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2005年12月31日 森川幸人 「テロメアの帽子」
2005年11月3日 ジークフリート・レンツ 「遺失物管理所」
2005年10月1日 ウーヴェ・ティム 「カレーソーセージをめぐるレーナの物語」
2005年8月23日 いしいひさいち 「大阪100円生活」
2005年7月6日 レベッカ・ブラウン 「体の贈り物」
2005年6月3日 フランク・コットレル・ボイス 「ミリオンズ」
2005年4月21日 吾妻ひでお 「失踪日記」
2005年3月25日 ジョージ・P・ペレケーノス 「終わりなき孤独」
2005年1月19日 ダグラス・ケネディ 「売り込み」
2005年12月31日 森川幸人 「テロメアの帽子」
絵本です。しかし、子供が読んでも何のこっちゃ分かりません。大人のための絵本、それもテーマは「遺伝子」。
細胞内に侵入し、そのDNAに自分のDNAを挿入して自分の再生産のための道具に変えてしまうウイルス、しかし、そのまま居着いてしまうウイルスがいて、その情報はそのまま細胞から細胞に伝えられ、その生物の特性を形作っていきます。
何にでも姿を変える器用な補欠の内野手みたいなシュナイダー・セル、最近話題になった韓国の科学者がデータを捏造したのがこの分野です。これを体内に送り込めば壊れた箇所を修復してその場所で選手交代してくれる夢の細胞。その発見は医療を根本から変えてくれるでしょう。
細胞分裂の回数を決定するテロメア、昔のバスの回数券みたいなもので、一回細胞分裂する度にテロメアは短くなっていき、最後の一枚を使った時、細胞は死に、私たちも死にます。このテロメアを元の長さに戻す技術、それを手にした時、人は永遠の生命を得ることになります。
9つの物語を通じて、分子生物学の本質が的確に表現されています。優れた科学読み物であると同時に、怖い童話であり、そして、出会いと別れの哀しい物語でもあり、変形の小さな絵本ではありますが、その質量はじっとりと重たいです。
○い頭に△の胴体の登場人物(?)、その頭の上に重なった帽子の形で登場するテロメア、様々な色と質感で描かれた帽子の正体を知った時、もう一度最初から読み返してみれば、それは確実にその数を減らしている、絵本と侮ってはいけません。これはもう立派な生物学のテキストです。学生はマンガを取り敢えず置いて手に取るべきです。反面、小さなお子様に読み聞かせる時は取り扱い注意です。感受性の強い子供だったら夜泣きする可能性が高いです。
自分の遺伝子がどうなっているかを知ったところで何も変わりませんし、変えることもできません。でも人は知りたがる。それは勿論生命の仕組みを解き明かして健康で長生き、できれば何百年も元気で生きたいから・・・なのでしょうが、この本の雰囲気は微妙に違っています。
この絵本は死から目を逸らさない、かといって見つめているわけでもない、死は最初からそこにあり、これからもずっとそこにある、という距離感があって、そこが私は好きです。
死は恐ろしいものではありますが、これまで地上に生を受けた全ての生物が受け入れてきたありふれたものでもあり、恐ろしいって感じているのは生きている自分であって、死に直面した時、生きている自分の脳が描き出す死の恐怖から自分を救ってくれるのはその死以外にあるわけもなく、そうなれば怖いもへったくれもないかも知れないし。
90ページ、9つの物語の中で何人かの○△くんがテロメアを使い果たして死んでいくのですが、それが悲しそうでもなく、幸せそうでもなく、ただ淡々としていて、テロメアを操作することで永遠に生きたいと願う人間を嘲笑うかのよう、そこがすごく良いです。
妙に色っぽくて暗い色彩(初期のピカソの感じ)、極力感情を排した文章、にもかかわらず、生命の暖かさが感じられる、それは作者の力であると同時に、生命とはそもそもそうしたもので、それ以外の有り様はないからなのかも知れません。
2005年11月3日 ジークフリート・レンツ 「遺失物管理所」
ドイツの作家の作品が続きます。こちらのレンツは1926年生まれ、輝かしい経歴を誇る現代ドイツ文学の大御所、当然に重厚な物語を予想していたのですが、人物の設定もストーリーの展開も驚くほど軽い。しかし、ただ軽いんじゃない、人々が際限もなく繰り返す「失うこと」と「見つけること」、それで世界はプラマイゼロでしょうが、個人はそうはいきません。失いっぱなしってこともあるし、見つけたものに溺れるってこともある。
ところはドイツ北部の大きな町、時はおそらく1990年代、ドイツ連邦鉄道の駅の片隅、遺失物管理所に24歳のヘンリー・ネフが配属されてきます。車掌から遺失物係、どう考えたって降格ですが、当のヘンリーは不思議なくらい陽気。彼は出世にもお金にも興味がなく、ただ気持ちよく働ける場所を探しているのです。ヘンリーの実家はこの町でも指折りの老舗陶器店、伯父は連邦鉄道のエライ人、その無頓着さも欲のなさも、お坊ちゃんのお育ちの良さゆえか。
遺失物管理所の仕事、それは、まず集められた忘れ物から持ち主を見つける手がかりを探し(どこかに名札が付いてないか?氏名や住所の分かるものはないか?)、それがなければ棚に整理用の札を付けて保管、持ち主と名乗る人間が現れれば、本人確認をして手数料と引き換えに遺失物を引き渡す・・・、さして難しい仕事でもなく、まぁ、ここにいる人間は引込み線に入った列車のようなもの。勤務時間中も忘れ物の酒の壜からチビチビと燃料補給をやっているベテランのアルベルトを見ていれば分かります。ところがヘンリーはこの職場がすっかり気に入ってしまいます。「遺失物管理所ほど気持ちのいい職場はないし、楽しいし、おまけに想像力も刺激されます」・・・。
様々なものがここに集まります。生きている小鳥の入った鳥かご、婚約指環、ナイフ投げ芸人のナイフ、お腹にずっしりと現金を縫いこまれたぬいぐるみ、いったいどうやったらこんなものを忘れることができるんでしょうか?かと思えば、忘れられたのではなく放置されたものもあります。りゅうとした身なりの紳士が残していったスーツケースの中のガテン系の着古した作業着は彼のどんな過去を知っているのか?
