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2003年12月25日 ロバート・B・パーカー 「チャンス」
2003年11月9日 ウィリアム・ランディ 「ボストン、沈黙の街」
2003年9月28日 海外投資を楽しむ会 「ゴミ投資家のための人生設計入門」
2003年8月1日 トマス・H・クック 「闇に問いかける男」
2003年7月1日 佐山透 「トニーとサリーの小さな小さなオペラハウス」
2003年6月15日 アン・パチェット 「ベル・カント」
2003年5月15日 ガブリエル・コーエン 「贖いの地」
2003年4月25日 ジェレミー・ドロンフィールド 「飛蝗(バッタ)の農場」
2003年4月10日 イーサン・ケイニン 「宮殿泥棒」
2003年3月15日 ジェフリー・ディーヴァー 「悪魔の涙」
2003年3月2日 マイケル・ムーア 「アホでマヌケなアメリカ白人」
2003年2月7日 ジェフリー・ディーヴァー 「ブラディ・リバー・ブルース」
2003年1月16日 ローレンス・ブロック 「殺し屋」
2003年12月25日 ロバート・B・パーカー 「チャンス」
「ゴッドウルフの行方」から30年、2003年の「真相」が30作目ですから、このスペンサー・シリーズは今や年1冊の「定期刊行物」。残念ながら最近ではワクワクしながら手に取るということはなくなってしまい、文庫になったのを書店で発見し、あっ、出てんだ、ま、買っとくかって感じなのですが。ともあれ、この「チャンス」は1996年の第23作目に当たります。
ギャングのボスの娘婿(といっても跡取りってわけじゃなく、ただの集金屋)が妻を置いて失踪、泣き喚く娘をもてあましたボスはスペンサーに捜索を依頼します。この婿殿、どうやら重度のギャンブル依存症、となれば行く先は決まっています、ラスベガス・・・。
例によって相棒のホーク(めっちゃ高給取りで贅沢好みのホークを毎度連れて行くスペンサーの経済状況が分からない)と恋人のスーザン(大量の着替えを詰め込んだスーツケースを男二人に持たせてお姫様気取り)を伴って賭博の街に乗り込んだスペンサー、婿殿はあっさりと発見されるのですが、どうやらギャング同士の縄張り争いが絡んでいる様子。そうこうしているうちにボスの娘がなぜかラスベガスの駐車場で死体で発見されます。ブラックジャックのテーブルに張り付いているダメ婿は今や殺人事件の重要参考人、依頼人が死んじゃったというのに自腹で捜査を続けるスペンサーの目の前に明らかにされるのは、お互いに相手を利用して穴から這い出ようと必死の男たち、女たち・・・。
もうだいぶ前から謎解きは期待していません。強烈なキャラクターを持つレギュラー陣の個性で辛うじて保っている(と私には思われる)シリーズ(早い話が早川ミステリー版「寅さん」)なのですが、ここに来てその個性すら、何だかなぁと感じられるようになってしまいました。
まずスーザン、たかだか週末旅行に大量の着替えを持ち込み、その上新たに大量に買い込み、悪のりしてカジノでスって、生まれてこの方ずっとダイエット中らしく、せっかくの高い料理(払うのは勿論スペンサー)を突っつき散らかし、何の話でも最後はなぜかセックスでオチがつき、飼っている犬に何の躾もせず、患者(スーザンは精神分析医です)を自分の男の都合であっさりとキャンセルする「大人の女」、もうやってられまへん。
そしてホーク、かつての彼には陽の当たらない場所で誇り高く生きる男の「ビジネスの美学」がありました。それが今では食事付きのボランティア、死神の如きその存在感を見せつける場面はいくつか用意されていますが、毎度描写が同じですし、見せつけるだけで発揮されないので何の緊張感もないし、第一、少々食傷気味。
そしてスペンサー、今回もタフガイぶりを発揮して白馬の騎士よろしく女性を救おうとするのですが、対象となる女性に魅力がないので(トップレス・バーのウェイトレスはちょっと可愛かったけど)一人でいー気になってるいー年こいたおっさんでしかなく、そして例によって例のごとくスーザンにマッチョな手法を批判され黙って頷き、しかし、毎回絶対に同じことやるんですよ、この男。結局、彼にとって他者(スーザンでさえ)は自分のタフガイぶりを確認するための存在でしかないようなのですが、そもそも他人の承認(というか賞賛)を必要とするタフガイというのがワケ分かりません。
かつて、ぎりぎりの状況をホークすら敵に回してたった一人で切り抜けたこともあるスペンサーが、最初から最後まで用心棒と恋人連れて何やってんだか・・・、30年も経てばもうお年がお年ですからアクション場面は期待はしませんが、緊張も寂寥も余韻も挫折もないハードボイルドがまだ書き続けられることに意味があるのでしょうか?
