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2007年12月22日 レイ・ブラッドベリ 「さよなら僕の夏」
2007年11月25日 トマス・H・クック 「石のささやき」
2007年9月30日 星新一 「ボッコちゃん」
2007年7月23日 ジョン・グリシャム 「大統領特赦」
2007年6月21日 児玉清 「寝ても覚めても本の虫」
2007年4月13日 杉本苑子 「終焉」
2007年3月8日 ロバート・ハリス 「ポンペイの四日間」
2007年1月24日 ジョナサン・キング 「真夜中の青い彼方」
2007年12月22日 レイ・ブラッドベリ 「さよなら僕の夏」
巨匠ブラッドベリが「たんぽぽのお酒」で描いた夏、舞台は1928年のイリノイ州グリーンタウン、13歳のダグラス・スポールディングの夏は、重たい革靴から解き放たれた彼の脚を、夏草を蹴散らして、誰にも見えない速さで回転するカモシカかガゼルの脚に変えてくれるはずの新しいテニスシューズから始まりました。アウフマンさんの世紀の大発明にして世紀の悲劇である「幸福マシーン」、フリーリー大佐の「タイムマシーン」、渓谷に潜み、思いがけない時に思いがけない人に死をもたらす「孤独の人」、本当に必要なものなら何でも揃っているガラクタ売りのジョーナスさん、ある人はこの夏を最後にこの世を去り、ある人はこの夏に生きていることを初めて感じる、黄金色のタンポポのお酒が、その夏を永遠に留める・・・。
それから1年後、この本が描く1929年の夏、ダグラスは14歳、平和で退屈な田舎町、グリーンタウンは戦場と化したのです。
ダグラスと教育委員会の委員であるクォーターメイン老人との間に勃発した戦争、ダグラスは、弟のトムや友人たちに、老人たちは僕らをまるでチェスの駒のように勝手に動かしている、今こそ僕らは彼らの圧制から解放されなければならないんだと厳かに宣言し、クォーターメインは、杖を振り回し、怒鳴りつけ、威嚇し、応戦します。
ダグラスは声高く訴えます、彼らはぼくたちを成長させ、嘘をつき、盗むことを教える、大人になれば、強盗になって射殺されるか、上着とネクタイを着せられて銀行の真鍮の格子の中におかれるか、金切り声で言い立てる誰かと結婚することになるんだぞ!
クォーターメインはさらに声高く罵り返します、ばかどもめ!夏休みを短くしてやる、クリスマスの休日を削ってやる、春の凧揚げ大会を中止してやる!
ダグラスたちは成長なんかするもんかとハンストを始め(2時間しか続きませんでしたが)、公園のチェス盤を攻撃し、時計台に爆竹を仕掛けます。老獪なクォーターメインは、砂糖衣の花びらをまとった真っ白なバースデイケーキで彼らを迎撃します。そして・・・。
作者37歳の時に書かれた「たんぽぽのお酒」、そして、87歳となった作者が書いたこの作品、続編を期待して読むと少々あてが外れます。少年の夏の一日一日を閉じ込めた黄金色のたんぽぽのお酒の瓶は、今も地下の食料庫の棚に並んでいます、永遠にその輝きを留めたままで。本書は、瓶に封じ込められた夏の記憶の続きではなく、封じ込めることなど誰にも決して出来ない「時」を、少年と老人、双方の視点から描き出そうというもの。
ブラッドベリの文章を読むには少々のコツというか、根気が必要です。どのページも、ランダムに反射するプリズムのような、捉える角度によって色彩も輝きも全く違う言葉で溢れかえっています。一行一行をじっくり読まないことには、その豊穣な表現がいちいち引っ掛かって先に進めないのです。ブラッドベリを読むということは言葉との格闘を意味します。常日頃、すーっと読める文章ばかり読んでいる脳には少々きついですが、その先に待っている果実が美味であることは保証つきです。
ダグラスは、音もなく自分に近寄ってくる「退屈」や「凡庸」の包囲網を感じ取り、闇雲に強行突破を試みます。クォーターメインは頑迷と孤独という鎧を纏い、この世のありとあらゆることを非難することで、彼を容赦なく墓場へ引き摺っていく世界を拒絶しています。どちらも滑稽で、どちらも幼稚で、そして、どちらも哀しい。
「老いた人びとはそもそも子供だったように見えないがゆえに、かれらはけっして子供だったことはなかった!彼らは別の人種なんだ!」、私もダグラスの年齢だった頃、20歳以上は全員得体の知れない「オトナ」という生物で、何年たっても少しも変化しない、背も伸びないし、顔立ちも変わらない、石で出来ているような印象を持っていました。そして、自分がその「別の人種」になってみれば、ガキという存在は、何とうるさくて、腹立たしくて、暴力に満ちていることか。
早く大人になりたいという子供はどこか哀れっぽい、もう一度子供になりたいという大人はどこか愚かしい、ダグラスとクォーターメインは、現在という前線を挟んで、過去と未来に陣を張り、そこから一歩も動くまいと厳しく対峙し、滑稽に戦い、静かに白旗を掲げます。どちらも勝利し、どちらも敗北した戦い、ダグラスは老人の目で、クォーターメインは少年の目で、お互いを見つめ、「時間」を受け入れるのです。
「人生について全部知りたいのかね?」、クォーターメインは尋ね、ダグラスは頷きます、「不屈の意思を持つことだ」
ブラッドベリは、この一行を書きたかったのだと思います。少年は日々成長していく、今日出来なかったことが明日には出来る、老人は日々衰えていく、今日出来たことが明日には出来なくなっている、どちらも未知のものに対して果敢に向かっていく冒険の旅、その旅の終わりは死と決まっています。死こそが最後に出会う「未知」、そこに至る道のりを勇敢に、そして辛抱強く歩き通してこそ、死は豊かな実りとなって甘く香るはず、87歳を迎えたブラッドベリの不屈の意思がそこにあります。
終章、クォーターメインとダグラスは、それぞれ男性の下半身にある器官を介して「性的衝動」と会話をします。「彼」は老人にそっとお別れを告げます、ぼくをみかけても、誰も困らさないでくださいよ、いいですか?老人は答えます、きみには末永い人生を、よい人生を、幸せな人生を願っている。
