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2009年12月24日 ジョン・グリシャム 「謀略法廷」
2009年11月26日 辻邦生 「安土往還記」
2009年9月11日 アダム・ファウアー 「数学的にありえない」
2009年7月14日 ジョン・ハート 「キングの死」
2009年5月30日 文化出版局 「BUTTONS ボタンの本」
2009年4月13日 ジョン・ハート 「川は静かに流れ」
2009年3月7日 ロバート・チャールズ・ウィルソン 「時間封鎖」
2009年2月9日 柳家小三治 「もひとつ ま・く・ら」
2009年12月24日 ジョン・グリシャム 「謀略法廷」
このところずーっとリーガル・サスペンス以外の著作にシフトしていたグリシャム、「久々の本格リーガル・サスペンス!」(腰巻きのコピー)をひっさげて登場、「法律事務所」以来のファンとしては待ってましたぁ!と声を掛けたいところです。
舞台はミシシッピ州、巨大複合産業の傘下にある化学工場が長年廃液を垂れ流してきた結果、地下水脈は汚染され、何も知らされずにその水を使って生活してきた住民たちは次々と癌を発病し、キャンサー(癌)郡と呼ばれるまでに寂れてしまった町。巨大企業を相手にした集団民事訴訟、損害賠償に加えてアメリカ特有の「懲罰的賠償金」が絡み、天文学的な額の金の行方を左右するであろう法廷に立つのは、私財を投じて貧しい原告たち(少しでも経済的な余裕のある人々は化学工場の隣になんか住みません)を代理して闘ってきたウェスとメアリの夫婦の法廷弁護士。彼らに対峙するのは、潤沢な資金を湯水のように使って、資本主義社会の信仰対象である神聖なる「金儲けの自由」を擁護すべく組織された、大手法律事務所のエリート弁護士たちによるドリーム・チーム。そして、判決・・・、その判決は、訴訟に関わった全ての人間にとっての本当の、そして終わりのない見えない戦いの幕開けに過ぎませんでした。
日本でも始まった裁判員制度、日本の場合は今のところ刑事事件に限定されておりますので、対立の構図は容疑者対国家という分かりやすいものですが、アメリカの司法では民事訴訟も陪審員制です。その上、裁判官は選挙で選ばれます。日本の議員選挙と同じように大がかりなキャンペーンもテレビを使った公開討論会もやりますから、当然に莫大な費用もかかります。そして、それらに金を出す人間は当然のことながら、評決に口を出すというあってはならない、そして誰もあるとは認めない「権利」を手にすることになるわけです。つまりは、一人でも多くの陪審員をこちら側に引っ張り込むことも勿論とても重要なのですが、こちら側に有利な裁判官を当選させてしまう方がうんと効率がよろしいわけで、舞台裏の乱闘で使用される武器は多種多彩、そしてえげつない。
序盤、ハラハラドキドキの判決言い渡しにぐーんと引き込まれたものの、そこから先延々と続くスーパー・リッチなセレブの生活カタログ、ウン千万ドルのマンション、ウン百万ドルの美術品、ウン十万ドルの車、ウン万ドルのドレス、ウン千ドルのディナー、ずらーっと続く目映いばかりのゼロの行進。オッパイにシリコンを入れてお腹とお尻から脂肪を吸い出して、殆どサイボーグと化したトロフィー・ワイフ(成金の男が世間にひけらかすために結婚する、男は顔でも中身でもなくて資産額の桁数よ♪という、さばけた価値基準を持った美女)の生活とご意見など、型どおりではありますが面白いっちゃ面白いです。しかし、私には何の関係もないことばっかりなので(グリシャム氏には関係ある・・・のでしょうか?)、はぁ・・・でお終いです。
後半、裁判官の選挙になってから新しく、無垢で愛すべき若き対立候補者、受けて立つ少々規格外れの、しかし凛々しい女性判事が登場し、裏で暗躍する選挙コンサルタントや、なけなしのカンパで自分たちの権益を守ろうとする法曹界の面々も加わって、テンポはうんと良くなるのですが、最後の結末が・・・。いえ、現実は決してきれい事じゃいかないというのは十分承知しております。きれい事だけの小説がどれほど退屈かも十分体験しております。それにしても・・・。
一方に、ちょっぴりワイルドで楽しくて、そして頼もしいベテラン裁判官、愛する息子が事故に遭うことで初めて、何の罪もないのに心身を傷つけられる人たちの痛みに思い至る新人裁判官、持っているもの全てを投げ出して、それでも町の人々を救おうと奔走する勇敢な弁護士たちという、それぞれ癖はあっても、お金では決して手に入らない何かを信じてる人々がいて、一方に、一桁上の数字に取り憑かれて、一生かかっても使い切れない意味のない金を手に入れるためには何でもやる企業家、公正であるべき選挙をただの愚劣な見せ物に変えることで巨額の報酬を得るコンサルタントという、資本主義の「暗黒面」に墜ちてしまった面々がいて、その周囲に、巨大な金の放つ匂いに引き寄せられておこぼれを必死に追いかける、醜く、しかし強かなハイエナたちがいて、これだけ魅力的な面々を揃えておいて、この幕切れ・・・、アリですか?