駅という場所は、去っていく人とやってきた人がそうとは知らずすれ違う場所です。何かを置いていく人と何かを求めている人がそれぞれの立場を交換する場所です。そんな場所の片隅で、失ったものを取り返す人がいて、置いてきたものに追いつかれる人がいて、間違ったものを手に入れる人がいて、求めているものに裏切られる人がいて。くたびれたスピーカーから聞こえる無表情なアナウンス、あらゆる形、材質、大きさ、重さの靴が奏でる様々な音、コーヒーとスナックとタバコの匂い、そしてちょっぴり混ざっている消毒液の匂い、読み進むうちに何だか駅へ行って歩き回りたいという思いが募ります。
で、遺失物管理所をすっかり気に入ってしまったヘンリー、仕事熱心なのはいいけれど熱意の方向が妙にずれている彼。ナイフの詰まった鞄を引き取りに来た芸人には、本人確認としてナイフ投げを要求し(的は自分)、台本を引き取りに来た女優には、これも本人確認としてドラマの一場面を要求し(相手役は自分)、当然、上司からはお目玉を喰らい、しかし、それに対してゆるゆるダラダラと哲学を語るやる気(というか、やる気のなさ)が妙に憎めない若者です。
忘れ物が縁で知り合った異邦人の数学者との無邪気な友情、同僚の人妻パウラへの淡い思慕、家業を切り盛りしている姉への甘えと反発、認知症の父を抱えるアルベルトへの底抜けの、しかし独りよがりの善意、アイスホッケーチームでも補欠なら、人生も未だ補欠みたいなヘンリーの子供じみた行動を読むうちに、彼自身が彼の人生の遺失物で、駅の保管所で誰かが引き取りに来てくれるのを待っているような、そして読んでいる私も、今の自分は束の間の預かり物であって、本当にいるべき場所が意外なほど近くにあるのに、どうしてもそこにたどり着けないような、ギクシャクした文体(やけに過去形を多用する翻訳のせいもあると思いますが)が掻き立てるかすかな苛立ち、でもそれが何となく居心地が良いのです。
しかし、ドイツ連邦鉄道は大規模リストラを打ち出し、郊外の住宅地では暴走族がたむろし、人種差別があって、暴力があって、遺失物保管所だってサンクチュアリではあり得ない。そんな現実に傷ついて去っていく人、呆然と立ち尽くす人、殻に引きこもる人、そして戦う人。万事が中途半端のヘンリーにも決断をしなければならない時が巡ってきます・・・ったって、彼のことですから、別に大したことじゃないんですけどね。
1990年代、ドイツは東西統一の反動の不景気のどん底、外国人(特にトルコ系アジア系の労働者)への暴力が毎日のように報道され、ネオナチの若者がスキンヘッドで群れていたわけで、そんな刺々しい時代の空気と天然系のお気楽坊やヘンリーのミスマッチ、これを物足りないととるか、巧いととるか、評価は分かれるでしょうが、少し幸せ、少し不幸せ、大部分においてどっちでもなし、というぬるさでもって一つの世界を構築し、それを最後まで引っ張る作者の手腕は鮮やかです。
言ってみれば「一流のオペラ歌手が歌う鼻歌」、そんな作品です。
2005年10月1日 ウーヴェ・ティム 「カレーソーセージをめぐるレーナの物語」
子供の頃よく知っていた場所を訪ねる時って何か胸の奥が酸っぱくなります。すっかり変わってしまっていても、全然変わっていなくても。「僕」にとってハンブルクのとある通りがそんな場所。そこを訪ねるとなぜか小腹が空いてしまう、だから必ず立ち寄る、港の吹き曝し、公衆トイレが見える場所にあるブリュッカー夫人のカレーソーセージの屋台。そりゃ大した食べ物じゃない、というか、はっきり言ってお粗末な食べ物だけど、ブリュッカー夫人のは違う。12年振りに食べたけど相変わらず美味しい、だってカレーソーセージを「発明」したのはブリュッカー夫人なんだから。
ひょんなことからドイツ北部の「たこ焼き」というか「ホットドッグ」というか、庶民のオヤツ、カレーソーセージのルーツに興味を持った「僕」は、80歳を過ぎて白内障で目も見えなくなって老人ホームに暮らしているブリュッカー夫人を訪ねることになります。指先の感触だけで毛糸の色を選り分けてセーターを編んでいる夫人が編み棒をカチカチ鳴らしながら語る「カレーソーセージ誕生秘話」。
1945年4月29日、日曜日、ベルリン陥落は目前、翌月曜日にはヒトラーが自殺することになるわけですが、そんなことを当時のハンブルグ市民が知るはずもなく、40歳を少し越えたレーナ・ブリュッカーは一人で映画を見に出かけます。チケット売り場の行列で知り合ったのは、つかの間の休暇を終えて、明朝部隊へ戻り、そのまま最後の決戦に駆り出される予定の海軍一等兵曹ヘルマン・ブレーマー。ぎこちない会話を空襲警報が遮り、一緒に防空壕に飛び込んだ二人は、そのままレーナのアパートへ。市役所の食堂の責任者であるレーナには、戦争中でばらばらになっているけれど、浮気者の夫と20歳の娘と16歳の息子がおり、24歳のブレーマーには美しい妻と生まれたばかりの娘がいるのですが、お互いに何も聞かず、何も答えず、代用食の慎ましいディナー、そしてセックス、孤独な女と死にに行く男の一夜限りの関係・・・。
翌朝、前夜の余韻に浸るうちに時計の針がどんどん回り、ブレーマーは脱走兵になってしまい、そのままレーナに匿われることになります。階段の足音に怯え、ノックの度に飛び上がるのは、海軍のくせになぜか銀の「優秀乗馬者章」を授章している軍人ブルーナー、そんな彼のためにちゃんと余分な食べ物とタバコまで手に入れてくるのは、少々くたびれた身体の内に強さを秘めたレーナ。
そして、5月7日、ドイツは降伏し、戦争は終わります。ブレーマーは妻子の元に帰っていく・・・ことにはなりませんでした。レーナは、どうしても彼に終戦を伝えることができなかったのです。レーナのアパートの中でだけ戦争続行、あと少しだけ、そうあと数週間だけ・・・。
毎週、ブリュッカー夫人を訪ねる「僕」、で、カレーソーセージはいつ出てくるんだ?