「彼」は少年にそっと挨拶をします、ぼくです、ここです、そう、そうですよ。少年は尋ねます、ぼくたちはそうなの?友だちなの?「彼」は答えます、あなたがこれまでに得た最上の友ですよ、一生の。
突然、町は少女たちで満ち溢れていることを知ってうろたえていたダグラスは、そっと耳を澄まし、夏が終わる音を聞きます。
ダグラスたちが爆竹で破壊しようと試みた時計台の鐘が夜明けを告げます。
2007年ももうすぐ長い長い過去の列の末尾に連なります。かけがえのない一年がやってきます。概ね一生懸命に、時に怠惰に、しかし、不屈の意志をもって迎え討ちたいものです。
2007年11月25日 トマス・H・クック 「石のささやき」
新作が出ると買ってしまいます。買ってしまうと家に帰るまで待てません。帰り道で読み始めて、そうすると、その作品の世界が脳の一部に勝手に住み込んでしまって、じわーっと気になってしまう、何をしていても妙に引っかかるというかやるせないというか、もう時間が許す限り作品の世界に埋没して、一気にカタ付けるしかなかとじゃろーが、と妙に極道チックに独りごちてしまう、クックというのはそういう不思議な作家です。
物語は二層構造、一層目は警察の取調室で「おまえ」が語るある事件、そして二層目は「わたし」が回想する一層目に至るまでの過去。「わたし」がいつ、なぜ「おまえ」に変貌したのか、「おまえ」は被疑者で「わたし」は弁護士、事件の部分部分をちらつかせつつ「二人」が入れ替わりつつ語るもの、それは家族というあまりにもありふれていて、だから閉じ込められているのに誰も疑問に思わない、そんな哀しい牢獄の物語。
半端仕事を転々としつつ、辛うじて生活を維持していた父、父に言わせれば世間は低俗な人間ばかりで、そんなバカ相手にまともにやってられるか、ですが、世間から見れば、父は何をやっても長続きしない負け犬。デタラメに増築されたあばら屋で、姉のダイアンと「わたし」相手に、あらゆる箴言と詩を無理矢理暗記させることに熱中し、それでも消化しきれない怒りを、彼の「敵」たちの留守番電話相手にぶちまけていた父、やがて、父は正常から異常に踏み出して、誰の手も届かない狂気の果てまで行ってしまい、帰ってくることなく死んでいった。父から解放され、おずおずと世間に踏み出したダイアンと「わたし」、ダイアンは化学者と結婚し、「わたし」は離婚専門の田舎弁護士として、それぞれ平凡すぎる人生を歩き出した。でも、その平凡な生活は、ダイアンの息子ジェイソンが自宅近くの池で変死するまでの、束の間のものでしかなかったのです。
知的障害があったジェイソン、その死が事故と断定された時、ダイアンの中に眠っていた父の遺伝子にスイッチが入ってしまった、夫が息子を殺したの!石が私にそう告げたの!あの姉が、怜悧で、思いやりがあって、そしてタフな姉が、父と同じ道を歩き出したのか?「わたし」は姉を信じるために、その奇妙な言動に何とか意味を見出そうと努力するのですが、思春期の娘がエキセントリックな姉に惹かれ始めた時、姉を捨てて家庭を守ることを選びます、選ばざるを得ないのです。
そして、「わたし」は「おまえ」となって、警察の取り調べを受けている、容疑は殺人未遂、「おまえ」はある人間を殴った、生まれて初めて本気で人を殴った、殺そうと思って殴った、なぜなら・・・。
いかにもクックらしい細やかな仕上がりです。至るところに巧妙に張られた伏線、これらが、どれがいつどうやって表に出てくるのかが全く予想できない、物語自体はいたって簡単、人が死んだ、事故か他殺か、それだけですが、この伏線が気になって、びくつくというか、いらつくというか、しかし、クックの場合、この感覚がクセになってしまうのです。
物語の一つの軸は、「わたし」とダイアンの父が持っていた統合失調症、父から虐待されて育った姉と弟は、常に自分もああなるのではないかという恐れを抱いて生きてきました。二人はお互いにお互いを観察しては自分と見比べ、あるいは、お互いにお互いから目を逸らして恐怖を押し隠し、それは愛情と呼ぶにはあまりに濃密な関係。と同時に、「わたし」が語る姉の奇行も、「おまえ」が供述するアリバイも、果たして本当にそうだったのか、ひょっとして、それも狂気が紡ぎ出した幻影ではないのか、読む者は果てしなく翻弄されてしまうのです。クックのこれまでの作品の中でも、今回のこの仕掛けは一番きつい。
統合失調症の場合、ある日、誰かの声が頭の中に聞こえてきて、他に誰もいない以上、テレビもラジオもそこにはない以上、それは明らかに自分の声なのですが、それを自分の声と認めるのは非常に困難なので、ある時、それを自分の声だと認める努力を放棄して、何者かの声にしてしまうわけですが、石が囁く・・・ところまで行ってしまうと、それを自分に納得させる合理的な理屈はもうどこにもない、それはおそらく、とてつもない孤独なのだろうと思います。
しかし、読み終わって胸に残るのは、家族というのは時としてここまで無惨に人を傷つけるのだということ、ダイアンも「わたし」も修復不能なまでに父親に傷つけられ、しかし、父を守った、なぜなら家族だから。世界にいくつの家族があるのか知りませんが、家庭という密室の中で、殺人とならない殺人が、傷害とならない傷害が、果たしてどれだけ発生しているのか、一緒にいないことが一番良い関係、ということだって当然にあるはずなのですが、家族という呪縛がそれをさせない。家庭は、時に暖かな揺りかごとなり、時に安全な聖域となり、そして、時におぞましい牢獄となる、家族を描かせて右に出る者なしのクックらしい作品です。
ただ、そのクックだからこそ、少々縺れすぎてしまった伏線の後始末の雑が気にならないでもありません。彼の作品としては中の出来だと思います。
声が言った・・・、素っ気ない最後の二行が恐ろしい、声は彼をどこへ連れて行く?