奇をてらったのか、裏の裏を狙ったのか、作者の意図がどこにあるにしろ、はっきり言わせていただければ、この程度のストーリーであるならば、ここまで書き込む必要はなかったと感じます。現代アメリカの裁判裏事情の資料として、あるいは選挙制度の欠陥を指摘する告発文としての価値は、ほんの僅かにしろあるのかも知れませんが、小説としては要らない部分が多すぎます。冒頭と結末の間にあるのは、かつてのグリシャムお得意のノンストップのジェットコースターではなくて、単調な荒野です。
前作の「奇跡のタッチダウン」を読んだ時に、何だかあれれと違和感を感じたわけですが、その通りというか、ラストに爽快なカタルシスがないリーガル・サスペンスなんて、巨匠、はっきり言って私は読みたくありません。
アメリカの司法システムに対する作者の真摯な怒りと微かな失望は確かに伝わってきます。しかし、それならばエンターテイメントではなく他の形で表現すべきでしょう。素材と調理方法が噛み合わなければ、如何に巨匠でも極上の一皿は無理ってもんです。そもそも、素材と方法を正しく組み合わせられてこその巨匠だと思います。
「富める者よ、さらに富め」というコピーの通りそのまま、それ以上でもそれ以下でもない作品です。そして、並みのサスペンス作家の作品でしたら、それなりに評価したいと思います。しかし、グリシャムを読むというあの楽しみは、残念ながら発見することができませんでした。巨匠、次回作、頼みます!
2009年11月26日 辻邦生 「安土往還記」
世界には、「分かる人」と「分からない人」が存在していると思います。初対面の印象から始まって、話が進むにつれて、あぁ、この人こういう考え方をする人なんだって、勿論複雑なところまでは分かりはしませんが、楽天的か悲観的か、照れ屋か出たがりか、強気か弱気か、その程度のことを把握するのにさして時間は要しないと思います。付き合いを重ねるにつれて、食べ物や話題の好みから笑いのツボ、そしてキレるポイントまで、色々なことが順番に分かってくるものです。反面、いつまで経っても得体の知れないという人もいます。ただ、この場合にはお付き合いの方も続けるのはなかなか難しいことになります。とことん付き合えば分かるのかも知れませんが、まぁ、人生そんなに長くないですし、私は決して辛抱強い人間ではない上に根は面倒くさがりですので、適当なところで「さようなら」がお互いのためであろうかと思います。
歴史上の人物もそうです。徳川家康、何となくですが分かります、豊臣秀吉は私にとっては家康よりも分かりやすい人物です。しかし、どうにもこうにも分からない人物がおります。織田信長、私には全く謎の人物です。その生涯において彼に起こった出来事、彼が為した事業は歴史書や小説で知っています。ドラマや映画にも頻繁に登場しますし、日本史の登場人物の人気投票をすればかなり上位にランクインする人物であろうと思います。しかし、私には全然分からない。
たくさんの歴史小説に描かれてきた彼、代表的な小説を何冊か読んで、場面場面での彼の立ち居振る舞いが生き生きと描かれていても、その時々の彼の表情や言動が細緻に描かれていても、そこから「生きた信長」を想像することができないのです。私の脳のどこかに欠陥があるのでしょうか?
この物語の語り手は、妻とその浮気相手を殺して故郷を捨てたジェノヴァ生まれの船乗り、氏名は不詳、ルイス・フロイスの「日本史」の古写本に綴じ込まれている「1582年に日本からローマへ赴いた日本使節に関する記録」の異筆写本を書いた「私」です。「私」は、南米で総督コルテスの下、指揮官として戦い、しかし、その手を血に染めた挙げ句に祖国を棄てた「私」には、安住の地など与えられるはずもなく、運命のままにイエズス会の宣教師と共に東の果ての日本にまでやってきたのです。その「私」が見た1570年から1582年の間の「大殿(シニョーレ)」、すなわち織田信長の姿。「生まれながらの天魔」、「何という妖怪が人間の形をして現れたのだろう」と散々に聞かされていた大殿ですが、「私」の目に映った大殿は、礼儀正しく、もてなし好き、率直な好奇心を隠すこともせず、未知の事物に目を輝かせる、意外に無邪気な男だったのです。
信長を描けばある程度は売れ行きが見込まれるせいでしょうか、中には相当お粗末な作品も混じっている「信長本」ですが、この一冊、抜群の出来上がりでしょう。南蛮船の船乗りを語り部に設定したことで、当時と現代との間に当然に生じる「ずれ」を吸収するフィルターが出来上がりました。ジェノヴァ生まれの船乗りと東の島国の大殿の距離感が、今の日本の私と400年以上前の日本の武将の距離感にすんなりと置き換わります。加えて、作者独特の優雅な文体、その日本語の美しさ、言葉の一つ一つに最新の注意を払って施された金箔と螺鈿の細工が感じられます。
