァイオリニストと呼ばれたジェームズを、自分の独占欲を満たすために徐々に音楽から切り離し、その才能を根っこから腐らせていくサラが怖いです。ジェームズはエラとのいきさつがあろうがなかろうが、これだけでも十分妻を殺す理由になると思います。

 作者は何と21歳でこの作品を書いたそうで、老人の回想が現在の物語であるという凝った構成は、作者の若さの故かと納得します。居場所がなく途方に暮れて虚しく彷徨うエラ、彼女を繋ぎ止めることのできない非力なジェームズ、この二人の悲劇が主題なのは当然ですが、私は最後まで感情移入することができませんでした。影絵みたいな人生が虚しいと言いながら、そこから飛び出す努力は何もしない、いくら優美に見えても根は俗物であるエラ、そんな彼女に絡め取られて身動きのできない幼いジェームズ、どうしてもこう感じてしまうせいで、エラとジェームズの悲劇が悲劇として感じられないのです。この二人のエゴに残酷に傷つけられ死を選ぶエリック、彼こそが一番共感できる登場人物でした。



Leaf2001年4月20日 アポストロス・ドキアディス 「ペトロス伯父と『ゴールドバッハの予想』」

 算数が全く苦手のくせに、私は数学の証明物語が大好きです。「あ、そうなの」で済んでしまうような単純な定理が証明されるまでには数百年の時間を要するという、気の遠くなるような壮大な物語に惹かれますし、実際これを証明したところで何がどう変わるのかさっぱり分からない(多分、物理学なんかで新しい数式ができて、それによってさらに進歩したロケットやコンピュータができるのであろうとは思いますが)ものに必死で取り組む人間の物語には、どこか神秘的なものがあります。
 ロシア系ドイツ人の数学者ゴールドバッハの予想・・・2より大きな偶数はすべて2つの素数の和になっている、例えば、4=2+2、6=3+3、8=3+5等々、これが「ゴールドバッハの予想」と呼ばれる数学の難問です。未だに証明されておりません。これに生涯をかけた数学者の物語。
 ギリシアに住む主人公の少年は謎めいたペトロス伯父さんに惹かれています。彼の父や他の叔父たちはペトロスを一家の恥さらしとバカにしていますが、少年の彼には実業家として成功した父たちの方が俗物で、チェスとガーデニングを愛し、どこか超然としているペトロスの方がはるかに魅力的に見えるのです。少年は伯父がかつて天才と言われた数学者であったことを知ります。彼はゴールドバッハの予想の証明に一生を賭け、そして敗れました。伯父と同じく数学に興味を持った少年は伯父の人生を一緒に振り返ることになります。
 「数学に銀メダルはないんだ」、証明者の名誉はたった一人にしか与えられない、野心に燃えた若きペトロスはたった一人で孤独な戦いを続けます。それは自分の頭脳を少しずつ奪っていく時間との戦いでもあります。そしてある日致命的な事実を知ります。ゲーデルが「真の命題であっても証明されるとは限らない」ということを証明してしまったのです。ゴールドバッハの予想には証明があるのか?一生を賭けた研究に答えは出るのか?さらにチューリングが追い打ちの証明を完成させます、「その命題が証明できるかどうかを知ることはできない」、ペトロスはここで力尽きます。数学から離れ趣味に逃避し、敗者として終わるはずだったペトロスの人生は、甥の登場によって最後に意外な結末を迎えます。

 著者は数学者だそうで、数学の歴史を熟知した上で構成された「果てしなく失われていく物語」には静かな美しさと哀しさがあります。数論というのはどこか科学というよりも神学に近い印象があります。目で見ることのできない神の存在を信じて追い求める、いつか奇跡が自分の信仰を証明してくれると信じて。ペトロスの一生も僧院に籠もってひたすら瞑想を続ける修道士の感があります。彼が生涯を捧げた数の神様は彼に微笑んではくれませんでしたが。

 なぜかふと、ニュースでよく見たカルト教団の人たちのことを考えました。たった一つの数学的予想が正しいかどうかを知るだけで人間は一生かかってしまうのです。一生賭けたところで正解が出るとは限らないのです。ならば、人生の意味とか悟りとか、そんなものを手に入れることはもっともっと困難なものでしょう。本来、真理というものはそういうものなのだと思います。お金を払うことで、怪しげなドラッグや器具を使うことで、真理が手に入るわけないじゃないですか。そんなインスタントの「真理もどき」に走ってしまう愚かさ、これはペトロス伯父さんを含めた数え切れないほどの敗者に対する侮辱であり、大部分の人間(私も含めて)が最初から降りている過酷なレースを、信じられない勇気で果敢に闘った彼らの努力を否定するものであり、第一に、そんなことでお手軽に手にはいると思われてしまった気の毒な「真理」に対する冒涜です。

