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2006年12月30日 トマス・H・クック 「緋色の迷宮」
2006年11月9日 カルロス・ルイス・サフォン 「風の影」
2006年9月17日 ジョージ・P・ペレケーノス 「魂よ眠れ」
2006年8月10日 スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー 「ヤバい経済学」
2006年6月23日 スイス政府 「民間防衛」
2006年4月24日 久米田 康治 「さよなら絶望先生」
2006年3月9日 ドナ・W・クロス 「女教皇ヨハンナ」
2006年2月20日 早川いくを 「またまたへんないきもの」
2006年1月16日 ジョン・コラピント 「著者略歴」


Leaf2006年12月30日 トマス・H・クック 「緋色の迷宮」

 アメリカ東部、郊外、短期大学が一つあって、ショッピングモールが一つあって、そこから放射線状に伸びた道路に沿って、どれもこれも同じようなガレージと前庭の付いた戸建て住宅が並ぶ街、芝生の青さ、スプリンクラーが作る小さな虹、虫の音、そして庭先から漂うバーベキューの香り、野球のナイター中継の声、ふと耳を澄ますと隣の家からも同じ音声が聞こえてくる、平和で少々退屈な我が町。
 そんな町で8歳の少女が行方不明になります。捜索の結果、町外れの野球場で遺体で発見された少女、少女が一人で行ける場所ではないので事故ではない、脅迫の手紙も電話もなかったので誘拐でもない、少女の両親は至って常識的な市民であり怨恨でもない、つまり、この町のどこかにおぞましい小児性愛者が住んでいる、良き隣人の仮面を被って・・・。

 写真店を経営するエリックの胸にある不安が生まれます。あの夜、少女のベビーシッターをしていた息子、15歳のキースが犯人なのでは?幼い頃から恥ずかしがり屋で、不器用で、引っ込み思案、同級生のからかいの対象になることが多くて、そのせいか他人が身体に触れることを嫌うようになったキース、スポーツも楽器もできず、学校の成績も悪く、友達もいないキース、そういえば年頃だというのに、彼の口から同年代の女の子の話題が出たことは今まで一度もない。どうやら子供が好きらしい、子供が好きなのは良いことだと思っていたが、どう「好き」なのか・・・。エリックの不安には一つの根拠がありました。エリックの兄ウォーレンも同じ傾向を持っていたのです。

 父である自分が息子を信じないでどうする、そう思いつつも、エリックの不安は消えるどころか募るだけ。「あなたは対決しようとはしない。いつだってそうなのよ、受け身なの。」、妻メレディスの非難に反論できないエリック。「あの子には友達がひとりもいないのよ。成績はひどいし・・・、なにかにちょっとでも興味を示したのを見たことある?」、ある・・・、ベビーシッターのアルバイトには喜んで出掛けていた、小さな子供の相手をしている時は楽しそうに見えた、それは子供が相手だと安心できるからだと思っていた、しかし、あのうれしそうな顔は性的興奮だったのか?

 父は事業に失敗した、母は全てに疲れ果てて死を選んだ、妹は脳腫瘍が連れていってしまった、兄は呑んだくれの負け犬になった、だからこそ幸せな家庭を作りたかった。メレディスとの結婚式、キースが生まれて、ヨチヨチ歩きの2歳の誕生日、10歳の誕生日には自転車を買った、14歳の誕生日にはギア付きのもっと高級な自転車を・・・、懸命に努力したつもりだったのに、努力が足りかなったというのか、努力の方向が間違っていたというのか、そもそも努力など最初から無駄だったのか。私のような男には幸せなんて高望みだというのか?
 エリックとその家族の肖像が崩れていきます、取り返しのつかないほどに。

 いかにもクックらしい作品です。少女殺害を縦糸に、家族の崩壊を横糸に、破綻することなく織り上げられた物語、安心して物語に入り込めるのは、さすがに名人と呼ばれるだけのことはあります。彼にしては平均点の作品ですが、レベルは高いです。何たって一流ブランドですから。

 切ない作品です。特にエリックとキースの父子の関係が無言のうちに崩れていく様は、胸が痛くなります。息子を容疑者の一人として客観的に見ざるを得なくなった父は、今までの自分の嘘に気づいてしまうのです。こんな息子、好きじゃなかったんだ、私の家の中をダラダラ歩き回り、髪ももつれてだらしない格好で嵩ばかり大きくなって、無気力で、無能で、私に失望しか与えなかった、今まで愛する振りをしてきだだけなんだ・・・。
 自分の嘘を直視したエリックは、大きな苦痛を代償として、真の息子を取り戻すのです。閉じこもり、小さくなっている得体の知れない15歳の少年の中にひっそりと息づいている誠実さと優しさ、そして勇気を発見した時、エリックの家庭は既に廃墟と化しています。しかし、廃墟から始めればいい、ここから私の本当の家族の物語が始まるんだ・・・、そして、突然に終わりが訪れます、あまりにも無残な形で。

 壊れてしまうまでひび割れに気づかない鈍感、見ない振りをしていればそれは存在しないんだと決め込む臆病、これじゃいけないと分かっているけど明日になったら何とかなるかも知れないし、と身体を丸める怠惰、そして、それがいかに愚かであるかを悟るまでにどうしてこんなに時間がかかるのか、かかった時間を取り戻すには生きるしかない、でも、その生が思うようにならない。

 エリックとキースの父子に比べて、他の人物の書き分けが少々「緩い」です。特に母親のメレディスが弱いのでバランスが悪い感はどうしようもありません。しかし、それでも最後まで一気に読ませますから、つくづくクックという人は達者な人です。