1570年(元亀元年)、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、北の脅威を排除して西を目指す大殿と出会った「私」、短銃の腕前を見込まれて彼の軍事顧問の役割も担っていくことになった「私」が書き綴る信長とは、己の定めた掟にどこまでも忠実な、孤独な魂そのもの。現世には興味はない彼が求めて止まないもの、それはこの世の道理、そこに見えるのは、冷酷な武将でもなく、辣腕政治家でもなく、ただ己が選んだ生き方において、己が選んだ仕事において、どこまでも完璧であるために、徹底的に己を律する孤独な魂なのです。この世の全てを理で解明しようとする彼にとって、目に見えず、手で触れられないものを恐れることは愚でしかなく、完璧であるためには己の全てを捧げるべしと考える彼にとって、既存の権力は怠惰でしかない。
「私」が描く大殿の姿は、ヨーロッパの芸術分野において「オピュレンス」と呼ばれる聖なる怪物たちとどこか似ています。計り知れないスケールを持ち、人々の想像を軽く超えてみせるプロデューサーというか、究極のエゴイストであってナルシスト、自分の価値をどこまでも信じ通す強靱な魂の持ち主のこと、大殿も時代に選ばれた戦場のオピュレンスであったのかも知れません。
信長がキリスト教の宣教師たちを好み、厚遇した理由、それはおそらくイエズス会という組織の特異性にあると思います。異国での死を恐れず、その国の王に真っ向から相対する坊主たち。この時代に彼らがとんでもないところまで出掛けていったのには訳があります。この時代の世界は、西ヨーロッパ以外の世界の全く知らないところで、「教会保護権による境界線」なるもので勝手に分割されていました。ローマ教皇アレクサンドル6世の勅令は、ポルトガル、スペインの両カトリック国は、新たに発見した土地に福音を伝道しなければならないと義務付けていたのです(やれやれ)。そのフロンティアを担ったのが、第一に貞節、第二に清貧、と、ここまでは普通の修道会なのですが、第三に教皇の命ずるところ、どこへでも直ちに旅立たねばならないというイエズス会でした。修道会というより軍隊に近い鉄の規律を持つ組織、ボスの命令とあらば、生還率限りなくゼロの先駆け、置き去り決定の殿(しんがり)、何であろうが、どこであろうが、黙って死地に赴くのみ、信長はそんな彼らに共感を覚えたのでしょう。
最大の見せ場になるであろう本能寺の変をさらりと「伝聞」で締め括っております(「私」がその場にいないのですから当然ではありますが)。本能寺での最後を描けば、どうしたって大殿は我が人生を語ってしまう、それをさせなかった作者の美意識が冷たい冬の空気のように厳しくも心地良い。
私にとって依然、織田信長は「分からない人」のままです。しかし、それで良いのだという結論を与えてくれた大切な一冊です。
2009年9月11日 アダム・ファウアー 「数学的にありえない」
この本の上巻177ページにこんな場面が出てきます。ここに60人の人間がいる、そこに同じ誕生日の人間が二人以上いるか否か、どちらに賭けるか?一年は365日もあります、そして60人でしょ?私は大して考えずに(考えようにも考え方が良く分かんない・・・)いない方に賭けました。さて、答えは?
二人の人間が同じ誕生日である確率は1÷365で0.3%、つまり、誕生日が同じでない可能性は365分の364、ふん、ここまでは分かります。では、ある一人が誰とも誕生日が一致しない確率は?(364÷365)の59乗=85.1%(ん?)、つまり誰かと誕生日が同じである確率は14.9%(は?)。さて、一人と一人の誕生日が同じではないことが判明したので、次。(364÷365)の59乗×(363÷364)の58乗=72.5%・・・、これをずーっと繰り返していくと、答えは0.6%、59人中、同じ誕生日の二人がいない確率はたったの0.6%(あかん、分からん)なんだそーです。ふーん、そーですか、よかったですね(若干逆ギレ)。
物語はニューヨーク、ロシアン・マフィアの経営するポーカー賭博の店から始まります。次に配られるカードで高い札が出る確率は?電卓があっても無理という計算をあっという間にやってのけるのは、統計学を専門とする数学者のデイヴィッド・ケイン、いや、元数学者というべきか、大学を放り出された彼の生活を今のところ支えているのはこの賭けポーカー、現在はギャンブラーなのですから。勝てる、大丈夫、ビットにビットを重ねて勝負は大きく膨れ上がり、バクバクいう心臓とドクドク波打つこめかみ、負けたら今度こそ身の破滅、いや、負けない、勝てる、数学的には勝てるんだ・・・。この手の勝負の結末は、「何で!何でこうなるんだ!」で終わると決まっておりまして・・・。
かつて、アインシュタインは「神はさいころ遊びをしない」と言いました。しかし、後年、スティーブン・ホーキングは「神はさいころを振るだけじゃない、目隠しして走る」と反論しました。かつて雲の上でまったりと過ごしていた神は、過激に変身したのでしょうか?