敗戦濃厚なハンブルグの町、何もかも不足していて、でも、人々は当たり前ですが生きています。ナチス党員ではないただの公務員、インテリでもなく、リッチでもなく、取り立てて美人ってわけでもなく、平凡なレーナが語る非凡な物語。1944年6月連合軍ノルマンディーに上陸、1945年2月ヤルタ会談、5月ヒトラー自殺、ベルリン陥落、そして敗戦、そんな「有名人」ばっかりの歴史の教科書には絶対に登場しない「無名人」たち、爆弾が降ろうが、ナチスが逃げ出そうが、その後にイギリス軍が来ようが、生活は続いていく、いくら困難であっても人は必ず折り合いをつける、電気が暖房が食料がいくら不足していても、人は必ず食べることを実現させてしまう、レーナのように。
名物カレーソーセージ誕生までの幾層にも重なり合った孤独と嘘と優しさと悲しみ(まるで、これまたドイツ名物のバウムクーヘンみたい)、そして最後の小さな偶然、そっけない文体で綴られる濃密なドラマ。そう、平凡な人生にだって抱えきれないほどの愛と憎悪がある、カレーソーセージというB級グルメを通して、作者は、当たり前の人生が当たり前じゃない時代を懸命に泳ぎ切る様を、静かに、しかし力強く語ります。過去と現在を自在に行き来する物語にあって、その信頼に満ちた口調は一貫して揺るぎません。
戦後やっと発行された新聞でユダヤ人虐殺を知って涙を流すレーナ、彼女の部屋に引きこもったまま地図帳の上に「大反攻作戦」を書き込むブルーナー、どこかの町で(まだ弾薬が残っていれば)高射砲を撃っているはずのレーナの16歳の息子、建前を維持しつつも強烈なナチス批判をやってのけるしたたかな料理人。反面、時代に押し潰されて死を選ぶ人だっています。生きるってことは食べることで、死ぬってことは食べなくなることだ、なんかそんな当たり前のことを改めてきちんと理解した気分です。
「知的・ナチス・誠実、この3つは決して鼎立しない」、つまり、 「知的でナチスであれば誠実ではない」「誠実でナチスであれば知的ではない」「誠実で知的であればナチスではない」って話を昔どこかで読んだことがあります。今日、振り返ってみれば単色に塗りつぶされたような時代でも、人はそれぞれの価値観で、それぞれの選択と決意で生きてきたんですね。そして、レーナの選択と決意がこの世にあった証しが屋台のカレーソーセージ、今日もハンブルグの町に食欲をそそる香りを振りまいているのでしょう。
作者は1940年生まれ、現代ドイツ文学を代表する作家であり哲学者ですが、もともとは毛皮加工職人だったそうで、ドイツの「マイスタージンガー」は今も健在のようです。
で、当然ですが、読後にカレーソーセージを作ってみます、物語冒頭のブリュッカー夫人の真似をして。熱したフライパンにカレー粉を入れて炒める、ケチャップと黒胡椒を加える、ソーセージを輪切りにして投入、かき混ぜる、熱々を爪楊枝で刺して口へ・・・、微妙・・・。これ、ドイツで食べると美味しいのでしょうか?
2005年8月23日 いしいひさいち 「大阪100円生活」
私は、もともと暑いのは苦手です。でも長時間の冷房も苦手です。じゃ、どーすんのよ!どーしろってのよ!と逆ギレもしたくなるじゃないの、文句あんの?って今の季節、休日。前夜は熱帯夜、水銀柱は朝っぱらから絶好調で天を目指し、あー、何もしたくない。窓を全開にして扇風機を弱の首振りで回し、少しでも涼しい場所に移動して、クッションと冷たい缶ビールを抱えてごろりと転がります。音楽はというと、さすがにオペラは重たい、モーツァルトの弦楽四重奏はあまりにだらしない今の格好と釣り合わない、というわけで、「菊次郎の夏」のサントラなんぞを聞くでもなく聞いている。なんともやるせない夏の午後、さて、本はどうしましょうか?で、そんな時にぴったりなのがこの「大阪100円生活」。
「がんばれタブチくん」や「バイトくん」でお馴染み(私が一番好きなのは、真っ黒で丸っこくてドジな忍者がどっさり登場する「忍者無芸帳」)、しかし極端な写真嫌い、ヒト嫌いのせいでその素顔は誰も知らないという、「大阪は吹田のイリオモテヤマネコ」、いしいひさいち氏の4コマ漫画とショートエッセイをまとめた一冊です。
大阪というのは一概に括れない土地柄でして、ぶっちゃけ阪急宝塚線の岡町以北と南海電鉄の泉大津以南では、乗っている人間の人種が違います。淀川を挟んで、大和川を挟んで、橋一つ渡っただけで別世界、ある意味、東京というよりマンハッタンのイメージです。そんな大阪の北部に吹田(「吹く」という字を書いて「すいた」と読みます。ついでやけど大阪は読みにくい地名がめっちゃ多いんや、自分ら、これ読んでみ?「喜連瓜破」「放出」「河堀口」「枚方」・・・答えは後ろ)という、住宅街なんやら、しけた工業地帯なんやら、学生街なんやら分類不可能なところがありまして、ここにある五流私立大学「東淀川大学」の学生、菊池くん、久保くん、鈴木くん、そして彼らの先輩・後輩たち、ご近所さん、大学の教授等々が織りなす、ヤマなし、オチは時々ありのゆるい世界、それがこの「大阪100円生活」です。
舞台は、阪急千里線の下新庄駅近く、築50年(推定)の木造モルタル2階建ての仲野荘。西日燦燦で日当り抜群の3畳間、半間の押入れ、半間の流し台の上にガスコンロ1個口、トイレ共同、風呂はなし。夏は室温38度、冬は室内で息が真っ白。朝は、徹マン明けの学生が転がっている廊下で、深夜のガテン系バイトから帰宅した誰かと、大学へ行って学食で100円定食を食べよう(断じて講義のための登校ではない)という誰かがすれ違い、夜は、食パンをおかずにご飯を食べているのやら、一つのレトルトカレーをお湯割にして4人で食べているのやら、廊下では魚河岸のバイトの戦利品のサンマと青果市場のバイトの戦利品のほうれん草が物々交換され、一種の原始共産制が展開するアナーキーな空間、それが仲野荘です。