2007年9月30日 星新一 「ボッコちゃん」
夏恒例の新潮文庫「100冊」、私は毎年楽しみにしています。古典から新作まで、国内から海外まで、作品の選択のバランスがよろしいので、タイトルを眺めているだけでちょっとした文学史の感があって楽しい。見逃していた一冊を見つけたり、懐かしい一冊と再会したり、帯のマークを切り取って送るとブックカバーが貰えるし。そして、今年の夏、私が再会したのが「ボッコちゃん」。
読んだのは確か中学生か高校生くらいでした。あの頃は文庫本だって高嶺の花でした。今みたいに気に入った作者の本をごっそり大人買いできるはずもなく、限られた小遣いで毎月数冊の文庫本を選ぶのは結構骨でした。そして、星新一氏のショート・ショート、全部で1001作品あるのだそうですが、新潮文庫からは数十冊出ており、はまるとしつこい性格の私は、コツコツとそのほとんどを読んだと記憶しています。中でも、この「ボッコちゃん」は面白かった。タイトルのボッコちゃんは、ロボットオタクの酒場の経営者が作った人間そっくりの美人ロボット、但し、おつむの方はさすがに人間そっくりとはいかず、まぁ、パリス・ヒルトンとチンパンジーのモモちゃんの間のどこか(どっち以上でどっち以下かの判断は、お任せいたします)、相手の言葉を返すことしかできません。そんなボッコちゃんに恋をした青年、そっけない態度に絶望し、酒のグラスに毒を入れる、その後・・・、という物語。
久しぶりに読み返してみると不思議な感覚に囚われました。殆どの作品を忘れてしまっているのです。つまらなかったから忘れたのなら分かるけど、すごく面白かったのに忘れている。長大だったから途中で訳わかんなくなったのなら分かるけど、数ページの作品なのに忘れている。ありがちの展開だったから忘れたのなら分かるけど、ラストのヒネリで呆気にとられたのに忘れている。これは、氏の作品以外ではまずお目にかかれない独特のテイストです。それはなにゆえか?
一つはその文体、文章ではなく文体だけを見れば、つまらん!でお終いです。外国語会話の初級テキストのような、役所の窓口のボードに貼ってある「お知らせ」みたいな、徹底的に色彩と個性を刮げ取った文体は、状況を正確に、しかし、個人的感情を抜きに表現するという、文学というよりも実験レポートか何とか白書のお手本にすべきものです。
会話は実に丁寧、正しい用語、正しい文法、「てにをは」一つとして疎かではない、つまり、現実では決してあり得ない会話であり、だから読む人間は登場人物に決して感情を移入することができません。
主人公の名前はエヌ氏が多い、エヌはアルファベットの中では響きが地味、数学では未知の数を表す文字です。そして、名前以外でも固有名詞が徹底的に排除されている、不思議な事件が起こるのは、「ある大都会にほど近い静かな町」であって決して多摩ニュータウンではありませんし、「宝石をちりばめた高級時計」は決してパティックではありません。希に使われる固有名詞は全て奇妙な音の組み合わせの造語、つまり、覚えにくいのです。
描写は極端に抽象的、完全な美人のボッコちゃんにしても、その美貌は果たしてキャメロン・ディアス似なのか、アンジェリーナ・ジョリー似なのか、全く不明です。美味なる一皿の描写も、爽やかとか新鮮とかだけ、甘いのか、辛いのかすら不明です。
大金を表現するのに100万円とは書かず、「しばらく遊んで暮らせるだけの金」、登場する貨幣は、紙幣や金貨、銀貨と表現されますが、決して現実の通貨単位は出てこない、インフレやデフレにも対応できます。
唯一、氏が対応できなかったこと、それはタバコですね。今回読み返してみて、実に多くの登場人物がタバコを嗜んでいます。さすがの氏も、21世紀、タバコを吸うことがここまで肩身の狭いことになるとは予想できなかったようです。
面白かった、楽しんだという記憶だけが残り、物語そのものはすーっと消えていく、忘れられるために最新の注意を払って書かれた作品、今、読み返してみると、その仕掛けの巧緻さにあきれかえってしまいます。
私のお勧めの星新一作品の読み方、それは文庫本を数冊、テーブルの上やベッドサイドに配置しておいて、気が向いた時に読むというやり方、ちょうどチョコレートの詰め合わせの箱のように、その時の気分で好きな一粒を拾い読みして良し、でたらめに開いたページの作品を読んで良し、こんな読み方が出来るのは、氏の作品だけです。
奥付を見ると第一刷は実に昭和46年なんですね。しかし、全く昭和の香りを持たない、それをいうなら香りというものを一切持たない作品は、少しも色褪せないでここにあります、まるでボッコちゃんのように。
2007年7月23日 ジョン・グリシャム 「大統領特赦」
さて、第18代アメリカ合衆国大統領、ユリシーズ・グラント、そう、あの西部劇でお馴染みのグラント将軍、陸軍士官から大統領まで登り詰めたアメリカン・ドリームの体現者は、悲しいことにアメリカ史上最悪の大統領の一人に数えられています。なぜって金と酒に意地汚かったから。そんな彼にも怖いモノがありました、それは奥方のジュリア。ホワイトハウスでタバコを吸わないで!奥方の仰せに従って仕方なくホテルのロビーでタバコをふかす大統領、その周りには常に彼の大好物であるタバコ、ではなくて、金をチラつかせて何ごとかを耳元に囁く陳情者がたむろしておりました。彼らこそ、ある特定の個人または団体の意を受けて議員や公務員に働きかけることを生業とするロビイストのルーツと言われています。
日本人は生真面目というか、自虐的というか、政治と金の問題となると我が国が一番汚いかの如く思い勝ちですが、どうしてどうして、政治が金で動くのは世界共通の法則です。「下部構造としての経済が政治や国家といった上部構造を決定する」、他のことはともかく、マルクスのこの言だけは当たっています。
かつてワシントン一の辣腕を誇ったロビイスト、弁護士のジョエル・バックマン、電話一本で軽く7桁の報酬を稼ぎ出していた男は、目下、連邦刑務所に懲役14年の刑で服役中。数千ドルのオーダーメードスーツと高級ブランドのネクタイはオレンジ色の囚人服に変わり、三ツ星レストランの一番見晴らしの良い席でのパワー・ランチは、ボロボロのパンと薄いスープに変わり、そして、三人の元妻も一人の息子も、その他大勢の愛人たちも誰一人として手紙も寄こさず、暖房費をケチった寒い独房での生活は、選挙にぼろ負けしてホワイトハウスを去る大統領の最後の仕事となる特赦がなければ、あと10年は続くはずでした。
バックマンが華麗なキャリアの果てに引いてしまったジョーカー、それは、軍事衛星を無力化できるコンピュータ・プログラム、米国は勿論、ロシア、中国、イスラエル、サウジアラビアが入り乱れての争奪戦、欲に駆られたバックマンは掛け金をつり上げすぎてしまいました。そう、金ではなく命がテーブルの上に乗ってしまったのです。命の保障を得るために司法取引に応じて服役したジョエルが、突然に娑婆に放り出されてしまったことで、おぞましいゲームは再開されてしまいます。
刑務所には囚人と看守しかいませんが、娑婆では色々な人間が勝手に動き回っています。例えば、彼を泳がせればプログラムの在り処に案内して貰えると目論むスパイ、例えば、プログラムが敵に渡る前に問題人物を問題ごと葬ってしまいたいヒットマン、例えば、彼を餌にしてどこが一番最初に仕掛けてくるかを掴みたい諜報機関・・・。にわかに国際的な「人気者」となったジョエルは、CIAによってイタリアへ、イタリア系カナダ人のビジネスマン、マルコ・ラッツェーリとして新しい人生を始めます。
イタリア語は全く理解できない、パスポートもない、現金もクレジットカードもない、狼が群れをなしている森に放り出された羊のようなマルコ=ジョエルは、どうやって生き延びるのか?
