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2000年12月26日 オトフリート・プロイスラー 「小さい魔女」
2000年12月4日 ロバート B・パーカー 「家族の名誉」
2000年11月15日 キース・ロバーツ 「パヴァーヌ」
2000年10月24日 辰巳渚 「捨てる!技術」
2000年9月21日 ベルンハルト・シュリンク 「朗読者」
2000年9月7日 ウィリアム・H・スタイビングJr. 「スタイビング教授の超古代文明謎解き講座」
2000年8月18日 ステュアート・ウッズ 「草の根」
2000年8月16日 エド・マクベイン 「ビッグ・バッド・シティ」
2000年7月27日 テア・ライトナー 「ハプスブルクの女たち」
2000年7月13日 サイモン・シン 「フェルマーの最終定理」
2000年7月4日 トーマス・H・クック 「夜の記憶」
2000年6月10日 スティーヴ・ハミルトン 「氷の闇を越えて」
2000年5月23日 ダグラス・ケネディを2冊
2000年5月7日 ブラッド・メルツァー 「最高裁調査官」
2000年4月22日 マイクル・コーディ 「イエスの遺伝子」
2000年4月7日 川崎泰資 「NHKと政治」
2000年3月23日 スーザン・グリーンフィールド 「脳が心を生みだすとき」
2000年2月27日 中丸明 「海の世界史」
2000年2月5日 木村申二 「シャーロック・ホームズ鑑賞学入門」
2000年1月10日 安斎育郎 「人はなぜ騙されるのか」
2000年12月26日 オトフリート・プロイスラー 「小さい魔女」
クリスマスの季節、本屋さんでは児童書のコーナーが楽しい。カラフルな絵本や名作全集、新作が目白押しです。そんなあれこれを手にとって眺めているうちに劇的な再会を果たしました。それがこの「小さい魔女」。小学校低学年の頃、学校の図書室で出会って夢中で読み耽って、私がずっと借り出しているもんだから他の人はなかなか読めなかった(ごめんなさい!)という一冊です。
表紙も挿し絵も昔のまま、懐かしくて思わず買ってしまいました。こういう再会はうれしいものですね。昔の恋人とバッタリ出会ったって感じ(それよりこっちの方がうれしいかも知れない。何しろ全然変わっていないのですから)。
ドイツの森の中、小さな家に口の達者なカラスのアブラクサスと住んでいる127歳という「ひよっこ」の小さい魔女、ワルプルギスの夜に参加したいのですが、まだまだひよっこということで呼んでもらえません。こっそり紛れ込んで踊っているところを意地悪な嵐の魔女に見つかってしまって大目玉。来年までにはきっといい魔女になりますと約束させられてしまいます。
それから1年、一生懸命魔法の勉強をし「いい魔女」を目指します。全然売れない造花を抱えて困っている少女を助けたり、森の番人を親切な男に変えて、薪拾いのおばあさんを助けたり、凍えている焼き栗売りをほっかほかに暖めてやったり、小さい子供たちを苛める意地悪っ子を雪だるまを使って懲らしめたり、無神経な馬車引きに苦労している馬たちを助けたり・・・、たくさんの良いことをして、さて次の年のワルプルギスの夜、小さい魔女はとんでもない勘違いをしていたことが判明。魔女というのは魔法を使ってたくさんの悪いことをするのが「いい魔女」なので、彼女はとんでもない「悪い魔女」になってしまったというわけ。
ここから小さい魔女の大逆転劇が始まります。クライマックスは他の魔女の箒を取り上げて巨大な篝火を焚くシーン、絶体絶命の危機を努力と知恵で乗り切った小さい魔女は炎の周りで踊り明かします。
今回読み返して、改めてその魅力を再確認しました。勘違いからせっせと「悪い魔女」になってしまった小さい魔女ですが、彼女はここで考えを変えません。だってみんなが喜ぶことに魔法を使ったんだから、他の魔女が何と言おうと私はいい魔女なのよ、誰が何と言ったっていいことはいいの、いいことを悪いことだという人は、いくら偉くたって間違っているの、こう言い切ってたった一人でピンチを乗り切る小さい魔女、これは大人にだってなかなか難しいことです。
そしてドイツの森、小さな町の生活感を漂わせる描写の巧みさ、パチパチはぜる暖炉の薪、降り積もる雪、焼き栗、ソーセージ、酢漬けのキャベツ・・・、読むときのBGMはウェーバーの「魔弾の射手」がお薦めです。
2000年12月4日 ロバート B・パーカー 「家族の名誉」
パーカーの新しいサニー・ランドル・シリーズ第一作です。私はこの人のスペンサー・シリーズを、第一作の「ゴッドウルフの行方」からずっと追いかけてきました。この第一作や「失投」、「約束の地」当たりは本当に面白くて、出版されるのが待ちきれない感じでした。それが「蒼ざめた王」当たりからだんだん「また出たの?ま、買っとくか」って感じになり、今では書店で発見して「あっ、出てたんだ。そのうちに気が向いたら買おうかな」という具合。
スペンサー・シリーズの行き詰まりはマンネリ打開策が全て裏目に出ていることにあると思います。マンネリ自体は極めれば大変立派なものですが、この人はそれを変にいじくるもんだから話が厄介になります。謎解きとしてのプロットに行き詰まると無意味なアクションに走り(「ダブルデュースの決闘」)、それにも行き詰まるとまた謎解きモードに変更するのですが、最新作の「ペイパードール」では、そのおかげでタフな相棒のホークの出番がなくなってしまいました。中途半端な路線変更はマンネリ以下の結果を生みます。
で、この新シリーズ、主人公が女性です(女優のヘレン・ハントがパーカーにリクエストしたんだそうです)。元警官で現私立探偵のサニーはバツイチ、彼女のところに政界の有力者から家出した17歳の娘を捜してくれという依頼が入ります。街で娼婦になっていた少女を発見したサニーは、名門一家の隠された秘密、その重さゆえに自分を傷つける少女のために闘います・・・。っと、ここでスペンサー・シリーズの読者ならあれ?と思います。これは「初秋」と全く同じ設定なのです。「初秋」では、離婚した両親の間でキャッチボールされて自分の殻に閉じこもる少年に、スペンサーは自立と誇りを持つことを丁寧に教えていきます。それが反対になっただけ。自分の作品をパクった場合には「パクリ」とは言わないのでしょうが、だからってやっていいとは、私は思いません。
それからサニーを取り巻く人物、元夫は闇の社会を牛耳るファミリーの一員(こんな男と警官が結婚するという設定自体無理がある)、親友は武芸の達人のクールなゲイ(スペンサー・シリーズのホークですね)、そして、結局サニーはこの二人に頼らなければ何も解決できないのです。サラ・パレツキーの「ウォーショースキー」が世に出てしまった今、こんなヒロインを「自立したタフな女性」だって言われたってこっちが困ります。だいたいパーカーは女を書くのが下手なんですから、女性探偵を主人公に据えたこのシリーズ(シリーズになるんでしょうね?)は前途多難ですね。
一番魅力的なキャラクターは、サニーの愛犬、ブルテリアのロージーでした・・・というわけで、パーカーさん、しっかりして下さい!