もう、どうしようもなく貧しくて、怠惰で、馬鹿げていて、でも、何故かそれが少し羨ましい。今からでもいくらでも貧乏にはなれます、もう一度大学生にもなれます、でも、彼らのようになることは決してできない、何故かそれが少し悔しい。「何故か」って書きましたが、実は分かっているんです。貧乏は若ささえあればそれなりに輝く、見苦しくても悲惨にはならない、若さというのはどんな状況もひっくり返すかけがえのないジョーカーだったのだということに気づくのは、若くなくなってからなんですね。
バイトの給料が出た夜、気分は大富豪、食堂のおばちゃんにきっぱりと注文する1200円定食、その1200円定食を本当に美味しく食べることは、私にはもう不可能なんです。私どころか、「金さえあれば何でも手に入る」とか仰ったという六本木ヒルズの社長さんにも絶対に不可能なんです。世界中のお金を積んだところで、決して食べられない美味しい1200円定食というのがこの世にはあるのです。
ところで、社長さん、あの台詞、ちゃんと訂正した方がいいですよ、「金さえあれば『金で手に入るものなら』何でも手に入る」が正しい。ま、当たり前っちゃ当たり前のことですが。
この漫画、何度読んでもジンワリと笑えるという不思議な漫画です。コマ割りもオチも分かっていて、なおかつ笑える、それは、いしいひさいち氏の古典落語の域に達したこなれた語り口のゆえです。ところどころに挟まれた作者の「菊池くん」そのものの大学生活を懐かしむ「バイトくん通信」も良い味出してます。極端に露出を嫌う方ですから、漫画同好会のパネル絵販売の「悪徳商法」とか、かれこれ30年サンダル履きスタイルを続けているとか、初めて知るエピソードがファンにはうれしいです。
残暑厳しき折から、アタマも身体もフニャフニャのあなた、これ一冊持ってゴロンと横になる昼下がりのひと時をお勧めいたします。少しだけすっきりしますよ。
答え:「喜連瓜破(きれうりわり)」「放出(はなてん)」「河堀口(こぼれぐち)」「枚方(ひらかた)」でした。
2005年7月6日 レベッカ・ブラウン 「体の贈り物」
エイズ、最初、この病気はゲイや麻薬中毒患者がかかる奇病として認識されました。人々が差別という塀越しに、こっち側は安全だからと怖々見つめている間に、ウイルスの方はあっさりと性的嗜好や地理的距離の塀を乗り越え、世界中に広がり、生殖活動という生命の維持のために不可欠な営みによって感染するというその特徴ゆえに、人間にとって当たり前の愛の形に影響を与えるという点で、極めて社会的な病気に変貌を遂げました。そして、今現在、人間はエイズウイルスを打ち負かすには至っていません。
物語は11の短い、それぞれがどこかで繋がっているエピソードで構成されます。語り手である「私」は、UCS(アーバン・コミュニティ・サービス)のホームケア・ワーカー、エイズが進行した患者の家を回っては日常生活の援助や身体介護を行うことを職業とする女性です。
こう来ると、末期の患者との心の触れ合いとか、死を通して成長していく主人公とか、あるいはこの世と彼岸を結ぶ愛とか、そういったドラマティックな物語をつい連想してしまいます。が・・・、11のエピソードの全てにおいて、劇的なことは何も起こりません。ある人がいて、その人が病を得て、少しずつ何かを失っていって、最後に命を失って、それをずっと見ている人たちがいる、ただ淡々と過ぎていく日々が、これまたぶっきら棒に最小限の言葉で綴られているだけです。あまりにありふれた日常描写なので、彼らはエイズなんだって気づくのもかなり読み進んでからなのです。
エイズウイルスは感染力が弱い(体液の交換によってしか感染しない)という弱点を、異様に遅い進行速度によって埋め合わせています。体内に潜り込むことに成功した犠牲者をできるだけ長く生かして、その間にできるだけ多くの生殖行為、あるいは体液に触れるような行為を行わせることによって自らが生き残る、これがエイズウイルスが選択した戦略です。当然、感染し発症した人間には、長くて孤独な時間が待っています。毎日一ミリずつ死に近づいていく、先月できたことが今月はできなくなって、薄皮を剥がすように体から厚みが失われていき、死んでいく自分を実感しつつも、大切な誰かと体を接触させて温もりを共有することは、その人の生命を危険に晒すことになる・・・、何と残酷な病であることか。
「私」は仕事として、死に向かう病人の強がり(待っていたはずのホスピスの空き部屋を勝手に断ってしまう男)、飢え(孫からのプレゼントのメープルシロップをどうしても食べようと頑張る老女)、微笑み(『空気がすごく気持ちいい。空気を肌に感じていたいんだ。』)、そして誇り(『君、僕がいなくなったら寂しい?』)をひたすら受け止め続け、「私」の訪問先の患者たちはただただ死んでいきます。この病にあっては死は圧倒的な暴君であって、「私」も彼らも黙って蹂躙される以外にないのです。そんな状況にあって、彼らはとても沢山の「ありがとう」と「オーケー」を繰り返します。その何でもない言葉が美しい。