 印象的だったのは、ペトロスの夢の中に「2の百乗」(いくつだ?)が「黒い瞳のそばかすのある可愛らしい双子の女の子」として繰り返し登場するシーンです。数字って何かイメージを持って見てしまいますよね。私の場合、1=無口な空想好きの男の子、2=少しぼんやりした女の子、3=小太りで陽気な少年、4=意地悪でおしゃべりの少女、5=がっちりした体育会系青年、6=穏和なおじさん、7=理知的な、でも冷たい美女、8=世話好きなおばさん、9=頑固な老人・・・なのですが。



Leaf2001年4月2日 ポー・ブロンソン 「マネー!マネー!マネー!」

 ある日、あなたのところに投資銀行のセールス部門から電話がかかってきたとします。8年満期で利率は年11パーセントの転換社債、美味しい話ですよね。買い込んでそのまま仕舞っておけばお金が増える・・・とはいかないのがマネーの世界です。ハイリターンには当然のごとくハイリスクがついてきます。この会社が8年後にまだあればいいですよ、破産していれば債券はだたの紙切れ、いってみればこれは「債券」というよりも「馬券」に近い代物です。売る方も買う方もそんなことは百も承知。ではどうするか?他の人に転売すれば良いのです。こうしてババ抜きよろしく「馬券」じみた債券が市場を転がりだします。
 作品の舞台は投資銀行アトランティック・パシフィックの債券販売部門、この会社、名前は立派ですが、やばい商品に手を出して破綻した会社が名前を変えただけ。実用一点張りのオフィスにはモーゲージ(担保付)証券の帝王と呼ばれるシドがいます。「エスキモーに雪だって売りつける」というやり手の彼の一日は、真夜中と夜明けの中間当たりに始まります。一日電話にかじりつき、デタラメを並べては何千万ドルという債券を売りまくる彼。こんな仕事辞めてやる!が口癖なのですが、何しろ歩合制で収入は良いし、あと少しでストック・オプション(自社株を安く買える制度)の権利が使えて4百万ドルが転がり込んでくるわけで、辞められっこない。そして、ノルマを押しつけるしか能のないマネージャーのコヨーテ・ジャックもそれをお見通し。そこに飛び込んできたのが何をしでかすか分からない「金融テロリスト」ともいうべき新人エッグズ。売れるものなら、手数料の入るものなら、何にでも飛びつくという彼らの習性は、やがてルーマニアの森林開発への怪しげな(というか、100%怪しい)融資、やがてはドミニカの国土をモーゲージにして売り払うという、「ドミニカ株式会社」設立の計画にまで飛んでいきます。

 登場人物は当然、みんなぶっ飛んでいます。シドは机の下に潜らないとセールストークが出てこないし、重度のコーヒー中毒、エッグズは社内のカフェで朝食に出てくるデニッシュで相場を張り、パンケーキやメイプルシロップの先物買いに走るという若者。他にもデンタルフロス中毒のセールスマンやら、ファックスを武器として輸出すると大真面目に目論見書を作る男(ファックスのメモリいっぱいまで宛先を登録してジャンジャン送信することで敵の通信網を破壊するのだそうで・・・)やら、出てくる連中は全員完全にイカれています。
 彼らはお金にイカれているのです。お金というのは壺に入れて庭に埋めておけば問題ないのですが、一旦どこかに預けてしまうとそこから自動的に転がりだします。決して止まらずにあらゆるものに形を変えて、世界の端から端までを一瞬で移動しながら増殖を続けます。彼らはそのノン・ストップのジェットコースターからどうしても降りることができません。
 極端なストーリー展開、オーバーアクション、延々と続く突っ込み同士の漫才のようなけたたましい会話・・・、この作品は小説ではありますが、正体は「劇画」なんですね。
 金融商品の知識なんて全然なくても、いい加減に飛ばし読みしても、全く問題なし、笑えます。原題は「Bombardiers」(爆撃手)、この連中の通過した後はペンペン草も生えません。



