クリックして下さい。それぞれの日記にジャンプします。
HOME
読書日記トップへ
2008年12月8日 トム・ロブ・スミス 「チャイルド44」
2008年11月11日 柳家小三治 「ま・く・ら」
2008年9月27日 グレアム・グリーン 「ヒューマン・ファクター」
2008年8月1日 ブライアン・フリーマントル 「ネームドロッパー」
2008年6月5日 池内紀 「モーツァルトの息子」
2008年4月29日 鬼海弘雄 「東京夢譚」
2008年3月25日 前田建設工業株式会社 「前田建設ファンタジー営業部」
2008年1月31日 ミシェル・ビュトール 「心変わり」
2008年12月8日 トム・ロブ・スミス 「チャイルド44」
日頃はやくざな生活を送っている私ではありますが、年末はこれで人様の75%くらいでしょうが忙しいのです。買い物の量が増えますし、石鹸とかシャンプーとか調味料とか、少しは買い置きをしておきたいですし、掃除だって日頃は見えないふりをしていたところを真面目に磨きたいですし。そんな師走に、何なんですかぁ、この上下二巻、800ページの怒濤の徹夜本、反則です(泣)。
1933年1月25日、ソヴィエト連邦ウクライナのチェルヴォイ村、そこは既に文明が死に絶えた場所でした。村を支配するのは無慈悲な暴君である飢え、飢えの前には人間の作り上げたシステムなどひとたまりもない、その村は今、文字通りの「弱肉強食」の自然法則によって厳格に支配されていました。野ネズミも家ネズミも一匹残らず村人の胃袋に収まり、革靴は細切りにされてイラクサと一緒に煮込まれ、ミミズは掘り尽くされ、木の皮は手の届く範囲全て引き剥がされ、そして、熱に浮かされて椅子の脚を囓っている自分に気づいた朝、マリアは死を決意して一匹の猫をドアの外に放しました。彼女の家族であり、この村にまだ猫が生きているなんて誰も信じないからこそ今日まで生きてきた猫は、そっと森に帰って行きました。
猫だ!少年パーヴェルは母に自分の目で見たことを伝えました。母は凍った池の底に隠してあった鶏の骨を引っ張り出して少年に与えました。幼い弟アンドレイと一緒に森に入ったパーヴェル、兄はナイフで指先を切り、自分の血を鶏の骨に塗りつけて、長い紐で輪を作り、猫に罠を仕掛けます。そして、輪に足を捕られた猫を仕留めた時、兄弟は、太くて重たい木の枝を手にした男が走ってくるのを目にします。猫を横取りする気だ、そんなことさせない!そして、男の凄まじい形相を見て兄は悟ります、今度は自分が獲物なのだと・・・。
声が出なくなるまで兄の名を呼んだのに、兄に答えて貰えなかった弟が家にたどり着きます。パーヴェルは?パーヴェルに置き去りにされた・・・。おまえたちが猫を狙ったように、誰かがおまえたちを狙っていたのよ、わかるかい?
母は満月を見上げます、神さま、お願いです、息子を返してください
20年後、モスクワ、先の対ドイツ戦の英雄にして国家保安省のエリート捜査官、レオ・ステパノヴィッチ・デミドフは、幼い息子を列車に轢かれて亡くしたばかりの下級捜査官フョードルを訪ねます。息子はなぜ裸だったんだ?息子の口になぜ泥が詰まっていたんだ?息子の死は轢死じゃない、誰かに殺されたんだ、そう言い張る父と母を恐怖でもって黙らせるために。なぜなら、皆が平等で満たされているこの理想の社会において、殺人事件など存在し得ないのだから。
少年の遺族たちの口を封じることに何とか成功したレオ、しかし、保安省内部の権力争いと嫉妬、そして美しすぎる妻ライーサの存在によって、レオは保安省を追われ、モスクワの東800キロ、ヴォウアルスクの民警に左遷されます。それは同時にレオの両親も巻き込んでの転落でした。
そして、ヴォウアルスクの森でレオは少女の死体を発見します。それはあの「列車に轢かれた」少年と同じ様相の惨殺死体、夥しい刺傷、内臓の徹底的な損壊、口の中に大量の泥。
民警の署長ネステロフを説得して情報を集めるレオ、ソ連の地図上に同じ状態の死体が発見された場所をピンで刺していく、きれいに線路上に並んだその数は44、連続殺人犯がいる、ヤツは鉄道に乗って移動している、今も・・・。
ここまでで下巻(上巻じゃありません)の98ページ、ミステリー小説史上、事件が「発覚」すること最も遅い作品で間違いないでしょう。では、ここまで延々何が書かれているのか?それはスターリン時代のソヴィエト連邦のあからさまな姿です。国家の端から端までを自分の肖像画で埋め尽くすことに夢中になる、古今東西、そんな自己顕示欲の強い独裁者に共通する特徴、それは異常なまでの猜疑心です。
レオが働く国家保安省の捜査官たちの行動原則とは、「ひとりのスパイに逃げられるより十人の無実の人間を作る方がましだ」「自分たちが信用する者たちこそ調べるべきだ」「きみの名前を覚えていれば、いずれきみを糾弾することができる」「信頼している者こそ疑え」、犯人は迅速に逮捕すべし、誰でもいい、国家にとって不要な人間はいくらでもいる。
ライーサの働く小学校の子どもたちが日々唱えるのは、「きみたちのことを一番愛しているのは誰ですか」「スターリン!」「きみたちは誰を一番愛していますか」「スターリン!」、彼女が授業で大元帥に言及するたびに熱狂的に拍手するのは、6歳にして既に自分を守る術を熟知している子どもたち。
「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」(フルシチョフ)、グルジア人の小男(国中を埋め尽くした肖像画では分かりませんが、実際のスターリンは身長が低いのがコンプレックスで、常に上げ底靴を愛用していたそうです。そういえば、お隣の半島にも同じような人いますね)があらゆる恐れと悪意ででっち上げた「理想郷」の姿、作者のまるでレオのような緻密な調査が、作品の細部にまでリアリティを持たせています。
ソ連邦における警察の役割は、犯罪を取り締まることではなく、「犯罪が存在しない国家」に忠誠を見せるために、独裁者の果てしない猜疑心を自分以外の誰かに振り向けるために、犯罪を無理矢理塗り込めていくことなのです。辺境の地に飛ばされて初めて、今まで自分がしてきたことに気づくレオ、そして、生き残るためにそんなレオの良き妻を演じてきたライーサは、初めて一人の男として夫を愛するようになっていくのです。二人は連続殺人犯を追います。レオにはもう未来がないのですから、出世のためではない、この先には強制労働収容所が待っているだけなのですから、生き残るためでもない、ただ一つ、これ以上子どもたちを死なせないために。そして、破れかぶれの楽天主義なのか、刹那的な熱狂なのか、それとも最後くらいは人として死にたいという哀しい祈りなのか、二人の意志は、国家への忠誠ごっこに明け暮れる日々の中で、いつしか人々の心の底に沈んでしまっていた「何か」を揺り起こしていくのです。連続殺人事件の捜査過程よりも、こちらの方がずっとスリリングで熱い。
ミステリーとしては、何しろ事件の捜査が始まるのが後半ですし、その後も「手紙」や「独白」といったいわゆる禁じ手で真相を見せてしまうという手法ですので(勿論、それはラストへの伏線を張るためなのですが)、あっと驚く仕掛けはありません。しかし、最初から最後まで、それこそ冒頭のチェルヴォイ村での生存競争と何も変わらない「理想郷」の生存競争にあっと言わされっぱなしなので、そちらで十分かと。この作品の魅力は、ミステリーにはありません。それは、主人公たちがその生き方を選択し、あるいは選択させられていく過程で、どうしたって何度も脳裏に登場してしまう、「自由とは何か」という問いにあります。
29歳の新人が放った奇蹟のデビュー作、既に二十数カ国で翻訳が進んでいるとのことですが、ロシアでは発禁、ソ連邦が崩壊して既に20年以上、しかし、かの地を長年に亘って覆い尽くしてきた「疑い」と「保身」の双子は未だ生きているようなのです。
「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だ」「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」「死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」、スターリンが残した何ともおぞましく、そして寂しい言葉、しかし、それらの言葉は未だにこの世界を漂っている、恐怖の本質を忘れた人間の無防備に付け入り、再び世界に君臨するために。
10年に一度の傑作と申し上げましょう。これがデビュー作という恐るべき29歳に乾杯!