黙って抱きしめることの慰め、見ないふりをすることの優しさ、相手に決して見せない祈り・・・。ありきたりの日常生活の描写の中にちりばめられて輝く命、それはあまりに儚くて、弱々しくて、切なくて、哀しくて・・・。少し前には「私」のためにシナモンロールとコーヒーを用意してくれた人が、たった今、その最期の呼吸によって得た貴重な酸素を使って「君がいなくて寂しいよ」と言い残して去っていく。待って、あと少しだけ待って、もう一度だけ、でも、もう一度何を?何もかも取り返しがつかない・・・。
読後、私は、20世紀末の日本を揺るがした大量殺戮事件を起こして逮捕された一人の若い医師の言葉を思い出しました。「病気で死んでいく人を見て無力感に苛まれ(結果としてこの犯罪を犯すことになった)」、こんな薄っぺらな生死感しか持ち合わせていない人間が医療に携わっている現実に唖然とした記憶が蘇りました。
病気で死んでいくのが無力?人間はその誕生以来一度だって病気に勝ったことなどありません。ペストを克服したらコレラが、コレラをやっつけたらインフルエンザが、そして今、癌、エイズ、エボラ、SARS・・・、それらを克服してもその次が現れます。ウイルスを相手にした時、人間は決して勝てないのです。負け続けると分かっている戦いを闘う、それも全力で闘う、決して退かない、今ある前線を死守して次の部隊に引き継がねばならないのだから。負けても負けても決して諦めない、無力であることを認めることを断固拒否する、この精神こそが医療の尊さであると理解できない人間が医者をやっている、この国の医療はどこかで間違えてしまったのではないかと。
人は全て死んでいく、人生は死んでいく過程であり、その原因はウイルスであったり、アクシデントであったり、政治の貧困であったり、幸運にもこれら全てを免れたとしても、テロメア遺伝子のカウントダウンからは誰も逃げられない。「死に至る病」を最後まで闘う、それは勇者でもなんでもない、普通の人です。だって、それ以外の生はあり得ないのですから。
食べること、排泄すること、見ること、見られること、触れること、怒ること、そして泣くこと、当たり前のこと、みんながやっていること、生きるということの構成要因はそんなものでしかなく、だからこそ、誰の生も輝かしいのかも知れません。
エイズ患者に対するきめ細かいサポート、アメリカ合衆国の底力を実感する反面、たった一本の抗生物質が打てないために恋も知らないまま死んでいく子供がいて、その子の死に対して責任を負っているのがアメリカ合衆国、そして我が日本であることも事実なわけで、このどうしようもない胸の奥のキヤキヤした感覚をどうすればいいのか、私には分かりません。
この本、私の知る限り、この数年で最高の作品です。しかし、読後に心のどこかに火傷に似た引きつれを残します。それは決して消えず、触れると微かな痛みというか、痛みの記憶が蘇ります。薄っぺらい514円の文庫本ですが、これを読んだ人間はその記憶を抱えて生きていくことになります。それが「体の贈り物」なのかも知れません。
2005年6月3日 フランク・コットレル・ボイス 「ミリオンズ」
イギリス、現代、デパートの化粧品売り場で働いていたお母さんを病気で失ってしまった小学校5年生の僕、名前はダミアン。一つ上の6年生のお兄ちゃん、アンソニー、そしてお父さんの男3人の家族は、お母さんの思い出で一杯の家を離れ、新しい町へ引っ越してきたばかり。新しい学校へ通うことになった僕とアンソニー、学校では僕は断然いい子だ。だって僕は全ての守護聖人を暗記している、今日はどの聖人の日か、それはどんな聖人か、すらすらと答えられる。僕は善い行いを沢山したい、そうすれば天国への階段を沢山登れて、沢山の聖人と会うことができて、そこにはお母さんだっている・・・。
聖人に近づくためには苦行だって必要、僕はお父さんがお休みって言って灯りを消した後、こっそりとベッドを出て硬くて冷たい床で寝ている。僕は聖人が籠もっていたみたいな誰にも邪魔されない「庵」だって作った。線路脇のダンボール製だけど、いろんな聖人のカードが飾ってある。そこが本当の聖なる庵だって証拠だってある。ある夜、僕の庵で奇跡が起きたんだ。空から鞄が降ってきたんだ。僕の庵をぺしゃんこにしたその鞄の中にはポンド札がぎっちり詰まっていて、僕はアンソニーのところに走っていったんだ。アンソニーが興味があるのは不動産と投資と税金、自分の生まれた日の守護聖人さえ知らないんだけど、お札を数えるのはとっても上手だ。二人で数えたら22万9370ポンド(日本円で約4500万円)もあった。これだけあればどんなに沢山の善行を積めると思う?天国への階段を何段登れると思う?そこいら中の貧しい人みんなを助けられるんだ。アンソニーはお父さんには内緒だって言う。もしも神様がお父さんにお金を渡したいなら、空から鞄を降らせたりしないで、お父さん宛に小切手を送ってくるはずだって。だから、僕らは僕らだけでこの奇跡を讃えなくちゃならない。
ただ一つ問題があるんだ。ユーロ・デイ、あと17日でポンドはユーロに切り替わってしまう、この日を過ぎるとこの奇跡のポンドはただの紙切れになってしまう・・・。
映画「バタフライキス」や「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」の脚本家である作者の小説第一作は、児童書として出版されながら多くの大人を虜にしてベストセラー、今年の秋には「トレイン・スポッティング」のダニー・ボイル監督による映画も公開予定だそうです。