2000年11月15日 キース・ロバーツ 「パヴァーヌ」
歴史を考える時、「もしも」って思うことがあります。もしも織田信長が本能寺で死なないで日本を統一していたら、もしも第二次世界大戦でヒトラーが勝ったとしたら、そしてこのロバーツの美しいSFは「1588年にエリザベス一世が暗殺された後のイギリス」が舞台です。
スペインのフィリッポ2世率いるカトリック教会軍がイングランド、そして新大陸、アジアまで制覇し、ローマ法王が世界を支配している「もしも」の世界の1968年。ローマ教会は新技術を異端として取り締まっていますから、この世界には自動車も無線通信もありません。しかし、中世以来の技術はそれなりに進化し、大型の蒸気機関車を繋いだ巨大な車が街道を行き来し物流を支えています。高い信号塔に組まれた腕木を組合せ、それを順にリレーしていくことで通信が行われています(この方式は実際、フランス革命の時に使われていました)。グーテンベルクの活版印刷は生まれなかったようですが、印刷と出版を独占している修道院の中では手刷りの書籍が印刷されています。現実の20世紀にはほど遠いテクノロジーと未だに異端審問に血道を上げるローマ教会の下、世界はただじっと息を潜めています。
色々な人が登場します。蒸気機関を使った運送業で財をなす、しかし愛に恵まれない孤独な実業家、選ばれた職業である信号手に憧れ、努力をし、そして謎の死を遂げる青年、教会の目を盗んで自由に海を行き交う密輸船の白い姿に別の世界を垣間見る少女、異端審問に疑問を持ち、本当の「神の愛」を求めて反逆する修道士、城の塔に反旗を掲げ、昂然とローマ教会軍に大砲を向ける女城主・・・。そして権威に疑問を持つ人、苦しむ人、悲しむ人にいつも影のように付き添う「古い人」と呼ばれるケルトの精霊たち。第一話の蒸気機関車レディ・マーガレット号から始まった物語は、最後の古城に佇む「古い人」の血を引く青年の涙で輪を閉じて完結します。
カトリックの教義が全てを支配するこの世界には、なるほど電話も、自動車も、テレビも、コンピュータもありません。人々はその生まれた身分と土地に固定され、口数も少なく、ランプの灯りの下、静止した時間を生きています。ロバーツの文章が何故かひどく優しい。澄み切った冷たい空気を感じさせる風景描写(いかにもイギリス的です)、テクノロジーの丁寧な描写(第一話の蒸気機関車の描写は存在することのなかった技術をまるで目の前に見ている気分になります)、一つ一つが実に丁寧に描かれた「別の世界」をずっと通して流れているものは「悲しい諦め」と「微かな希望」です。
存在することのなかった現在が語りかけてくる言葉に耳を傾けていると、一つの疑問が浮かんできます。今ここにある現在は豊かで繁栄しているかも知れません。でも、何かが欠けているのではないかと。「もしも」の世界の存在意義はここにあるのかも知れません。
2000年10月24日 辰巳渚 「捨てる!技術」
目下ベストセラーというこの本、題名通りの内容を期待して手にすると少々がっかりということになります。効率よく物を捨てるための技術が書かれているのではなく、捨てられる人間になるための心構えともいうべきものが書かれており、正しくは「捨てるための思想」とすべきでしょう。
何で物が増えるのか?という観点から、要らない物はバンバン捨てよう、そのためにはこう考えればよい、という切り口の本です。「いつか使うかも知れないから」(そんな時は永遠に来ない)、「そのうち捨てよう」(だったら今捨てても同じでしょ)、「使わないけど便利みたいだし」(便利だったら使っているって)・・・という具合に、あらゆるものを貯め込まないで捨てましょうという主張は至ってシンプル、何しろ日本の都市部で一番高価なものは「空間」です。その高価な空間を使いもしない物でいっぱいにするのは本末転倒でしょう。
ほぉーと関心してしまったのは、みんなそんなにたくさん物を持っているんだ、ということ。何しろ私は捨てるのが大好きで、何かを捨ててそこの空間が空くとうれしくなってしまう人間です。時には調子よく捨て過ぎて、あ〜、あれ要るんだった、どうしよう、困った、という事態もしばしば。それ以前に本とCD以外の買い物が嫌いで、物欲が欠落している人間なので、こんなに色々なものを購入し、それを保存している人がいるんだ、ということの方が新鮮でした。物欲というのは個人差が大きく、みんなが私みたいに「要らない」人間だったら経済は立ち行かなくなりますから、人それぞれで世の中うまく回っているのでしょう。
私はこの本に「こうやったらコンパクトにゴミが捨てられる」とか「こうすればゴミも出ません」という技術論を期待して(だってタイトルにそう書いてある)買ったわけですが、その期待はきれいに裏切られました。でも、捨てられない人たちにとってはこの本に書かれている発想方法はとても参考になるでしょう。私が唯一困っているのは、どんどん増え続ける本とCDなんですね。それが分かっていてこの本も買ってしまったわけで、こうして本がまた1冊増えてしまった・・・。
ところである程度「これもう要らない」という本が溜まると古本屋さんに売ることになりますが、この古本屋という商売、この数年で随分変わりました。私が利用している店は「その本がきれいか」だけで買取価格が決まります。初版本だったり既に絶版だったりとか、人気作家の作品であるとかは一切関係なし。要するに古本の目利きがいなくなったということでしょうか。少し前の古本屋さんは丁寧に奥付をチェックして、その作家の将来性とか、その本の希少価値とかを計算して買い取ってくれました。売る方も結構ドキドキしたものです。自分の売った本がきれいに磨かれて「うそでしょ?」という高値を付けられて店頭に出ているのを見ると、「やられた!」と思ったものです。あの「勝負!」って感覚、結構楽しいものでした。
2000年9月21日 ベルンハルト・シュリンク 「朗読者」
ドイツ純文学のベストセラーです。ヨーロッパの読者をノックアウトし、アメリカでは200万部を売ったというお化け本は、日本でもベストセラー上位に上がっています。ドイツ文学というと「観念的」(トーマス・マンとかギュンター・グラスとか)という印象がありますが、この作品には何かひんやりした手触りがあります。事実を淡々と記し感情に流れない表現(作者は弁護士で法学の先生だそうです。)のせいでしょう。小さな声で語られる物語にこそ真実があるのだと思います(だいたい私は人が大声で主張することって信用しない傾向があるんですよね)。
15歳の少年ミヒャエルは学校の帰りに急に気分が悪くなり吐いてしまいます。そんな彼を介抱してくれたのは市電の車掌をしている36歳のハンナ。これがきっかけで二人は恋に落ちます。親子と言っていい年齢です。ミヒャエルの父は哲学の教授、家は中流の中といったところですが、インテリの家庭です。一人暮らしのハンナはどこかがさつな雰囲気を持っていますが(ミヒャエルの目の前で、誘惑目的ではなく単なる日常として着替えたりします)、逞しい美しさと謎めいた雰囲気を持った大人の女です。やがて二人には奇妙な習慣が生まれます。彼が持ち込んだ本を彼女に朗読するという習慣です。ハンナの狭いアパートでトルストイやホメロスの作品を朗読するミヒャエル。二人の濃密な関係はある日突然終わります。ハンナが姿を消したのです、何も手がかりを残さずに。
大学で法学を学ぶようになったミヒャエルは、ゼミで傍聴した裁判の席でハンナと再会することになります。彼はハンナを被告席に発見します。かつて一緒にお風呂に入り、ベッドで戯れた二人は、被告席と傍聴席に分かれて、一言も言葉を交わさず、目線すら合わせないままで、裁判期日に法廷で逢瀬を重ねることになります。そして、ミヒャエルはハンナの秘密に気づきます。なぜ彼に朗読をさせたのか、彼が学校をさぼっていると言った時になぜあれほど怒ったのか、なぜ彼がベッドサイドに残したメモを知らないと言い張ったのか・・・。巧妙に張り巡らされた伏線がカチリと音を立ててはまり込みます。ハンナの人生を結局は法廷に導いた彼女の秘密、それをただ一人理解してしまったミヒャエル、二人の濃密な関係は決して終わってはいなかったのです。