かくして、借金を返さないことには東京湾ならぬハドソン川に沈められてしまうこととなったケインは、かなり怪しげな新薬の実験台を引き受けるハメになったのです。ケインの脳にはある問題がありました。何の前触れもなく猛烈な悪臭を感じて意識が遠のいてしまう、診断はTLE(側頭葉系癇癪)、そして、彼が投与されるのは画期的なTLEの新薬とのことなのですが・・・。ケインの双子の兄で統合失調症で入退院を繰り返しているジャスパー、愛人の研究者の気を惹きたい一心で自分の脳を実験用に提供している女子学生、この何の関係も接点もない二人に、時を同じくして語呂合わせをせずにはいられないという奇妙な癖が現れます。
ここまでで十分お腹いっぱいなのですが、更に、外国の諜報機関に情報を切り売りしているという物騒な女、ナヴァが登場、CIAの「殺しのライセンス」を持つ凄腕の暗殺者ナヴァを追っているのは北朝鮮のスパイ組織。そして、ある日突然頭に浮かんだ数字がロトに大当たりしてしまったのはケインの幼馴染み。ここまででもうこれ以上食べられない・・・なのですが、更に、怪しげな新薬開発をじーっと監視しているハッカー、その後ろには国家安全保障局、そしてお馴染みのCIAとFBI、ダメだ、訳分からん、つーか、こんだけ出しておいてどうやってオチつけるの?筋書きどうなるの?と少々心配になる出だしです。
理科的ミステリーというか、ハードアクションSFというか、分類に困る作品です。量子力学や相対性理論が登場しますが、内容は平易ですから文化系でも大丈夫。「二重スリット」や「シュレディンガーの猫」といったお馴染みの理論も比較的簡単な記述で登場します。ただ後半、理科音痴の私でもこれってこれでいーのか?という少々おかしな部分が出てきますが、まぁ、気にしなければそれで大丈夫です。
さいころを振る、イカサマなしで確実に6を出すにはどうすれば良いか?6回振れば良いのです。一回しか振れない?そう、普通は一回しか振れない。しかし、ケインは恐るべき能力を持ってしまうのです、たった一回しか起こらない出来事を一瞬の間に何度でもシミュレーションできるという能力です、確率的にそれが現れるまで何度でも、何度でも・・・。咄嗟に放り投げたトランクが車に仕掛けられた爆弾の爆発によってビルの非常梯子に命中する、何気なくばらまいたポテトチップスに群がった鳩がローターに巻き込まれてヘリコプターを止める・・・、ケインは予知能力者というかタイムトラベラーというか、そんな存在になってしまったのです。ギャンブラーにとって夢の能力、しかし、現実はそうはいきません。そんな人間を放置しておいてくれるようなお人好しの政府は(おそらくは日本を唯一の例外として)どこにもない。ケインの絶望的な逃避行が始まります。
そして、デタラメに登場したはずの人物たちがピタリピタリとはまっていきます。仲間外れだったクラスメートに声をかけた過去が爆発現場である人物の命を救う結果となり、重傷を負った女の前に同じO型RHマイナスの血液を持つ男がいるのは誰かがポーカーで負けた結果であり、「ありえない」偶然が「あるべき」必然へと変わっていく様、この当たりの小気味よさは映画「トランスフォーマー」の、あの「カシャン、カシャン、ガキン、ズバーン」に似ています。
「ラプラスの魔」という概念があります。「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。」、未来に起こることを全て知り得る存在、人はそんな存在を「神」と呼んできたわけですが、巨大スパコンに全ての情報をぶっ込めば、ひょっとしたら近い将来、「神」が出来上がるのかも知れません。しかし、1秒後のことを知るのに1秒以上演算していては未来が過去になってしまい、過去のことは誰でも知っているわけで、「ラプラスの魔」が実現する時が果たして本当に来るのか?そんな世界に登場したケイン、彼はまさに生ける「ラプラスの魔」となってしまったわけです。
テンポ良く読める反面、今ひとつ物語に入りきれない部分があります。SFとしてもミステリーとしても、どこか中途半端なんですよね。後半は息もつかせぬアクションと暴力の連続、それを一人で仕切るのは姐御と呼ぶのがぴったりのナヴァ、こうなると、双子のケインとジャスパーははっきり言ってどーでもよくなり、しかし、それでは物語が進まないので、この双子がやたらと色々な人に量子論やらをふっかける展開、国家相手に逃げ回る間に何とも勉強熱心なのですが、読む方は些か苛つきます。
著者は、幼い頃にかかった病気が元で視力を失い、それを回復させるために入退院を繰り返すという子供時代を送り(幸い、視力は回復したそうです)、その後、大学で統計学を、更にMBAを取得したという経歴の持ち主、新薬試験の描写などにその経験は生かされておりますが、この第一作、作家としてはまだまだという印象です。例えばスティーブン・キングとかマイケル・クライトンとか、「ありえない」話を書く作家は沢山います。そんな分野に数学という新しい切り口で迫るアイデアと力量は買います。しかし、「ありえない」部分を除いてみればありきたりの必死の逃亡者モノ、肝心のストーリーに新しさがない、数学というフレーバーに飽きてしまえば二度目はない、という作品であることも事実です。図書館で借りて読むのが正解かと。
2009年7月14日 ジョン・ハート 「キングの死」