誰でも一度は考えたことあると思うんです。もしも宝くじに当たって1億円手に入ったら何をしようか?って。それが実現してしまったダミアンとアンソニー。実務派のアンソニーは果敢にも不動産投資を試みるのですが、いくらキャッシュを積んだところで小学校6年生に家を売ってくれる不動産屋はありません。聖人マニアのダミアンは貧しい人々を救済しようと願うのですが、彼の周りにいるのは郊外の住宅地に住んでいる「貧しい小学生」ですから、10ポンドも上げてしまえばたちまち「豊かな小学生」、せっかくの善行はポテトチップスやキャンディー、新しいスニーカーといった「俗世の欲望」を満たすだけ。気前よくばら撒いているうちにあっという間に全校生徒が「成金」、天国への階段を一気に登るってのも楽じゃないんです。
聖人に憧れて、内緒だけど時々聖人と話もしちゃう夢見る弟、現実的な実務派の兄、このミスマッチの兄弟が本当に可愛らしい。ただ可愛らしいだけじゃなくて、何かあっても「お母さん、死んじゃったんです」の一言で大人は腰砕けと知っている、知っていてちゃんと実行できるっていうリアルさが良いです。だから、大人の世界の現実と子供の世界のファンタジーがきれいに融合しています。
さて、空から降ってきた22万ポンド、残念ながら奇跡じゃなくて(もしも神様がいるとしても、天国への階段を上ろうとしている子供みんなに大金を振る舞っていたら、世界は大インフレに見舞われます)、どこかの悪い大人が絡んでおりまして、兄弟は思いもかけないピンチに見舞われてしまいます。とうとうお父さんまで巻き込まれて、ユーロ・デイは刻一刻と迫ってくる、あんなにうれしかったはずの大金が今では重荷、それどころか・・・。
子供向きに書かれた本ではありますが、甘いクリームの下に仕込まれたビターなブランディ漬けのフルーツが絶妙、これは大人でなきゃ分からない味です。本当に困っている人のためにお金を役立てるってことがどれほど困難なことか。お金は幸せを運んでくるかも知れません。でも同じように不幸せも運んでくるってこと、忘れたくないですね。
聖人マニアのダミアンが大切にしているもの、それはお母さんが使っていた肌色のモイスチャライザー、ダミアンの、アンソニーの、そしてお父さんの守護聖人は、お母さんなんです。当たり前の美しさ、当たり前の奇跡、それはタダです。そして失ってしまったら、世界中のお金を積み上げても取り返せません。
お母さんはどんな奇跡を起こしたの?「あなたよ」・・・、地球上の全ての大人は、お金で買えないものはないって仰っている六本木の社長さんも含めて、みんなお母さんの起こした奇跡なのかも知れません。
2005年4月21日 吾妻ひでお 「失踪日記」
筆者は漫画家です。でも、私はその作品を一つも知りません。重度の活字中毒で文字が多ければ嬉しいという人間ですので、漫画を読む習慣がないんです。ですから、これが私にとって最初の吾妻作品です。このあたりをご理解頂いて・・・。
売れっ子漫画家の筆者なのですが、ある日突然、某社の仕事を放り出して外出、途中でお酒飲んで、そのまま1週間ほど雲隠れ。結局、休養期間に入って、何だか死にたくなって、死のうとして、でも、死ねなくて、そのまま何故かホームレスに。警察の職務質問から捜索願が出ていることが判明、保護されます。
仕事に復帰したものの、またまたふっと失踪、歩道橋の下で生活しているうちに、アル中の詐欺師に丸め込まれて配管工事会社に就職。ネコ車押して、穴掘って、ガス管切って、粘着質の先輩にいびられて、健気に、かついい加減にガテン稼業に精出しているところ、盗難自転車を転がしてまたまた職務質問、で、捜索願、でもって保護。
再び漫画を描いているうちに、こんどは連続飲酒問題が発生。毎日一升酒喰らっているうちに幻覚症状が出て、幻覚があまりに怖いので電車に飛び込んで死のうと思っているところ、家族によって精神病院に強制入院。
本の帯に「全部実話です(笑)」とあります。普通の人間の人生10回分くらいの波瀾万丈です。どれ一つとっても(笑)じゃ済まない話ばかりなのですが、読んでみると、時々ですがじんわりと笑ってしまう。ものすごく怖い話なのに、何故か陰々滅々でもなく、鬱々でもなく、クスクスなんです。これはもうひとえに筆者のお人柄でしょう。
死のうと思うほど追い詰められた過程はあっさりとスルーされているので、詳細なことは分からないのですが、「描きたいものを描かせて貰えない」ことが第一の原因であったと推測されます。「描きたくないもの」でも大量生産していればお金は沢山入ってくるし、それでやっていける才能だってあるし、ここは一つ割り切って・・・ってことができない方なんですね。魂を売ることができない人だからこそ、魂までずたずたにされてしまうのでしょう。
ゴミ箱で見つけた腐りかけのリンゴが発酵作用でほんのりと暖かいことから、微生物の凄さに感動したり、どこも悪くないのに捨てられている筑前煮から嫁対姑のデスマッチを想像したり、その地を這う視線には素直な感受性があります。
誰からも嫌われるろくでなし男であろうが、面倒見の良い社長であろうが、ちょこっとロリの入った刑事であろうが、彼らに注がれる視線には同じ優しさがあります。
スキンヘッドのヤクザも泣かす大男を配下に、精神病院のアル中病棟を仕切る、どう見てもアル中であるわけない謎のシスター(バチカンのエージェント?)、何度も何度も「一から十までやり直し」を繰り返して、総スカンを食らう「ミニラ」、超個性的な登場人物たち、面白いけど隣にいられたら絶対にイヤだ、そんな人間たちとサラサラとダラダラと交わる筆者、この方、きっとすごくいい人なんでしょうね。