2008年11月11日 柳家小三治 「ま・く・ら」
寝るときに頭の下にある枕じゃなくて、落語の出だしの枕です。落語という芸術はミニマリズムの極地、物語の時代設定はたいていは江戸時代ですが、舞台設定は、廓だったり、街道筋の宿場だったり、江戸の表通りの商家だったり、裏通りの長屋だったり。登場人物も、菰担いだ乞食から天然のお殿様まで、物売りの子どもから売れっ子花魁まで、有難いお坊様からオバケまで。非常に多種多彩なのですが、高座の上にはおっさん(お兄さん)が一人いるっきりです。そのおっさん(お兄さん)が扇子と手ぬぐいだけを使って、座布団に座ったきり立ち上がることもせず、左右に顔を振り分けて、声と仕草を使い分けて、乞食から傾城までぜーんぶ一人でやってしまう。おそらく、世界で最も簡素な演芸でしょう。
いきなり江戸時代にタイムスリップする前に、口慣らし、耳慣らしのために軽く語られる話が「枕」です。本題に入る前に観客の意識を物語へ引き寄せ、あるいは落ちへの伏線を張り、また、現在では見られなくなった風習や言葉、道具類の予備知識を与える、これが「枕」の主な役割です。まぁ、無理矢理例えればオペラの「序曲」に当たるのでしょうが、こちらの場合、噺家のアドリブですので、毎回違っておりますし、なんでもありです。
さらりと着物を着こなして、出囃子に乗って登場した噺家さん、すっと座布団に座って、さて、昨今の世相を茶化し、自分の失敗を笑い、お客を軽く弄って、こちらはただ笑っているだけなのですが、不思議なことにその場の空気が少しずつずれ始める、携帯メールが付文に、IHクッキングヒーターが竈に、ナイキのスニーカーが草履に・・・。そして、高座の上のおっさん(お兄さん)が、すっと姿勢を斜に構え直して、声をピーンと絹糸のように弾いて、「おい、いるかい?」、枕からスーッと本題へ滑り込む瞬間は、そう、「うつらうつら」から夢の世界への敷居をまたぐ瞬間と良く似ています。
さて、柳家小三治氏、人呼んで「まくらの小三冶」、それほどに氏の枕は定評があります。その日の演目によっては、枕がメインの高座も珍しくないほどだとか。日常の何でもない光景を切り取ることから始まって、しかし、そこから先、どこへどう転がるのかまるで分かりません。クスクス笑いながら、あれ、これって何の話だったっけ?という感じ、使い込んで磨き込んだ話芸というのは、限りなく日常の「与太話」に近づいていくものなのですね。
まずは、サンフランシスコへの3週間の語学留学の顛末。氏が英語習得を思い立った動機が、「落語を世界に広めたい」でも何でもなくて、「映画を字幕抜きで見たい」からだというところからして素敵です。
『あれ見てるとね、字幕で時どき訳してない言葉があるんです。・・・オレの知らない言葉を、分かっているはずだから訳さねぇってやられたらどうなるんだ?それがその映画の中で重要な意味を含んでいたらどうなるんだ?いや実際あったんですよォ。見つけたことがあるんです。』、分かります、それ、私もよっく分かります。どうでもいい台詞で貴重な文字数を無駄にして、それって、このキャラを一言で表す「決め」の台詞でしょうが、というのが省略されている、あるいは間違っている。この致命的なミス、意外なほどに、そして腹立たしいことに、かなり多いです(この話を始めると、戸田○津子氏の悪口大会になりますから止めておきますが)。
映画大好き人間の氏ですが、映画以外にも、バイクで北海道を走り回る、クラシックやジャズにのめり込む、不味い塩の撲滅運動の先頭(?)に立ち、美味しいハチミツを求めて西へ東へ、実に多才な方ですので、その「枕」の守備範囲たるや、マリナーズのイチローより広い。
暑くて食欲のない夏、さらりと食べられるのが玉子かけ御飯、一つの玉子で一家七人が玉子かけ御飯を頂くにはどうすればいいのか?から始まって、玉子かけ御飯の黄金比に到達するまで、文字で読んでも十分に面白いのですが、『七つのお茶碗をそこに集めて、少しっつですよ、少しっつ。・・・ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっ、一回り回ったら、また、ちょっ、ちょっ、ちょっ、・・・』、この辺りは所作が楽しそう、是非とも高座で拝見したいですね。外に借りている駐車場の自分ちのスペースにホームレスが住み着いてしまった話、昭和天皇との思いがけない遭遇の思い出、どれから読んでも構いません、どれを読んでも面白いです。特に「郡山先生」、この甘じょっぱさは、「枕」を超えて名人の手になる短編小説のようです。三木聡監督で映画にして頂きたいです。
氏の話には「柳家小三治」の軽やかさと「郡山剛蔵」の剛直さが不思議なバランスで同居しており、この世界の有り様を嘆いても説教臭がなく、ピリリと毒を効かせても嫌みがなく、そして、自分の失敗談を溜息混じりに語っても受け狙いのあざとさがなく、挽き立て、打ち立ての新蕎麦の味わいです。
テレビで見かける「声のでかいもん勝ち」「目立ったもん勝ち」の昨今のお笑い芸人さんとは対極にある上品な話芸、それは決して高級なもんじゃない、真っ当な職人が真っ当に拵えた普段使いの品々だけが持つことが出来る「筋目の良さ」なのです。
実は、私、何度も氏と遭遇しています。高田馬場の駅前にムトウ楽器店というCD店がありまして、ここで何度かお見かけしたことあります。一度は、ムトウを出た後食事に行った近くの中華料理店でもお隣のテーブルに座ったことがあります。まぁ、お互いに買ってきたCDのノーツを読むのに忙しく、片手で黙々と焼きそばをすくっていたわけですが。
オペラと落語、かたや舞台とオケピで総勢百名、派手な演出と凝った舞台、金をかけるとなればどこまで行くか分かったもんじゃないという贅沢の極み、かたやたった一人、同じ着物で物乞いから大名まで、シジミ売りから花魁まで演じわけるという簡素の極み、しかし、案外似ているところがあるように思います。
話はもう暗記しています。どこでどう笑うのか(歌うのか)知っています。知っていて、また、同じところで笑います(聞き惚れます)。同じだって分かっているのですが、噺家(歌手)が違うとなるとやっぱり聞きたくなります。そして、舞台の上と客席の間の密やかな「共犯関係」にはまってしまったら、親の身代潰す若旦那と同じ、三途の川を渡るまで切れやしません。