とても悲しい物語なのですが、なぜか清涼感が漂います。ハンナもミヒャエルもこの悲しい恋を嘆きはしません。二人ともプライドを持って全てを受け入れます。残酷な別れも、秘密も、罪も、全てをです。「これはいいけどあれはいや」という生き方を二人は否定します。いいところばかりを味わって「ごちそうさま」というふうには人生はできていません。甘い愛があれば当然に苦い別れがあります。うれしい偶然があれば当然に不運な出来事があります。「これをよしとするならあれもよしとせよ」、ミヒャエルが大人になってから再会した二人には、そんな厳しい姿勢があります。
朗読という行為には何かしら親密なものがあります。ある人の前で自分の(あるいは相手の)好きな本を声を出して読む。ある部分はゆっくりとある部分は早く、感情を込めて、時にはわざと無機質に読む。作品本来の意味に自分の理解を重ね合わせて相手に供する行為には、何かしら秘密のプレゼントのような匂いがしますね。
2000年9月7日 ウィリアム・H・スタイビングJr. 「スタイビング教授の超古代文明謎解き講座」
ナスカの地上絵、エジプトのピラミッド、イースター島のモアイ像、ユカタン半島のマヤ遺跡、謎のアトランティス大陸・・・世界には不思議なものがたくさんあります。どれもこれも心が躍ります。遠い昔の人たちはいったいどうやってこんな巨大建造物を造ったんだろう、何が目的だったんだろう・・・大きなもの、壮麗で人を圧倒するものに対する憧れは大変な情熱を生むものだと思います。
と、ここまでは誰しも同じなのですが、ここから先、少し違う方向に走ってしまう人たちがいるようで、というのがこの本のテーマです。ちまたに溢れるいわゆる「トンデモ本」、ピラミッドを造ったのは宇宙人だとか、モアイ像は反重力を利用して造られたとか、ナスカの地上絵は宇宙人のロケット着陸場だとか、マヤ遺跡には宇宙飛行士の姿が描かれているとか、何とかかんとか・・・。突拍子もない話というのは個人で勝手に想像している分にはとても楽しいものですが、それが立派な本になり多くの人が読むことを考えると「楽しい」だけではすみません。当然責任というものが生じます。何しろこの手の本の読者は考古学者でもなければ歴史学者でもありませんから、本に書かれているという権威付けだけでそれを信じてしまうこともあるでしょう。この本の著者はプロの考古学者です。彼がこれらの「トンデモ本」の説を一つ一つ丁寧に論破していきます。少し丁寧過ぎるくらいです(「ばっかでないの」で済ませないところに学者としての良心を感じますね)。
トンデモ本の論理には一つの特徴があります。自分のトンデモ説に都合のよい部分だけは考古学的に検証された証拠を持ち出して箔を付け、それ以外の証拠はわざと無視するというものです。この方法を使えばどんなトンデモ説も可能です。カモノハシという動物はほ乳類ですが卵を生みます。これだけを持ってきて「ほ乳類は卵を生む」と結論付けるのと同じことです。知らなければそれはただの「無知」で済みますが(いい迷惑であることには変わりありませんが)、知っていてわざと書かないとなると、これには悪意を感じます。
ピラミッドは当時の技術でちゃんと建てられることが証明されています。モアイ像の頭の帽子だってクレーンがなくても乗っけることができます。マヤの神殿のレリーフに描かれたのは宇宙飛行士ではなくて占いをする神官です。「宇宙人が建てたのかも知れないね」「まるで宇宙飛行士みたい」ならいいのです。お酒の席の楽しい話題にもなります。「宇宙人が建てた」「これは宇宙飛行士だ」と断定して本まで書いたとなると、これは「詐欺」になります。
大昔の人たちは自分たちの信じる大切な神様を喜ばせるために、あるいは愛する人たちを災いから守るために、一生懸命に知恵を絞って汗をかいて、現代にまで残る美しいものをたくさん作りました。その努力に対して「宇宙人が作った」とは失礼というものでしょう。書店で平積みになっている「トンデモ本」(最近、またこれが多いんだ)にお金を払う前に、この本を読んだ方がいいですよ。いろんなトンデモ説を楽しめて(著者はどんな説でも冷静に記述しています)、その上詐欺にひっかからないで済みます。
2000年8月18日 ステュアート・ウッズ 「草の根」
こつこつとかれこれ40年以上、常に打率3割を維持しているマクベインに対して、デビュー戦でいきなり満塁ホームランを放った(「警察署長」)ウッズのその後は、ホームランか三振かという大振りが目立ちます。そんな彼の「草の根」、主人公のウィル・リーは大物上院議員カーの第一秘書、そしてジョージア州の弁護士、父は元州知事という名門の出、41歳、独身(恋人はいるのですが、彼女はCIAのキャリアで交際は秘密にされています)、ハンサムで性格もよろしい・・・。この設定だけで既に「三振」の予感がします。
黒人女性をレイプして絞殺した容疑で白人青年が逮捕されます。この厄介な事件の公選弁護人に任命されたウィルですが、その後カー議員が脳卒中で倒れ、彼の後継者として選挙に出馬することになってしまいます。対抗馬は現州知事、アメリカの選挙戦の内幕の描写はとても面白い。それに白人至上主義のテロリスト団体、彼らの「浄化」と称する無差別殺人を追う刑事が絡みます。テンポのいいストーリー展開は買います。文庫本で615ページという大作ですが、一気に読めます。しかし・・・、彼の立候補が原因で喧嘩別れした彼女は素直に彼の元に戻ってきます、選挙資金が底をついた途端に多額の寄付が届きます、スキャンダル発覚かと思われる展開は実は対抗馬のことであり、選挙スタッフの一人が自殺した途端に新しい有能なスタッフが現れ、テロリストに自家用飛行機に細工されたウィルは007みたいな離れ業でビルの屋上(!)に不時着し、警察を首になっても犯人を追いかける刑事には気前の良いパトロンが見つかり、事件の重要目撃者は頭を2発撃たれても死なず(すぐに元気になる)、頼りの綱の倒れた上院議員は驚異的な回復を見せ、もう、ここまで来たらラストのハラハラドキドキ(どうせそうなるんでしょ?)でウルトラマンが登場しても驚かないもんね。
そして予想した通りにめでたし、めでたしで終わる物語。悪の首領は正義の味方に成敗され、汚い手を使った対抗馬の候補は社会的に葬られ、ウィルは来週彼女と結婚するんだそうで・・・もう勝手にして!これほど中身のない主人公も珍しいと思います。ウィルには忘れたい過去も悲しい思い出もない、まるでゆで卵のようにツルツル、アル・ゴアだってもう少し複雑な人間だと思うのですが。第一、なぜ彼が上院議員になりたいのかが全く分かりません。議員になって理想を実現するのか?でも彼の理想も分かりません。そもそも理想を持っているのかどうかも分かりません。
ここではたと思い当たりました。名門の御曹司、正義を貫こうとする弁護士、有能な議員秘書、美しく聡明な恋人、理解のある両親、一生懸命尽くしてくれるスタッフ、自家用ジェット機、ヨット、湖畔のコテージ・・・これ、男性用の「ハーレクイン・ロマンス」なんですね。
ステュアート・ウッズ、今回は「三振」です。
2000年8月16日 エド・マクベイン 「ビッグ・バッド・シティ」
87分署シリーズの何と49作目です。アメリカ東海岸の架空の大都市アイソラ(イタリア語で島のことですが、これは間違いなくマンハッタンです)の犯罪多発地帯を管轄する87分署を舞台にした警察小説も、もはや古典と呼んでいい大河小説に成長しました。このシリーズの魅力は、何と言っても多彩な登場人物とそれに絡む複数の事件が同時進行するというパイ生地のような構造、本物の警察マニュアルと法律を下敷きにしたリアルな描写です。
蒸し暑いアイソラの夏、87分署が抱え込んでいるのは、公園で修道女が絞殺された事件、必ず犯行現場にチョコレート・クッキーを残していくというふざけた空き巣クッキー・ボーイの事件、主婦とその浮気相手の少年が射殺された事件(後にクッキー・ボーイ事件と絡みます)という三つのオフィシャルな事件、それに数年前に刑事であるスティーブ・キャレラの父親を射殺した(検察のドジで無罪になってしまいます)男が、今度はスティーブをつけねらうというプライベートな事件が絡みます。