そして翻訳、「デザイン」を「ディザイン」、「ステーキ」を「ステイキ」と表記するのはなぜ?だったら「ホーク」も「ホゥク」になさったら?スペンサーの相づち「Un huh」をいちいち「アン・ハ」って訳すのはなぜ?「なるほど」「そう」「ふん」「ほう」、対応する日本語はいくらでもあるでしょう?「ディキャフ」は「カフェイン抜きのコーヒー」でよろしいし、「グワテマラン・ダーク・ロースト」は「グァテマラコーヒーの深炒り」でよろしいと思います。やたらと出てくる妙なカタカナ表記、少々鬱陶しいです。
誰もがチャンスに賭ける街ラスベガス、今一番チャンスを必要としているのはスペンサー(とパーカー)のようです。
長い間楽しく読みましたが、もう次回作を私が読むことはないでしょう。さよなら、スペンサー。
2003年11月9日 ウィリアム・ランディ 「ボストン、沈黙の街」
合衆国東部、ポートランド州のマタキセット湖畔の小さな町ヴァーセイルズ、物語の語り手は25歳のベン・トルーマン、この町の警察署長(といっても部下は数人)です。誰もが知り合いの町、誰もドアに鍵をかけない町、警察署長とは言っても彼の仕事は酔っぱらいの保護と夏の観光シーズンの交通違反の切符切りくらいのもの。もともとは大学で歴史を学び、学者になるのが夢だったベン、アルツハイマー病を患った母の看病のために帰郷して母を見送って以来、酒に溺れている元警察署長の父親を一人にもできず、そのまま蠅取り紙のような故郷に絡め取られてしまった男、いつかこの町を出て旅をするんだ、手始めはプラハ、モルダウの流れを眺めながら美味いチェコ産のビールを飲むんだ、夜ごと幼馴染みと酒場で繰り返す会話にもいささか疲れてきたところ。
シーズンオフの湖畔のロッジをパトロール中、ベンは殺人事件に遭遇します。大掛かりな麻薬組織を追っていた連邦検事の射殺死体が発見され、検視も現場検証もやったことのないベンがオタオタしている間にボストンから市警の殺人課と地方検事がお出まし、捜査から弾き出され現場の見張り役を押しつけられたベンは、ここは僕の町だ、これは僕の事件だと必死に食い下がり、引退した刑事ジョン・ケリーに助けられながら、ボストンの捜査本部に食い込みます。第一容疑者はボストンの麻薬市場を取り仕切るギャングのボス、殺人事件の捜査も暗黒街の聞き込みも生まれて初めてというベン、彼は周囲から足手まとい扱いされながらも、警察署長としての義務を果たそうと懸命。しかし、無法者たちの鉄の掟と警察内部の裏切りから証人は一人も見つからず、捜査は手詰まり。ところが有力な第二の容疑者が浮上します、それはベン本人・・・。
追う側から追われる側に立場を変えて、それでも事件に食らいつくベン、実は彼には秘密があります。彼をヴァーセイルズに閉じ込めたその秘密が今、彼を見知らぬ大都会ボストンの路上に追い立てます。
バカにされつつも一生懸命に背伸びするベンの若さと素直さが眩しい、しかし、彼は好きで捜査に加わったわけじゃない、ベンには捜査に加わらなければならない理由があったのです。
ラストで明らかになる真犯人の意外性という点では文句なしの傑作です。しかし、一人称で書かれているせいで、こりゃ何かあるなって読むこっちが構えてしまうんですよね。主人公が語り手という文体はある意味諸刃の剣です。
元刑事のジョンの寡黙な男っぽさ、その娘で検事補のキャロラインとベンの恋、追われる立場に立たされたベンとギャングのボスとの奇妙な連帯感、所々に効果的に挿入されるベンと亡くなった母、そして父との関係、本来のストーリーには関係ない部分がやたらこってりしていて、ひょっとして作者って犯罪もの書こうかファミリーもの書こうか迷っているんでない?と思ったのですが、この濃密な人間関係がラストのどんでん返しをしっかりと支えています。
過去は湖の底に沈み、現在は刻一刻と過去の最後尾に連なり、そして、ベンは歴史学部では教わらなかったことを学びます。今日が瞬く間に過ぎ去り過去を遠くに追いやっても、過去は決して消えないと。
ミステリーとしては少々強引な作品ですが、背骨がぴしっと通っているせいで(この背骨が何であるかは言えません)格調高い仕上がりになりました。
著者はこれがデビュー作とのこと、一人称の語り口、ミステリーとしての意外性、深く掘り下げられた人間描写、全ての点で驚異的なデビューです。しかし、これだけたくさんの手法を使い切ってしまうと、この後が辛いのではなかろうかとちょっと心配。
2003年9月28日 海外投資を楽しむ会 「ゴミ投資家のための人生設計入門」
えー、私は投資とは縁がなく、人生設計なんてことも考えない人間です。だって面倒くさい(身も蓋もない言い方)。年金制度の崩壊が取り沙汰され、お先真っ暗って感じの閉塞感が漂う日本ですが、この閉塞感のモトは何だろ?以前にある人(プロの投資アナリストさんです)から聞いた言葉なのですが、「投資とは未来を買うこと」、なるほど、では今の日本では未来は「買い」の対象ではなくなってしまったのか、しかし、投資ってそもそも何だ?というわけで、ガラにもなくこの本を読んでみました。
第一章「不動産投資」が目からウロコでした。不動産屋の売り文句によくあるじゃないですか、「家賃払うより絶対お得ですよ、将来は自分のモノになるんですから」「今は空前の低金利ですからチャンスです!」、この言葉、どこか胡散臭いと思いつつも論破できなかった私なのですが、この胡散臭さの正体がばっちりと解説されております。
AさんとBさん、両方とも5千万円を持っている、Aさんはそれでマンションを、Bさんは有価証券を買ったとする。Bさんの有価証券は年5%で回ったとしてその250万円を住居費(賃貸マンションの家賃)に当てる。Aさんはというと自分で投資した不動産に自分で住んでいるので、もし人に(たとえばBさんに)年間250万円で貸したとすれば手に入るであろう年利5%を自分で自分に支払っている、だから帳簿上はAさんもBさんもプラマイゼロ。ここなんですね、引っかかってしまうのは。
投資というのはその対象が不動産であろうが株式であろうが債券であろうが、同じことなんです。持っている現金を他の対象に変えることで、インカムゲイン(利息)とキャピタルゲイン(売却益)を狙う、ただそれだけの単純なことなんです。
家賃を払うのも投資した不動産の幻の運用利益を自分で自分に払うのも、計算上全く同じことで、どちらが得かなんてナンセンスなんです。
ここで不動産屋の殺し文句の胡散臭さが判明します。「家はいずれは自分のものになりますから」ってヤツ。さて、10年後、Bさんは年5%の金利を住居費に充ててきましたから元本は増えず、5千万円分の有価証券が残っています。さて、Aさんの不動産は5千万円分・・・残っているでしょうか?