久々のグリシャムです。そのせいか、どうも少々勝手が違うような・・・。シンプルで力強い文体、さらりと上品な描写、平易な表現、さすがに巨匠の仕事なのですが、妙にカックンカックンと引っ掛かる感じがします、物語が走らないのです。その主な原因は「イタリア」にあるようです。どうも、巨匠、サスペンスよりもイタリアへの愛を語る方にご執心の様子です。
そもそも、何でイタリア?イタリアを舞台に設定する動機が、作者にはあっても作品にはないのです。バックマンを囮にして各国の工作員の動きを監視したいんでしょ?他を出し抜いてプログラムを手に入れたいんでしょ?そして、用済みとなったバックマンを消してしまいたいんでしょ?はっきり言ってイタリアは向いていません。あの国は、良い意味でも悪い意味でもでっかい田舎町というか、そして「田舎モン」というのは、何せ暇ですし、全てを見ているし、全てを記憶しているもんなんです。せめてローマなら観光客で一年中ごった返しておりますが、バックマンが身を隠すのはボローニャ、魅力的な通好みの街ではありますが、エスピオナージは無理ですって。
古都ボローニャでイタリア語のレッスンを受けるマルコ、彼の娑婆での看守を勤めるルイージ、語学教師の大学生エルマンノ、そして、訳ありの人妻フランチェスカ、一同が熱っぽく語るのは、イタリアの風土、食文化、ファッション、遺跡等々。食後にカプチーノを飲むのはイタリア人じゃない、イタリア人はたっぷり食べた後にミルクを飲むような悪趣味なことはしないとか、天然素材かつ古びたものをトータルで着こなせないとイタリアでは逆に目立つとか、まー、薀蓄は楽しいのですが、サスペンスはどーなったの?と心配になるのも事実です。
やがて、自分の置かれた立場とその未来を知ったバックマンが逆襲に打って出るのですが、そのノウハウ(一文無しでどうやってイタリアを脱出するか、そこいら中に張り巡らされている監視網をどうやって出し抜くか)は、いささかご都合主義ではありますが、面白い。しかし、突っ込みどころが満載なのも事実です。だいたい、追っかける側の諜報機関にロシアやら中国やらイスラエルやら、何でもありの物騒なメンツを揃えておきながら、妙に皆さん「いい人」でして、だから、バックマンの逃避行が盛り上がりません。シチュエーションや小道具は楽しめるのですが、サスペンスは期待しない方がよろしいです。
結局、巨匠はイタリアに恋しているんだなーということで、つまり、イタリアに興味がないグリシャム・ファンにとっては大コケの一作でしょう。しかし、これでもまだ普通のサスペンス作家の作品に較べれば、アタマ一つ突き抜けているところがさすがにグリシャムです。
ラスト、ある人と新しい人生に漕ぎ出すバックマン、ハリウッド映画のテイストですが、心の底からほっと出来る、そう、書いたグリシャムもそれに納得した私も、世の中のからくりに少々疲れているのかも知れません。
2007年6月21日 児玉清 「寝ても覚めても本の虫」
「アタックチャンス!」の人ですね。1934年にお生まれになった俳優さん、つまり、今年で73歳、昔から成熟したイメージが強かった方ですから、実年齢がイメージを追いかけていたせいでしょうか、今、テレビなどで拝見しますと驚くほどお若いです。私は、この方を見るといつも、あぁ、俳優さんになってくれて良かったなぁ、だって、もしもこんな人に詐欺師の才能があったら、振り込め詐欺なんてもんじゃない、日本中のお年寄りの年金は全てこの人の財布の中に吸い込まれるだろうと思ってしまうのです。児玉清さん、ともかく、この人には、良い人、誠実な人、決して嘘を言わない、決して裏切らない、万が一そうなってしまったなら、それはこっちが悪いんです、ごめんなさい!っていう雰囲気が立ち込めています。二枚目だけどほんのり暖かい、知的だけどどこか可愛らしい、優しそうだけどベタつかない、つれないようでちゃんと全てを見ていてくれる、そんなとびっきりの安心感がある。それに加えて、あの人を眠りに誘う大きな羽根枕の如きまろやかな声。
そして、そんな児玉さんは無類の本好き。
大好きな作家として上げられているのは、マイケル・クライトン、ディック・フランシス、ネルソン・デミル、ジョン・グリシャム、エリック・シーガル、トム・クランシー、ケン・フォレット、パトリシア・コーンウェル、カール・ハイアセン、エイミ・タン、そして、ウイリアム・サファイア・・・、ずらりと並ぶのは現代の英米を代表するストーリー・テラーばかり。かなり偏っていますが、そこがまた良いんです。
うーん、デニス・ルヘインは?軽さと重さのバランスが少々悪いところもあるけれど、ストーリーの走らせ方は天下一品だと思うんだけどなぁ。グリシャムやスコット・トゥローが好きなら、ノース・パターソンは?確かにステレオタイプに走りがちだけど、ツボは外さないし、陰影の付け方もうまいんだけどなぁ。ハーラン・コーベンは?時々腰がふらついている感もあるけれど、若いに似合わずオチのヒネリが強烈で読ませるし。それから、ジョージ・ペレケーノスは?複数のストーリーを縦横に織り込みながら最後にきっちりと落としどころに落とす豪腕ぶり。ジェームズ・エルロイは?「LA・コンフィデンシャル」、安いバーボンとシェービングローションの甘ったるい匂いがページから立ち上ってくるみたいだった、それから・・・等々、突っ込み始めるときりがない。好きな作家は偏って当たり前、その偏り具合が本の虫の大切な「信仰告白」なのです。