印象に残ったのは、ラスト近く、数年前の殺人事件の真相が結局分からないというところです。あるライブハウスのオーナーが殺された、居合わせた人間は二人なのですが、どちらも相手が殺したと信じている。そんな馬鹿な、どちらかが嘘をついていると思うところなのですが、本当に恐ろしいことがあって、その記憶から逃れたい一心で「殺したのは自分じゃない」と頑なに唱え続けた二人は、それぞれ自分に都合のいいストーリーを本当に信じるに至ってしまったのです。それがまた一つ殺人を呼んでしまう。
49作目にしてキャレラはやがて迎える40歳の誕生日をとても気にしています。思えば遠くに来たもんだ的溜息をつき、お気に入りのカナディアン・クラブのグラスを片手に去っていった人たち(人事異動もありますが、殉職した仲間も多い)に思いを巡らせるシーンが登場します。そうか、キャレラ、40歳になるのか・・・第一作の「警官嫌い」で奥さんのテディと結婚したんだよなぁ、あれは1956年だった・・・って、計算合ってませんね。これじゃキャレラが警官になったのは生まれる前になってしまう。彼は21歳で警官になりましたからホントならもうとっくに定年、年金貰って釣りでもしているところです。
キャレラが思い出をつぶやく場面では私もつられてしまいました。そう、「殺しの報酬」でハヴィランドが殉職したんだっけ、イヤなヤツだったけどあっけない死はなんか悲しかった、これはクリングの恋人クレアが犠牲になった事件(「クレアが死んでいる」)だった、あの時のクリング、泣けたよなぁ、ホースが転勤してきたのは「被害者の顔」の時だった、安全な所轄から異動してきて苦労していたけど、今じゃタフになったよね、彼・・・等々。
しかし、刑事たちは年を取らず、87分署には定年がないことが判明した以上、キャレラ、老け込んでいるヒマなんかないぞ!明日も暑くて忙しい一日になりそうです。
2000年7月27日 テア・ライトナー 「ハプスブルクの女たち」
中世から始まってつい最近まで、ヨーロッパ第一の名門といえば、双頭の鷲を紋章に頂くハプスブルク家です。もとはと言えば片田舎の川守がご先祖様、初期には「五寸釘を拳骨で打った」という何とも凄まじい「王妃様」もいらしたようですが、実力とそれ以上の運を巧みに操り、「AEIOU」(「地上の王国全てがオーストリアに帰す」の頭文字・・・厚かましいというか何というか)を唱えつつ、得意の婚姻政策でヨーロッパから新大陸まで、あらゆる王室に人間を送り込んだ「やんごとなき方製造マシン」のようなこの一家には、面白い人物がたくさんおります。チョーのつくドケチで息子の見合い先で散々飲み食いした挙げ句に夜逃げした皇帝やら、自分は何もしないのになぜか敵がタイミング良く死んでくれるという、死に神のお友達のような皇帝やら、いくら高価な宝石と毛皮で飾ったところで、お里は知れておりますから、やることなすこと生臭く、そこがまた(今となっては)おかしいというこの一族ですが、女性となると、マリア・テレジアとその娘マリー・アントワネットくらいしか名前が登場しません。しかし、そこは曲者揃いの一族ですから、探せばいくらでも出てくるんですね、個性的でタフな女性たちが。
この本に登場するのは、ハプスブルクの婚姻政策の凄まじさをまざまざと教えてくれるクニグンデ、入り組んだ陰謀と政略の中を本能的な危機察知能力で泳ぎ切ったマルガリーテ、男もたじろぐ戦乱を平然と生き抜いたマリア(今で言うと「極道の妻たち」みたいなもんです)、ナポレオンとタイマン張ったというマリー・カロリーネ、そして遠くラテンアメリカまで王冠を戴きに出掛けた挙げ句、どん底を味わうことになるレオポルディーネ、この5人の女性たちです。彼女たちを政治の犠牲者と言うのは簡単です。一族の政策の非人間性を責めることも簡単です。でも、いくら現実が醜かろうが、それが目の前にある以上、それを生きなければならないのが人間です。彼女たちは見事に「人間」でした。アホ亭主の尻を蹴飛ばしつつ、バカ息子に嘆息しつつ、ウソをつき、陰謀を巡らし、あらゆる手段を使って生き延びる、人間のやることはいつだって滑稽でどこか悲しい・・・。
それぞれに個性的な5人の女性たちですが、一番興味深かったのは口絵の肖像画です。ハプスブルクといえば歴代の皇帝の肖像画を見ればお分かりの通り、例の大顎が特徴で第一印象はパッとしないご面相が多いのです。一番最初のクニグンデの容貌は首が短くて全体にずんぐりしていて、さすがにご先祖様は五寸釘を拳骨で打っていたわけだ、と納得のいく顔なのですが、それが時代と共にどんどん洗練されて美しくなっていく。それと一緒にこの一族も活力を失っていくのです。最後のレオポルディーネの美貌と悲しそうな目、一族の斜陽が顔に出ています。人間の顔というのは、美醜の問題などを超えていろいろなことを語るものだと思いました。ふと思い出したのが黒澤明の言葉です。「七人の侍」の続編を撮らないのかと聞かれた彼は、「今の日本にはあの村を守れるような顔をした男はもういない」と答えたそうです。改めて、表紙を飾るマリア・テレジアの取り澄ました、しかし一筋縄ではいかないポーカーフェイス、クニグンデの鈍重そうなふくれっ面、マルガリーテの強い意志を感じさせる冷たい目、やり手お婆そのまんまのマリア、両目に虚栄心を映し、少し口元をゆがめたマリー・カロリーネ、そして美しいけど印象の薄い薄幸そうなレオポルディーネ、時代を追うにつれてそのバイタリティを失っていくハプスブルクの女性たち・・・、本文のおもしろさは勿論素晴らしいのですが、たまには「見た目」で決めても結構当たっているのかも、と脱線してしまったわけです。
2000年7月13日 サイモン・シン 「フェルマーの最終定理」
17世紀の数学者ピエール・ド・フェルマー(本業は裁判所の書記官で、数学は趣味だったようですが)が残した一つの謎。ピタゴラスの定理として知られる「X2×Y2=Z2」、この程度なら中学生でも分かるのですが、この2がnになった場合の「Xn×Yn×=Zn」という数式では、「3以上の自然数nに対してこの式を満たすような自然数X、Y、Zは存在しない」・・・。これがフェルマーの最終定理です。なんで最終なのかというと、どうしてもこれだけは証明できなかったからだそうです。その定理が1993年6月23日、アンドリュー・ワイルズによって証明されました。
フェルマーが数学の本の余白に書き残した思わせぶりな一言「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」(だったら見返しとか裏表紙とかに書けばいいのに)を巡って3世紀の間、世界中の数学者が頭を抱え込んできました。
あることが「あり得ない」と証明することは、「あり得る」と証明することよりもはるかに困難なものです。この定理の場合もコンピュータの導入で数をいくらでも大きくしてドンドン計算していくことは可能です(現に行われてきました)。でも数には終わりがありません。いくら数字の桁を増やして計算しても、次のn+1ではそれが成立してしまうかも知れないのです。
算数が全く苦手の私ですら理解のできる数式を証明することが世紀の大事業なのです。そして数学界といえどもそこは人間の世界です。競争があり、足の引っ張り合いがあり、功名心があります。ワイルズは表向き他の研究をしていることにして、誰にも相談せずにたった一人でこの謎と数十年向き合いました。ともかくそのしつこさには感嘆してしまいます。「オラ、分かんね」とさっさと放り出すことをさせない美しさがこの定理にはあるらしいのです。確かにとてもシンプルな式ですね、美しいかどうかは私には分かりませんが・・・。
この本は一般向けに書かれたものだそうで、確かに途中に出てくる数学的トリックの解説やピタゴラス、ユークリッドなどの過去の大数学者達のエピソード、証明の失敗の歴史等々、楽しく読ませる工夫がたくさん凝らしてあります。但し、最終的に証明の鍵となる「楕円方程式」とか「モジュラー形式」となると、何のことやら全く分かりませんでした。分からなくても読める、読ませることに成功しているという点で、この本には大変な苦労があったことと思います。ワイルズを証明に導いた大切な前提理論を構築したのは日本人だということ(「谷山・志村予想」)を初めて知ったのもうれしい発見でした。