「川は静かに流れ」のジョン・ハート、こちらがデビュー作です。「スコット・トゥローの再来」と喧伝された作品ですが、なるほど、プロットは似ています。トゥローの「推定無罪」では検事の主人公が愛人殺害の容疑者となり、本作では弁護士の主人公が父親殺害の容疑者となります。しかし、似ているのはここまで、ストーリーが違うのは当然ですが、人物もまるで違います。一言で言えば、本作の主人公ワークは、ゆるいというかぬるいというか、はっきり言って「ヘタレ」です。このヘタレ男に感情移入できるかできないか、これが本作を楽しめるか楽しめないかのポイントであろうと思います。
アメリカ合衆国南部、未だに保守的な風土のノース・カロライナ州ソールズベリー、主人公は、この町でパッとしない刑事弁護士を営むジャクソン・ワークマン・ピケンズ、通称ワーク。彼の父親は、この町の司法界のドンである辣腕弁護士エズラ・ピケンズ、18ヶ月前から失踪中であったその父が、町外れの今は廃墟と化したショッピングモールの駐車場で頭を撃ち抜かれた射殺死体となって発見されます。警察から知らせを受けたワークは動揺します。父が殺されたからではありません。殺されて当たり前の男を誰が殺したが、その犯人を「知っている」からです。莫大な富と権力を振るって周囲を、そして家族をひたすら傷つけてきた父、その父の失踪時のいきさつからすれば犯人は決まっている、妹のジーンだ。長年の父親からのモラル・ハラスメントによって精神の安定を欠いている妹、彼女を刑務所に入れるわけにはいかない、そんなことになったら妹は死んでしまう。警察の疑惑を何とか妹から逸らさないと、そのためには自分が疑われても・・・、警察より先に何とか証拠を見つけて揉み消そうとワークが懸命に足掻く中、父の遺言書の内容が明らかになります。莫大な財産の相続人指名によって事態は逆転、ワークは本当に「第一容疑者」になってしまうのです。
事件の捜査が進むに従って明らかになるピケンズ家の真の姿、貧しさから独力で這い上がり、町一番の弁護士にのし上がったエズラ、金と名誉に異常なほど執着し、親代々の財産と顧客を受け継いだ同業者を徹底的に憎み、自分が這い出してきた貧困を徹底的に嫌い、他者への思い遣りの欠片すらない男、彼は家庭では更にひどい暴君なのです。そして、父とは違って裕福な環境に産まれたワークは、その父ゆえの境遇によってその父に蔑まれ、支配されてきた男、父から見れば甘っちょろい出来損ないではありますが、だからこそ、父にはない思い遣りを持っています。その思い遣りをただ一つの武器としてワークは妹を守ろうと闘います。
大物弁護士の殺人事件、捜査する警察も検察も神経をピリピリさせています。友人だと思っていた検事に見捨てられ、彼より遙かに切れ者の女性刑事に追い詰められながら、ワークは一人調査を進めていきます。妹から、そして自分から疑いを拭うための小さな情報が欲しい、たった一つでいいんだ、そんなワークが発見した真犯人は・・・。
縦糸のストーリーは、主人公が軟弱で優柔不断、時に軽率であるために、少々苛ついてしまいます(なんでこんな時に女んとこにしけ込むかなぁ、とか、肝心なところでガツンと行かないからなめられんだよ、とか)。しかし、横糸の人物描写が実に緻密でリアルです。特に女性の描き方は既に名人級でしょう。父の支配から必死に逃げ出して自分の殻に籠もってしまった妹、その妹を「夫」として守ろうとするレズビアンの恋人、出世と恋を両天秤にかけて危うい綱渡りに敢えて挑む刑事、大物弁護士の跡取り息子と金を目当てに結婚し、覇気のない夫に愛想を尽かしたところに降って湧いた舅の遺産、己の欲望に忠実な妻、ワークが少年の日に負った未だ癒えない傷を知っており、彼以上に深い傷を負いながら前を向いて懸命に生きている昔のガールフレンド、そして、全ての人物たちの背後にひっそりと立っている母の亡霊、ワークのヘタレぶりに対して女性たちの個性が際立ちます。裏返してみれば、これは一人の男が踏み付けにしてきた女たちの物語であって、ワークはただの狂言回し、一人称で書かれている作品ですのでワークが犯人ではないことは冒頭で明らかになっていますから、読む側にしてもワークは早々に主人公から語り手に降格させてしまって問題なし、この辺が好き嫌いの分かれそうな点だろうと思います。
ラストで明らかにされる犯人、緻密に張り巡らされた伏線のお陰で、おっと、そう来たか、やられたという見事なオチ。そして、読後のほろ苦く、しかし仄かな心地良さ、それは復讐が正しく為されたという一点にあります。文庫本の表紙の絵、階段の上に立つ「キング」、その無表情な視線の先には力なく横たわる細い女の腕、全てはここから始まり、長い年月を経て、全てはそれぞれの終着点に到達した、物語としてのバランスが非常に良いです。
デビュー作である本作、第二作の「川は静かに流れ」、ハートの作品はどちらも家族、特に父と子をテーマに据えています。夫婦は別れれば他人ですが、親子は別れられない、戸籍を抹消しようが、命を抹消しようが、血の絆は消えません。だからこそ、めそめそ、いじいじのヘタレなワークが、ゆっくりと、しかし確実に父から離れていくラストの救済がうれしい。ワークがそのために払った代償は全く理不尽としか言いようがないのですが、理不尽だからこそ、その解放には説得力があります。
我々は理不尽な世界に生きている、そして、そこからは誰一人逃げられない、たとえ「キング」であっても・・・。
作者は元弁護士、このデビュー作は図書館に通ってコツコツと書き進めたそうです。2作を読んだところですが、プロットの巧みさといい、人物描写の確かさといい、ストイックな文体といい、しばらくは目が離せない作家です。
2009年5月30日 文化出版局 「BUTTONS ボタンの本」