2008年9月27日 グレアム・グリーン 「ヒューマン・ファクター」
スパイ、その語源は、古フランス語の「espion」(見張る者)です。王様、娼婦と並んで世界で最も古い非生産型職業の一つであろうスパイ、この言葉を聞いて思い浮かべるのは・・・。
ひときわ派手なタキシードを着込んで、口にするのはピンク色のシャンペンと蟹のオードブル、滴り落ちて床をべとべとにしそうなほど過剰なフェロモンを振り撒き、美女を見れば片っ端から口説き、アストン・マーチンをいちいちタイヤを軋ませて、交通法規を片っ端から無視して乗りこなし、眉一つ動かすことなく銃を撃ち、その名を問われれば、堂々と本名を名乗る、「ボンド、ジェームズ・ボンド」、というかのお人です。しかし、スパイがこんなに目立ちまくっていいのでしょうか?
スパイ組織を構成するのは二種類の人間です。「ケース・オフィサー」、目当ての情報に近づくために利用できる人間を探し出し、懐柔し(あるいは脅し)、管理し、廃棄するのが役目。そして、「スパイ」、ケース・オフィサーの望む情報を、その立場や能力を使って手に入れるのが役目です。現実のエスピオナージの世界では、ケース・オフィサーは外務省か公安関係の官庁に所属する公務員ですし、スパイの多くは弱みを握られて、あるいは金欲しさにせっせと盗みを働く地味な窃盗犯です。摘発された場合には戦時下では死刑もあるという過酷な任務でも、公務員は公務員、その給与では、シャンペンも蟹もアストン・マーチンもちょっと無理でしょう。地味な窃盗犯に至っては、しくじれば役立たず、腕が良ければ知り過ぎたとあっさり始末される運命です。
冷戦真っ盛りの1970年代、イギリス情報部第6課、担当する地域はアフリカ、その6課に所属するモーリス・カッスル、情報部に入部して既に30年以上というベテラン情報員、かつて南アフリカに勤務していた時に出会った妻のセイラ、その連れ子のサムと三人でロンドン郊外でひっそりと暮らす良き夫、良き父。そろそろ年金生活ということで、その暮らしぶりは質素そのものです。毎朝決まった時間の電車でロンドンへ、決まった時間に決まったパブのソーセージでランチを済ませ、何もなければ(そして、たいてい何もない)、毎夕決まった時間の電車で帰宅する、そんな「公務員」。カッスルの仕事の内容は、さして重要とも思えない電報の暗号解読、それに対するこれも重要とも思えない回答の暗号化、そんな窓際感漂う6課ですから、部員はカッスルの上に課長のワトソン、カッスルの下に40歳のデイヴィス、この3人だけです。
そんな6課から情報が漏洩していることが発覚、内部調査の結果、独身で、ジャガーを乗り回し、年代物の高価なポートワインを愛し、ギャンブルも大好きというデイヴィスに嫌疑がかかります。その上、デイヴィスは、昼休みに読みたいからと言っては機密書類を持ち出していたことも発覚、嫌疑は確信に変わります。下手に突いて逃亡されてしまうのは避けたい、二重スパイのモスクワでの記者会見をテレビ中継で見るなんて、悪夢以外の何物でもありません。かといって、裁判沙汰も避けたい、大勢のマスコミに連日追い回されるスパイ組織ほど間抜けな絵はこの世にありません。
上層部の方針は決定します。二重スパイは排除すべし、速やかに、静かに、そして永遠に・・・。
グレアム・グリーン、現代イギリスを、20世紀を代表する大作家です。そして、第二次大戦中に本物の情報部員だった人です。そんな作者の描く追う者と追われる者の物語、銃撃戦もカーチェイスもありません。凝った秘密兵器もお色気たっぷりの女スパイも登場しません。ただただ繰り返される日常、それを描写する簡潔にして精緻な文章、それらが紡ぎ出す濃密な心理と冷ややかな現実、エスピオナージをスリリングに描いた上質の娯楽作品であると同時に、近代イギリス社会の矛盾を突いた告発の書であり、そして、「信じる」こと、「憎む」こと、「恐れる」ことについての深い洞察を披露する哲学書でもあります。
イギリスがスパイ小説、スパイ映画の本場となったのには理由があると思います。議会制民主主義という近代国家のスタンダードを産んだ国でありながら、マルクスの共産主義もここが発祥の地、中世以来の王室と貴族が今日まで存在し、植民地支配の残映が未だ色濃く残り、過去と現在の、イデオロギーとイデオロギーの、建前と本音の、そんな様々な矛盾の継ぎ目がはっきりと見えている、つまり、スパイという綻びにつけ込む職業が生存しやすい環境なのであろうと思います。
少しずつ明らかになっていく真実、カッスルとその妻セイラの間に消えない傷跡として残っている緊張感の正体である南アフリカでの出来事が、まるで盲目の猟犬のように二人を追い詰めます。そして、二重スパイであると断定されてしまったデイヴィス、その愚かしく慎ましい恋の行方、一人の人間の殺害計画と休日の鱒釣り、二つの話題を全く同じ口調で語り合う上層部のエリートたち、チョコレート菓子のモルティーザー(日本で言えば駄菓子の部類です)を巡る小さなエピソード、高価なシングルモルトを注いだクリスタルグラスとこちらは安価なJ&Bの瓶、訳あって2冊ずつ買い求められる「アンナ・カレーニナ」と「戦争と平和」、細かい道具立てが物語を引き立てます。
「彼(フィルビー)は祖国を裏切った、そう、それはその通りだろう。しかし、われわれのうちで、祖国よりも大切な何かや誰かに対して裏切りの罪を犯さなかったものがいるだろうか」(グレアム・グリーンの「フィルビー事件」へのコメント)
祖国とは何か?信ずるとは何か?この非常に重たいテーマを、エスピオナージ娯楽作という香辛料で味付けし、口当たりを軽く仕上げつつ、本来の苦みをしっかりと伝える筆の冴え、紛れもなく名匠のものです。
対立する国家と国家、それぞれがその存続を賭けて闘っている、しかし、その「国家」は誰のものなのか?私のものであると断言できる人間っているのか?大部分の人間は、自分じゃない誰かのもの、上の方の偉い人たちのものとしか認識していないのではないか、ならば、自分の命、自分の愛する人の命の代償としてその国家を差し出すのは、正しい判断なのではないか・・・、それを誰が咎める?国家?その、比較するに値しない国家?