戦後ずっと不動産投資が一番人気があったのは、不動産は必ず値上がりする(キャピタルゲインが手に入る)という暗黙の、しかし何の根拠もない思い込みがあったからなんですね。今や不動産はおそらく値下がりする、よっぽどのことがない限りまず値上がりはしない資産となりました。そんなハイリスクの投資対象にローンを組んで(この本によるとリバレッジ(テコ)の力を借りてまで)さらにリスクを増加させて投資することの無謀さ、いー加減みんなこれに気付けよって本です。
生命保険のからくり、国の運営する年金のどーしよーもない体たらく等々、よく調べられて分かりやすく書かれております。真ん中辺りの海外投資云々のところがメインなのでしょうが(だって編著が「海外投資を楽しむ会」だし)、この辺は私には難しくて適当に読み飛ばしてしまいましたが、分かるところだけ拾い読みしても十分元は取れる(投資価値がある)本です。
年金制度は国家的詐欺であると言い切る辺りを読んでいると、確かに暗い気分になります。古来、国家権力に腐敗は付きものです。腐敗している、腐っている、臭っせぇ〜と感じても何もできなければ、その国家は(ローマ帝国のような強大な国家であっても)必ず破綻します。今の日本はこのまま腐るか、再生するかの瀬戸際に立っているようです。その選択は、民主国家であるからには主権者、つまり私たちに任されています。民主主義ってこの辺が辛いんですよね、何があっても、どうなっても、結局は自分のせいってことでツケの持って行き場がない、ある意味厳しい制度です。
さて、この秋、日本はどうやら総選挙を迎え政治の季節となりそうです。何を選択するのか、ちょこっと真面目に考えてみたいと思います。
2003年8月1日 トマス・H・クック 「闇に問いかける男」
1952年秋、ニューヨーク、刑事たちが一番忌み嫌う犯罪が起こりました。公園で発見されたいたいけな少女の死体、そのか細い首に食い込んだ針金の痕、友達のお誕生日会のための真新しい深紅のドレスが泥にまみれ、絹糸のような髪に絡みついた枯れ葉・・・。こんなことをするヤツは人間じゃない、聞き込みに回った刑事たちは公園の土管に住み着いているホームレスの男を逮捕します。青白い顔に妙にアンバランスな子供のような体格のいかにも気弱そうな男、ところが彼は頑として犯行を否定します。状況証拠だけの捜査本部、あと11時間で拘留期限が切れる、この変質者を、このくそったれを街に放せってのか?刑事たちは最後の望みを抱いてそれぞれの持ち場に散っていきます。
ユダヤ人刑事のコーエン、ナチスとの闘いとその果ての不条理をかいくぐってきた彼は、たとえ証拠がないとしても自分が有罪を確信している容疑者を釈放することが許せません。そのパートナーであるピアーズ、数年前に幼い娘を殺され、証拠不十分で釈放された容疑者をストーキングするためにニューヨークまでやって来た刑事、やがて容疑者は事故で水死するのですが、その時既に彼の心には大きな暗闇が広がってしまっていたのです。
刑事部長のバーク、家を飛び出し、麻薬に溺れた一人息子は今や瀕死の状態、公園近辺で物乞いをするまで落ちぶれていた息子、ひょっとしたら事件と絡んでいるのか?いや、ひょっとしたら一回分の麻薬欲しさに・・・。
どうにも頑固な容疑者をあの手この手で問いつめつつ、微かな手がかりを必死でたどる刑事たち、残された時間は刻一刻と短くなっていく。
長い長い絶望の夜、取調室で時を刻む時計を中心にして、それぞれの過去が交錯します。それぞれに不器用で、それぞれに一生懸命で、そして、それぞれに哀しい男たちが分かち合った11時間の果てに待っていたあまりに切ない結末・・・。
すべてが食い違う中でそれぞれの闇を見つめ、問いただす男たち、彼らが残した微かな軌跡がラストのどんでん返しでかちりと音を立てて一致します。
「その男はどこにいるのかね?」、コーエンが放つ最後の一言、寸止めで終わる場面は、これまでの哀しみをそっと覆う慈しみ深い屍衣のようでもあり、それでも前に進もうとする、前に進むしかない人間の哀しみそのもののようでもあり。登場人物すべてが傷ついています。乾いたカサブタになった傷もあれば、未だに血を流している傷もある、傷は醜いし痛いです。でもお互いが傷ついているならば、お互いにそれを知っているならば、その傷はどこかで彼らを繋ぐ一本の細い糸となる・・・のかも知れません。
例によってクック、うまいです。ゴミ収集人や深夜レストランのウェイトレス、引退した新聞記者、疲れ果てたシングルマザー、脇役にまで細かい描写が光ります。
闇は怖い、なにやら得体の知れないモノが蠢いていて、そこでは自分すら確かではありません。でもその向こうにしか光はないのです。
2003年7月1日 佐山透 「トニーとサリーの小さな小さなオペラハウス」
メトロポリタンオペラを擁するニューヨークはイーストヴィレッジ、バワリー・ストリートにその建物はあります。その壁には大きな文字で「アマト・オペラ(AMATO OPERA)」。客席は108、S席も天井桟敷もない、全部S席(というか、全部天井桟敷)。オケピは15人入るのが精一杯、舞台は20人で満員。なるほど、コンサート・スタイルのオペラやるのね、残念でした。ここで上演されるのはフル・オペラです。「リゴレット」のマントヴァの宮殿も、「アイーダ」の凱旋の場も、「蝶々夫人」の長崎の丘も、「カルメン」の闘牛場も、ちゃんとこの舞台の上に乗るのです。トニーとサリーのアマト夫妻が主催する世界一小さなオペラハウス。
偶然にもこのオペラハウスと出会ってしまった作者は、下町の人にオペラを見せたい、規模は小さくてもまがい物じゃない、本物のオペラを見せたい、というアマト夫妻の熱気にあっという間に引き込まれていきます。互いにイタリアからの移民、オペラがそのDNAに組み込まれているトニーとサリーは、全くの徒手空拳からこのオペラハウスを作り上げたのです。歌手もオーケストラもボランティア、実費を辛うじてカバーするだけのチケット代(28ドル)、製作、演出、指揮、そして主演までこなすトニーと、衣装デザイナー兼お針子、そしてアマト・オペラの「マリア・カラス」でもあるサリー、昼間(あるいは夜)は仕事をし、合間を縫って舞台に駆けつける歌手とオーケストラ、幕が下りた後はトニーが腕を振るったイタリア料理と安ワインで常連さんも交えてのおしゃべり。
学園祭のノリなのですが、理想は高い、METだけがオペラじゃない、こっちだってどっこいオペラだい!