Leaf2001年3月16日 上尾信也 「音楽のヨーロッパ史」

 昔々のもっと昔、人間の生まれる前から地球には音がありました。音を伝える空気がある貴重な星だったからです。波の音、木々のざわめき、そして生物が生まれて鳥のさえずり、獣の雄叫び・・・。今でも鳥や動物は、その声で意志を伝え、愛を告白しています。しかし、地球上で最も最も音を進化させたのは人間です。
 音は消えてしまいます。ダビデは竪琴の名手だったそうですが、今の私たちはもう決してそれを聴くことはできません。録音という手段が発明されるまで、音はたとえどれほど美しくても、その場限りで消えてしまうものでした。そんなとらえどころのないものなのに、なぜ人はここまで音にこだわるのか?
 残された古文書から古代の楽器の形を復元し、その音色を蘇らせる試みからこの本は始まります。それらの楽器はシンセサイザーから見れば石器としか言いようのない稚拙なものですが、そこから醸し出される戦いの太鼓の音、死者を送る笛の音、そして何よりも一番原始的な楽器、つまり人間の声帯から流れ出る「歌」というもの。ただ空気が振動し、その波長によって高低が生じるというだけの音、それをつなぎ合わせることであらゆる感情が表現できるということの不思議さを改めて感じさせる本です。

 戦場での士気高揚と葬式での死者の弔いから始まった音楽は、やがて教会で神を讃える賛美歌として洗練され、物語を伝える吟遊詩人たちによって感情表現を磨き上げ、神の支配から人間の精神を解放したルネサンスに至って、美しく心を慰めるものにまで発展します。世界が複雑になっていく過程で、音楽はある時は支配の道具とされ、ある時はそれに対抗する反乱の呼びかけにもなりました。国家はできるだけ威厳のある「国歌」を欲しがり、ハイテクの時代になっても軍楽隊は健在です。音楽というものの持つ力は時代が変わっても少しも変わりません。単なる空気の振動がなぜこれほどの力を持つのか?音楽は消えてしまいますが、それを聴いた記憶は残ります。そして、その時の音楽の印象が強ければその記憶はいつまでも残ります。
 何かの拍子に、昔大好きだった旋律、あるいは大嫌いだった旋律を聴いた途端に、その時の細やかな情景まで鮮やかに記憶が蘇ってハッとすることってありませんか?音楽は間違いなく記憶と一体となって脳のどこかに格納されているのだと実感する瞬間です。

 膨大な資料と労力の結果なんだろうなぁってつくづくと感じさせる歯切れの良い文章です。音楽という言葉にするのが少々厄介なものを歴史という別の視点から見ることでバッチリと捕らえることに成功している本だと思います。
 たとえばオリンピックの開会式からファンファーレが消えたら、教会のミサから賛美歌が消えたら、楽しいパレードからブラスバンドが消えたら、世界が今よりも色褪せることは確実でしょう。
 消えてしまうからこそ、記憶の中にしか残らないからこそ、音楽はその力を発揮することができた・・・。どんな音でも記録することが可能になってしまった現代、私たちはとんでもない音の浪費社会で生きています。あちこちで考えることもなしに垂れ流しになっている音と旋律・・・、もう少し音楽を大切にしたいですね。


Leaf2001年2月15日 澤口俊之・南伸坊 「平然と車内で化粧する脳」

 気鋭の認知神経と霊長類の学者さんである澤口先生と超一流の「落ちこぼれ」役であるイラストレーターの南さんとで繰り広げられる「何で日本人はこんなに非常識になってしもうたのか?」についての講義録です。
澤口先生の分析によりますと、

 1. 元々人間は未熟に生まれる(生まれてから1年も経たないと歩けない生き物なんて他にいない)
 2. それは前頭連合野という知性をコントロールする部分の発達をわざと遅らせて環境の変化に対応しやすくするための戦略である。
 3. 特に日本人を含むモンゴロイドは未熟(ネオテニー)化が進んでいる。
 4. であるからモンゴロイドの子供は前頭連合野の発達のために長期間に亘る丁寧な「躾」が必要となる。
 5. ところが日本人は子育ての方法や食事をコーカソイド流の自立・孤立を進める方向に乗り換えてしまった。
 6. よって前頭連合野未発達のまま見てくれだけ大人になってしまった日本人は、自己や社会の認識ができない。