「『信じていないのか?』『もちろん信じているわ、でも・・・』、階段の上まで「でも」が追いかけてきた。カッスルは長いこと「でも」と生きてきた。」
「心配なのは分かる。どうしてなのか、話してくれればいいと思う。でも、話せないのもわかる、きっといつかね・・・、あなたが自由になったときに・・・」「もし自由になることがあれば、モーリス」
ラスト、カッスルとセイラの電話での会話は、途中で回線が切れてしまいます。受話器の向こうの長い長い沈黙、その沈黙の先に希望はあるのか?
スパイ小説ですが、ハラハラドキドキはありません。物語をうっすらと覆っているのは哀しみです。巨匠グリーンの上質なエンターテイメント、うんとビターなチョコレートと一緒に、あるいは豊潤なシングルモルトのスコッチウィスキーと一緒に、秋の夜長に是非お勧めしたい大人のための逸品です。
2008年8月1日 ブライアン・フリーマントル 「ネームドロッパー」
無人島に持っていく一冊の本、という問いかけがありますが、無人島じゃなくても、旅行にもって行く本を選ぶのはなかなかに難しいものです。旅先の宿で冷えたビール片手に読み始め、夕食を済ませた当たりで「ハズレ!」という事態、これ、結構悲惨ですよ。場所によっては四方何キロか以内に書店ゼロということも十分にあります。ハズレと分かっている本にいちいち突っ込み入れつつ読み進むのか、売店で大量の週刊誌を買い込んでその場を凌ぐのか、どっちにせよ辛いものがあります。
今回、旅行のためにバッグに放り込んだのは、フリーマントルの上下2冊の文庫本、ボリュームには何の不安もなし、ブランド力も十分、鉄板とも言うべき選択・・・だったのですが。
ハーヴェイ・ジョーダン、表向きはプロのギャンブラー、実はネット詐欺師。狙ったコンピュータに侵入し、誰かさんのIDとパスワードを失敬する、そして、その誰かさんとしてどこかの銀行に口座を開く。今の時代、ただの一度も銀行の窓口に現れることなく、つまり、防犯カメラに一度も映ることなく口座を開くことが可能です。そして、誰かさんの口座から静かにお金が流れ出す、自分の金を自分名義の口座に移すわけですから銀行のチェックに引っ掛かるはずもありません。やがて誰かさんの口座が空になり、誰かさんになりすましたハーヴェイの口座が満タンになった時、痕跡を残さずにそっとシステムから抜け出す、これがハーヴェイの本業です。
この年既に60万ポンド以上を騙し取ったハーヴェイは、久しぶりに本名を名乗って南フランスへ息抜きの旅へ。最高級ホテルにチェックインした後は、一番ありふれた車を借りて、表向きはそこが彼の仕事場であるカジノへ。目立たぬように賭け、目立たぬように勝つ、本名を使っている時の彼の鉄則は、「目立つな」。
気怠い高級リゾートホテルのラウンジで、ハーヴェイは一人の女性に心惹かれます。5カラットはあるダイヤモンドの婚約指輪と驚くほど細い結婚指輪、ブロンドの髪、豊かな胸、そして、他人を見下すかのような尊大な態度がハーヴェイの闘争心を掻き立てます。彼女をモノにする、テーブルに置き忘れた本がきっかけで知り合った彼女の名はアリス・アップルトン。
デュマの「鉄化面」の舞台を巡るセイリングにアリスを誘うハーヴェイ、豪華なカタマラン、贅沢な食事、シャンパン、そして海を染める夕陽が少しずつアリスを溶かしていきます。その夜を一緒に過ごした二人、私には結婚生活なんて存在しないの、あなたと出会ったあの日、私が持っていた封筒には離婚書類が入っていたの・・・。休暇が終わった時、ハーヴェイとアリスは互いに住所も教えずに別れのキスもないままに、それぞれの帰途につきます。お楽しみはお終い、現実に戻る頃合です。
ハーヴェイのもとにアメリカの裁判所から召喚状が届きます。詐欺が発覚した・・・のではなく、ウォール街の大物投資家アルフレッド・アップルトンとその妻アリスの離婚訴訟の過程において、アルフレッドがハーヴェイを訴えたのです。彼が犯した愛情移転とクリミナル・カンバセーションによって結婚生活が破綻し、多大な損害と苦痛を被った・・・。
どこの国の法体系にも「盲腸」みたいな法律があります。なんでこんなもんが残っているのか分からないんだけど、削除するとなるとちょっと面倒、だから放っておけ、そんな法律が。アメリカの離婚に関する法律は州によって異なりますが、未だに「愛情移転」(配偶者の一人がその愛情を第三者に向けること、配偶者権の侵害になります)が、そして「クリミナル・カンバセーション」(姦通罪)が機能している州も幾つかあるのです。よりによって本名で法廷に引きずり出される、ハーヴェイには悪夢です。誰かがアリスを尾行していた、夫以外に考えられない、俺はあの二人の泥沼の離婚訴訟に巻き込まれた、反撃しなければならない、負けるわけにはいかない、本名と素顔が世間に知られてしまえば、俺の稼業はお終いだ。
ここまでで上巻の67ページ、ハーヴェイの反撃が始まる、彼は一流のネット詐欺師、その技術を駆使してこの窮地からどうやって脱出するのか、期待は高まります。
しかし、延々と続くのは双方の弁護士が繰り広げる訴訟手続上の嫌がらせと時間稼ぎ、やっとこさ審理が始まったと思えば、クラミジアの病歴検査がどうしたこうした、確かに結婚生活が破綻していると主張している以上、性病に罹るということは不貞の証拠とはなりますが、それにしても、性病検査と診断書のやりとりだけで上巻が終わってしまうって、あんまりです。
下巻で始まったハーヴェイの反撃、先立つものは金、裁判費用に賠償金、弁護士費用、全部アップルトンに払わせてやる、そうとも、俺をコケにする奴は裸に剥いてやる、ネット詐欺師のお手並み拝見・・・。ところが、トロイの木馬を仕掛けた、それだけですか?彼が侵入するのはウォール街の金融業者のシステム、大手法律事務所のシステムですよ。今時そんなヤワなシステム環境って説得力がありません。詳細な手口も全く描かれず、セキュリティ担当者との火花を散らす攻防も起こらず、トロイの木馬という言葉一つで全部済ませてしまおうという省エネぶり。