しかし、一番すごいのは何と言っても筆者の奥様です。もう途中から「この人、マザー・テレサじゃあるまいか?」と思ってしまいます。筆者といい、奥様といい、愛とか思い遣りとかいう言葉に置き換えられる前の、原始的な種としての本能みたいなものを感じさせる強固な連帯感があって、人間ってのはこうやってでも生きて行けるんかー、なかなかどうしてしぶといのー、と悲惨なエピソードの合間から元気の素が滲み出てくる、生命ってのはとことん生きるように設計されているらしい、それはそれで素晴らしいことだ、そう思えてくるのです。
肝心の漫画ですが、私は全く知識がありませんが、ふっくらとして下ぶくれで、大きな目が憂いたっぷりの女性が可愛いです。反面、男は全部マヌケ面、うーん、やっぱ、これはマザー・テレサの物語なのかも知れないな・・・。
2005年3月25日 ジョージ・P・ペレケーノス 「終わりなき孤独」
ワシントンD・C、黒人の私立探偵デレクと白人の元警官テリーが出会ったのは、前作「曇りなき正義」での失踪者探しを発端とする麻薬事件でした。お互いに相手のプロ根性と誠実さを認めつつ、些細なことから肌の色の違いを意識し、意識していることを悟られまいと素知らぬ顔をしては余計にギクシャクし、意識している相手のギクシャクを見て見ぬふり、それがまた不器用でさらにギクシャクし、はぁー、何だか疲れちゃうよって感じのこのコンビのその後はというと・・・。
デレクは「世界一有能な秘書」兼恋人となった魅力的なジャニーンと何かと難しい年頃のその息子ライオネルと共に、半端ながらも懸命に家庭らしきものを築こうと奮闘中。テリーは相変わらず中古本とレコードの店の暇な店員、そしてパートタイムの探偵稼業をこなしつつ、目下恋人募集中。
そんな彼らのもとに持ち込まれた依頼は、白人の家出少女を捜し出して欲しいというもの。二人でかかるほどの仕事でもなし、一人で取りかかったテリーは、そこは元警官、あっさりと黒人のポン引きのところで売春している少女を発見、連れ戻します。十代の少女が身体を売っている現実、そして、ある暴力が、テリーの中で寝たふりをしていた激しい怒りに火を付けることになります。
デレクは、仕事を終えてから近所の少年たちにアメリカン・フットボールを教えるボランティアに励んでいます。彼の周囲の少年たち、中流階級が逃げ出した後のスラム街で貧困家庭に生まれた彼ら、その多くは父親を知りません。彼らのうちの何人かは二十歳の誕生日を迎える前に路上で命を落とすでしょう。また何人かは生涯の大部分を刑務所で過ごすでしょう。しかし、たとえ僅かではあってもそこから這い上がるチャンスはある、そのチャンスを手にするために、彼らにルールを守ること、チームメートを信頼することを教え、そして、何よりも路上のギャングたちから隔離するためのフットボールチーム。
ある日、いつもの通り練習が終わり、チームの一員ジョーは迎えに来た伯父の車に乗って家路につきました。「6時きっかり、この場所で、サボりません!」と彼らの合い言葉を残して。アイスクリームを食べに立ち寄ったデリカテッセンの前で、ジョーは伯父共々殺されました、全身に5発の銃弾を受けて。
胡散臭そうな伯父に何故彼を渡した?俺が送っていれば死なずに済んだ・・・、一度もタッチダウンプレーをさせてやらなかった、あの日やらせてやればきっと得点したはずだ、そうすればどれほど喜んだだろう・・・、きりきりと痛む心を抱えて、デレクは犯人を追い求めます。その怒りは喧嘩っ早いテリーすら案ずるほど激しく、やがて、デレクは裏の世界の大物のある秘密に突き当たります。
前作では人種問題を正面から取り上げたペレケーノス、この2作目のテーマは犯罪です。貧しい黒人の少年たちにとって、犯罪は玄関マットの先にいつも転がっている日常、そして彼らの町の通りの真ん中を、デザイナーズブランドのシルクのスーツを着てヨーロッパ製の高級車に乗って走り抜けるのは、ビジネスマンでも医者でも弁護士でもない、麻薬の密売人なのです。これが彼らを取り巻く社会の現実、犯罪者が彼らの身近な「成功例」なのです。
そんな現実から少年たちを守ろうと懸命のデレクですが、ジャニーンの息子ライオネルに対しては、「お母さんの車の中で煙(マリファナ)を吸うのだけはやめとけよ」と余計なことを言って喧嘩になってしまう不器用な義理パパ、いくら守ってやっても、たとえ悪に走らなくても、少年は父から離れていく、父を見上げていた男の子が父と肩を並べる少年に成長して、しかし、その時間はあっという間に過ぎ去ってしまう・・・。売春、麻薬、ギャングの抗争、銃撃、血生臭い物語の展開の影にそんな切なさがきっちりと感じられる、ペレケーノス一流の「哀しさ」は健在です。
店にふらっと現れた客とテリーの会話、靴磨きスタンドの主人とデレクのやりとり、細部にさりげなく配置された優しさ、愛おしさが、暴力描写を引き立てると同時に包み込む、ゴツゴツした対象をキレのある文体で荒々しいタッチで描きつつ、ソフトなアクセントを忘れない、相変わらず達者です。
仕事でもボランティアでもプライベートでも、彼のホームタウンであるワシントンD・Cの醜い現実から少年たちを守ろうと懸命のデレク・・・なのですが、ご本人がジャニーンという素敵なパートナーがありながら、何故か風俗通いが止められないという困った男でもあり、守護天使たらんと思いつつ、結局は翼の折れた堕天使でしかない生身の男の滑稽さ、と取れればいいのですが、ちょっとスッキリしないのも事実。結局、ラストになっても本質的には何も解決していないというリアリズムも、ちょっと重たいか。