 家族、それは選んだわけでも選ばれたわけでもないのに死ぬまで続くグループ、世界で最も緊密なグループです。遺伝子と思い出を共有する家族、そこで育まれ、そこで見方、考え方を身につけ、それを持って世界を生きていく、なのに、全くの運任せ、人生は最初からしてギャンブルです。でも、それは愛情と信頼によって豊かにすることができるし、憎悪と不信によって腐食させることもできる、脆弱なものでもあります。
 強い絆は所詮グラグラの地盤の上、今日までは危ういバランスを保っているだけ、明日、何かあれば、明後日何か起これば、一瞬にして弾け飛ぶ、そんなものの中で皆が育まれている、皆が生きている、そして皆が死んでいく。

 家庭が崩壊してしまったのが切ないんじゃない、人が死んでしまったのが寂しいんじゃない、人が愚かなことが切なくて寂しい、この読後感はクックならではのもの、手練れの名人芸を堪能できる作品です。


Leaf2006年11月9日 カルロス・ルイス・サフォン 「風の影」

 文庫本で上下合わせて約800ページというボリュームです。が、中身はそんなもんじゃない。床から天井まで詰め込めるだけ詰め込んで、棚板がたわんでいる本箱みたい。哲学、歴史、政治、生と死、男と女、親と子、愛と憎しみ、偽りと真実、成長と死、希望と諦め、運命と不条理、恐怖と倒錯、問いと答え、この本にないものを探すのはかなり困難な作業になります。これだけ詰め込んでおいて、読む者に一気読みを強制する、止められない止まらないの「エビセン本」なのですから、すごい。

 1945年6月のある朝、スペインのバルセロナで古書店を営む父に連れられて、10歳のダニエルは初めてその場所を訪れます。「忘れられた本の墓場」、埃とカビの匂いに満ちたそこは、まるでモロッコの旧市街を思わせる本の迷路、どこかの図書館が閉鎖されたり、どこかの本屋が店じまいしたり、一冊の本が世間から忘れられてしまうと、その本は確実にここに来る、ここで永遠に生きている、新しい精神に行き着くのを待ちながら・・・。「本の墓場」には一つの決まりがあります。ここを初めて訪れた人間は一冊の本を選ぶ、そして、それを引き取って、絶対にこの世から消えないようにその本を守らなければならないのです。その日、ダニエルが選んだのは、ワインカラーの革表紙の一冊、金文字で打たれたタイトルは「風の影」、著者はフリアン・カラックス。
 翌日の夜明け、薄青い光の中で最後のページを閉じた時、ダニエルの運命は決まります。

 20世紀半ばのバルセロナ、第二次世界大戦は終わっても、スペインは内戦によって深く傷ついており、その傷を独裁と恐怖政治という醜い「カサブタ」が覆っている、そんな街を舞台に、様々な要素が交錯し、アルハンブラのアラベスクの様相を呈します。

 幼い時に母を亡くした内気なダニエル、そんな息子の成長にそっと寄り添い、しっかりと支える父(ヴィクトル・ユゴーの万年筆のエピソードは泣かせます)、過激なアナキストにして甘いドン・ファン、そして饒舌な戦士である書店員、辛辣でお人よしな本の墓場の管理人、慈しむことと破壊することを同時にやってのける盲目の美女、遠い記憶を堅い心に閉じこめたまま時をやり過ごそうとするかのような女、カラックスの本を全て焼き払うために手段を選ばない顔のない男、そして、冷酷なサディストであることを隠すどころか誇示する治安警察の刑事部長・・・。

 それをさかのぼること17年前、愛することの意味が分からなくて母を殴る父と、愛することの虚しさを知っているからそんな父を捨てない母の間に生を受けたフリアン、彼と運命の恋に落ちるペネロペ、自ら招いた呪われた運命を我が身に引き受けることを頑と拒む大富豪、その運命から我が子と決めた愛し子を守ろうと闘う女、愛されない自分が許せないので結局誰一人愛せない少年とその無慈悲な母、そして、誰よりも愛したからこそ、誰よりも愛に傷つく孤独な男・・・。

 城塞都市バルセロナの石畳の上で、彼らは触れ合い、すれ違い、追いかけ、逃げる。やがてダニエルはカラックスの人生をなぞっている自分を発見します。カラックスの最後は既に変えようもない過去としてダニエルの前にある、では、ダニエルの未来は?

 登場するエピソードは、そのボリュームにこそ圧倒されますが、いずれもありきたり。ただ、それらを繋ぐ糸を操る作者の指先は天才外科医も真っ青の緻密さです。ともかく溢れんばかりに詰め込んでおいて、最後にぴたりと収めてしまうのですから。ラストのカタルシスに圧倒される時、通俗的で次の展開が読める一つ一つのエピソードは、読む人間をここまで一気に引っ張ってくるための実に巧妙な罠であったと気づくのです。

 唐突ですが、ケーキを連想して下さい。小麦粉、ミルク、バター、卵、砂糖、材料は同じようなものですが、その出来上がりが全く違うのはどうして?この作品に関して言えば、使い古されたエピソードを繋いでおいて、どうしてこれほどにも芳醇に香るのか、とろけるように甘いのか、舌の上に忘れようのない苦みが残るのか、夢中で頬張っておいてなぜ涙が出るのか・・・、丹念に粉をかき混ぜる中で生地がたっぷりと含んだ空気が違うとしか言いようがないのです。そして、この作品が幾重にも重なり合った層の間に含んでいるのは、「死」。

 バルセロナは死が似合う街でもあります。そこは、中世以来、キリスト教世界とイスラム世界の険しい対立の最前線であり続けた街であり、落日のハプスブルクが腐臭を放ちつつ崩れていく様を見守った街であり、マドリードと対峙してきたカタロニアの首都であり、20世紀の内戦の主戦場であった街なのです。ガウディの大聖堂の見守る下で、繰り返されてきた、繰り返されている、繰り返されるであろう生と死・・・。明るい青空の下、情熱的で享楽的なこの町は、陽が落ちた時、死者の都へと変貌する、そして、そんなバルセロナをそこで生きる人々は大切に守り続けてきたのです。