なりすましものの名作と言えば、「太陽がいっぱい」があります。今、見てみれば、指紋はどうなっているの?とか、いくら何でもこりゃばれるだろうというシーンがたくさんあるのですが、サインを真似るための工夫やタイプライターの扱い方、燃えるような野心と凍えるような不安、傲慢と気弱さ、そして、至る所に感じられる死者の視線、緊張の糸をぴんと張ったっきり最後まで持って行くクレマンの容赦ない豪腕、お見事です。
それに較べて(較べるのは申し訳ないのかも知れませんが)、ハーヴェイ氏、表向きのギャンブラーぶり、訴訟手続でのしたたかさは充分に描かれているのですが、肝心の本業の詐欺師ぶりが全然冴えない、これは辛いです。
フリーマントル先生、今回ははっきり言って手抜きですね。ネームバリューを存分に活かして楽して稼いだという意味では、ハーヴェイ以上の凄腕ではありますが、被害者が自分となると楽しくはありません。
教訓、休暇に持って行く本の選択は慎重の上にも慎重に。
2008年6月5日 池内紀 「モーツァルトの息子」
音楽の神様の秘蔵っ子モーツァルトは、その35年の生涯で、700以上の楽曲と6人の子供を作りました。長男ライムント・レオポルド(生後2ヶ月でこの世を去ります)、二男カール・トーマス(長じてミラノの役人になります)、三男ヨハーン・トーマス・レオポルド(生後1ヶ月でこの世を去ります)、長女テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイト・フリーデリケ・マリーア・アンナ(娘の誕生に舞い上がったパパはとんでもない名前をつけました。しかし、この娘も生後半年でこの世を去ります)、二女アンナ・マリーア(名前をつける間もなく、生まれると同時にこの世を去ります)、そして、四男フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング、彼に自分の残りの寿命を譲ってしまったかのように、生後4ヶ月の息子を残して、今度は父モーツァルトが世を去ります。
音楽的才能に恵まれた四男坊は、14歳のとき、ウィーンで音楽家としてデビューします。そこそこの成功を収めたフランツは、この後、父と同じ名に改名し、父と同じように演奏旅行に出ることになります。モーツァルト・シニアのコースがパリ、ローマ、ミラノといった「西回り」なら、モーツァルト・ジュニアのコースはチェコ、ポーランド、ウクライナといった「東回り」、このことから、ジュニアはそこそこ派手にデビューしたものの、その後あまりパッとしなかったことが分かります。彼が書く曲もあまり売れませんでした。楽譜の表紙には大きく「W・A・モーツァルト」、で、その隅に小さく「息子」、要するに、W・A・モーツァルト (息子の方です) って感じですね。間違って買ってしまった人が相当数存在すると思われます。何か悪徳商法じみてますね。そして、モーツァルト・ジュニアはそのまま田舎の音楽家として生き、ボヘミアで死去、53年の生涯で彼が父を超えることができたのは「寿命」だけでした。
学校の音楽の時間に、このジュニアのことを習う可能性は限りなくゼロ、しかし、ジュニアは存在し、生き、仕事をし、そして、死んでいきました。その生の痕跡は父と比べるまでもない微かなものですが、それは今から見てのこと。1828年には、彼はポーランドのレンベルクの借家の一室で、ピアノの前に座って「早春カンタータ」を一生懸命弾いていたのですから。
その昔、確か新聞のCMのコピーだったと記憶しているのですが、あの渥美清氏がシックなファッションで登場し、「歴史は、あっちこっちで作られる」と呟くものがありました。学校で習う歴史は有名人しか出てきませんが、ちょっとその裏を覗いて見れば、普通の人、ちょっと変な人、かなり変な人が自由気ままに行き交っています。有名人の表の歴史のいわば通奏低音である裏の歴史、教科書には決して載りませんが、こちらだって立派な歴史です。
この本に登場するのは、落書き魔、ヘボ詩人、ねじれた顔しか作らない彫刻家、偏屈な引き篭もりといった、隣りにいたら迷惑かも知れないけれど、まぁ、この手の人はどこにでもいるし・・・という変人たちから、愛想尽かしの恋人から国王でも殺したら?と嘲られ、本当に国王を殺した男、誰にも終わらせることができなかった30年戦争をペンを駆使することで終結させた22歳の女王という、歴史の歯車をぐーっと回すキー・パーソンまで。または、45平米の自分の部屋の横断旅行記を書いた男、ひたすら丸いオッパイとふくよかなお尻を描き続けた画家といった愛すべき変人から、ワイマール公国顧問であらせられるゲーテ先生に借金の尻拭いをさせていた図書館司書、ナポレオン帝政下のヨーロッパで、修道士から銀行家、そして公爵まで一人で演じきった詐欺師といった悪党まで、総勢30人。
エピソードのそれぞれは、笑えたり、しんみりしたり、ぞっとしたり、様々なのですが、彼らが歴史の隅にちょこっと、それこそ落書きのようにその名を残すことになった原因はというと、誰の人生に起こってもさして不思議ではないことが多いです。タイミングが悪くて、ちょっとオツムが壊れてしまって、才能を発揮する時と場所を間違えて、たまたまその時そこにいたから・・・、人生なんて靴下よりも簡単に裏返るものです。