 というのが一応のお話です。簡単に言ってしまえば「躾がなっとらん!」「親の顔が見たい」というよく耳にするお話なのですが、それが全部神経学的・動物学的に説明がついてしまうところが実に気持ちいいです。
 生活のスタイルというものはほんの10年ほどで激変することがあるわけですが、脳の方は数十万年前と変わらない、というわけです。考えてみれば、動体視力は歩行速度のままで自動車や飛行機を操り、電波を通じて遙か彼方の見えるはずもないところまで見て、コンピュータ・ネットワークを神経回路の延長のように張り巡らせている現代の生活、人間の脳はかなり無理をしているのでしょうね。
 この本によると、モンゴロイドの理想的な発達環境とは、大部屋で雑居して家族と出来るだけ一緒に過ごし、ご近所のおっかないおっさんや口うるさいおばはんに叱り飛ばされ、悪ガキにいじめられることで揉まれ、前頭葉の発達のために青魚、豆、米をたっぷりと食べるというものだそうで、何のことはない、昔の日本の生活はモンゴロイドの発育に適っていたのだそうです。
 確かに同じモンゴロイドのモンゴル遊牧民や北米のネイティブ・アメリカンを見れば、いくらでも周りに土地があるわけでその気になれば10LDKでも100LDKでもバンバン天幕を増やしていけるはずなのに、大きな天幕でみんな一緒というライフスタイルが伝統です。

 しかし、一点、納得がいかないことがあります。誤ってコーカソイド流に育てられた若い世代が「恥知らず」なのはこの本で分かるのですが、伝統的な日本流の育てられ方をした人たちにだってしっかりと「恥知らず」が存在するのは何故なのでしょう?永田町界隈にたくさん生息していますよね、この手の人間って。



Leaf2001年2月3日 ゲアリー・ブラックウッド 「シェイクスピアを盗め!」

 時は1601年、場所はロンドン。かあちゃんが死んじゃって、とうちゃんはどこの誰だか分からない孤児のウィッジはやっとのことで孤児院から出ることができました。牧師さんの家に徒弟として貰われたのです。この牧師さん、ウィッジに自分で考案した速記術を教え込みます。他の教区の牧師さんの説教を書き取らせて、それを自分の説教用にパクるためです。何ともせこい牧師さんのせいで速記術を身につけたウィッジは、この特技のおかげで大冒険に巻き込まれます。
 牧師さんから気味の悪い謎の男に売り飛ばされ、それからさらに別のご主人に売り飛ばされた彼の新しい仕事は、今をときめく大人気作家シェイクスピアの「大絶賛上演中」の芝居、「ハムレット」を書き取ることでした。それをそのまま地方の劇場に乗せてしまえば、大儲けができるというわけです。
 なにやら訳の分からないままで「ハムレット」を見にグローブ座に潜り込んだウィッジですが、セリフが全然書き取れない。彼はハムレットの口からあふれ出す言葉にすっかり心を奪われてしまったのです。成り行きから急遽役者志望の少年になったウィッジ、当時の舞台は女性が上がることはできませんでしたから、オフィーリアもジュリエットも全てボーイ・ソプラノの男の子が演じていました。ウィッジ君も将来有望な「女形」として一座に加わります。しかし、「ハムレット」の台本を首を長くして待っている雇い主が彼を放っておくはずもない・・・。

 現在進行形で進むシェイクスピア一座の物語、勿論シェイクスピアさんご本人も登場します。少々気難しくて、でもとても優しいおじさんです。エリザベス一世も登場します。日の出の勢いの大英帝国を背負う女王様からウィッジは「きっと立派な役者になるでしょう」とお言葉まで頂戴してしまうんです。田舎育ちの訛りをからかわれつつも一生懸命役者修行を続ける彼ですが、なかなか本当のことが言えない、嘘をついているのは苦しいけど、本当のことを言えば一座から追い出されてしまうかもしれない、彼は劇場の持つ魔力の虜になってしまったのです。