児玉さんは大好きな作家の新作は原書で読むそうです。なんで苦労して英語で読むのか?これこそが、海外ミステリーのファンが必ず一度は直面する「悲劇」なのです。つまり、好きな作家の作品を夢中になって追いかけているうちに、翻訳が出版される速度に追いついてしまうんですね。翻訳本の末尾の解説にはたいてい作品の一覧が載っています。その一番最後がたった今読み終わった作品だとしたら、追いついてしまったということ。あとはいつ出るのか分からない翻訳をじーっと待つか、タイトルが未だ英文表記のままの原書に挑むか、二つに一つ。そして、かなりの数のミステリー・ファンがここから原書を読み始めるわけです。児玉さんの場合はディック・フランシスの「配当」がその本だったそうですが、私の場合は、ロバート・B・パーカーの「海馬を馴らす」でした。そう、この作品でスペンサー変わっちゃったんだよなぁ、で、私はハードボイルド風にきちっと彼に別れを告げたのでした、さよなら、スペンサー・・・。何だか甘いようなショッパイような思い出です。
原書で読むというと何かすごく英語ができそうで誤解されてしまうといけないのですが、これ、実は英語力は大して必要ない、高校レベルで十分なんです。その作家の世界観と言葉遣いの癖を熟知していれば、そして、ともかく次のページで何が起こっているのか知りたいんだ!という意志があれば、辞書などなくても結構読める、必要なのは英語力ではなくて、オタク力なんですね。
岩波文庫の星一つ本から始まった児玉さんの読書遍歴、好きな作家への静かで熱い思い、そして、一冊一冊、丁寧に紹介される作品群。その語り口は驚くほどストレート、余計なものは何もなく、一行一行は勿論、その行間までもを楽しんで読んだ人間にしか書けない愛情一杯の言葉、自分の好きなものを他人にも気に入ってもらいたいと願う人間だけが紡ぎだす弾む言葉、言葉で読んで言葉で伝える、そこに愛情があれば、言葉は言葉以上のものを伝える、本ってそういうものなんですよね。
好きな作家の新作を読むときは、たとえ寝転んで読もうが(家ではいつもこうです)、浴槽の中で読もうが(これやると本が湿気で膨らんで困る)、食事をしながら読もうが(私の昼食メニューに片手で食べられるものが多いのはこのせいです)、ページをめくる心の姿勢はいつだってキッチリと正座なのです。
寝転んで読むといえば、ケン・フォレットのくだり、4年もファンを待たせておいて満を持して登場した大作「大聖堂」、これ、中身が大作なら外側も大作でした。1000ページ超、厚さは5センチ、重量は1キロ近かった。いつものように寝転んで読もうとした児玉さん、相当苦労なさったようです。私も、これを読んでいる間はバッグが重くて往生しましたっけ。家でだけ読めばいい?それができれば苦労はしません。フォレットの作品は一度ページをめくったらもう止められない、最後のページまで本と離れることができないんです。しかし、出版社の皆さん、皆さんも本のプロでしょう、この手の「えびせん本」は、もう少し軽く作ってもらえないもんでしょうか?
ところどころに登場する作者自ら描いた作家たちのコスプレ似顔絵、これがまた良いんです。怪しげな修道僧のディーヴァー、幕末の志士のグリシャム、私のツボは、鎖帷子に身を包んだ中世騎士のマイクル・コナリーでした。そう、確かに、ハードボイルドは騎士道に通じているのです。乗り物が白馬からキャディーのコンバーチブルに、手にする武器が剣から45口径に、今宵の宿が修道院の宿坊から料金前払いの安ホテルに変わろうが、麗しの姫君の面影を心に秘めて、己の影だけを道連れに信じる道を一人行く、ランスロットが、アイバンホーが歩いた道は、フィリップ・マーローが、リュー・アーチャーが歩く道なのです。
しかし、全然ひけらかさない自然体の文章なので、つい読み過ごしてしまうのですが、児玉さんの雑学は実に広範囲にして多種多様です。「アタックチャンス!」と言いつつ、おそらく、ご本人、全ての回答をご存じのはずです。
2007年4月13日 杉本苑子 「終焉」
時々、この世界には「本の神様」というか「本の妖精」というか、そんなものがいるんじゃないかと思う時があります。久しぶりに出かけた神保町、古本屋街をふらふら歩きます。初めて入る古書店、天井まで届く書棚に雑に詰め込まれた本の山、分類は適当、あっちは発行元別、こっちは作家別、んでもってそっちはジャンル別、なんか複数の書店員がマニュアルを無視して自分の好みで分類したって感じ、この手の店でお目当ての本を探すのは結構骨です。あー、もう他へ行こう、その時、本の神様か本の妖精か、そんなものが私の近くにちょこんと座っていたらしいのです。私はこの本と出会いました。
島根県大田市大森町、と言ってお分かりにならない方でも、石見銀山と言えば一度は耳にしたことのある地名だと思います。あの殺鼠剤「石見銀山猫いらず」の石見銀山があるのが大森町なのです。私はこの町とはあるご縁で結ばれています。
そこはもう、Google Earthで見れば納得なのですが、緑色の中国山地に誰かの不注意で入ってしまった小さなひび割れのような町です。銀山川(といっても水量が減ってしまったので川というより溝です)に沿って狭い一本道、その両側にぽつりぽつりと人家が並んでいます。どれもこれも築ウン十年からウン百年、解体屋など呼ばなくても元気な高校生が跳び蹴りを食らわせれば倒れるような家ばかりです。その一本道を上る途中、山のあちこちに穴が開いています。この穴によってこの町は、何と今年の夏に「世界遺産」に登録されることになっているのだとか。この穴はかつてここから銀が出たことを示す坑道(この地では間歩(まぶ)と呼びます)の跡です。