ビリー・ワイルダーの映画「サンセット大通り」、グロリア・スワンソン演じる忘れられた大スター、ノーマにひたすら忠実に使える執事マックスに扮した、自身が映画監督でもあるエリッヒ・フォン・シュトロハイムのエピソードが面白かったです。ウィーンの帽子職人がハリウッドのサイレント映画の巨匠に、そしてちょっと変わった監督から相当困った監督を経て、無職の元監督になり、パリ郊外の城で死ぬまで、一生かけて演じきった夢、夢を一生の間演じた場合、それは夢なのか、現実なのか?これ、映画化したら「サンセット大通り」より面白くなると思います。主演は是非ともジョニー・デップで。
ところで、モーツァルト・ジュニアの作品、CDにもなっております。私も何曲か聴いたことがあります。もう少し才能があれば、作曲家として記憶されたでしょう。もう少し才能が不足していれば、シニアの名を冠した楽譜出版社でも経営して気楽に暮らせたでしょう。ものすごく微妙なところに居心地悪そうに座っている感じがして、興味深い作品ではあります。
2008年4月29日 鬼海弘雄 「東京夢譚」
モノクロの写真集です。きれいな女の人も、きれいな風景も写ってはいません。ページからページへ現れるのは、全て毎日見ているものばかり、毎日見ているのに、見たという記憶すら留めていない、そんな風景です。まるで、空気をぐいっと鷲づかみにして、ほらっ、お前が毎日吸っているのは、お前の回りをぐるーっと満たしているのはこれだよ!って突き出されたような感覚を覚えます。
この写真集には人間はほとんど登場しません、登場したとしても後姿です。画像の大部分はアスファルトやコンクリート、なのに、体温を感じるくらいコッテリと人の存在が感じられるのです。ページを繰っていると、これで正面向いた人間が出てきたなら、私は最後まで見られないであろうと思うほど、じっとりと重たい「人」の気配、不思議な写真集です。
西新宿の高層ビルも靖国神社の大鳥居も、なぜかへんてこりんな夢の中の光景のように頼りなく揺らめき、神田川近くのおんぼろアパートも佃のタワーマンションも、食べて、寝て、排泄して、生殖する場所として同じように煩わしい。東京って哀しい街だったんだ、いえ、人はその住む場所を哀しく染めていくのかも知れない。
これらの写真を見ていると、「干す」という言葉が気になって仕方なくなってきます。
台東区竜泉のトタン張りの建物の窓には指が五本に分かれている靴下、川崎市高津区宇奈根の歩道橋の下の三階建て戸建ての窓には布団とスラックス、墨田区立花の築50年近い木造二階建ての今時珍しい木の竿掛けの竿には男物の白い綿シャツ、墨田区大平のおそらく風呂無しトイレ台所玄関共同のアパートの外の流しの上に二枚のタオル、大田区大森の今にも倒れそうな二階屋の窓の外の梯子には縞々Tシャツ、墨田区亀沢の長い外階段の上の軒先には胸当てのついたエプロンと長い股引、大田区蒲田の都営住宅らしき古びたコンクリートのアパートのベランダには子供用の小さな布団、新宿区中井の木造アパートの外階段の手すりには花柄の布団と褞袍(どてら)、新宿区若松町の思いっきり傾いて見ていると船酔いしそうな二階屋の窓には布団にタオルにジャージに縞々パンツ、大田区羽田の二階屋の二階の窓には真っ白なTシャツ、文京区湯島のなんちゃら堂(看板が汚れていて読めません)の二階の窓には布団とシーツ4組、靴下、Tシャツ、学校の制服とおぼしきプリーツスカート(あれ、水洗いして大丈夫だっけ?)台東区浅草のスナックらしき店の二階の窓にはシーツと褞袍(褞袍、未だ健在)、墨田区立花の鉄道線路脇の金網に洗濯ばさみで止められているのはYシャツ、Tシャツ、ポロシャツ、荒川区町屋の木造民家の二階の物干し台には超LLサイズのジャージのパンツとすごい数の下着(大家族なんでしょうか)、台東区浅草の蕎麦屋の「生蕎麦」の看板の上に布団と枕、川崎市宿河原の三階建てミニ戸建ての三階のベランダにはあっちもこっちも布団・・・、モノクロ写真の中で太陽を浴びて、ひとときほっと息をついているくたびれた生活の断片。
干してある、ともかく干してある、この角度じゃ日照時間は1時間もないだろうという場所であっても、ここで干したって煤煙で汚れるだけでしょって場所であっても、日本人って干すんだなぁ。
カリフォルニアのあのゴージャスな太陽の下、何故かアメリカ人たちは干さない、全部乾燥機に放り込んでブイブイ回していましたっけ。さすが、京都議定書を蹴飛ばす国は違うわいと思いますが、元々湿気がないので特に干さなくても何とかなるということもあるのでしょう。でも、たっぷりと太陽に当てた布団の心地よさを知らないとは、可哀想な人たち。
太陽に当てた布団の匂いを「お日様の匂い」と呼びますが、実は、あれ、洗濯後に残った汗や脂肪の成分が太陽の光で分解されて発生するもの、つまり、自分の匂いなんだそうです。道理で懐かしいわけです。
「昭和の日」、私もデジカメ持って街を歩いてみました。
高くても干す。ちょっと遠慮がち。
低くても干す。トタンと洗濯物って良く似合います。
無愛想な家 菅原文太と左幸子の夫婦に住んで欲しい。
駐車場のダイハードなタンポポたち
2008年3月25日 前田建設工業株式会社 「前田建設ファンタジー営業部」
前田建設工業株式会社、東証一部上場、資本金234億円の中堅ゼネコン、ダム建設などの土木に強く業界では「土木の前田」で通る大企業です。しかし、最近話題になったところでは、2006年に、福島県知事であった佐藤栄佐久とその弟が、木戸ダムの入札に当たって同社に便宜を図ったとして収賄及び入札妨害で逮捕、責任を問われて名誉会長が辞任。水谷建設の多額脱税事件でも、同社を下請けに使っている関係で名前がチラホラと、何かトホホな話題ばかりです。まぁ、普通の日本人がゼネコンと聞けば、政治屋のタヌキオヤジに握らせて抱かせて、要らない箱モノ、どこにも繋がっていない道路を作って、税金ジャブジャブに首まで浸かった土建屋・・・、じゃなくて、土木建設業に勤しんでおられる方々、というのが正直なところでしょう。バブルの時代は遙か彼方に去り、小泉政権以来の財政再建の煽りを食らって、公共事業への依存度の高い前田建設は、目下、非常に苦戦しております。