 100年前にここで生まれ、ここで生き、ここで死んだ人間が今日生き返ったとしたら、自分の住んでいた家に迷わず歩いて帰れる、バルセロナやヨーロッパの古都はそんな街であり、それらの街は、100年はおろか、たった20年で街を書き換えてしまう、死を見えないところに片づけてしまう、それを口にしなければそれが存在しないと信じることができる、日本人の特殊な「言霊」楽観主義とは対極にある街。そんな街で、重なり合い、求め合い、響き合う魂の物語。抹香臭いです、冷たいです、しかし、死とはそういうものであり、そういうものがいつもすぐそこにあることは、どうしようもない。どんな生き方をしようが、死ななかった人間だけは未だに一人もいないのですから。

 ある意味、スペイン人にしか書けない作品かも知れません。作者は1964年生まれだそうですが、その筆力は驚異的、バロックの伝統は時に、こういう怪物を生むもののようです。

 「この物語も墓場で始まって墓場で終わる。もっとも君が想像するような墓場じゃない。」、この作品の舞台はバルセロナ以外にありませんし、この作品の語り手は古書店で育った少年以外にありません。図書館の静けさの中、深呼吸を一つ、ここに未来がある、なぜならここに過去があるから、こんな緊張感は本を愛する人間なら一度は感じたことがあるはずです。そのツボのど真ん中を突かれて、ページを繰る指が止められない、こんな経験は久しぶりでした。
 バルセロナの街を靴底をすり減らして歩き回ればきっと、「本の墓場」に行き着くに違いないと思います。いつの日か、そんな旅をしてみたい、でも、出来なくてもかまわない、それがそこにあることの意味を既に私は知っているからです。



Leaf2006年9月17日 ジョージ・P・ペレケーノス 「魂よ眠れ」

 ワシントンDCの黒人私立探偵デレク・ストレンジのシリーズ第三作です。銃と麻薬、そして人種対立、ギシギシと軋みそうな重量感のテーマ、そんな重苦しさに色彩を与える多彩な音楽の話題、特に今回、エンニオ・モリコーネが登場しておりまして、ファンとしてはうれしい。

 世界で一番豊かな国、アメリカ合衆国の首都、その素顔は米国でも屈指の犯罪都市です。2004年の殺人事件は人口10万人当たり35.7件(因みにニューヨークは同7件)、「米国の危険な都市ランキング」堂々の13位、しかし、これより物騒な都市が12もあるってのもすごいですね。特に危険なのは市の南東部に広がるアナコスティア地区、殺人事件の3分の1がここで起こります。ここの人口は92%が黒人です。
 そこに暮らす子供たち、両親が揃っている子なんて奇跡に近い、その片親が正業に就いているのも奇跡に近い、ほとんどの世帯の主たる収入は生活保護。高級なアパートに住んで外国車と携帯電話を持っているとすれば、それはビジネスマンでも会計士でも医者でもない、スラムの「ヒルズ族」は銃かドラッグ(あるいはその両方)のディーラーです。
 
 酒浸りの母、暴力を振るう父、あるいは自分を邪魔者扱いする親戚や里親から逃れて、路上でたむろする子供たち。彼らの目に映るのは、デザイナーズ・ブランドのスウェットスーツとスニーカー、首にはタイヤチェーンの如き重たい金のネックレス、耳にはダイアモンドのピアス、そしてベルトに突っ込んだオートマティックの銃でバッチリと決めたドラッグ・ディーラーたち。映画でしか見たことがないタフでクールなブラザーたち、俺だってあんな風になれるさ、なってみせる、オヤジみたいになるくらいなら何だってやるさ。子供たちの「キャリア」は、吹きさらしの街角、炎天下の歩道に立つ末端の売人からスタートします。やがて、シマを荒らす他所の売人を2、3人あの世に送れば元締めに見込まれて、用心棒か金庫番、あるいは運び屋といった幹部に抜擢され、さらに競合するギャング団のアタマを取ってボスの右腕に、いずれはそのボスを当局にちくって終身刑で刑務所に放り込み、自分がボスになる、これが底辺に生まれた少年が描くアメリカン・ドリームです。

 そんな街の私立探偵デレク、彼は目下死刑の求刑を受けて裁判中のギャングのボス、グランヴィルのために証人を探しています。両手の指では数え切れない殺人を犯し、町中にドラッグを供給してきたグランヴィルですが、デレクは彼に秘密の借りがあるのです。デレクのパートナーで元警官の白人テリーは、家出娘を探してビラを配っています。彼女が決定的なトラップに堕ちる前に発見しようとする行為は、この街では砂場の中の一粒のゴマを見つけるに等しいと、彼は知っています。

 ワシントンDCでは前科があれば銃を買うことはできません。では、どうして、ほぼ全員が円周率みたいな長い長い犯罪歴を持っているギャングたちが銃を、それも小さな国なら武力侵攻できるほど大量の銃を持っているのか?そこに銃のディーラーたちが築いてきたビジネス・モデルがあります。
 路上での銃撃戦は警察の目を引き、市民から突き上げを食った政治家たちの注目を集めてしまう、ドラッグ・ディーラの元締めたちは利益にならない殺人を嫌います。街がある限度を超えて物騒になればお客が寄りつかなくなるからです。しかし、下っ端の兵隊たちは誰かを殺さない限り出世のチャンスを掴めない、ボスの平和主義はしばしば、かつて自らもそうであった野心満々の若者によって破られます。
 出所を辿ることのできない高性能の銃と野心と怒りではち切れそうな若者が街角で出会い、今日も路上で人が死んでいきます。