鎌倉時代に銀が発見され、戦国時代には中国地方の多くの豪族が銀山を奪い合いました。最終的には西国の雄、毛利元就が手にし、豊臣秀吉との共同開発を進めます。16世紀から17世紀には世界の銀の総量の3分の1を産出、当時のポルトガルの船乗りの世界地図を見てみますと、おい、ちょっと待てやと言いたくなる格好の日本列島には、キョートもエドもありませんが、「R AS MINAS DA PRATA」、銀鉱山の王国とちゃんと書いてある、おそらく、当時世界で一番有名な日本の地名だったと思われます。
江戸時代には幕府の直轄領となり、初代の大久保長安から始まり、270年の間に59名の代官がこの地を支配しました。江戸末期には銀はほぼ掘り尽くされ、銅とマンガンがいくらか出たのですが、水害で間歩が水に浸かってしまい、そのまま閉山。そして、時は流れて、とんでもなくゆっくりだけど決して休むことをしない森は、間歩を、鉱夫たちの長屋を、彼らの眠る墓を、山の神を鎮めるための神社を、一つ一つ飲み込んでいき、世界遺産なんて話が持ち上がらなければ、このまま森に還ってしまうはずだった、大森はそんな町です。
この町の代官所跡の近く、銀山川を挟んで町を見下ろす高台、苔むしてすっかり脆くなった石段を登ると小さな神社があります。ここに祀られているのが19代目の代官、井戸平左衛門正明、町の人は彼のことをまるでご近所の友達のように「井戸さん」と呼んでいます。拝殿に掲げられた「井戸神社」の額はもう殆ど読めないのですが、勝海舟の筆だそうです。
この本の主人公、それが「井戸さん」。
享保16年、60歳の平左衛門は、南町奉行の大岡忠相から大森銀山の代官として赴任するよう推挙されます。真面目一本で働いてきた平左衛門、そろそろ隠居して、たまには孫と芝居見物、帰りにはちょっと美味いものをつまむくらいの贅沢は許されよう、そんな彼のささやかなセカンド・ライフの夢は木っ端みじん。江戸から300里以上離れたとんでもないド田舎の鉱山町へ、まるで島流しです。この人事異動は前任者の不正の後始末が目的、平左衛門の清廉な性格が災いしたというべきでしょうか。体調に不安を抱えたまま代官所に赴任した平左衛門、前任者の不正のおこぼれを頂戴していた連中はもちろんのこと、地の役人たちは、どうせ腰掛けだろ、私腹を肥やしてすぐにいなくなるさ、と冷たい視線。しかし、長年の公儀での勤務で鍛え上げられた平左衛門の目は、不正のカラクリをあっさりと暴き出し、しかし、そこは年の功、事を荒立てることなく、お世辞で相手をやんわり脅すという高等テクニックも披露、やがて、役人たちも町の人たちも彼を信頼するようになっていきます。
例年になく冷たい雨が降り続く大森、平左衛門はこの耕作地に恵まれない山の中で、江戸時代の三大飢饉の一つ、享保の大飢饉に遭遇してしまったのです。平左衛門は私財を売り、商人たちに売上に応じて献金を求め、米を買っては配って回ります。しかし、こんな一時しのぎで飢饉は乗り切れません。こんな山間部で米を頼っていてはダメだ、何かあるはずだ、米より強くて滋養のある作物が・・・。そんな平左衛門の耳に、近くの栄泉寺に捨て子共々居候を決め込んでいる乞食坊主の言葉が飛び込んできます。俺の生まれた薩摩には薩摩芋がある、あれを蒸かして湯で伸ばしてあてがえば、子供は丸々と育つのに・・・。
当時、それぞれの藩にとって特産品は大切な財源でした。あの忠臣蔵だって、吉良氏が浅野氏をいびりまくったのは赤穂特産の塩のノウハウが欲しかったから。外様の薩摩が大切な芋をおいそれと領外に出すわけがない、平左衛門は大胆な「ミッション・インポッシブル」を実行します。エージェントはかの乞食坊主が仰せつかります。
危ない橋を渡ってやっと手に入れた種芋ですが、栽培方法が分からない、そもそも暖かい薩摩と違って寒い山陰で育つかどうかも分からない、平左衛門の試行錯誤が続く中、長雨のせいで大量のイナゴが発生します。刈り入れ直前の田んぼは全滅、平左衛門は幕府の米倉を開け、年貢米を放出します。もちろん、全て彼の独断、非常事態とは言え、重大な職務規程違反です。
イナゴ騒ぎが収まった頃、彼は大森代官の任を解かれ、岡山で蟄居を命じられ、大森を後にします。そして、二度と帰ってくることはありませんでした。処分が下りるのを待つことなく、62歳の井戸平左衛門は、家族に遺書を残して、陣屋の一室で腹を切りました。
彼が手に入れた薩摩芋、殆どは腐ってしまうのですが、ただ一人松浦屋与兵衛という農民が栽培に成功します。彼が生み出した寒冷地で薩摩芋を育てるノウハウは、その一株の芋の子孫たちと一緒に大森から中国地方全体に広がって行きました。痩せ地でも畦でも育つ、密生させても強い、栄養豊富で長期保存もできる、薩摩芋のおかげでこの地方の人々はここから先、何度もの飢饉を乗り越えていきます。
こうして、実直一筋のひとりの幕臣は、江戸から遠く離れたこの地で神様になりました。芋代官、井戸平左衛門を祀る神社や碑は、中国地方に数百も存在します。