筋立て、道具立てはオーソドックスなのですが、所詮、人間なんてちっぽけで醜くて、でも醜くないふりをするほどバカじゃなくて、醜さにアグラをかくほど厚かましくもなくて、バカでもなくて厚かましくもない人間はどう生きりゃいいんだと、ふと溜め息ついちゃうんだけど、それを他人に聞かれるのはイヤだ・・・。そんなひとひねりの効いた、いい歳こき過ぎた大人のためのハードボイルドです。
2005年1月19日 ダグラス・ケネディ 「売り込み」
「私はいつも金持ちになりたいと思っていた」、物語の主人公は、かれこれ10年も不遇をかこっている売れない脚本家のデヴィッド。年収1万5千ドルの書店員では到底食べていけず、女優志望であった妻のルーシーが夢を諦めてがむしゃらに取り組むセールスの仕事で得る収入で、親子三人辛うじて生きている状態。そんな彼ですが、エージェントからの一本の電話で運命が逆転し始めます。「売り込み」とタイトルを付けた30分ものの連続コメディの脚本が売れたのです。パイロット版は大成功、テレビ局はシリーズ化を決定、デヴィッドの報酬は一話につき7万5千ドル、プラス監修料が15万ドル、プラス5から10%の版権料・・・、電卓なしには計算できないお金がやせ細った財布に流れ込み、かくしてデヴィッドは一夜にしていつもなりたかった「金持ち」ってやつになってしまった。
物語の舞台は現代のバビロンであるハリウッド、今や時の人、売れっ子脚本家となった元書店員に群がるのは、自虐的なユーモアとピラニア並みの嗅覚を持ついささかグロテスクな金融ブローカー、視聴率という神に全てを捧げて仕える現代の司祭であるプロデューサー、そして敏腕にして美しいテレビ局の女性重役。この手のサクセス・ストーリーのお約束、甘い生活に酔いしれる主人公は世帯やつれした糟糠の妻が鬱陶しくなって浮気、浮気がすぐに本気になって、お払い箱になった妻は、私の青春を返してよ!返せないなら買い取ってよ!と「吸血」弁護士を立てて高額な慰謝料をむしり取り、金で片がつくならいーじゃない、だって私たちはお金持ちなんですもの、と美しい新妻が囁き、そーだよね、書きまくれば良いだけだよね、じゃ、新しいポルシェを買おうか・・・。
そんなデヴィッドの元に桁外れの大富豪にして映画マニア、マニアが昂じて自ら監督した映画が悲惨な出来映え、格好の笑いものになって以来引きこもりを続けている奇人のフレックからの招待状が届きます。私の所有する島で新作の脚本の校正をしてくれないか?招待状と一緒に届いた脚本、それはきれいなリボンをかけられて花を添えられた「爆弾」でした。デヴィッドを乗せたプライベートジェット機が降り立ったところはハリウッド風竜宮城、空と海と砂浜を独り占め、最高の美味、まるでコーラのように気軽に栓を飛ばす最高級シャンパン・・・、富の放つ強烈な匂いにいい加減頭が侵食されてきたところにようやく登場した大富豪、そして、彼とのやり取りのとこかで「爆弾」のスイッチがかちりと押されてしまったようです。
登るのが早ければ落ちるのも早い、それがハリウッド流。エミー賞を受賞して得意絶頂のデヴィッドに降りかかった盗作疑惑。必死に取り繕ったものの、疑惑は一つどころか後から後から湧いてくる。昨日まで、彼と一緒にランチを取っているところをマスコミに見られたくて列を作っていた連中が一斉にそっぽを向き、やり手の妻は自分のキャリアと傷心の夫を天秤にかければ当然にキャリアが大切なわけで、ハリウッドを追われたデヴィッドが小さな町でひっそりと息を殺して嵐が過ぎるのを待っているところに登場したのは・・・。
一気に登って一気に下る、ケネディ一流のアメリカン・ナイトメア(悪夢)、「ビッグ・ピクチャー」「仕事くれ。」以来の路線を踏襲しています。さすがに手馴れたもの、すごく怖いけど絶対に脱線しないジェットコースターを楽しめます。ただ、この作者の癖でしょうか、相変わらずコトが起こるまでが異常に長い。デヴィッドの落下が始まるのは301ページ、ここまでをフリックの異様な金持ちぶりで引っ張りますが、これが少々鼻につきます。はいはい、お金持ちなのね、何でも思い通りなのね、良かったね、だから何?って感じ。何しろこの大富豪、何でも持ってますが本人が一番欲しがっている映画の才能がないわけで、その意味ではすっごい貧乏人、その皮肉が圧倒的質量の成金ライフの描写のせいでピリッと効いてこない、ここが少し辛いです。
栄光と賛辞、妬みと転落、ところどころでご都合主義が気になる展開ですが、もみくちゃにされるデヴィッド、彼の愚かしい行動にしっかりと説得力があるので読む人間を引き込む力は十分。ありがちな主人公のありがちな行動、それがなぜか冷や汗びっしょりの悪夢を生む、動機の真っ当さ、せこさと、結果のとんでもなさのバランスが絶妙なので、後味がよろしいし、お説教臭さがありません。成功は幸福を約束するものではなく、貧困は必ずしも不幸をもたらすものではなく、善は勝つ!と言えるほどこの世は単純ではなく、かといって最後に悪が笑うほど惨い場所でもなく、いくらCGで何だって作れるハリウッドだってそんな世界の一部であって、それ以上でもそれ以下でもない、そんな健全なバランス感覚がある作品です。
ラスト、悪夢から覚めたデヴィッドは、再びパソコンのディスプレイに向かいます。書く以外にパンを手に入れる手段を知らない男が淡々とキーボードを叩きます。夢の工場、ハリウッドを支えているのは、夢を紡ぎ出しはしても決して夢を見ることをしない人間たちなのかも。