そんな中、ゼネコンに対するネガティブなイメージを何とか払拭し、誇り高き「物作りの匠」「国土を作る仕事」としての企業の姿をアピールすべく、そして、何よりもお先真っ暗の公共事業から脱却し、未だ誰も足を踏み入れていない(だって、誰も思いつかなかった)巨大マーケットへいち早く転身すべく、前田建設社内に極秘に、そして凛々しく立ち上げられた夢のプロジェクト・チーム、それがファンタジー営業部。
これ、ゼネコンの本っすか?表紙には4体の可愛らしい二頭身の人形(彼らが名誉ある初代チームメンバーです)、そして、中央、霊峰富士の前にすっくと立つのは、空に聳えるクロガネの城♪、あのマジンガーZです。ファンタジー営業部の記念すべき受注工事第一号、それは、富士山麓の光子力研究所にマジンガーZの格納庫を建設せよ。
「マジンガーZ」、1972年から2年間放送され、最高30%超の視聴率を誇った大ヒットアニメです。その後、スペインやイタリアなどヨーロッパ各国でも放映され、これまた大ヒット、スペインでは何と最高視聴率100%近くを叩き出し、世界中の少年たちの心を鷲づかみ。思えば、このスーパーロボットは、ジャパニメーションの先駆けとして、東大出の外務官僚数百人分の仕事をやってのけたものです。
さて、正義の巨大ロボットがプールの底からせり上がってくる施設を実現するのために、クリアしなければならない問題。まずは大きな縦坑、300トンの水圧に耐える開閉装置、マジンガーをコケさせずに(何しろ、彼は「パイルダー・オン!」しないことには動けない)、しかも10秒以内に地上まで持ち上げる巨大ジャッキアップシステム、毎回ザバーッと溢れる水を受け止める排水装置、等々。これらを一つ一つ、その道の専門家が解決していきます。
バカでかい穴を掘る、岩盤に行き当たるでしょうし、大量の地下水も湧く、何より、掘り下げていけば周囲はどんどん崩落してくる。身長18メートル、体重20トンのロボットを、上から大量の水が降ってくる中、10秒で地上まで持ち上げる、巨大油圧ジャッキはミリ単位の精度が要求されます。マジンガーがせり上がるわけですからプールの下は空洞、周囲からの圧力は大変なものになります。何しろモノがモノですから、作り始めてから、あれっ、これ、まずくない?では済みません。
そもそも、最初に「パイルダー・オン!」してから、普通の飛行機と同じように地上格納庫から出撃すれば、こんなややこしいもの必要ないわけで、現実にマジンガーのようなものが作られるとなれば絶対に「自走式」になるわけなのですが、何が何でもアニメの通りの仕様で納品致します!いー年こいたおっさんたちがあれこれ真面目に検討した結果、何と、マジンガーの格納庫は「本当に」作れるのです。お見積もりは、総工費72億円、工期6年5ヶ月・・・、意外と安い、ビル・ゲイツなら自宅の庭に作れてしまいます。日本の土木技術は、空想科学から「空想」を取っ払ってしまうところまで来ていたのですね。例え無駄な工事であろうが何であろうが、技術というものは使われているうちに、一定方向にちゃんと進化するものであると改めて思います。
72億円、これ、ホントに作ればいいのに。
かつて、「ミゲール(あるいはカルロ、ジャン、ハインリッヒ)、宿題をやりなさい!」「これが終わったらやるよ!」、テレビの前に釘付けだった少年たちは、今やそれぞれの社会の中枢を担っています。そんな彼らはある日、インターネットで、あるいは雑誌で知ることになるのです、日本の富士山の裾野にはマジンガーZの格納庫が「本当に」あるのだと。新たな聖地巡礼の始まりです。
ママンが恐かったおかげで、日本製アニメに夢中になりつつもちゃんと勉強もした彼らは、今や金色のマスターカードで欲しいものはさくっと手に入れることができるのです。その夏のバカンス・シーズン、ビジネスクラスのシートに身を委ねた彼らは、東の果ての島国を目指します。子供の頃の夢がそのままの形で目の前にある、さすがに本物のマジンガーZを作るのは無理でしょうが、幸いなことに聖地用のマジンガーは戦闘能力は必要としません。身長18メートルのマジンガーの格好をしたアシモ君で良いのですから、ホンダに発注すれば作ってくれるはずです。「聖地」光子力研究所の向こうには世界で最も美しい山、富士山の優美な姿。その周囲には火山の恵みである数多くの温泉、繊細な日本料理と奥深いもてなしの心を堪能し、ディープなアキハバラで現代のイコンであるところの数々のフィギュアをゲット、これはもう、少子化の進む日本が新しい観光大国として出発するための一大国家プロジェクトとして、十分検討に値すると思います。誰も使わない何とか会館とか、途中で予算切れして何処にも繋がっていない道路を作るより遙かに有意義でしょう。
大切なことは、役人に財布の紐を渡さないこと、でないと、すぐにチケット販売のための子会社とか、海外プロモーションのための外郭団体とか、食堂とか、駐車場とか、天下り先をじゃんじゃん製造し始め(これはもう役人の本能なのです)、贈収賄と裏金が「パイルダー・オン!」してしまい、必ず失敗しますので。ゼネコンの皆さん、悪代官のセンセイの地元に誰も渡らない橋作るより、ぜーったいにこっちの方が楽しいですよ。ニッポンで土建屋やってて良かった!でしょう。
あのアメリカの丸顔のネズミや黄色い熊にできたんですから、「空に聳えるクロガネの城」に出来ないはずがありません。麻生さん、いかがでしょう?