 底辺に生まれた者は底辺で死ぬしかないのか?デレクはそれに対してはっきりとノー!といいます。少年たちを路上でスカウトして近所の男たちと指導しているフットボールチーム、雑用係として採用し、探偵業を仕込んでいる少年、デレクは堕ちていく人々に必死で手を伸ばします。残念ながら彼の手は二本しかない、救える人はとても少ない、それでもデレクは毎日戦っています。
 そして、執拗な脅しにもかかわらず、我が子の未来のためにギャングに立ち向かうシングル・マザー、子供が好きで、子供を傷つける生き方にどうしても納得ができず仲間を裏切るギャング、戦っているのはデレクだけじゃない。自分以外の人間に無関心な人間が過半数を超えた時、腐敗が始まる、コンマ以下いくつかのパーセントでも、踏ん張っている人間が勝っていれば、そこには希望が生まれる、複数の物語が重なり合う複雑な折り目を少し離れて見た時に浮かび上がるのは、そんな人間の切なさです。

 そして、ある男が死にます。深夜の路上で、子供と言っていい少年の手に握られた銃によって。ありふれた光景、取り返しのつかない死・・・。どうして人を殺してはいけないのか?答えるのが非常に難しい問いへの一つの答えがここにあります。だって、死んだ人は宇宙に一人しかいなかったから、同じ人はもうどこにもいないから、世界中の富を積み上げても絶対に取り返せない人だから。

 長いゲームだよな?長いけど単純だ、最後まで立っていたやつが勝つのさ・・・、社会派の題材を扱いつつハードボイルドの王道を外さない、ペレケーノスの豪腕は三作目にしてますます冴えています。


Leaf2006年8月10日 スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー 「ヤバい経済学」

 シカゴ大学の経済学者(レヴィット)とニューヨーク在住の作家(ダブナー)の二人のスティーヴン・コンビの全米ベストセラー、レヴィット氏の理論をダブナー氏が一般向けに「翻訳」したものです。どうヤバいのかと言えば、本音炸裂ってとこですね。統計上は、学問上はこうなんだけど、それ言っちゃまずいっしょ・・・という世間のお約束があるわけですが、この二人、そんなもん無視です。

 1990年代、アメリカでは凶悪犯罪の激増が予告されていました。警察の統計も、社会学者や心理学者のコメントも絶望的なものでした。ところが、あらゆる種類の犯罪が減っていったのです。人々が見つけた、あるいはあてがわれた理由は、好景気で貧困層が減ったから、銃の規制が強まったから、警察が導入した「割れ窓理論」が功を奏したから・・・等々。しかし、本当の理由は、1973年の「ロー対ウェイド裁判」によって妊娠中絶が合法化されたからだと著者は解説します。アル中、ヤク中の21歳の女性が中絶を求めて起こした裁判、その結果、劣悪な環境に生まれる子供が減った。判決から20年を経て、生まれていれば犯罪を犯すはずだった彼らが生まれなかったせいで犯罪が減った、というものです。確かに、これを堂々と主張するには何かと差し障りがありそうです。学問は本来政治的は中立なものであるのですが、中立というのは概念でしかないのも現実なわけでして、発見しても発表を躊躇う、そんな研究だって沢山あるんだろうなと思います。

 護身用の銃と裏庭のプール、子供にとって危険なのはどっち?生徒の試験の成績がそのまま自分の成績になる場合、先生はインチキをするのか?7勝7敗、勝ち越しのかかった取り組みで力士はどう考え、どう行動する?いい年こいたヤクの売人がママと一緒に住んでいるのはなぜ?分析対象が面白いのでグングン読み進むことができます。ありがたいことに数式も全く出てきません。ただ、正確には「経済学」ではなくて「統計学的エッセイ」ですね。

 人の行動には全て動機があります。その動機は欲望から生じます。お金が欲しい、彼女が、彼氏が欲しい、有名になりたい、名誉が欲しい、一見すると全然関係のないように見えるものも、動機から見ていけば共通項で括られる、たくさんの例はどれも身近なもの(不動産屋との駆け引き、出会い系サイトでの自己紹介、赤ちゃんの名前の流行り廃り)ですし、文章もこなれていて楽しい。翻訳も筆がよく走っていて小気味良いです。

 端折ってしまえば「因果関係」についての本と言えると思います。しかし、実際には風が吹いてから桶屋が儲かるようになるまでには複雑な過程がいくつもあるわけで、そこを強引に直線で結んでしまったような箇所もいくつか見受けられます。肩の力を抜いて、ふーん、こういう分析もあるんだ、って感じで読むことをお勧めします。

 少々問題を含んでおり、少々差別的でもあり、少々身勝手でもあります。しかし、ある事象が起こった時、一番耳障りの良い解説を飲み込んで問うことをしないことの恐ろしさを思えば、そんな欠点はご愛嬌です。疑え、納得できなければどこまでも問え!という姿勢にハッとさせられました。新聞やテレビで毎日のように見る世論調査の数字、サンプリングは適切なのか?問いに誘導はなかったのか?電話と面接では、匿名とそうでないのとでは、数字は違ってくるのではないか?目の前の数字が常に現実を表しているとは限りません。

 全米では100万部を売ったそうですが、果たして日本ではどうでしょうか?これがベストセラーになると日本相撲協会が黙っていないような気がしますが(詳しくは47ページ以降で)・・・。相撲協会以外でも、異議を唱えたい人は多いと思います。しかし、ある事象を説明することと、それを肯定することは違います。妊娠中絶の結果犯罪が減ったという説明は、妊娠中絶を肯定するものではないということを頭に置いてから読むべきでしょう。犯罪心理学者は犯罪者ではありませんし、宗教学者は教祖様になるわけではありませんし、解剖学者は死体愛好家ではありません。倫理的・道徳的な批判は見当違い、そんな批判は政治家や役人用に取っておいて下さい。