夫妻の語る歴史には、希望の国であった若きアメリカの輝きと、それを支えてきた移民たちの熱が伝わってきます。何度ものピンチをポジティブ思考と幸運で乗り切ってきたアマト・オペラですが、その幸運は天からの授かり物ではなく、彼らが呼び寄せたものだと思います。
ミミが遅刻して(渋滞に引っかかったのでしょう)なかなかドアをノックしてくれないので、舞台の上で一人でずっと寒がっているロドルフォ、なんて失敗もあります。しかし、客席を埋めた常連さんはお構いなしに「ブラーヴォ!」、だってオペラなんですもん、歌に旋律に心が込められていれば、その心がこちらの心に届けば、他に何が要りますか?
若い二人が夢中で突っ走り、やがて静かに寄り添う老人となり、でも、いつもそこにはオペラがあります。50周年のパーティーには、ジュリアー二市長(当時)やMETの偉い人も駆けつけ、この奇跡のようなオペラハウスを讃えました。その3ヶ月後、サリーはこの世を去ります。
でも、アマト・オペラはまだそこにあります。トニーが、次期「総裁」のトニーの姪アイリーンが、そしてサラリーマンやら学生やらウェイトレスやら、しかし、それは仮の姿、実はプリマドンナ、プリモウォーモというメンバーが、しっかりと踏ん張っていますから。
私は、ニューヨークといえばMETとシティ・オペラしか知りませんでした。こんなオペラハウスがあるなんて、今度ニューヨークに行ったら絶対に足を運びます。そして、古びたビルの一階と二階をぶち抜いた舞台の前に陣取って、ヴェルディにプッチーニにモーツァルトに酔っぱらいます。
ニューヨークを訪れたなら、夜、ちょっと怖いところなので十分に注意してお出かけ下さい。ドレス・コードはありません。ジーンズにTシャツでOKです。おんぼろビルの中には、無限に広がる贅沢な空間が待っているはずです。
この本のことを教えて下さったM・K様、本当にありがとうございました。
2003年6月15日 アン・パチェット 「ベル・カント」
ベル・カント、美しい歌声・・・、オペラを見に行ったことがある方なら誰でも、空気を震わせ、心を震わせ、しかし記憶以外何も残さずに消えていってしまう声、その声が劇場を満たす時の非日常性を感じたことがあるはずです。
南米のとある国、今宵、日本最大の電機メーカー「ナンセイ」の社長であるホソカワ氏の誕生日パーティーが行われている副大統領官邸が非日常性の舞台となります。国民一人あたりの年間所得が日本では靴を一足買ったらお終いの貧しい国、ナンセイの工場進出に躍起になっている日系人大統領のマスダ氏が強引に開いたパーティーです。実のところこの国に進出する気は全くなく、だいたい派手なことが嫌いなホソカワ氏がこの招待に応じたのは、マスダ大統領が破格のギャラで呼び寄せた今をときめくプリマドンナ、ロクサーヌ・コスが歌うから。少年の日に父と一緒に天井桟敷で「リゴレット」を見た時から今日まで、この寡黙なビジネスマンにとってオペラは最大の喜びであるのです。当のマスダ大統領は欠席(テレビの人気番組をどうしても見逃せなかったから・・・)なのですが、そんなこと、ホスト役を押しつけられた副大統領以外、誰も気にはしていません。
今、ロクサーヌの歌う「歌に生き、恋に生き」が華やかな会場を埋めた人々の心を震わせています。ホソカワ氏、彼の通訳で7カ国語を操るワタナベ・ゲン、フランス大使、ロシアとドイツのビジネスマン、どうしてもロクサーヌの歌を聴きたくて無理して潜り込んだ神父、手の込んだディナーの後に相応しい甘いクリームのような声に皆酔いしれています。そして空きっ腹を抱えて通風ダクトに潜り込み突入の時を待つゲリラ組織「マルティン・スアレス(政府軍に射殺された10歳の少年)の家族」のメンバーも・・・。
大統領を誘拐するために突入したゲリラなのですが、当の大統領がいない・・・。目的を失ったままゲストたちを人質に官邸に立て籠もるゲリラ、周囲をぐるりと埋め尽くした軍隊と各国のマスコミ、お互いに相手が見えるのに、大声を出せば聞こえるのに、二つは全くの別世界。
交渉が長引き膠着状態の中、奇妙な平和が生まれます。ロクサーヌは強引にレッスンを再開(ナンセイの副社長カトウ氏が隠れた名ピアニストだった)、その歌声を全員が楽しみにするようになるのです。そしてゲリラの一員であるぼんやりした少年セサルが「今世紀最高のテノール」になる可能性を持っていることが判明、ロクサーヌは彼に指導を始めます。文盲の少女ゲリラ、カルメンは、語学の達人のゲンから読み書きを教わり、グルメのフランス大使は幼いゲリラたちに手ほどきしつつ自慢の料理の腕を振るい始め、ホソカワ氏とロクサーヌは恋に落ち・・・、ゲリラたちは次第にその手に握った銃を忘れ始め、そこは外界から隔絶した不思議な静けさに満たされた理想郷の様相を呈します。身分も職業も貧富の差もない、小さな小さな夢の宇宙・・・。
そして、突然に終わりがやって来ます。飛び交う銃弾の中で交錯するそれぞれの想いが痛い。
ペルーの日本大使館占拠事件がモデルとなっている作品です。貧しさと空腹しか知らないゲリラたちと富と名声は持っているが時間を失っていた人質たちが繰り広げる奇妙な「夏休み」、主役を務めるのは「音楽」です。言葉が通じなくても、宗教が違っても、育ちが違っても、音楽はそんな塀など軽々と越えていく。彼らの間に文字通り女神として存在するロクサーヌ、彼女の声がこの世界を律する掟です。その掟は実に簡単、分かり合えば、愛し合えば、世界はこんなにも単純なのだと。