この定理が証明できたとしていったい世の中の何がどう変わるのか、私には全く分かりません。少なくとも一般のレベルでは何も変わらないのではないかと思います。そんな数式に一生を賭ける人間がいるからには、そこにはきっと何かとても素晴らしいものがあるのでしょう。人間の知への欲求というのは底知れないものなのだと改めて実感しました。
おまけでとても面白かったのは、ある操作をすることによって1=2ということが「証明」できてしまうという数学トリックです。これ、何度読んでも納得させられてしまう楽しさなんですね。
2000年7月4日 トーマス・H・クック 「夜の記憶」
重たい情念を湛えたミステリーの第一人者、クックの新作。この人の作品の特徴は、空気の濃密さとでもいいましょうか。回りの空気が急にどろりとゼリー状になってしまい、息をするのに結構力が必要になる、ぼんやりしていると息をすることを忘れてしまう、そんな暗い心象風景です。
恐怖を売り物にするミステリー作家のポール。彼は成功した小説家としては異例の生活を送っています。マンハッタンの質素なアパートに住み、友人も持たず、ただひたすら旧式のタイプライターを叩くだけ、休息も快楽も求めない。まるで石造りの僧院の一番奥の部屋に籠もってひたすら瞑想に明け暮れる修道僧のような生活。修道僧がまさぐるロザリオの代わりにポールがまさぐるのはクローゼットにしまい込んだロープです。いつかこれで首をつって死ぬ・・・彼にはそれが分かっているのです。
そんなポールのもとにある富豪の相続人から依頼があります。50年前に謎の死を遂げた少女、犯人は捕まらずに過去に封印されてしまった事件を「真実ではなく、納得のいく形」でまとめて欲しい・・・埋もれた過去を発掘する過程で彼の過去も少しずつ明らかになっていきます。
物語はポールの書く探偵スロヴァックとサディスティックな連続殺人鬼ケスラーの物語と並行して進みます。一見楽園に見える優雅な夏の別荘、美しい風景の中で起こった惨劇を再構築するポールに明らかにされるのは、過去からずっと誰の目にも触れずに地下深くを流れてきた恐怖という川です。そしてポールの秘密も少しずつ明らかになっていきます。両親を交通事故で失った直後、彼のたった一人の姉は彼の目の前で惨殺され、その犯人も捕まっていないのです。ポールは過去から逃れようと大都会の匿名性の中に隠れ、自分の中の恐怖を小説に閉じこめることで過去から目を逸らし続けてきたのです。そして少女殺しの真相が明らかになったとき、ポールは自分の過去と対峙することになります。彼はそれに耐えられるのか・・・。
クック独特の滑らかな文章で綴られる「恐怖の系譜」のおぞましさ、そして最後にささやかにほのめかされる救済、記憶を喪失しない限り決して過去から逃れることのできない人間の哀しさ。何にもまして恐怖という最も卑怯な凶器はどれほど人を傷つけることか、恐怖が切りつけた傷は、時間が経っても決して癒されることはないのです。
いつものクック流の暗いタッチの作品ですが、50年という時間の流れと自分の中に封印してきた恐怖の原風景とを、想像力と僅かに残された勇気で少しずつ打ち壊していくポールの意思は、間違いなく前を向いたものです。たとえその結果が彼をどこに導くとしても・・・。
2000年6月10日 スティーヴ・ハミルトン 「氷の闇を越えて」
私立探偵の嚆矢はポーの生み出したデュパンと言われていますが、その職業人としてのライフスタイルを確立したのはシャーロック・ホームズでしょう。彼自身が「僕は最初の顧問探偵というわけさ」と語っています。その私立探偵がアメリカに渡ってハードボイルドという独自の分野を作り出しました。危険に満ちた薄汚れた街、秘密を抱え込んだ卑劣な金持ち連中、彼らに踏みつけにされながらも結構したたかな底辺の人々、自分たちの美学には徹底的にこだわるアウトロー、何度も何度も叩きのめされ、しかしプライドを失わずに真実に迫る探偵たちには、煙草とバーボンがよく似合います。このハードボイルドの舞台設定にはいくつかのお約束があります。まず舞台はカリフォルニアかテキサスといった広いところが良いということ。金持ち連中のとてつもない広さの豪邸(門から玄関まで延々と森が続いているような)が絵になります。ニューヨークですと、いくら高級でもダコタ・ハウスは構造はアパートですからね。それから車が大切な脇役です(地下鉄に乗っていてはハードボイルドにはならない)。乗っている車でその人物の性格がよく分かります。我らが懐かしのヒーローたちはたいてい旧型の大きなアメ車に乗っていたものですが、最近はホンダやトヨタが登場することも多いようで、時代の流れを感じます。
そんな懐かしの作品の香りを相続し、しかし新しい雰囲気を持っているのが、このハミルトンのデビュー作です。主人公は探偵アレックス、彼は元警官ですが、ある事件でサイコパスに撃たれ(同時にパートナーを失い)、妻とも別れ、カナダとの国境近くのミシガン州の小さな町にやってきました。彼の本業はロッジの管理人であり、本人は別に探偵になりたくもないのですが、地元の弁護士から依頼され、仕方なくライセンスを申請したばかり。静かな田舎町で残忍な手口の連続殺人が起こります。そして犯行を告げる電話の主は、かつてパートナーを殺して彼を撃ったあのサイコパス、しかし彼は仮釈放なしの終身刑で服役中・・・スリリングな展開です。14年前の事件のトラウマを抱え込んだアレックスはお守りよろしく睡眠薬を大切に持っています、銃は嫌々持たされていますが、いざとなると引き金にかかった指が震えてしまう、私立探偵のお約束である不法侵入をやらせれば道具は揃っていても安物の錠前一つ開けられない・・・おまけに親友の妻と不倫しており、その親友が事件に巻き込まれたことから抜き差しならない立場に追い込まれます。やる気があるのかないのか分からない彼ですが、元は優秀な警官ですから行動力と責任感を持っています。冬枯れのミシガンで過去の亡霊に怯えつつ真相に迫るアレックス。雪のちらつく初冬の風景の描写が実に素敵です。思わず身震いしてしまうくらい精緻な風景描写と決してやりすぎない殺人事件の描写、上品な雰囲気を持っている文章ですが、ウィットの利いた軽口(これもハードボイルドのお約束)も健在です。アクの強い警察署長(地元警察と私立探偵は犬猿の仲でないとね)、気のいいレストランのオヤジ、いかにも田舎っぽい純朴な若い警官等々、脇役まで丁寧に書き込んであるところは、とてもこれがデビュー作とは思えない出来映えです。
しかし、いつものことながら、このダサいタイトルなんとかならないんでしょうか?原題は「A Cold Day in Paradise(これはミシガン州の町の名前)」です。
2000年5月23日 ダグラス・ケネディを2冊
もういや!何もかもいや!全部チャラにして人生やり直したい!そう思ったことのない人っていないと思います。そんな時にはこの本がお薦めです。
「ビッグ・ピクチャー」、主人公のベンはウォール・ストリートの弁護士、年収30万ドル、郊外に広い家を持ち、妻と息子2人、そろそろパートナーに昇格しようかという男。事務所での仕事は遺言・信託部門・・・一日中他人の遺言を検討し、書類を作るというチョーのつく面白くない仕事、でもそのおかげで大金が稼げて優雅な暮らしが保証されるなら仕方ないか。彼はかつて報道カメラマンを目指していましたが、生活の安定のために弁護士になりました。妻も小説家志望でしたが、いつの間にか二人の子供の世話に追われる郊外のリッチで退屈なマダムに落ち着いてしまいました。こんなはずじゃない・・・どちらの心の中にもそんな不満が隠れています。ベンは高価なカメラを買い集め、自宅に暗室まで作ることで自分の夢をつなぎ止めています。そんなある日、彼は妻が浮気をしていることを知ります。相手は近所に住む全然売れない、親の信託財産で辛うじて生きているというフリーのカメラマン、彼の住まいを訪れたベンは些細なことからカッとなり彼を殺してしまいます。残りの人生を刑務所で過ごすのか?いや、もう一回人生を生き直すんだ。彼は死体を利用して自分の事故死を演出し、殺した男になりすまし、ニューヨークを離れます。ハイウェイを彷徨った挙げ句たどり着いたのはモンタナの小さな町。そこで再び写真を撮り始めた彼は皮肉なことにアッという間に有名になってしまいます。妻に、かつての同僚に知れたらどうなる?また逃げるのか?どうやって?