最初にお断りしておきます、いいえ、声を大にして宣言いたします。私とボタンとは長年の敵対関係にあります。今後とも、ボタンがその心根を入れ替えない限り、その関係に改善は期待できないでしょう。
だって、だってさ、世の中こんだけ進んでさ、電話なんて壁に掛かっているののハンドルをぐるぐる回して、「交換台、東京の○○○番お願いします」ってやってたのに、今では薄っぺらい金属製のカードになって、それもよ、そこいら中にそのカード持った人間がいるっていうのに、どういう仕組みかよく知らない(訂正、全然知らない)けど、なぜか電波の方から、「オレの行き先あん人!」って見つけて飛んでくるんよ、1メートル離れたところにいる人んとこには絶対に行かないんよ、すごいっしょ、これって。
その昔は、聴きたい音楽はレコード買うしかなかった。あのカシャカシャした袋に入ったの、傷つくとどうしようもないから、それはもう丁寧に扱ったもんです。時々シュッシュッってスプレーかけて何かビロードみたいな布を貼った道具で磨きました。当然ですが、家でなきゃ聴けませんでした。それがカセットテープになって、ソニーのウォークマンが出て、あの真っ黒のレコード盤とは打って変わって銀色に輝くコンパクト・ディスクが登場して、それに合わせてディスクマンが出て、今ではCD何十枚分もの音楽をPCから携帯機器に落としてポケットに入れて持ち歩く・・・、これまたすごいことです。
それに比べてボタンときたら・・・、私は言いたい、21世紀になったというのに、どうして人類は「とれないボタン」を実現することができないのかと。特に既製のシャツについているボタン、あっ、これってとれそう?と思ってピロって出ている糸を引っ張ると、ちゃらららららーん、ちゃらららららーらら(「オリーブの首飾り」のつもり)と場末のチンケなマジックショーみたいに、あらっ、不思議、つーって全部ほどけてしまいます。そして、落ちたボタンはそこいら辺を転がって行き、それを拾って付け直さなければそのシャツは無価値と化すわけです。しかし、私は裁縫が嫌いです、大っ嫌いです。もう、落ちたボタンを前にして、これを縫いつけなくてはならないのなら、いっそこのシャツを捨ててしまおうかと真剣に考えてしまうくらいに嫌いです(よって、最近はもっぱらボタンなしのTシャツのお世話になっております)。
これは絶対にボタンメーカーと既製服メーカーの陰謀です。前立てのボタン、一つなくして似たようなのが手元にも店にもなければ、全部を付け替えなければなりません。既製服メーカーはわざと落ちやすいように、ちゃらららららーん方式の付け方をすることで、ボタンメーカーから何かイイものを貰っているに決まっています。そして、お店のボタン、これが結構高いんです。6個付け直しとなったら・・・、下手すると新しい服が買えてしまうくらいです。
その宿敵ボタンについて書かれたこの本をたまたま図書館で発見、敵を知り己を知れば・・・云々と大昔の偉い人も言っておられることですし、ま、ついでですので、シラーの「たくらみと恋」(ヴェルディの「ルイザ・ミラー」の原作)と一緒に借りてきたわけです。
ページをめくりながらつくづく感心したのは、はぁー、世界にはこんなに色々なボタンがあるのだということ。そのデザインは、円形、四角、球形、花、動物、月に星、その素材はあらゆる種類の貝、金属(アルミ、真鍮から金まで)、ポリエステル、アクリル、木、木の実、ガラス、陶器、革、天然石(水晶や琥珀なんて高級品もあります)、象牙に角、骨(そういえば、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」では、博打打ちのウルフシャイムが人間の歯でできたカフスリンクをしていました)、その形状は、二つ穴、四つ穴(糸の止め方は、=、×、□、⊿と様々)、足つき、ボタンの世界は意外に広く深かったのです。
服の前面に整列するボタン、西欧の貴族たちは(イスラム由来なのに)競って金銀は勿論、宝石などで作った豪華なボタンをこれ見よがしに付け、そして下々がそれを真似ました。ヴォルフ・フェラーリのオペラ「スライ」にも、「このボタン1個で借金が全部返せそうだけど」という台詞が登場します。21世紀にあっても電気や自動車を使う生活を拒否しているアーミッシュ、彼らはボタンを贅沢な装飾品と考えています。彼らの服にボタンはついておらず、フックや黒い紐を使うそうです。古来、衣類の合わせ目は紐で結んできた日本でも、やはり西欧から伝わったボタンは、最初の頃は実用品ではなく珍しい装飾品扱いだったようです。まぁ、日本の場合には、帯というボタンどころじゃない豪華な「合わせ目」文化があるわけですが。
様々な種類のボタンの写真がきれいです。ヴィンテージ・ボタンのコレクターという人がいるのだとこの本で初めて知りましたが、その気持ち、分かります。本来の「合わせ目」の用途以外にも、アクセサリーや小物にも使われていて、なるほど楽しそうです。待てよ、そうなると、一つだけ落ちた場合、一つだけ全然違うボタンを付けるというの、案外おしゃれなんじゃなかろうか?いっそ、全部違うボタンというのもアリなのではなかろうか?例えば、白い綿のシャツの何の変哲もない白い四つ穴の貝ボタン、あれ、全部違う色の糸で全部違う形でつけるなんて、うん、これって楽しい!男性の場合、ネクタイがあってシャツのボタンが見えないけれど、最近はノータイでOKというところも増えているし、これからはクールビスの季節だし、ワイシャツのボタンとその止め方をちょっと工夫してみるというの、これ、イケるんじゃ?