結末が分かっているだけに後半読み進むのが辛かったです。みんなに生きていて欲しいから、カルメンにはいつかたくさんの本を読めるようになってもらいたいから、セサルにはいつかその声で世界中を熱狂させてもらいたいから、ロクサーヌにはその魔法の声で歌い続けてもらいたいから、ホソカワ氏にはその経済力と指導力で世界を少しでも良いところに変えてもらいたいから、みんな素晴らしいから、だから誰にも死んで欲しくない・・・。
ラストで泣きました。美しく小さなシャボン玉のような儚い世界を満たしていたもの、それは当たり前の愛、誰もが持っている愛・・・、その愛を奪い、人を殺し合いに向かわせる力が支配する世界、銃は平和をもたらしはしない、世界を満たすべきものは銃声ではなく音楽であるべきなのです。青い地球を覆っている空気は、銃弾に引き裂かれるのではなく美しい音楽で震えるためにあるのです。名作です。
2003年5月15日 ガブリエル・コーエン 「贖いの地」
ニューヨークの中でも一番庶民的な町ブルックリン、マンハッタンの摩天楼群が向こう岸に迫る波止場レッド・フック、この辺りは少々やばい地域です。堤防で発見された若いドミニカ人の男の死体、凶器はナイフ、手際の良さといい、残虐さといい、そして何よりも被害者がヒスパニックだという事実、警察は当然ギャングか麻薬絡みの殺人として捜査を開始します。担当するのは殺人課勤務12年目のベテラン刑事ジャック。そのうちに裏通りのチンピラが調子に乗って口を滑らせてくれれば解決、犯人が本当のプロなら迷宮入り、どっちにせよ、この町では新聞にもまともに扱って貰えない事件です。
しかし、被害者の身辺調査を始めたジャックは徐々に違和感を覚え始めます。殺された男は高級コンドミニアムのメインテナンス要員、安月給ではありましたが、勤務態度は真面目、家では良き息子であり良き夫、ギャングもドラッグも影も形もない。
優秀な刑事であるジャックは手堅く捜査を進めます。それと平行して彼のトラウマと寂しい生活が描かれます。心の底にしまい込んだ記憶を誰にも、別れた妻にも駆け出し映像作家の息子のベンにも言わない、言えない彼、近所のバーのカウンターの端っこで黙りこくって飲む一杯のビール、冷凍食品を一人でつつく夕食、溢れ出しそうな思いを閉じ込めるかのようにピカピカに磨き上げられた愛想のないアパート、この辺りの孤独な中年男の描写は細やかでリアルです。
頑なな父とそんな父を愛する反面疎ましく思う息子のぎくしゃくした関係、近寄ったかと思えばお互いに苛立ってしまってすれ違いを重ねるジャックとベン、ジャックの誰にも言えない秘密とはいったい何なのか?
意外なところからジャックの知ることとなる犯人なのですが、これが少々弱いです。凄みもないし、魅力もない、その割にエンディングの強引な理屈、この手の「俺様」的犯人には悪の魅力が不可欠だと思うのですが、この犯人じゃ説得力もないし後味も悪い。
そして、あることからヤケ酒に溺れたジャックが冷やかし半分で顔を出した断酒会の様子(この辺りの描写はブロックの「マット・スカダー」シリーズのパクリ?)、誰にも言えなかった秘密を名前も知らない大勢の前でぶちまけるカタルシスが唐突すぎてついて行けません。
というわけで、決して出来が良いとは言えない作品なのですが、中盤に登場するエピソードが実に良いんです。ジャックのアパートの大家のガードナー(ジャックとはつかず離れずの距離を置いている彼同様に孤独な老人)、ジャックのパートナーのダスキヴィッチ(誠実な大男)と彼の妻、そしてダスキヴィッチがジャックに紹介した魅力的なバツイチ女性のミシェル、彼らがある休日の昼下がり、アパートの中庭でささやかなパーティーを開きます。ビールにワイン、バーベキューにリッツのクラッカー、そして苺。他愛のない会話、それでもそれが楽しくて、ついついさよならを言いそびれてしまう、孤独を知っている大人たちだからこその優しさ。
ラストが少々ご都合主義で甘すぎるのですが、このパーティーとその後の顛末の描写だけで読む価値あり。
2003年4月25日 ジェレミー・ドロンフィールド 「飛蝗(バッタ)の農場」
舞台はヨークシャーの人里離れた荒れ地、相続した農場をたった一人で切り回しているキャロル、嵐の夜、一人の男がドアを叩きます、どうか雨宿りさせて貰えませんか?荒れ地の真ん中で女の一人暮らし、当然キャロルは彼を追い出すのですが、護身用のショットガンが暴発、男は傷を負ってしまいます。看護婦の経験があるキャロルは罪の意識から、回復するまで彼にベッド(といっても納屋の藁なんですが)を提供することに。しかし、ここで大問題、銃撃のショックで彼は記憶をなくしてしまったのです。
キャロルとスティーブンと名乗る男の奇妙な生活が始まります。果たして彼の記憶は戻るのか?いえ、そもそも本当に記憶をなくしているのか?何しろキャロルにはそれを確かめる方法がありません。キャロルの警戒心はやがて好奇心、そして同情へを変わっていきます。それに釣られるように少しずつ過去の断片を語り始めるスティーブン、しかし、その過去が本当であるという証拠もどこにもありません。
フムフム、記憶喪失の男ね、良くあるプロットだよね、と読む進むうちに、何じゃこりゃ?延々と続くたくさんの不幸な男たちの物語、田舎町から突然姿をくらますアダルトビデオの撮影助手ナイジェル、自動車修理工場をあっさりリストラされるポール、フランスの片田舎で便利屋をやっている孤独な異邦人ムッシュ・ヴィヴォー、細切れの断片に共通するものは、何の前触れもなしにある日突然突きつけられる「汚水溝の狩人」からの手紙です。どうやら、ナイジェルもポールもヴィヴォーも、この名前も姿も分からない追跡者から逃げ回っているらしい。で、何で逃げているのか?これが全然分からない。分かるのは逃げずにはおられないほどの恐怖がそこにあるということだけ。