 ただ邦題なんですが、「ヤバい」はどうでしょうか?原題は「Freakonomic」、フリークとエコノミックをかけたものです。「へそ曲がりのための経済学入門」とか「ひねくれ者が語るマクロ経済学」とかで良かったのではないでしょうか。



Leaf2006年6月23日 スイス政府 「民間防衛」

 巷ではちょっと右翼っぽいキワモノ本の扱いを受けております。しかし、その中身は、さすがにハリネズミ国家スイスの政府が真剣に作った全国民必携のマニュアル本、その危機管理のノウハウはさすがです。

 スイス、日本でのイメージは、美しい山々に囲まれた観光立国、世界一口の堅い銀行家たちが分厚い扉の金庫を構えている金融センター、やったら細かくて丈夫な製品、時計とかナイフとかを作るマニアックな物作り国家、「クララが立った!」等々、そして、何よりも永世中立国家。ハイジや時計はどーでもいいですが、この永世中立国家、これこそがスイスという国の定義でしょう。

 この国、金融業や近代工業が芽生える以前は、耕作に不向きな国土、産業は酪農のみ、非常に貧しい国でありました。彼らの生活を支えたのは、傭兵として外国の軍隊に出稼ぎに出掛けた若者たちの「血」であったのです。例えば、未だにバチカン市国の衛兵の採用条件は「スイス人に限る」です。この栄誉は、1527年5月5日、ドイツ・スペイン連合軍による「サッコ・ディ・ローマ(ローマ掠奪)」の際、圧倒的な大軍を前にして一歩も退かず、法王クレメント7世を守って全員が戦死したスイス人衛兵の武勲を讃えてのことです。スイスの富はかの国の若者たちの命と引き替えに築かれたものと言ってよいでしょう。

 近代から現代、傭兵産業を脱却したとはいえ、海を持たないこの国は四方八方どこからでも歩いて侵入可能です。そして、第二次世界大戦、その後の冷戦、スイスは常にドイツ、ソビエト連邦という強大な敵国の脅威の下にありました。血で贖った安全を守るために彼らが選択した道、それが永世中立国家、敵につけいる隙を決して見せない、味方だって必要以上には近寄らせない、ハリネズミとしての生き方だったのです。
 この本をマニュアルとして各家庭にライフルと一緒に常備させる、何しろ、金利の計算とか時計とか、もうきっちりきっちりが得意なお国柄ですから、マニュアルったって、その辺のメーカーさんの「ペルシャ語を中国人が日本語に訳したんでないか?」ってないい加減なものとは出来が違います。細かい、そして分かりやすい。

 何を守るべきかを素早く決断せよ、守るべきもの以外は捨てよ、国際社会が動き出すまで何としても生き延びろ、できる範囲で反撃せよ、新聞もテレビも敵の手に落ちた時、真実を知る方法とは、敵は「敵です」と名乗るわけではない、あなたの隣の親切な人だって敵であり得る、飛んでくるのは弾丸だけではない、敵は言葉やイメージでも攻撃してくる等々、うーん、きついなぁと思わないでもないですが、戦争をするためのマニュアルではなくて、戦争を生き延びるためのマニュアルですから、状況が甘いわけはないので、きつくて正しいのです。
 そして、戦争を想定しなくても、災害時にも十分に役に立つ本です。巨大地震が発生し、あなたは家族と離れたところに一人、携帯もつながらない、当然110番も119番も機能しない、国家の機能が回復するまで、どうやって生きる?生き延びる技術というのは極めて汎用性の高いものであるわけです。

 読んでいてつくづく感じるのは、スイス政府は決して「平和」など考えていないということです。平和とは概念でしかない、現実には決してあり得ない、国家が国民に与えるべきは「安全」である、平和という言葉に特別な言霊を感じているかのような日本人のスイスへのイメージがガラガラと崩れるのが見えるような本ではあります。しかし、これがかの国がその歴史から学び取った「生き方」なのです。「平和」を唱えながら「夢見て死ぬ」のではなく、あらゆる「厄災」を想定して「現実を生きる」ことを彼らが選択した以上、現実的であることを醜いなどと言う権利は他の国の国民にはありません。

 先入観を持たずにページを繰ってみるのも大切な体験だろうと思います。その生き方に賛同できないとしても、そのノウハウは貴重な記憶として残ります。

 絶対に役に立っちゃ困る本なのですが、その時が来たら、知っているか知らないかが生命を左右する、その時が来なかったら、良い時代を生きたと喜べば良いわけで、どっちに転んでも損はしません。うーん、この損だけはしないってとこもスイス的っちゃースイス的ですね。



Leaf2006年4月24日 久米田 康治 「さよなら絶望先生」

 最初にお断りしておきますが、この作品はコミックです。そして、私はコミックを全くと言っていいくらい読みません。新聞の4コマ漫画といしいひさいち氏の作品(特に正露丸みたいな忍者といつも地上を狙っている地底人が好き)をたまに読む程度、ですから100%門外漢です。以下にきっとトンチンカンなことを書くことと思いますが、どうかご容赦下さい。

 この作品、どこかの漫画雑誌に連載中なのでしょうが、そちらは一度も見たことがありません。1〜3巻まで単行本で出ており、そちらを読みました。そもそも書店で手にしたのは、その装丁が非常に風変わりだったからです。一言で言えば大正浪漫、辻が花の色彩でもって精密にかかれた人物の和服の柄といい、小道具といい、文字のフォントといい、各章のタイトルといい、明治、大正の国文学の香り立つような日本語の美しさ、粗末な紙に印刷されていた宝石のような言葉を綴った書籍の雰囲気が再現されています。かようにたおやかな雰囲気の本なのですが・・・。