いかん、すっかりボタンに丸め込まれてしまった・・・。確かにボタンは美しいし楽しい、しかし、私はやっぱり簡単に落っこちるボタンが許せません。誰か何とかして下さい(泣)。
2009年4月13日 ジョン・ハート 「川は静かに流れ」
「その川は、思い出せるかぎりもっとも古い記憶だ」「川はいまも僕の目にしっかりと焼きついている」 「僕という人間を形作った出来事は、すべてその川の近くで起こった。川が見える場所で母を失い、川のほとりで恋に落ちた。父に家から追い出された日の、川のにおいすら覚えている」
主人公アダム・チェイスが、36時間一睡もせずにニューヨークから車を飛ばして帰ってきたのは、5年前に追われるようにして出てきた故郷、そして、都会での生活の中で、捨てようとしてきた、忘れようとしてきた故郷、ノース・カロライナ州、ヤドキン川の畔の小さな町ソールズベリ。その地で先祖代々広大な農園を経営してきたチェイス家を襲った突然の出来事、それは殺人事件でした。
5年前、チェイス家の双子の誕生日を祝うパーティーの夜、ハイスクールの花形フットボール選手、町の人気者である19歳の若者グレイ・ウィルソンの死体がチェイス家の農園で発見されます、何者かに頭蓋骨が陥没するほど強く殴られた他殺体として。そして、アダムの継母が証言します、午前三時、血塗れのアダムが川から上ってきたのを私ははっきりと見たと。4日にわたる陪審協議の結果は、動機が見当たらない上に証拠も不十分としてアダムに無罪の評決を下します。しかし、アダムは、何よりも大切にしてきた農場を、家族を、友人を失います。裁判で無罪になろうと真犯人が見つからない限りは、アダムへ注がれる人々の疑いと恐怖の視線は変わりません。何よりもアダムは父への信頼を失います。父は僕よりも継母を信じた、そして、僕に出て行くように命じた、農場と家族が僕の人生の一部でなくなったのなら、こんなところにいて何になる?その日から5年間、くすんだ灰色の高層ビルの間に自分を埋葬しようとするかのような空虚な日々、しかし、旧友からの一本の電話がアダムを川の畔に呼び戻しました。
5年前の事件は未だに解決しておらず、父は息子に会いたがっているとはいうものの、その傍らには自分を犯人だと証言し、決して自分を見ようとはしない継母が存在し、年老いた父から農場の経営を引き継いだ双子の弟は突然の義兄の帰郷を快くは思わず、双子の妹は未だに義兄を恐れて自傷行為を繰り返している、家族にとって5年という年月は傷口を癒すには足りず、いや、この傷が癒える時は来るのか?早くも帰郷を後悔しているアダム、そんな中、兄妹同然に育った幼馴染みの少女が暴行を受ける事件が発生、アダムはまたもや第一容疑者に。
2008年のアメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞を受賞した作品です。力強い文体が心地よいです。そして、過去と現在を行き来しつつ幾つも張り巡らされた伏線の扱いの巧みさ、特に、一人称小説にとっての大トロ、そして最大の難関でもある事実の捌き方、主人公が知っていてこちらには語っていないことと、主人公が知らなくてこちらには明かされていること、この二つの扱い方が絶妙です。
特に前半、次々と登場する個性的かつ怪しげな人物たちと主人公の関わり合いを周到に重ねていくタッチが秀逸、他の作品でしたら、あぁ、ややっこしいんだよ、本筋に関係ない人ジャンジャン出すの止めてくれる?となりそうな構図なのですが、この作品では現在進行中の暴行事件と5年前の未解決の殺人事件が、不可分に絡み合いながらも煩わしさがない。力強く男臭い文体もそうですが、アダムと父という背骨がしっかりと通っているので、物語の軸がぶれることがないのです。
反面、後半になって謎解きが加速するに連れて少々雑というか書き急いでいる印象が出てきてしまいます。特に真犯人が分かってからの展開は、ここまで勝手にやってしまって法律的にどうなのよ?というアメリカの小説(や映画)には良くありますが、日本人には説得力の乏しい展開(普通は警察に電話するだろ?という場面で、何か武器になりそうなものを握り締めてたった一人で奥の部屋に入っちゃう主人公というあのお馴染みの展開です)になってしまいます。ちょっと残念です。
優れたミステリーであると同時にそれ以上に優れた家族の物語でもあります。お互いに相手を信頼したいと痛くなるほど願っていながら、いざ向き合うと傷つけ合ってしまう父と息子、自分の秘密に怯えながら相手の秘密は暴かずには先に進めないジレンマ、何万マイル離れて暮らしたところで血の絆は切れはしない、そのことの心強さとおぞましさ。物語の最後、アダムの家族は無惨に崩れ落ちようとしています。その終わりの光景から目を逸らさない父と息子、哀しいほどに良く似た親子です。
物語の伴奏として、原子力発電所の誘致計画に揺れる町の様子が描かれます。昨日まで何の価値もなかった土地に突然何百万ドルもの値が付く、さっさと売って金持ちになりたい人、金持ちになるための人生で最初で最後のチャンスとばかりに借金してまで土地を買い漁る人、そして、この先祖の土地を誰にも渡すまいとする人、血が、愛が、憎悪が人を狂わせるように、お金だって人を狂わせる、見回して見れば人を狂わせるようなものばかりの世界、ここで正気で生きていけと?狂った方が自然だろう、そんな声が聞こえてきます。
しかし、それを打ち消すのは川の流れる音です。川は変わらない、その流れは一瞬たりとも同じではないのですが、川はそれでも変わらない。流れ続け、うねり続け、絶えずその中身を入れ替えつつ、しかし、岸辺からのその姿は記憶の中のあの時と同じなのです。アダムの心の原風景であるヤドキン川から吹いてくる冷たい風が感じられます。