物語は、江戸から始まります。芝居見物の後、どこで何を食べようか、あそこの卵焼きが美味い、いや、あそこの鯉の洗いも絶品、洗練された食文化を誇った江戸の町が匂うようです。そして、一転、「大森の町筋に入ったのは、日が落ち切ってからであった。のしかかるように、両側から山が迫った谷あいの町なので、道幅は狭い。」、大森は、一本道とその両側以外には平地がなかったせいで、代官所も武家屋敷も町屋も同じように並んでいるという、身分によって住むところが分けられていた当時としては異例の町並みを持つのですが、谷間のせいで日が陰るのも早い、そんな少々もの悲しい風景が淡々と写し取られています。
何で俺が・・・、そんな思いで赴任してたった2年の間に、平左衛門は、この町の民衆のために命を投げ出すまでに変貌していきます。当時の銀山の鉱夫たちは、地下深く、湿気と埃、そして鉛を含む湯気の中での重労働、その生活は30歳まで生きれば尾頭付きでお祝いをしたというほど厳しいものでした。ですから、大森には何でこんな小さな町に?と呆れるほど沢山の寺があります。それでも働き手が途切れないのは、当時としては高給で、米や味噌も支給されたから。そんなにまでして懸命に生きている彼らを飢えが薙ぎ倒していく。平左衛門を捉えたのは激しい怒りです。人が死ぬのは分かっている、俺だって近いうちに死ぬ、鉱夫たちだってばたばた死んでいく、それを承知で働いている、しかし、米倉に米があるというのに飢えて死ぬ、こんな理不尽な死があって良いのか?優秀な官僚として生きてきた彼は、ここで一人の人間として行動することを選択します。規則に反しても人の道に反すまい、役人として失格でも武士として恥じるまい。その一念が彼に米倉を開けさせ、その一念が彼に腹を切らせます。処分が決まる前に勝手に腹を切れば、それもまた命令違反、家が取り潰しになる恐れがあったにも関わらず、です。
それは、彼が、自分が腰に大小下げているだけで食うに困らないのは、いざという時、己の命を代償に民を守るべき武士であるが故に与えられた恩恵であることを、知っていただけではない、信じていたからです。そして、彼はそれを実行した、民を守って自分は死んだ、当たり前のこととして。
今は春、たくさんの新人君たちが、それぞれの職場である会社や工場や役所で研修中のことと思います。仕事って何でしょうね。食うためであることは間違いないのですが、それ以前に、誰かの役に立つこと、それを見つけなければ仕事とは言えません。えー、絶版です。しかし、図書館で探せばあると思います。読み給え。
2007年3月8日 ロバート・ハリス 「ポンペイの四日間」
西暦79年8月24日、イタリア、例年になく暑い夏でした。激しく大地が揺れると同時にヴェスヴィオ火山が大噴火、24時間休みなく大量に降り積もった火山灰によって、「ウェヌス女神に献じられたコルネリウスの都市」、ローマ帝国の大動脈、アッピア街道の要所であったポンペイは地上から消えました。「博物誌」の著者であり、古代ローマを代表する学者であった大プリニウスの甥、小プリニウスが歴史学者タキトゥスに書き送ったところによれば、「大地が大きく揺れ、ヴェスヴィオ火山の山頂、火口から松の木のような形の黒い雲が湧き上がり、その雲はものすごいスピードで山肌を下り、海に雪崩れ込んだ」とあります。大規模な火砕流が高温の二酸化硫黄をまき散らしながら町を覆い尽くし、人々はそれぞれの場所で、窒息し、死んで行きました。
死者の多くは、倒れた姿のまま火山灰に埋もれ、やがて遺体は分解され、消滅し、固まった火山灰の中に人の形の空洞が残りました。石膏を流し込んで再現された人々の姿は、今にも動き出しそうなほどリアルなものでした。部屋の片隅で固く抱き合っている男と女、幼い我が子に覆い被さってかばう母親、四肢で空を引っ掻いている犬・・・。
物語は、噴火の二日前、ローマ帝国のライフラインであるアウグスタ水道の新しい監督者アッティリウスが、ポンペイの西の港町ミセヌムに到着したところから始まります。彼の前任者であるエクソムニウスが忽然と消えてしまった結果の急な人事異動、アッティリウスを迎えるのはなぜか敵意で一杯の現場監督コラックスとその部下たち。歓迎されない新任の帝国水道官殿は、代々の水道エンジニアの家系に生まれた根っからの技術屋、ややこしい人間関係やら、お偉いさんがどうしたやらには興味がありません。彼の唯一の関心事は水道そのもの、「土木工学の原理は単純で普遍的、個人の人格とは無関係、だから美しく、だから揺るがない」、これがアッティリウスの哲学です。
解放奴隷から成り上がって今ではミセヌムを支配している大富豪のアンプリアトゥスが、彼の魚の養殖池で働く奴隷を処刑しようとします。高価にして美味な魚が突然白い腹を上にして池を覆い、全滅してしまったのです。奴隷は自分の過失ではなく、突然の水質の変化だと必死に訴えます。彼の訴えを聞いたのはアンプリアトゥスの娘コレリアただ一人、水道官様をお呼びして!アッティリウスが検査すると池の水は硫黄臭い、まさか、水道が汚染されている?いや、この池だけだ、そうであってくれ。不平たらたらの部下を引き連れてミセヌムの水道を調査するアッティリウス、枝管も本管も硫黄の臭いがする、水量も減っている、アウグスタ水道が何らかの原因によって乾上がりつつある・・・。アッティリウスはある事実に行き当たります。鍵はポンペイにある、アウグスタ水道から水を引いている町の中で、なぜかポンペイだけは豊かな水を得ている、つまり、ポンペイの分岐点の近くで水道が破損しているのでは?