 のっけから首くくりです。詰め襟の白木綿のシャツ、絣の着物に袴という「坊ちゃん」スタイル、やせ型、メガネの美形青年がなぜか道の真ん中の木の枝で首をくくろうとしておりまして、ミニのセーラー服の女子高生が足に飛びついて止めるわけですが、首くくっている人の足に飛びつくのは「死ね!」と同じなわけでして、で、ドーンと落っこちた自殺未遂青年の第一声が「死んだらどーする!」
 この自殺未遂青年、名前が「糸色望(いとしき のぞむ)」、えー、こうやって横書きしてしまいますと、「絶望」と読めてしまうわけです。そんな彼が、足に飛びついた女子高生のクラスの新任の担任教師、というのが物語の始まりです。
 このクラスがとんでもないクラスで、足に飛びついた少女はどこまでも突き抜けた楽天家、この世に不幸などある訳ない、人は望めばなんにでもなれる(因みに彼女は神になりたいそうです)、時々はあちらの星の方とチャネリングもするというかなり強力な電波キャラ。彼女を筆頭に、ころころとキャラを変えつつ独裁国家の秘密警察の如きしつこさで付きまとうストーカー少女、大和なでしこと帰国子女に分裂した多重人格少女、直接では一言も喋れないのに携帯メールで毒舌を吐きまくる子、引き篭もり状態から学校に来たら学校に引き篭もってしまった「不下校」生徒、尻尾命!あらゆる生き物の尻尾を触るために日々「闘い」に明け暮れている尻尾フェチ、コンテナに入って豊かな日本にやってきて明るい貧乏を振りまく不法入国のどっかの国の少女、もう、一人もまともなのが出てきません。

 そして糸色先生からして、すぐに不登校になるし、何かというと首くくろう!練炭焚こう!飛び降りよう!だし、死こそが唯一の救済であると確信しているわけですが、毎回のきめ台詞が「死んだらどーする!」、ここまで明るい絶望キャラというのは「魔笛」のパパゲーノ以来です。この主人公、ネガティブであることに関してものすごくポジティブ、その極端さがどうにもおかしい。死ぬと言いつつせこい計算をし、死ねと言いつつ一生懸命、究極の自己中が動機でありながら、その結果はいつも利他的、描かれる問題はどれも現実には深刻なものなのですが、この生命力に溢れた自殺願望者を通してしまうと、「生きてるだけで丸儲け」という開き直った生命賛歌に変換されてしまいます。

 小ネタがすごいです。もう名誉毀損ぎりぎり、表現の自由ぎりぎり、ページの端の方にすごくちっこくすごくヤバイことが書かれているので、端から端までちゃんと読むのが大変です。それから背景の描写も強迫神経症的に細かい、お店の看板、ポスター、小物等々。ただ、女性の顔が全部同じに見えてしまい、時々混乱します。

 悲観を突き詰めて笑いに変える、それは非常に危なっかしい作業であり、下手をすると自分も他者も傷つけることになります。この作品はぎりぎりのところで「こっち側」ですが、いつ「あっち側」に落ちても不思議ではない、その危ないバランスを楽しむ作品ですので、読み手をかなり厳しく選ぶ作品でしょう。笑いつつも、その笑いの幾分かは自分と自分が所属する世界の有り様に向けられており、それを自虐と捉えつつも楽しめるゆとりが要求されます。すぐにカーッとなる人とか向いていないと思いますね。

 色なら紫がかった灰色(黒というほどアクはない)、音なら遠くで使用されている削岩機(近くでやられたら堪らない)、味なら粒山椒(一粒で充分、入れすぎると怖い)、傑作だとは思いませんが、たまに味わいたくなる、そんなちょっと癖のある作品、但し「R15」です。



Leaf2006年3月9日 ドナ・W・クロス 「女教皇ヨハンナ」

 バチカン美術館に奇妙な椅子があります。がっしりとした木製の丈夫一点張りの椅子なのですが、真ん中がちょうど洋式トイレの便座のように丸く刳りぬかれているのです。この椅子、もともとは聖ヨハネ・ラテラン教会のもの。この教会は、ミラノ勅令によってローマ帝国の禁教令が解かれた324年、皇帝コンスタンティヌスによって建立されたという大変由緒のある教会で、ローマ司教(教皇が兼職する)の司教座が置かれ、「諸聖堂の母」と呼ばれています。ローマ教会では11月9日を「ラテラン教会の献堂」の日として祝います。
 で、真ん中の穴です。これは一体なんだ?この椅子に穴を開けさせたのが、かつて教皇の三重冠をその頭に頂いたと伝えられる一人の女性。

 聖レオ4世の後、マインツ生まれのヨハネス・アングリクスが2年7ヶ月4日の間、教皇の座にあった。このヨハネスは実は男装した女性であり、当時のローマで誰も並ぶ者がないほどに学識に優れていたことから人々に望まれて教皇に選出された。しかし、愛人の子を身籠った彼女は、聖ピエトロ大聖堂からラテラノに向かう途中、馬上で出産し、死亡した(あるいは、正体を知って激怒した人々によって殺された)。ローマ教会は、この教皇に関する全ての記録を消し去り、1601年、クレメンス8世はこの教皇の存在を正式に否定し、シエナ大聖堂にひっそりと置かれていた彼女の胸像を破壊した・・・、これが女教皇ヨハンナの伝説です。

 初代聖ペテロから2005年に即位した265代ベネディクトゥス16世まで、歴代教皇は全て男性なのですが、9世紀の終わり、ただ一人だけ女性が教皇の玉座に座ってしまった、こんなスキャンダルはもう二度とごめんとローマ教会はこの穴開き椅子を拵えて、証人となる枢機卿がその下に潜り込み、新しい教皇にはちゃんと男性としてそこにあるべき器官がついていることを確認することとなった、というわけ。