ここから先を書いてしまうわけにはいきません。サイコスリラーとゴシックホラーがごたまぜになったような急展開の果てに・・・微かな明かりが見える、その明かりにたどり着くためには高価な代償が必要なのですが、キャロルもスティーブンも、その明かりめがけて走り抜けます。なぜなら立ち止まることはすなわち「汚水溝の狩人」の餌食になることに他ならないから。
タイトルのバッタですが、キャロルが農場の端っこで動物園のえさとか実験用のバッタを養殖しているんです。このバッタ小屋の描写は虫嫌いの方は読み飛ばした方が良いかと・・・。
しかし、追い立てられ、逃げ回り、つかの間息をつき、再び逃げる、この作品に登場するモザイクのような人生の断片は、どこか狭い小屋の中でウジャウジャともつれ合っているバッタに似ています。ここから逃げなきゃと焦ってはみても、結局は周囲のバッタの背中を踏んづけてジタバタしているだけ、小屋からは一歩も出られない。
かなり癖のあるプロット、途中からこれってひょっとして?って感じで先の展開が読める部分が数カ所見受けられ、純粋にサスペンスとして楽しむには少々力不足です。それを補ってお釣りが出るのは、ラストの二人の読む者すら近づけない圧倒的な共感の力強さです。
傑作とは言えません。でも、歴史に残る(かも知れない)「怪作」です。
2003年4月10日 イーサン・ケイニン 「宮殿泥棒」
すごくいい人というのは物語になります。実在の人物であれば立派な伝記に仕上がりますし、フィクションであれば正義の味方で大活躍できます。悲しい人というのも物語になります。ハンカチぐちょぐちょの悲恋物しかり、運命の苛酷さと人の儚さを伝える教養小説しかり。そして、悪い人というもの主人公になります。ピカレスク・ロマン、自分には到底できそうもないことを堂々とやってのける悪党、最後に高笑いするのも楽しいし、悪は滅びる!でも結構いけます。
しかし、到底物語の主人公にして貰えないのが「普通にいい人」です。たいていの作品では「3番目に殺される目撃者」とか「主人公のあまり親しくない友人」とか「ヒロインのちょっと気の利かない相談相手」とか、パッとしない役どころです。
その「普通にいい人」が堂々主役を張るのが、このケイニンの短編4作です。
コツコツと勉強して、ふとしたことで知り合った浪費家の女と結婚し、何を考えているのやら得体の知れない子供を持った会計士、学生時代に落ちこぼれだった友人は今や成功した実業家、あんなヤツがという思いとできれば顧客になって貰いたいという欲得の入り交じった感情が、小さな「悪事」を呼び寄せる(「会計士」)。
数学の天才である兄は手に負えない変わり者、そんな兄をもてあます両親にすり寄ることで家庭の内のバランスをとってきた平凡な弟、兄の出場した数学オリンピックを見守る家族の中で、愛されることと愛することのバランスが少しずつ崩れていく微かな音(「バートルシャーグとセレレム」)。
妻に逃げられ、一人息子は遠くの大学へ、孤独な中年男の新しい愛への憧れと捨てきれない未練、いつの間にかすっかり成長し父を追い越してしまった息子が親離れの形見として残していったもの、降りしきる雨の中でそれを知った男が見つめるたくさんの見知らぬ人生の詰め込まれた窓(「傷心の町」)。
名門高校で古典を教える生真面目な教師の元に現れたのは上院議員の息子、ひねくれて厚かましく、平気でカンニングをやるような学業的にも倫理的にも落第生だった教え子は今やビジネス界の大物、そんな教え子の正体を知りつつ、結局あと少しの勇気がないばかりに40年後に再び翻弄される教師(「宮殿泥棒」)。
主人公の4人の男は、平凡で優しくて真面目で、本当に「いい人」なんです。この文学の日陰者に暖かい光を注ぐケイニン、「エンペラー・オブ・ジ・エアー」以来の彼の姿勢は変わりません。ケビン・スペイシーが何をやっても平均値という父親を演じた「アメリカン・ビューティー」をご覧になった方ならお分かりでしょう。すべて平均値というのがいかにつまらなくて退屈で、でも本人にはそれ以外の生き方はできないわけで、そしてそんなオヤジの心にもしっかりとあれこれの葛藤があって、でも「いい人」だからそれは他人ではなく自分を内側から囓っていく。本人はそんな自分をこれまた優しく見つめている・・・。
「いい人」もまたちゃんと哀しい、だから影で「あいつは良い子ちゃんだから」なんて言わないであげて下さい。
2003年3月15日 ジェフリー・ディーヴァー 「悪魔の涙」
1999年12月31日午前9時、日本ではほとんどの人がお休みですが、合衆国の首都ワシントンDCはラッシュアワー、ある地下鉄の駅構内で乱射事件が発生、死者23人の悪夢のような犯罪。それと同時に市長に脅迫状が届きます、「ディガー(坑夫)は止められない、ヤツは殺しを繰り返す、キャッシュで2千万ドル払わない限り・・・」。手書きの脅迫状からきっと手がかりが得られるはず、FBIはかつての局員で現在は古文書の鑑定家である筆跡鑑定のプロ、パーカー・キンケイドを呼び戻します。小文字の「i」の点の格好、紙の上のへこみ、語法の癖、スペルミス、カンマの位置、何とか次の犯行の前に犯人を捕まえようと奮闘する捜査チームですが、何と脅迫犯は交通事故で死んでしまった・・・。しかし、脅迫犯が放った「ディガー」は未だ銃を手に町を徘徊している、そして、彼を知る唯一の人間が死んでしまった今、本当に「ディガー」を止めることができなくなってしまいます。こうなったら次の犯行現場を予測して先回りするしかない、一枚の便箋と一通の封筒、そしてインクだけを頼りにパーカーは「ディガー」を追い詰めます。