生まれ変わって、かつての夢を実現させたはずの彼ですが、殺人からはどうしたって逃げられません。新しい恋も友情も名声も、全て嘘の上に成り立っている不安な毎日。ラストに残る余韻が素敵です。中途半端な終わり方という見方もできますが、これが正しいと思います。きれいな回答の出るお話ではありません、不安半分、希望半分という結末が私は好きです。人生やり直すのも大変、だいたいやり直したからって前より良い人生になるという保証はありませんからね。ベンが有名になってしまってからの物語の展開のスピードがお見事です。それ以上にこの作品は「失踪マニュアル」として第一級です(真似しちゃダメよ)。
そしてもう1冊「仕事くれ。」、すごいタイトルですね。やり手のマーケティング管理職であるネッドは、猛烈型のニューヨーカー、常に上昇志向、決して休まないという見ているだけで疲れるタイプ。そんな彼が勤める雑誌社は買収と売却を重ねた挙げ句あっさり廃刊、彼はアッという間に失業してしまいます。上昇志向の強かった分「宵越しの銭」は持たないという贅沢な生活が祟って借金だけが残ります。妻の稼ぎではじきに破産することが目に見えている。仕事を探そうと焦れば焦るほど、彼は転落していきます。妻に食わせてもらっているという負い目から、ふとしたきっかけで浮気をしてしまった彼は家を追い出され、このままじゃホワイトカラーのホームレス(実際にアメリカには大勢いるそうです)、「慌てる乞食は貰いが少ない」を地でいく哀れなネッドは、目の前に現れた怪しげな投資信託の仕事に飛びつきます。マネーロンダリングが目的だとも知らずに・・・。失業者の増えている今日、とても他人事とは思えない展開の作品ですが、ミステリーとしてはいささか物足りないですね。だいたい事件が起こるのが遅すぎる。前半はずっと「ネッドの失業日記」、再就職斡旋会社の内情やら、売り込みのノウハウやらは面白いのですが、やっと事件が起こるのは510ページからというのは少しつらい。その後の急展開のハラハラ感は買いますが。
しかし、常に上を目指して必死で自分をアピールしないとズルズルと転落してしまうというアメリカのビジネス社会の厳しさは、読んでいて少しつらいものがあります。ぼーっとしているのが大好きな私なんて、落ちこぼれ決定ですね。
作者のダグラス・ケネディですが、語り口のスピード感とシンプルな文体に好感が持てます。追い詰められた男の描写も細かくて説得力があります。反面女の描き方は少々物足りないものがありますが。脇役にキラリと光る人物を配する当たり(「ビッグ・ピクチャー」のアル中のコラムニスト、「仕事くれ。」の弟とレストランをやっているというコワモテの元部下とプロに徹したバハマの銀行支配人)、手慣れたものを感じます。赤丸チェックだと思います。
2000年5月7日 ブラッド・メルツァー 「最高裁調査官」
訴訟王国アメリカは判例主義をとっています。確定した判例というものは法律と同じようにとても大きな力を持ちます。その判例で決定的な意味を持つ最高裁判決を書くのは、終身制の判事たち、彼らは法曹界のトップです。彼らにはそれぞれ2名の調査官がつきます。彼らは選ばれたエリート、何しろ膨大な訴訟をさばくには、最高裁判事は数も少なければ、たいていは老人なので(何たって終身制)スタミナもない。この調査官は、最高裁に上げられた訴訟について詳細な調査をした上で判決文のための下書きをします。これがそのまま判決文に反映されることになります。
そのエリート中のエリート最高裁調査官に任命されたベン・アディスン。当然にアイビーリーグ出で成績抜群。大手の法律事務所からも引く手あまたの期待の星です。ワシントンで一軒家を借りて一緒に暮らしているのは小さい頃からの親友達、新聞記者のエリック、国務省に務めるネイサン、上院議員の事務所に務めるオバー。そして一緒に働くことになったのは何とも過激な元気印のリサ・シュルマン。
慣れない仕事に四苦八苦するベンは、自分の前任者と称する男リック・フェイゲンからの助言を受けて、何とか無事に凌ぎます。ある日カフェでリックと会ったベンは、同じ苦労を共にした人間としての親近感から、企業買収に関する訴訟の判決をふと漏らしてしまいます。大物投資家が一気に買いに出ます。市場は大混乱、インサイダーの噂が飛び交います。不安になったベンはリックに電話をします。そんな人間は存在しない・・・、バカな!そしてさらに次の手が彼に忍び寄ります。次の訴訟の判決を教えてくれないか、お互いの利益になる・・・。ベンはここでやっとはめられたことを理解します。さぁ、どうする?
ベンは、リサ、そしてルームメイト達の力を借りて何とかリックを捕まえようとしますが、リックははるかに役者が上。彼らを翻弄し、全く隙を見せません。追い詰められたリックは最後の頼みとして連邦執行官局の長官に訴えます。リックの狙った次の判決がもうすぐ出ます。時間がない、そしてどんどん追い詰められていく若者達・・・。
サスペンスとしては最後のどんでん返しまでスピードが落ちません。プロットにも隙がありません。何よりも登場人物のウィットの利いた会話が楽しいし、至る所で詳細に暴かれる最高裁の内幕も興味津々で食欲をそそります。
しかし、この作品には決定的な欠陥があると思います。それは動機です。ベンはリックにはめられたと気づいた時点で出頭すべきでしたし、それが自然です。勿論そうすればクビになるかも知れませんが、これが一番安全な方法ですし、彼のキャラクターに合っているのです。彼が敢えてリックを自力で捉えようとする動機が弱いのです。警察を抜きにして自分で犯人を捕まえる、というのはサスペンスではよくある展開ですが、これにはよっぽど切羽詰まった状況が必要ですが、ここが弱い。肝心の動機が弱いせいで、主人公達の奮闘ぶりが空回りして、要するに若者達がつるんでスリルを楽しんでいる、という印象を与えてしまっています。ミステリーにとって動機は第一です。どんなに突飛な展開でも、動機がしっかりしていれば読む側は物語に入っていけます。逆に動機が弱ければそこから先は全ておとぎ話になってしまいます。
そして何よりも全編を通して感じられるエリート臭、これが鼻をつきます。彼らは全員白人で大卒、追い詰められたといっても、これでクビだといっても、そこには必ずセイフティ・ネットがあります。彼らはどん底までは決して落ちません。途中で一人が自殺してしまいますが、これも事件に巻き込まれ追い詰められたせいではなくて、マザコンの果ての自己破綻という扱いになっています。これでは彼らの危機に対して共感が持てないし、主人公ベンも鼻持ちならない嫌みな若造という印象から逃れられません。
このプロット、エリートなんかの代わりにアウトローを主人公にして、純粋なコン・ゲームにしていれば、文句なしに楽しめたのに・・・と思います。
2000年4月22日 マイクル・コーディ 「イエスの遺伝子」
近未来が舞台です。しかし、この未来こっちが考えるよりも早くドンドン近づいて来ているように感じます、「こらっ、こっち来るなって!」と言っても無駄ってところが結構怖いです。
遺伝子学者トム・カーターは、人間の遺伝子を解析する装置を発明した業績でノーベル賞を受賞します。その授賞式でのテロによって妻を失った彼は、妻が脳腫瘍であったことを知ります。残された最愛の娘の遺伝子を解析した彼は、娘も近い内に発病することを知ります。遺伝子の解析によって、いつ、どんな病気になるかが分かってしまうんですね。娘を救うために彼は突拍子もない方法を思いつきます。触れただけで病人を直し、死人を蘇らせた、あの2000年前に死んだ男の遺伝子を手に入れようとするのです。この当たりの描写、科学的手法については、何を書かれても私にはよく分かりませんが、遺伝子解析がいずれ遠くない未来にここまで進歩するとなると、ちょっと考え込んでしまいます。一本の髪の毛、一滴の血液さえあれば、その人間を再生することができるとなると、ブラシについた髪の毛も捨てるのを躊躇ってしまいます。これ、誰かが持っていってどこかで「クローン私」を拵えたらどうしよう、いつどんな風に死ぬのかが分かってしまったら、私はそこから先まともに生きられるのか?・・・。作者は割と気楽に遺伝子工学の進歩を讃える文章を綴っていますが、私はそんなに楽観的には読めませんでした。