 ミステリー仕立ての作品ですが、謎といえるほどのものはありません。少年の言葉で描き出されるシェイクスピアの時代のロンドン風物詩といった方がいいでしょう。彼を取り巻く少年たちとの生き生きとしたやりとり、へこむような出来事の連続でも、それを孤児院で身につけた処世術で乗り越えるウィッジには、誰もが声援を送りたくなると思います。
 そして何よりも演劇というものの魅力、「セイレーンの歌」を聞いてしまい、舞台の上で虚構の姿を借りた真実を演じることにとり憑かれた役者たち、なけなしの小遣いを握りしめ、ぬかるんだ道を踏みしめて、汚いテムズ川を渡し船で渡ってグローブ座に足を運ぶ大勢の観客、全てが一体となる劇場という空間の魅力が余すところなく描かれています。
 どうしても役者になりたくて、胸に厚く布を巻き付けて「女形」を演じ続けていた少女、彼女のエピソードが一番好きです。そして何よりも、シェイクスピア劇(できれば「ハムレット」)を見に出かけたくなりました。


Leaf2001年1月15日 ケン・フォレット 「ハンマー・オブ・エデン」

 カリフォルニア州のある渓谷がダム建設のために水没することになります。豊かな社会は莫大な電力を消費します。その電力のおかげで人は便利で快適な生活が維持できます。でも、その渓谷には全く別の価値観を持つ人たちが住んでいました。文明を否定し、外部との交渉を拒否する、アウトロー、元ヒッピー、社会から少々ずれている人間達が集まって作り上げた小さなワイン農場、そこも水没してしまいます。
 インターネットの掲示板に書き込まれた「全ての発電所開発をやめろ、さもないととんでもないことが起きる」という書き込み、悪戯に決まっていると一応型どおりの調査を始めたFBIは、彼らが本気であり、そして西海岸を壊滅させることもできるという悪夢に直面します。
 サイスミック・バイブレーター、油田探査のための巨大な機械を地殻の裂け目の上で作動させれば地震が起こる、そして一台の機械が盗まれたという事実、上司とそりが合わず左遷同様の仕事にふてくされていたFBI捜査員ジュディ・マドックスと、自分たちのコミューンを守り抜くためには手段を選ばない「プリースト(僧侶)」との死闘が始まります。
 人工的に地震を起こす、どうやって地殻の裂け目の位置を正確に知る?どの程度の力で地震は起こる?その時の被害は?次々と繰り出される科学的な描写ははっきり言ってよく分からなかったし、本当にこの方法で地震が起きるのかも私には分かりませんでしたが、ともかく最後まで引っ張る、引っ張る、途中でやめることのできない一冊でした。というわけで655ページを5時間で読んでしまった。
 テロリスト対FBIという典型的なプロットなのですが、フォレットはどちらにも同じウェイトを置いています。FBIのジュディはアメリカ人とベトナム人の両親の下(戦争の結果として真摯な愛が生まれることもあったんですね)、愛情たっぷりに育てられ、努力すればきっと報われる、みんなが幸せになることはきっと可能である、というアメリカ的、楽天的な民主主義万歳精神を信じています。対するプリーストは14歳の娼婦が生んだ私生児、彼は自分に居場所を提供してくれない世界を否定し、根底に進歩に対する悲観主義を宿しています。
 ダム建設に反対する、これは言論と幸福追求が保証されている世界では、その権利が認められています。但し、それには大変な時間と忍耐が必要です。反対運動を組織する、訴訟を起こす、世論に訴える、議会でロビー活動を展開する、合法的な手段はいくらでもあるのですが、アウトローとして生まれたプリーストにはそれが分からない。ダム反対=テロという短絡的な手段しか見えない彼。そして市民の安全を守るためには上司も蹴飛ばす、恋人も蹴飛ばす、という元気な「法の執行官」ジュディ、彼女にはテロは見えても、その陰に隠れている落ちこぼれた人たちの悲しみは見えません。どちらも同じくらいいびつで、どちらも同じくらい正義で、そして同じくらい醜悪です。

 フォレットはタフな女性を描かせたら天下一品です。「針の目」では平凡な主婦がドイツ最高のスパイと渡り合いました。「第三双生児」では最先端テクノロジーの闇に一人の女性が立ち向かいました。彼女たちはそんなことを望んでいるわけではないのに極限状況に放り込まれた時、自分でも知らなかった強さを発揮します。しかし、この作品でのジュディは自分の強さを知っており、それを武器にして野心を追い求めることができる女性です。彼の描く女性はさらにタフになっているようです。
 だから一層、テロという手段しか知らず、その小さな世界から結局一歩も出ることのできなかった「プリースト」が哀しい。進歩し続ける社会はこれから先、いったい何人の「プリースト」を生むのでしょうか。




GO HOME HOME