ディーヴァーといえば「ボーン・コレクター」のベッドの上の名探偵、元科学捜査官のリンカーン・ライムが有名ですが、身体のハンディキャップとねじくれた哀しみをまとったライムとひと味違うのがこのパーカー、トマス・ジェファーソンを愛し、バツイチで二人の子持ち、仕事の傍ら、料理を作り、掃除をし、子供たちのニンテンドーのゲームに付き合い、良きシングル・ファーザーであろうと奮闘する彼の姿は、自然体で好感が持てます。
脳に障害を持つ「ディガー」の不気味なモノローグと捜査チームのきびきびしたプロフェッショナルな仕事ぶりの描写が大部分なのですが、離婚した妻から親権をよこせと訴えられてしまったパーカーが必死でそれに抵抗するサイド・ストーリーがまた良いんです。感情を失った殺人鬼が徘徊する町は、同時にたくさんの愛する人、愛される人が住む当たり前の町でもある、光と影の対比に哀しいリアリティがあります。
二段落ちの後の意外なエンディングの何故か切ない余韻、サイド・ストーリーの「パパの大ピンチ」を鮮やかに救ってくれる意外な人物の意外な姿、ディーヴァー独特の「ジェットコースター」に散々ドキドキさせられて、ラストはスッキリした後味、まさに名人芸です。
手書きの文字ってすごくたくさんのことを伝えるんだって思います。文字って不思議ですよね、すごく達筆なんだけど見ていると何か不愉快という字もありますし、アタマの悪い小学生みたいな悪筆なのに何故か心惹かれる字もあります。ワープロやメールでは伝わらない書いた人間の素の部分、最近滅多に手書きすることがなくなったせいか、たまの手書きの自分の文字が唖然とするくらいへたくそなのにうんざりすることがあるのですが、下手でもかまわない、「良い字」を書きたいものだと思います。
2003年3月2日 マイケル・ムーア 「アホでマヌケなアメリカ白人」
挑発的なタイトル(原題は「Stupid White Men」)、中身はそれ以上に挑発的です。作者は、現在公開中の映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の監督です。銃社会アメリカを検証したこのドキュメンタリー映画をご覧になれば分かりますが、彼の手法は非常に強引で(アポなしの突撃取材がお得意)、ある意味、下品です。しかし、彼の相手はいつも権力者です。権力者には当然に一般人よりも重たい責任があります。それを承知で権力を握っている以上(イヤなら権力の座から降りれば済むんだから)、ミシガン州生まれの野球帽を被った太っちょの映画監督に追い回されるくらいは我慢しないとね。物事にはすべて代償がついて回るのですから。
この本で徹底的にやり玉に挙がっているのは、彼が言うところの「偽物大統領」のブッシュ氏です。未だ記憶に新しいあのフロリダ州での票の数え直し、世界一の大国の選管が数も満足に数えられないの?と思ったものですが、この時の票の操作の過程が逐一書かれています。得票数はゴア氏が多かった、数え方を操作したおかげでブッシュ氏が当選した、つまり、ブッシュ氏は「人民が選んだ大統領」ではないらしいのです。
そのブッシュ氏に作者が投げかける公開質問がこれまた厳しい内容です。作者によれば、ブッシュ氏は「失読症」であるらしい。複雑な文章を理解できないという一種の学習障害です。アインシュタインもそうでしたが、きちんと治療すれば治る障害です。しかし、これが超大国アメリカの大統領となると(アインシュタインの場合は数式が理解できればいいわけですし、第一、彼は一介の物理学者です)・・・、複雑な外交文書や軍の作戦要項が理解できない人間が核のボタンを握っているということになります。そしてブッシュ氏にはどうやら3回の逮捕歴があるらしい。私、一回もありません、私の知っている人にも逮捕歴のある人はいません。極道でもない限り、かなり特殊な人ということになります。
今、ブッシュ氏の率いるアメリカは戦争に向かって一直線です。テロを許すなというのも、人民を抑圧する独裁は許さないというのも、尊敬に値する立派な意見です。しかし、その政権を支えているのがメジャーの石油資本となると、イラクの石油が欲しいだけなんでしょ?とも思います(現に核兵器を開発している北朝鮮ですが、ここには石油がないからずいぶんとお優しいみたいで)。戦争に反対するフランス、ドイツ、そしてロシアを一生懸命叩いている様子ですが、そりゃ、フランスだってどこだって建前の後ろには本音が隠れているでしょうが、その前に、ブッシュ氏の言う「古いヨーロッパ」は、戦火をくぐり抜け廃墟の中から立ち上がった歴史を持っているのです。ハワイ以外のどこも戦場になったことがないアメリカとは、戦争に対する皮膚感覚が違っている、そして、「年寄り」の言うことには知恵が詰まっているということも、知っておいた方が良いですよ。
軍事予算も、二酸化炭素の排出量も、銃による死亡者数も、批准していない国際人権条約の数もナンバーワンというこの国、これが俺の祖国だ・・・、作者の文章は乱暴ですし、比喩も下品です。しかし、そんな祖国から逃げない、なぜなら俺にも責任があるから、と立ち向かう誠意は美しいと思います。
この本に書かれている数々の「ブッシュ伝説」が真実であるのかどうかは分かりません。しかし、今のところ出版差し止め命令も出ずにこうして日本でも翻訳されていますし、名誉毀損の訴訟も起こっていないようですから、ブッシュ陣営(ご本人は本を読むのが苦手のようですから、たぶん読んでいないと思います)は、この本の内容を認めているという状況です。忙しくてチンピラ映画監督なんか相手にしてらんない?民事訴訟の数もナンバーワンの国でそれはないでしょう?