2008年1月31日 ミシェル・ビュトール 「心変わり」
確か二十歳くらいの時に古書店で手に入れたことがある本です。そして、私には珍しいことなのですが、3分の1くらい読んだところで放棄してしまった本です。根が貧乏性なものですから、買った本は最後まで読まないと、あぁ、あっちを買えば良かったよぉ、と往生際悪くジタバタする性分なのですが。この本を買った理由、もうよく覚えていないのですが、おそらく、舞台がパリとローマ、男と女、まぁ、そんな「いかにも」の設定に惹かれたのであろうと思います。そして途中で放棄してしまった理由、それほど長いわけでもなく、読みづらいわけでもなく(翻訳文は実に自然にこなれています)、さて、どうしてだったろ?と記憶の底をひっくり返します。
その原因は、この作品の「空白」だったように思います。そして、若かった私は、その「空白」に堪えられなかったのであろうと。
さて、そんな因縁のある「心変わり」と再会しました。私は順当に年をとりましたし、「心変わり」も手軽な文庫本になっていました。
おそらく1950年代半ば、スカベッリ・タイプライター商会のパリ支社長であるレオン・デルモン、パリのアパートに妻アンリエットと4人の子供と暮らす裕福なビジネスマン、彼は今、パリ・リヨン駅8時10分発のイタリア行き列車に乗り込んだところです。ラロッシュ、ディジョン、シャロン、マコン、ブール、キュローズ、エクス=レ=バン、シャンベリー、モダーヌ、トリノ、ジェノヴァ、ピサ、そして、彼の目的地ローマ、彼がローマ駅に降り立つのは翌日の夜明け、ローマの町はまだ暗いはず。一昼夜の列車の旅、それは、レオンにとって、これまでの半生に別れを告げ、新たな後半生に一歩を踏み出す旅になるはずです。
パリ支社とローマ本社の間を忙しく往復するレオンは、列車の中でローマのフランス大使館で働く若くて美しいセシルと出会います。妻アンリエットとの結婚生活は20年目を迎え、表面は何一つ変わらない従順な妻の言動の端々に次第に刺々しさを感じることが多くなってきたレオン、そして、ローマで一人異邦人として暮らすセシル、二人は当然のように恋に落ち、レオンはパリのパンテオン広場を見下ろす自宅とローマのヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りに面したセシルのアパートの間を行き来しつつ、二重生活を送ってきました。
「かりにわたしがなにもかも投げ棄ててあなたと一緒にパリに行き、毎日あなたに会おうとしても、会ってくださるのはたった5分間、しかも、こっそりとなんでしょうね。」・・・、レオンは決断しました。
君のためにパリに仕事を見つけたよ、そして、僕は妻と別れる、パリで一緒に暮らそう、セシルにそう告げるための旅。普段はもっと遅い時間にパリを発つ「ローマ急行」の一等車(ローマまでの所要時間は18時間40分)に乗るレオンが、わざわざ時間のかかるこの列車(ローマまでの所要時間は21時間55分)の、しかも三等車に乗り込んだのは、この旅がいつもの出張ではなく、彼の人生の転機であることを自分の心にはっきりと刻むため、そして、まだ明けきらない朝靄の中、セシルの部屋のドアをノックして、「で、こんどはいついらっしゃるの?」「残念ながら12月の末まで来られない」、前回の出張の時の別れの言葉を唐突に、そして永遠に嘘にして、セシルを驚かせたいため。
三等の車室には8つの座席、そのうちの一つを占領して、レオンの旅は始まります。
作者はレオンを「きみ」とニ人称で呼びます。読む人間は、一人称の「わたし」なら、「わたし」が私であるわけはないので、そして三人称の「かれ」なら、これも絶対に私ではないので、人物と自分との間の距離をはっきりと捉えることができます。ところが、「きみ」というニ人称では、ページの中で行動する人物と自分との間の距離が掴めないのです。「わたし」という絶対的な自己と「かれ」という絶対的な他者の間の「きみ」、これがここから先じわじわと効いてきます。
パリを出発した「きみ」、一人旅の手持ち無沙汰から残りの7席に次々登場する人物を観察し、それぞれに名前をつけて、その名に相応しい物語を作ります。大学教授、神父、セールスマン、新婚の若夫婦、甥を連れた未亡人・・・、そんなとりとめもない連想ゲームと「きみ」自身の思い出が交錯し、どっちがどっちだったっけ?今、語られているのは誰の話だっけ?と頭がぐらりと揺れる当たりでタイミングよく登場する通過駅、先はまだまだ長い・・・。そういえば、と話は続き、再び、あれ・・・?というところで繰り返し描写される「菱形模様のついた細長い鉄の床暖房」、窓を伝う水滴、網棚の上の荷物、タバコの煙で澱んだ空気、細部の描写が当て所なく流れる「きみ」の思考に現実という枠をはめています。
一昼夜の列車の旅、夜、乗客たちは狭い椅子の上で少しでも快適に眠ろうと身体を捩り、足を交差させ、頭をもたれさせる場所を探し、しかし、どれも虚しい抵抗、やがて睡魔が不快感に打ち勝ってまどろみが訪れる・・・、誰かが咳をして、誰かがドアを開けて、まどろみは破られる。「きみ」も彼らと同じ、パリ駅で買ってきた小説は結局1ページも読まれず、疲労した身体は眠りを欲しているのに、高ぶった脳がそれを許さない、何とも腹立たしい一夜。
そして、夜明け前のローマ、テルミニ駅に降り立った時、「きみ」の中にある決意はどうなっているのか?
何も起こらない、人々が移動し、囁き、食べ、眠る、あるのは途切れることのない意識の流れと時間だけ、そんな空白の中で「きみ」、レオン・デルモンはあるものを失い、あるものを得る、そこに哀しみはない、喜びもない、なぜなら、どちらも最初からそこにあったから、ただ「きみ」が見ようとしなかっただけ。
パリとローマ、アンリエットとセシルの間を「きみ」が行き来する距離、現在では列車で約12時間、飛行機なら2時間ですが、50年前は一昼夜を要する距離だったんですね。そして、ともかく、やることがなにもないのです。携帯電話も、ゲーム機も、ポータブル・オーディオもない、連れがいればおしゃべりもできますが、一人でも本を読むことはできますが、それも他の人が寝てしまえば諦めなくてはなりません。そこから先は本当に何もないのです、時間以外は。
時間があってすることがなければ、人は考えます、思い出します。思い出を取り出して埃を払って、そこに思いがけないひび割れを見つけることもあるでしょう。意外なところに新しい輝きを見つけることもあるでしょう。
たっぷりと考えれば、おそらく人は一番安全な道、つまり、自分の足跡を辿って引き返す道を選ぶでしょう。自分を苛んでも、他人を傷つけても、前に出る、これが出来る人を私たちはある時は「英雄」と呼び、ある時は「狂人」と呼ぶ。そして、当然に、「きみ」は英雄でも狂人でもなかった、ただそれだけのことだったのです。昨日の朝、パリ・リヨン駅を発った時、「きみ」の中にこんな結末があっただろうか?あったのでしょう、だって、今、それがローマのテルミニ駅のプラットフォームの上の「きみ」の心に確かにあるのだから。
全てがスピードアップした結果、「空白」を失ってしまったのだと思います。ある人に会いに行くにしても、飛行機で、新幹線で数時間では、その間にどれほど人の心が動くでしょうか。誰かを待っている、誰かを待たせている、しかし、携帯電話が登場し、一人待ち呆けることは不可能になりました。いつでも相手と繋がっている、実に便利で、そして希薄な関係。
簡単に読める作品ではありません。時間を要します。その時間を感じること、それこそがこの本を読む第一の意味だと思います。読み進むにつれて、頭の奥の方がどんよりと微熱を帯びて気だるくなってきます、そう、規則正しく揺れる列車の狭い座席の上で、浅い睡眠と苛立たしい覚醒の間を往復しつつ過ごす一夜のように。
最後に「何もすることがない」状態になったのはいつだったでしょう?何も持たずに夜行列車に乗ってみようか?ふと思いついて調べて見ましたところ、そもそも夜行列車自体が既に消えようとしているのですね。何もすることがないという旅は、今では「贅沢」になってしまったようです。それにしても、JRの「カシオペア」、高っ!