陸路では時間がない、海軍提督プリニウス(大プリニウスが実名で登場するのがうれしい)にポンペイまで船を出してくれと願い出るアッティリウス、美食ですっかり太ってしまい、ちょこっと動いても汗をかいているような提督(これで軍人かいな?)ですが、そのとびっきり明晰な頭脳と子供のような好奇心は健在、そして、政治や権力や金ではなく、ただただエンジニアとしての使命のために一生懸命な若き水道官の姿は、俗世に疲れる前の自分を見ているよう、力にならずにはおられない。
ポンペイ、水道の調査と修理のための資材をかき集めるアッティリウスの前に突然現れたアンプリアトゥス、大富豪は目下建設中の巨大浴場とそれが生み出すであろう富、そのためにアッティリウスに彼が何を期待しているのかを仄めかし、しかし、相手は水道オタクなので聞く耳持たず。仄めかしはやがてさりげない脅しに変わり、それにしても奇妙なことに、どこへ行っても突然姿を消した前任者の噂が漂っている、そう、まるで硫黄の臭いのように。
8月のポンペイ、暑さには慣れっこの人々ですが、この夏の暑さは異常なほど、そんな中、汗まみれで走り回ったアッティリウスは、ヴェスヴィオ山の麓で水道の破損箇所を発見します。しかし、それは彼が今まで見たこともない破損状況でした。水道は崩れ落ちているのではなく盛り上がっている・・・、何かが地下で蠢いている、何かとてつもない力が・・・。
私たちはポンペイの運命を知っているわけですから、物語の結末は最初から決まっています。だからドンデン返しも期待できません。それでいてハラハラドキドキで最後まで引っ張る、これを可能にしているのは、タイムリミットなど知るよしもない人々の描写の巧みさと、主人公の一生懸命が単に「熱い」だけじゃなくて、とても清潔で瑞々しく、美しく、それがきっちりと描かれているからでしょう。
もちろん、アッティリウスとコレリアの恋もあります、巨大な利権を巡る陰謀もあります、アウグスタ水道のトリヴィアもたっぷり、当時のローマ帝国の属州の生活も細やかに描かれており、サービス満点の仕上がりです。
しかし、一番の魅力は、主人公の水道官アッティリウスの潔い「土建屋魂」です。何しろローマ帝国が築いた水道のいくつかは、現在でもイタリアで使われているのです。それを可能にしたのは何人ものアッティリウスのような男たちだったのですね。神も悪魔も信じない、信じるものは己の技量、経験、そして知識、富も地位も求めない、求めるものは、己の仕事が誰も気付かないまま当たり前に、健全に機能し続けること。
現代の土建国家ニッポンに、この気概とプライドはあるのかと問いたいです。耐震設計偽装、ばれなければ良い?壊れたらそん時はそん時?2000年後まで残る仕事を黙々とこなす男たちがローマ帝国を支えていたのです。壊れるものを平気で作るような土建屋は、さっさと退場していただきたい。プライドを持てない仕事ほど人を卑しめるものはありません。全てのゼネコンは、新入社員の研修に本書を採用すべきです。
死ぬ運命に向かって、残された短い時間をもつれ合いつつ疾走する人物たち、何億年と続いてきた、続いていく地球の営みの前には、人の命などティッシュペーパーのように薄くて軽い。しかし、アッティリウスは、友人からの手紙にあった法律家セルウィウスの問いに、きっぱりとこう答えるのです。
「忘れないことだ。お前は死すべき運命にある人間として生まれたのだということを。哀れなうら若き女のか弱い魂が失われても、お前はそれほどひどく心を動かされようか?」
「動かされる。」
2007年1月24日 ジョナサン・キング 「真夜中の青い彼方」
最近、正統派のハードボイルドが少なくなったとお嘆きの方にお勧めです。
わたし、マックス・フリーマンは元フィラデルフィア市警の警官、公務執行中の正当防衛とは言え、12歳の少年を射殺したことで警官を退職、鉛色の冬空にちらつく粉雪、排気ガスでくすんだ赤レンガのビルが並ぶ東部の街とは正反対のフロリダ、エヴァーグレイスのマングローブに埋もれた湿地帯に一人逃れてきた男。誰にも会わないために川の上の隠れ家に住み、夢も見ないで眠るために一日カヌーを漕ぐ、ただただ漕ぐ。そして、ある夜、わたしは川の流れに浮かぶ子供の死体を発見する、その子は連続幼児誘拐殺人の新たな被害者、そして、発見者であるわたしはマイアミ警察の有力な容疑者に。
ハードボイルドはやっぱり一人称がいい、それも「俺」じゃなくて「私」でもなくて「わたし」がいいです。なぜならハードボイルドの主題は謎解きではなく、未だに血が滲む傷口を抱えつつ、大切な何かのために必死で走る主人公の心にあるわけで、一人称でないと表現しきれない部分がどうしても出てしまう。この一人称というの、両刃の剣でありまして、わたし以外のモノローグが使えません、使うと犯人が分かってしまう、だからわたし以外の人間の心理描写がとても難しいです。また、一人称だからって何を言っても面白いというわけでもありませんので、主人公のキャラクター構築に高度な手腕が要求されます。まぁ、せっかく一人称を使っても、食べ物の薀蓄と勘違いマッチョ哲学とお寒いノロケしか言えない、あの例のボストンの私立探偵もおりますが・・・。
それに脇役が良い。特にマックスの相棒というか保護者というか、弁護士のビリーの人物設定が絶妙です。スラム街から成り上がった黒人青年、少々端正すぎるマスク、スラリとした身体を包むエレガントな装い、高級ペントハウスで優雅に暮らす辣腕弁護士、彼がなんとタダの一度も法廷に立ったことがない、なぜならひどい吃音だから、という設定なのです。電話では、壁を一枚挟めば、それこそヒラリー・クリントンとディベートやっても勝てるほどの弁舌の持ち主なのですが、相手が見えると単語一つ引っかからないでは話せない。そんなビリーとわたし、マックスの関係、お互いに相手の傷を知っている、それを見ない振りをするんじゃない、傷も含めて相手を全て受け入れて信頼している、互いに自分の背中を任せられる戦友、これまたハードボイルドのお楽しみです。湿地帯を我が庭とし、その上で暮らす者全てを把握しているゴッドファーザー・ナチュラリスト版みたいなブラウンは老木の風格。それから、最初こそ容疑者マックスを小突き回しながら、次第にその無鉄砲ぶりに呆れたというか、デカの性というか、一つのチームになっていく刑事、ハモンズやヴィンセンテも良い感じです。特にハモンズはラストで決めてくれちゃいます。
ハードボイルドの王道を行きながら、環境問題を正面から捉えており、エヴァーグレイスの湿地帯の豊かな自然の描写は実に丁寧(但し、丁寧すぎて興味のない人には辛いかも)、マックスと女性刑事が惹かれあうというお約束の場面も上品ですし、暴力シーンも控えめ、既に名人の筆を感じます。
反面、脇役が魅力的な分、マックスが少々弱い、彼に感情移入しづらい箇所が見受けられ、ちょっとイラついてしまったり、予想通りの犯人にちょっと拍子抜けしたり、ということもないではないのですが、通好みの渋い仕上がり具合です。
ところどころに登場する食べ物の描写がこれまた食欲をそそります。釣った魚をソテーする以外はスパム缶と果物で生きているマックス、ビリーはといえば、ランチは冷製ペンネ、良く冷えたシャルドネを片手に作る夕食は、蒸したオクラを添えたツナのステーキ、あるいはブラック・ビーンズとライスを添えたスパイシー・チキン、刑事たちが聞き込みの合間に頬張るのはソースたっぷりのバーベキュー・リブ、炎天下のフロリダ、熱気がまとわりつく昼下がり、喉を流れ落ちる冷たいビール、湿っぽい風が水辺の匂いを運んでくる夜、喉を焼くバーボン、お腹空いているとたまらんです。それを皆してとても美味しそうにパクツクのも良い!突っつき散らかしておいて結局食べないダイエット中毒女相手に薀蓄ひけらかす、あの例のボストンの私立探偵よりうーんと良い(しつこい・・・)。
リストによるとこのマックス・シリーズ、この第一作以降既に3冊出ているとか、お楽しみはこれからですね。