2003年2月7日 ジェフリー・ディーヴァー 「ブラディ・リバー・ブルース」
主人公は映画のロケーション・スカウトであるペラム、台本のイメージにあったロケ地を探すのが商売です。この根無し草の主人公が現在滞在しているのは、ミズーリ州マドックス。時代から取り残された廃墟だらけのシケた街、そこで撮影されているのは、「ボニーとクライド」のパクリ版としか言いようのない支離滅裂なアクション映画。気分屋の監督に振り回される日々、これといって楽しみのない街、しかし、今夜は違います。スタントマンや脚本家と一緒に、目下の住まいであるキャンピングカーでポーカーのテーブルを囲む予定。男たちの夜に欠かせないのは冷たいビール。というわけで、ペラムはビールの買出しに。酒屋を出たところで路地に駐車中の車のドアがいきなり開き、瓶の割れる悲しい音と共に彼のビールは下水溝へ。一言文句言ってやろうと近づいたところが車は急発進して消えてしまいます。まったく・・・気を取り直して酒屋へ戻ったところで、路地で殺人事件発生。犯人は彼のビールを台無しにしたあの車に乗っていた人間。
殺されたのは大掛かりな連邦犯罪の検察側の重要証人、そして偶然通りかかったために銃撃された警官は重症、ところがペラムは車の中の人物を見ていない、窓が反射して見えなかったのです。でも、誰も彼の言うことを信じない、警察も FBIも、殺し屋も・・・。
アメリカ南部の田舎町、訳の分からない「ヒラメキ」で人の仕事を増やしてばかりいる「巨匠」(制作費の回収は絶望的)、一時の息抜きになるはずだった一夜のためのビールのせいで、誰からも彼からも小突き回されるペラム、警察は嫌がらせに撮影妨害を始め、FBIに付け回され、殺し屋に命を狙われ、黒幕からは脅される・・・、八方ふさがりの中、何とか冷静さを失わずにいた彼ですが、友人が彼と間違われて殺された時、逆襲に討って出ます。そして、意外な結末へ。
ストーリーの転がり具合といい、一筋縄ではいかない人物設定といい、ディーバーの世界は健在です。とことん追い詰められた男が反撃に出るラスト、それに絡む謎のヒロイン、ややこしい割には分かりやすい展開です。
しかし、私が一番印象に残ったのはペラムではなくて、偶然の銃弾によって半身不随の身になった警官バフィットでした。もう二度と歩けない、女を抱くこともできない・・・体の中で膨れ上がる冷たい恐怖、無関心な表情の下で必死に戦いそれを克服していく過程が、どうしようもなく切なく、そして強い。
しかし、どいつもこいつも簡単に銃を撃つ。人を殺すのは銃ではなく人間です、でも、銃があるからそれが簡単になる。包丁でもトリカブトでも漬物石でも人は殺せますが、銃に比べれば成功率はグンと低いはずです。ラストでペラムも「銃」を撃ちます。このネタ落ちがいかにも彼らしくてちょっとうれしい・・・と思ったら、その直後にやっぱり銃が出てきます。アメリカはあと何人のバフィットを生めば気が済むのでしょうか?
ブッシュさん、イラクの大量破壊兵器も問題でしょうが、自分の国の至る所に散らばった天文学的数量の「少量破壊兵器」も少しは心配したらいかがでしょうか?
2003年1月16日 ローレンス・ブロック 「殺し屋」
主人公は殺し屋です。受注を請け負っている元締めさんから電話がかかれば出かけて行ってターゲットを始末します。彼(彼女)が何と言う名前であろうが、どんな仕事をしていようが、人種も、宗教も、思想も、経済状態も関係なし。当然、良い人かとか家族はいるかとか、そんなプライベートも関係なし。至ってシンプルな関係、殺す人間と殺される人間、それでお終い。
ケラーと名乗る殺し屋と彼に仕事を渡すボスとその秘書、主な登場人物はこれだけです。短編の連作という形をとったこの本はどのページから読み始めても問題ありません。ボスが仕事を受注する、秘書がそれをケラーに伝える、ケラーが出かけて行ってターゲットを始末する、報酬が渡される、全編、要するにこれだけです。だからこそ怖い・・・。
敢えて、だと思うのですが、肝心の殺しの場面はほとんど登場しません。死ぬ理由が何であるにせよ、死ぬ方には関係ありませんからね。長患いで病院のベッドの上で死ぬにしても、通りを横断していて車に跳ねられて死ぬにしても、そして、バスルームで殺し屋に絞め殺されるにしても、死は同じです。死とは至って単純なものです。心臓が止まる、目の前は真っ暗、それで終わり、その単純さを徹底的に極めようとした短編連作です。
ケラーは孤独な中年の男、特にこれといった特徴もなく、道ですれ違ったとしても、2秒後には忘れてしまうような男です。そんなどこにでもいるような平凡な男が、ある日突然に死を運んできます。この作品は殺し屋の日記ではありません。死とはかくもありふれているのだというメッセージなのです。
ケラーはたまにはターゲットと個人的に接触を持ってしまいます。ターゲットの体温を息遣いを身近に感じてしまいます。しかし、彼はそれには動じません。何しろこれはビジネスなのです。ケラーにとってターゲットは緑色のドル紙幣であり、人間ではありません。時に人間に見えてしまうこともありますが、彼はそれをドル紙幣に見立てるテクニックを持っています。
これといったトリックも登場しません。アクションもありません。ケラーが訪れた場所で淡々と人が死んでいくだけです。その素っ気ない描写がこの短編集のテーマです。ブロックのファンにとっては気晴らしのお遊びにしか読めませんが、そのお遊びが殺人であると改めて考えるといきなり怖くなる、そんな一冊です。
たいていの人間の人生には殺し屋は登場しません。人は年をとって、病気になって、事故にあって死んでいきます。私もいつかそのどれかで死を迎えるでしょう。死はそ知らぬ顔をして向こうからやってきます。お疲れさん、でもね、今日で時間切れなんだ、はい、息を止めて、心臓を止めて、あんたはただの肉だ・・・。
ブロックがこの作品を書いたのは息抜きであろうと想像できます。力が抜けていますし、描写も細部のトリビアルな部分にこだわってはいても、肝心の死がいい加減です。作品としては間違いなくB級です。ケラーと元締めの秘書トッドの無意味な饒舌も少々鬱陶しい。軽く読める内容ですし、暇つぶしにはもってこいです。しかし、突然やってくる死の冷たさには変なリアリティがあります。
ブロック、少々悪趣味に走っていると言わざるを得ませんね。