救世主の再臨を信じているカルト教団と神の存在を否定するトム・カーターとの「たった一つの二重螺旋」を求める戦いが進みます。娘の病状が進むにつれ焦りを増すトムですが、ついに「ナザレ遺伝子」を突き止めます。画期的な治癒能力を持つその遺伝子と同じ遺伝子を持つのは、狂信的なテロリスト、トムの娘を救えるのは彼(彼女?)だけなのか。
最終的にこの遺伝子の謎が明らかにされます。「与えるは受けるより幸いなり」、ズバリこれです。この遺伝子は他人にしか作用しないという利他的遺伝子だったのです。多彩な科学知識と豊かな想像力を駆使して描かれた近未来で、何千年も前にある男がいった言葉が本当の意味で蘇ります。他人は直せるが自分には何一つ役に立たない「ナザレ遺伝子」は、一方的に与えるだけの存在なのです。
最近流行のバイオ・ホラーものと違って、根本にこの永遠のテーマを含有しているこの作品は、哲学的な意味合いを持つことに成功しています。ナザレの男を救世主にしたのは、ひたすら与えるだけという無償の精神だったのです。この当たりは最近ではスティーブン・キングの「グリーン・マイル」に影響を与えているかな、と思います。
しかし、ラストだけは頂けませんでした。トム・カーター博士、いくら画期的な遺伝子だってそれはないでしょ?人間は変わるものです。人間は必ず心のどこかに悪魔を飼っています。本当にどこまで楽観的なんだ、あなたは。
2000年4月7日 川崎泰資 「NHKと政治」
何か不思議なこと、おかしなことを話して、「そんなの信じられない」と言われたとします。ここで「だって、NHKのニュースで言っていた」となると、たいていの人が無条件に「へぇー、じゃホントなんだ」と答えるでしょう。それくらいニュースの力というのは大きいと思います。このニュースがもし嘘だったら、あるいは意図的に歪められたものだったら・・・と考えるとぞっとします。ニュースの中でも一番信頼性の高いのはNHK(最近はそうでもないか・・・)です。このNHKの記者だった著者の体験に基づいた告発がこの本です。世論調査の結果を操作したり、現場の人間が一生懸命作った番組を権力(この場合イコールで自民党ですが)の圧力でボツにしたり、過去のNHKの内部事情が詳しく述べられています。
そういえば、と自分でも思うことがあります。衛星放送を開始した時のNHKのコメントは「難視聴地域対策」でした。電波の届きにくい地域の人たちのためです。となると、地上放送と衛星放送の番組は全く同じものでないとおかしい。でも現実には番組が違っています。途中で方針が変わったのでしょうか?受信料の取り方にも無理があります。電気や水道といった生活に欠かすことのできないものでも、まず「うちに供給して下さい」という申請があって使用した分だけ料金を支払います。NHKの場合、供給して下さいと頼んだのではなくて、勝手に電波を飛ばしているわけです。また毎日毎日朝から晩までNHKを見ていた人でも、1カ月全くNHKを見なかった人でも料金は同じです。放送で料金を取るのなら契約者だけ受信できるようにするのが筋でしょう。それでは緊急時に困るということであれば、無料の緊急専門チャンネルを一つ開けば問題ありません。普段はずっとテストパターンを映していればいいわけで、これなら費用もかかりません。変えた方が合理的な点がたくさんあって、なんだかNHKという組織自体の在り方にもう無理があるのだと思えてきました。
テレビといえば視聴率ですが、あれ、前から不思議なのですが、計算の元になっている世帯数はどれくらいなんでしょう?視聴率調査のモニターになると、テレビになにか装置をつけるわけですよね。そして自分が何を見ていたかを調べられるわけでしょ?そんなことイヤだというのが普通ではないでしょうか?私の知っている人の中には視聴率モニターになっている人はただの一人もいません。あれ、どこで調べているのでしょう?それに一日ある特定の局にチャンネルを合わせたテレビをつけっぱなしにして、ずっと外出していても計算上は有効サンプルになるわけで、その気になれば、モニター同士で団結して視聴率操作も可能です。
クーデターでは大統領官邸と同時に必ずテレビ局を抑えます。情報というのはそれくらい大きな武器になるからです。ニュースを丸飲みにするのは危険なのでしょうか?しかし、いちいち疑うのもしんどいですね。テレビの、ジャーナリズムの在り方を考え直すきっかけになってくれた本でした。
2000年3月23日 スーザン・グリーンフィールド 「脳が心を生みだすとき」
私が本を読んでいる時、脳の中ではとても複雑な過程が進んでいます。まず網膜を通じて文字が飛び込んできます。文字はそれ自体はインクの染みと同じです。そのインクの染みの形の情報が頭頂葉連合野(こんな単語使うの初めてです)に伝えられ、視覚野が特徴を抽出します。これは「あ」だとかこれは「B」だとかいう具合です。でもこれだけでは文字は単なる記号です。それが単語として意味を持つには、さらに言語中枢の処理過程が必要です。これだけのややこしい作業を私の脳は恐ろしいスピードでこなしているわけです。そしてページの最後にやってきました。運動中枢からページをめくる動作の指令が出ます。ページをめくるにはどの器官をどう使えばいいのかが伝わります。ページに手を触れた時の感触は、体性感覚野に伝わりますから、私には本に手が触れたということが分かります。
脳というのは一度だけ標本を見たことがあるのですが、だいたい1キログラム少しのクリーム色、カリフラワーのお化けみたいか格好をしていました。私がその形をこうして覚えているのは、その情報が長期記憶を担当する部分に蓄えられているからです。
この本は私には少し難しかったのですが(学生時代に理科系のお勉強さぼっていましたので)、それでも最後まで何とか読み通すことができたのは、「脳で脳を理解しようとしている」私の脳、というのを意識(これをやっているのも脳ですが)している過程がなんだかとても不思議なものに感じられたからです。
特に作者は薬理学の専門家なので、麻薬が脳に及ぼす影響に触れた部分が面白かったです。脳の中にはレセプター(受容体)と呼ばれる細胞があって、特定の化学物質とだけ結合するんですね(鍵穴と鍵の関係と一緒です)。例えば麻薬のエクスタシーは神経伝達物質の一つセロトニンに通じる鍵を開けてしまいます。セロトニンを大量に浴びた脳は代謝と体温調整が異常に活発になってしまいます。「ハイになる」ってやつですね。この状態が長く続くと神経の末梢が死んでしまいます。こうなるとセロトニンは減少し続け最低限の分量さえ分泌されなくなります。つまり「鬱」になるわけです。
麻薬って怖いものなのだと改めて感じました。一時の幸福感の代償が終わりの見えない鬱状態、ひどくなると呼吸困難による窒息死なんて全く割が合いません。麻薬は大昔からありました。でも人間はまだそれで滅んでいません。人工的な興奮よりも自然の興奮の方を好む人間が多数派だからですね、きっと。眠りだってそうです。クスリで眠るよりも、一日一生懸命何かをやって「あ〜疲れた」って手足を伸ばして眠った方が数段気持ちがいいに決まっています。
一つだけうれしいことが書いてありました。脳の神経回路で情報を伝えるシナプスの数は膨大なもので、到底遺伝子では制御できないのだそうです。つまり脳の中の経路は遺伝ではなくて、個人の経験や学習によって自由に作られていくものなのだそうです。頭の善し悪しは親のせいじゃなくて自分のせいってことですね。頭はせっせと使わないといけないな。
2000年2月27日 中丸明 「海の世界史」
人間はなぜ海に乗り出したのでしょうか?目の前に広がっている終わりの見えない水、川や湖とは訳が違います。川は向こう岸が見えます。湖はぐるりと迂回して向こう側にたどり着くことができます。海の向こう側は見えません。ずっとずっと向こうに行ったら、そこにはなにがあるのか?そもそも向こう側が存在するのか?昔の人間たちは海辺に立って何を考え船を乗り出したのでしょうか?