 カール大帝が世を去った814年の冬、吹雪の夜、朝から晩まで聖書の写本をなで回している独善的な教会参事会員の妻グトルンが女の子を産みました。ヨハンナと名付けられたその子はやがて、がっしりとした体つきに優雅さはないものの、ゲルマン民族である母親譲りの金色に輝く髪と好奇心できらきらした瞳を持つ魅力的な少女に成長します。ヨハンナの知性は並外れていました。兄たちの授業を傍らで聞いているだけの彼女が、兄たちの何倍も理解が早いのです。家庭教師の修道士の関心はやがてヨハンナ一人に移ってしまいます。たとえ女の子であろうが、出来の良い生徒に教えたいのが教師というものです。
 ラテン語に続いてギリシャ語をマスターしたヨハンナは、古代ギリシャの哲学や自然科学の写本を学び、時に師をやり込めるほどの論理性を身につけ、疫病は悪魔の仕業ではなく接触によって感染することに気づき、優れた学者、医師として頭角を表します。しかし、いくらゲルマン人の母譲りのがっしりした長身であろうが、その胸を固く布で巻こうが、ヨハンナが女性であるという事実は変わりません。ヨハンナは一人の男に強く惹かれ、その男ゆえに思いもかけない運命を辿ることになります。その運命の先に待っていたもの、それが聖ペテロの後継者、地上における神の代理人、神の国の羊飼い、異教徒の脅威から永遠の都ローマを守る盾、善男善女のお布施の終点、巨大な利権構造の頂点である教皇の座だったのです。

 女性が知識を持つことは罪であるとされていた時代、並外れて優れた頭脳を持って生まれながら、女であるというだけで学問の世界から締め出されるヨハンナ、その苦しみを父も母も理解してくれない、それどころか、父は罰当たりな娘を事あるごとに虐待し、母は自分と同じ無知という穴倉に娘を引き込もうとする、幼いながら必死でそこから脱出しようともがくヨハンナの成長が生き生きとした文体で綴られる導入部分から、一気に物語に引き込まれます。
 優れた学僧として医師として活躍するヨハンナ、その思考は当時にはあり得ないものです。著者としては暗黒の中世を合理的精神で照らそうとするヨハンナの精神性の高さを描きたかったのでしょうが、悪魔祓いに熱中する高僧たちを差し置いて近代の細菌学の手法で行動するヨハンナは、まるでタイムスリップした現代人です。ここがこの作品の弱点・・・となるかと思ったのですが、読んでいるこちらが現代の人間ですから、中世に生きた一人の女性に千数百年の時を隔てて感情移入ができるという、思いがけない(あるいは計算ずく)の効果を生んでいます。

 タロットカードの「女教皇」は、正位置にあれば、「智恵、判断、直感、調和、学問」を、逆位置にあれば「独断、偏見、ヒステリー、冷淡、高慢」を表すそうですが、常に前向きで真摯で誠実なヨハンナが正位置のカードで、本来、ヨハンナの上を歩かなければならないし、そうできるはずの彼女の周囲の高位聖職者たちが逆位置のカードというところに、女性作家ならではの視点があります。

 歴史物として読むには少々詰めが甘く、一人の女性の評伝として読むには後半急ぎすぎて書き足りない。しかし、一生懸命に生きる勇敢な少女の冒険譚としては一級品、次の展開が待ちきれなくて上下2冊を一気に読めます。教会用語や衣装の名前などがカタカナのままで注釈もないので、中世ヨーロッパ史や教会史に興味がない方には少々辛いところがあるかも知れませんが、そこは何とか踏ん張って頂きたい。

 実際のところ、聖ヨハネ・ラテラン教会の穴開き椅子はローマ教会そのものよりも古いもので、おそらくは身体を洗うのが大好きだったローマ帝国の貴族が使った当時なりのウォシュレットかビデであろうとされていますし、いくら教会が必死になったところで、「我らのパパ様が行列の途中で奇跡の出産!」という大事件を完全に消し去ることは不可能だと思われます。未だに事件に触れた当時の文献が皆無ということからして、女教皇が存在した可能性は正直かなり低いと思います。

 ヨハンナの伝説は、暗黒の中世と呼ばれる時代、無知という牢獄に閉じ込められた人々の心の中に灯され、伝えられ、守られてきた「希望」なのでしょう。


Leaf2006年2月20日 早川いくを 「またまたへんないきもの」

 前作「へんないきもの」で、もう十分に唖然としました。特撮怪獣ヲタが明け方に見た悪夢としか思えない、きも可笑しいというか、クスクス笑った後に何やら「生命の神秘」とかいう殊勝な単語がちらちらするというか、お前らいったい何なのよぉ、と何度も呟きつつページをめくった、そんな本の続編です。

 単なる続編ではありません。こんな種いたん?とあっけにとられることしばし、格段にへんな連中の間口が広がっております。合間のエッセイと対談も興味深いし(つーか、サナダムシと人間との間にも愛は成立するんだなと・・・)、精緻な挿絵に何度か登場する某高利貸しのCMですっかり有名になったチワワ君の途方に暮れた表情も良いです(チワワ自体十分変ちゃー変ですし、あれで先祖が狼っつーことなんですが)。