水たまりのようなアドリア海から始まって地中海、そしてアフリカ大陸をぐるりと回ってアメリカ大陸まで、まるで何かに憑かれたかのように向こう側を目指す人間たちの動機とはなんだったのでしょうか?ロマン溢れる物語・・・ではなかったんですね。要するに他に行き場所がなかったということです。アラビアやアフリカ、そしてアジアと陸続きのヨーロッパの人たちは、他の民族に追いつめられて、切羽詰まって目の前にある海に漕ぎだした、これが最初です。人間、よっぽど切羽詰まらないと海には進出できません。なんといっても陸上の生物ですから。最初の必死の逃亡者たちの子孫は、少しずつその知識を蓄えていきます。海の端っこは巨大な瀧で、地獄の底まで落っこちるなんてことはないらしい・・・、喜望峰を回った先も別に煮えたぎってはいないらしい・・・、巨大な怪物がうじゃうじゃいるなんてこともないらしい・・・。そんな知識の積み重ねに今度は欲が重なります。バカ高い胡椒を何とかもう少し安く手に入れたい、シルクロードを通って陸路で運ばれてきた陶器の破片にすら高値がついた時代です。これをそのまま割らないで持ってこれたら、いったいいくらになるだろう、各国の王妃様が競って買いあさった東洋の真珠を手に入れたい、海の向こうには黄金の国があるらしい、そして、カトリック教会が信者拡大に乗り出します。真っ新の宗教の新天地、そこにたどり着けさえすれば、大量の信者がいっぺんに手に入るに違いない。また、北欧のヴァイキングたち、彼らが海に出ていったのは、その土地が寒冷で作物が育たなかったから仕方なくです。痩せて霜の降りたカチカチの土地に鍬を入れるよりも、海賊になった方がはるかに暮らしやすかったのです。追いつめられた人間の生への執着と膨れ上がった欲望が恐怖に勝っていく過程、それがそのまま「海の世界史」につながります。
今、食卓に毎日のように上がっているトマトやジャガイモは南米生まれです。毎朝の始まりのコーヒーはもともとアラビアのもの、北欧産の魚を食べて、南ヨーロッパのワインを味わう・・・今では当たり前のことも、最初に命懸けで海に乗り出した人間がいたからこそです。
四方八方海だらけの日本人がどうして大航海をなし得なかったのか?この疑問に対する答えが、この本には詰まっています。島国だったので他民族に追いつめられることがなかったし、気候が温暖なので陸地だけでも十分に食べられたからなんですね。広い太平洋に面していながら、日本人はそのほんの端っこのところから必要なだけの海の幸を頂くだけでよかったのです。その向こうに命懸けで出かけていく必要がなかった、何て幸運で平和な民族だったのか、と思います。
ワーグナーの「さまよえるオランダ人」を思い出します。ノルウェーの暗く閉ざされた入り江に現れた幽霊船、かつて難所で神を呪ったオランダ人船長は、永遠に海の上をさまよい続ける・・・。動かない大地の上で生きるように設計されており、エラもなければ水掻きもない人間にとって、海に出ていくこと、海で生きていくことは、間違いなく「呪い」であったのでしょう。呪われたオランダ人船長に比べて、日本人というのは、海に祝福された民族なのかも知れません。
2000年2月5日 木村申二 「シャーロック・ホームズ鑑賞学入門」
オペラと並んで私の人生を豊かにしてくれるもの、それがシャーロック・ホームズです。何回読み返しても楽しめますし、ミステリー以外にもヴィクトリア朝の生活様式の参考書として、精緻なロンドン観光案内として、楽しみ方はたくさんあります。
シャーロッキアンと呼ばれる人間は、なんとも厄介な人種です。彼らはコナン・ドイルをワトソンの代理人としてしか認めません。作者はあくまでもワトソンなのです。そして彼らの「聖典」を絶対視します。矛盾があろうが、少々おかしかろうが、全てねじ伏せます。ある矛盾点を発見した場合のシャーロッキアンの行動様式はただ一つ。最初に「これは一見矛盾しているようだが、実はそうではない」という絶対条件を確立し、その矛盾を矛盾としないために、ありとあらゆる努力を尽くします。ホームズの出した結論に合わせるためにはどんなにひねくれた理屈でも考え出します。この当たりの頑固さと意地っ張りぶりがシャーロッキアンの魅力であり、またイヤなところでもありますね。全く素直なんだか素直じゃないんだか、分からない連中です。
この本ではワトソンの3つの記録(シャーロッキアンにとって「聖典」はノンフィクションであり、決して小説ではないのです)の分析を楽しむことができます。「ノーウッドの建築士」「バスカヴィル家の犬」そして「株式仲買店員」です。「ノーウッドの建築士」は指紋が犯人特定の重要の手がかりになるというホームズものとしては画期的な作品です(但し、誤認逮捕)。そこまで細かい捜査がなされたにしては、羊か兎の骨を人間の骨と断定する箇所があり、ここがどうしても「?」なのですが、ここを論理的に説明した人・論文を私はまだ知りません。どなたかトライしてみませんか?「バスカヴィル家の犬」は中編です。魔犬の伝説の伝わる田舎の名門、寒々しい光景、陰謀にアクション、恋愛と盛り沢山の人気作品なのですが、その分矛盾点も多い。これを著者はホームズ顔負けの推理できちんと収めてしまいます。この辺りの強情ぶりはさすが一流のシャーロッキアンです。「株式仲買店員」は何度か登場した「不在利用犯罪」です。「赤毛組合」と「三人ガリデフ」では、関係ないがいては邪魔な人間を不在にしておいて、その間に犯行を進めるという設定ですが、この「株式仲買店員」では不在の人間に成りすますという替え玉トリックが使われます。私は今までこの作品をふんふんと読んできたのですが、今回「目から鱗」でした。替え玉トリックを暴く一番簡単な方法は、当人がその替え玉のところへ行くことです。「あなた誰ですか?」これが一番手っ取り早いし確実です。なぜかホームズはそれをしていません。バーミンガムまで大回りをしています。著者はホームズの頭の回転が少し鈍かった、としていますが、替え玉を先に暴いてしまっては、この後の金庫破りも警備員殺害も起こりません。事件自体が消滅してしまいます。これは困る・・・。ホームズとしては事件を未然に防ぐことを選ぶべきだったでしょうが、「聖典」はそれでは困るのです。ここはホームズが少し寝起きが悪かったことに感謝したいですね。
この本には、ホームズに対する愛情と少し距離を置いて彼の推理を検討する冷静さとが、全く無理なく同居しています。この絶妙な距離感が素敵な読後感を与えてくれました。
2000年1月10日 安斎育郎 「人はなぜ騙されるのか」
今動物占いというのが流行っていると聞きました。私はよく知らないのですが、あなたは馬であるとか、彼は兎であるとか、その人を特定の動物に当てはめて相性等を占うもののようです。これは私にはとても失礼なもののように思えます。私は人間ですし、私は私です。カバでもカメでもありません。それに馬といってもいろいろな性格の馬がいます(競馬を見ていればよく分かります)。十把一絡げに「馬」と言われれば、馬が聞いたら怒るでしょう。
霊の起こす現象とか超能力等、これまで世間で話題になった超常現象には全てトリックがあります。それはある時は無意識の作用であったり、ある時は詐欺師まがいの悪質なものであったりします。この手のインチキは大昔からありました。それでも未だに人間は騙される、その仕組みをわかりやすく解説した本がこれです。
星占いを例にとれば、最初にたいていの人に当てはまることを言います。「不注意からくる怪我に注意」とか(不注意だったら怪我をする確率が高くなるのは当たり前です)、「浪費の傾向あり」とか(人間は生きるのに最低限必要なものだけを買うわけではありませんから、誰だって多かれ少なかれ浪費はしています)、この手の言葉で最初に「当たっている」と思わせてしまうのです。その後に当たっていない占いが出たとしても、人間は、「自分が意識していないだけで、そんな面もあるのかも知れない」と思ってしまうのです。これを上手に組み合わせるのが占い師の腕というわけです。
私がいつも疑問に思っているのは、人間の運命が全て生まれた星座や干支や血液型で決まっているのだとしたら、飛行機の墜落事故や大地震など、たくさんの人たちが一度に亡くなってしまう惨事は何なのか?ということです。犠牲になった方たちにはそれぞれの人生や考え方や生活があったはずです。それと数万光年も離れた星や血液型(日本ではABO分類が主流ですが、血液型の分類にはとても多くの種類があり、これらが全て一致する人間はまず存在しないそうです)と何の関係があるのですか?最近、初対面でいきなり血液型をきく人が多くて、もううんざりしていた(おまえは医者か?私は現在のところ輸血を必要としていない)私には、この本はとても興味深いと同時になんだか少し哀しくなるものでした。生きるということはとても不安なことで、大変なことです。それを喰いものにする人間が後を絶たないのですね。
泥棒や掏摸の手口を知っていれば被害に遭うことも少なくなるように、この手の詐欺まがいの連中のやり方を理解すれば、騙されて悲しむ人も少なくなるでしょう。この本はたくさんの人が読むべきであると思いました。それと同時に、当たり前のことをもう一度よく考えてみるべきでしょう。人間には未来のことは分かりません。分からないから面白いのです。結末が分かっていたら、最後までちゃんと生きることはとても困難なことになるでしょう。
見えもしない霊を怖がるよりも、それをネタにしてあなたを身ぐるみ剥いでやろうと思っている詐欺師を怖がる方が、はるかに重要なことです。