 小さい方は、何も食べず、生殖行為をせず、そもそも細胞がない、あるのは遺伝子だけ、細菌に取り付いて己の遺伝子を注入することで増殖するミクロの極道、T4ファージから、大きい方は、体長2メートル、胴回り40センチ、体重20キロ、無駄にでかいオオウナギ、但し不味くて蒲焼きにはなりません、まで。地球というのは、こんなに多様な生物を生み出せるほど多様な環境を持つ、まか不思議な惑星なんだ、しかし、いつの日か宇宙人が地球に降り立ったとしたら、彼らはどれをこの星の代表と判断してファースト・コンタクトをとるんだろ?
 私たちには人間としての眼しかありません。人間としての価値観しかありません。しかし、ある日やってくるマゼラン星雲のW228惑星のィドュエッェウツ国のハピォッツヌカザッチ市の第二oPPyU荘にお住まいのデミホノテマル大尉殿には、前足のあるアホロテトカゲが地球代表に見えるかも知れません。
 その自分たちだけの価値観で、犬に洋服を着せてピアスをして(実話です)クッションの上で上ロースをあてがい、ゴキブリは発見した途端にスリッパと中性洗剤で徹底的に殲滅し、牛は病気でよろけていようが食っちまい、鯨はいくら増えようが食っちゃダメで、アザラシが川に現れた(川と海はつながっているんで、昔からちょいちょい現れています)つっちゃ大騒ぎをして住民票を交付する人間、デミホノテマル大尉殿の眼には、人間が一番変な生物に見えるかも知れません。

 どうしてこんな姿になったのか、それはその姿でしか生き残れなかったからですが、どう見てもふざけているとしか思えないものもあり(特に帯を飾るバットフィッシュ君)、そのデザインのトンデモなさは人間の脳の及ぶところではありません。円谷プロの怪獣たちもハリウッドのエイリアンもプレデターも全て、自然の中の何物かをモデルにしてデザインされたものですが、自然の中で生きる彼らのデザインは必要性のみ。つくづく生命というのは生きるためには手段を選ばない、しぶといものだと感心します。

 今回はカラーのポスターがおまけについています。命は尊いと言いつつ大量の種を絶滅に追いやり、同種同士での殺し合いもどうしても止められない人間ですから・・・、とちょっと自虐的になりつつも饒舌な文体は笑えます。巷に氾濫する似非エコロジー本の鬱陶しさに対して、エンターテインメントに徹する有り様が潔くて心地良いです。


Leaf2006年1月16日 ジョン・コラピント 「著者略歴」

 ニューヨーク、マンハッタン、想像を絶する質量の夢がひしめく街、ほんの僅かの夢が花開き、大部分の夢がアスファルトの上でその冬最初に降った雪のように消えていく街。この街のやっかいなところは、ほとんどの若者が仮の姿である、そう信じているってことです。ウェイトレスは実は女優の卵だし、自転車メッセンジャーは実は法律家の卵だし、で、本屋の店員であるキャル・カニングハムは作家の卵であるわけです。

 マンハッタンの生活費はともかく高い、特にアパートが高い、ワン・ベッドルームの小さなアパートを僕、キャルと分け合っているのは、地方のお堅い家に育ち、コロンビア大学のロー・スクールに通う生真面目なスチュアート、法律書と黄色いリーガル・パットに埋もれて、ラップトップ型のパソコンに向かい合って夜を過ごす、退屈で何の魅力もない男、当然、女にはモテるわけもなく、今宵も僕が連れ込んだ少々いかれた女をぼーっと眺めているだけ。そりゃ、僕の遊びは少々度が過ぎるかも知れないけれど、僕は作家だ、まだ一枚も書いていないけど、僕にはそれ以外の未来なんてない、どんな経験だって僕のこれから書かれる作品の糧、僕はスチュアートとは違う、芸術家なんだ。

 そんなスチュアートがある朝、タクシーにはねられて死んだ。後に残ったのは、僕が知らない間に彼が書いていた長編小説の原稿、斬新なプロットと繊細な表現、古典的でありながら野性的な文体で綴られた夢のような傑作、そこに書かれているのは、僕が夜毎スチュアートに自慢半分、自嘲半分で語っていた僕自身の物語。
 これは僕の話だ、そりゃ書いたのはスチュアートだけど、僕のものだ、僕が書くはずだったものなんだ。エージェントに原稿を送った時、キャルの人生はとんでもない方向に走り出します。それを止めることはもう誰にもできない。奇跡のサクセス・ストーリー、ハリウッドの映画化権、印税、次回作のアドバンス、何十万ドル、何百万ドルの大金が銀行口座に流れ込む、その快感。美しい女性と出会った、その幸福、そして、思いがけない再会、その恐怖・・・。

 前半部分の飛ばし具合が実に軽快で楽しい。キャルのやっていることは許せない行為ですが、キャルのキャラクターが憎めないというか、自然で暖かい人柄に魅力があるので、いーじゃん、これでいーじゃん、成功させて上げてよ、だってもっとひどいことして金儲けている人間いくらでもいるじゃん、って気分になってしまうのです。
 勿論、それではただのペテン師の話で終わってしまうわけで、後半部分に大きな落とし穴が待っているのです。死んだスチュアートが執拗にこの生きている者たちの世界に居場所を求めている・・・、恐怖と憤り、そして苦い涙、やり直せるなら、いや、もう誰にも元には戻せないんだ、もう誰にも、巨大な絶望と微かな希望が交替にキャルを照らします。その辺りもテンポ良く読めるのですが、対照的な女性二人の描写が不自然で感情移入が不可能、読んでいるこちらもスピードダウン。

 で、ラスト、うーん、この安易なエンディングで何を言いたいのか、さっぱり分からない。皮肉?この程度の皮肉、もう使い古されて皮肉とすら感じられません。ここまで引っ張っておいてこれはないっしょ?ご都合良すぎるし、後味良いつもりで書いているのでしょうが、実に後味悪いです。
 結局、作者も書いているうちに愛すべきキャルを断罪することができなくなってしまったんでしょう。そういう意味ではキャルの人物造形はお見事、サスペンスとしては二流ですが、こんな友達欲しいなと思わせる優れた青春ものではあります。



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