ラスト、故郷から遠く離れたニューヨーク、灰色のハドソン川を見つめるアダム、「僕が愛する川とは別物だ。色もちがう。岸辺の風景もちがう。しかし、水は流れている。万物を疲弊させながら、みずからは何度も再生し、同じ広大な海に注ぎこんでいく」、川の定義としてこれ以上美しい文章はないと思います。
読後に川を見に行きたくなります。一度は一人で、そして、もう一度、誰かと手を繋いで。
2009年3月7日 ロバート・チャールズ・ウィルソン 「時間封鎖」
最初にお断りしておきますが、私は滅多にSF小説は読みません(SF映画は結構マメに見ます)。なぜって、物語の背骨を構成するいろいろな理論がさっぱり理解できないからです。正直言いますと、相対性理論だって「何かうーんと早く走ると時間が遅くなるの?」ってことしか分かりません。物質の速度は光速を超えられないらしいとは知っていますが、なんで光速を超えたらいけんのか?となるとまるっきり分かりません。これって、ミステリーで言えば、物語の大詰め、名探偵登場、一堂に会した関係者を前にして、「犯人は貴方です!」「何を証拠に?バカバカしい!」「貴方は、事件の発生した時間には仮装パーティーに出席していたと言いましたね?」「そうです」「しかし、それは貴方ではない!」「何だって?」「なぜなら、パーティーで目撃された人物はキャビアを口にしていた、そう、貴方ならアレルギーがあるから決して口にしないはずのキャビアをです!」という展開で、アリバイという概念が理解できずに何でパーティーに出ていたことにせんといけんの?と言っているのと同じです、情けない・・・。
では、なぜこの文庫本上下2冊のSF大作を手にしたのかと言えば、裏表紙の文章があまりにも魅力的だったからです。「ある夜、空から星々が消え、月も消えた。翌朝、太陽は昇ったが、それは偽物だった」・・・、なんで消えたの?消えたらどうなるの?見事に引っ掛かりました。
現代からそう遠くない未来のアメリカ、経済界の大物E・D・ローレン、自分の優位性を微塵にも疑わない傲慢な経営者、そして、家族に絶対服従を求める厳しい独裁者。そんな夫の大きすぎる影に隠れて、医師としてのキャリアを放り出し、ひたすら酒瓶に逃避する妻キャロル、そんな両親を持つ双子の姉弟、弟のジェイスンは幼い頃から父の後継者として英才教育を受けた数学の天才、姉のダイアンは壊れかけた家庭の中で必死にその優しさを守ってきた繊細な少女、そして、一家の家政婦としてお屋敷の片隅の家に住む未亡人とその一人息子タイラー。圧倒的な力と富に守られてきた双子と、貧しい母子家庭で慎ましく育ったタイラー、お屋敷の敷地内では、お坊ちゃま、お嬢ちゃまと使用人の息子の間に頑として存在する差別も、いったん外に遊びに出てしまえば、3人にとっては何の意味もありません。幼い時から、タイラーはジェイスンの才能とダイアンの優しさを素直に賞賛し、双子はそんなタイラーを誰よりも信頼してきました。
そんな3人の13歳の秋、ハロウィンも間近な十月の心地よい夜、夜空を眺めていた3人の目の前から突然、月が、全ての星が消え去ったのです。いったい天空で何が起こったのか?明日の朝、太陽は昇るのか?不安な一夜が明けて、いつもの朝と同じように太陽が昇ります。しかし、それは本物の太陽ではなかった・・・。
地球から他の天体が見えなくなった時に地球の周回軌道上にいた宇宙船が帰還します。乗組員は証言します、地球が一瞬にして暗黒の界面に包まれた、我々は暗黒と恐怖の中で1週間を過ごした後、地球があるはずの空間に向かって突入した、せめて地球のなれの果ての上で死にたかったからだと。しかし、地球上では、彼らの帰還は星々が消えた直後の出来事だったのです。一週間ずれている、なぜ・・・?やがて、明らかになる事実、南極と北極の遙か上空に突然現れた何らかの物質によって、地球はすっぽりと膜(人々はこれを「スピン」と名付けました)に覆われてしまったのです。そして、膜の中の地球と外の宇宙との間で時間の流れる速度に差異が生じてしまいました。地球で1年が経過する間に、宇宙では1億年の時が過ぎていく・・・。とてつもない技術力を持った知的存在(人々は彼らを「仮定体」と名付けました)によって、地球は宇宙の時間の流れから取り残されてしまったのです。
まもなく人々はある事実に愕然とします。偽物の太陽の向こう、スピンの向こうにある本物の太陽は、今から数十億年後に赤色巨星となって燃え尽きるのだという事実、地球が太陽に飲み込まれるまでの時間は、スピンに覆われた地球ではあと数十年後ということになります。地球の最後がもうすぐやってくる・・・。
人工衛星が全滅する中で、生き残った通信システムビジネスを利用して政治的権力を手にするE・D、ジェイスンは持てる才能のありったけをもってスピンの正体に迫り、ダイアンは終末を前にして心の安らぎを得ようと宗教組織に身を投じ、そして、タイラーは医師になります。地球の終わりに立ち会うことを運命づけられた彼らの、それぞれの選択と苦悩、そして、それぞれの孤独。
やがて、E・Dの財力・政治力とジェイソンの頭脳の共同作業の結果として打ち出された人類生き残りの方法、それは火星のテラフォーミング。いくつかのロケットに原始の地球にあった物質を乗せて火星に打ち込む、巨大化した太陽は火星の温度を地球と同じレベルにまで暖めていくだろう、そして、地球に起こったのと同じことが火星にも起こる。酸素ができて、水ができて、生命が生まれる、バクテリアが大地を育み、裸子植物が被子植物に進化した火星、そこに持てるだけのデータと装備を持った人間を送り込むのです。彼らは火星で生き延びて子孫を増やし、やがて地球を救う方法を発見することができる高度な知的生命に進化するはず。数十億年の時間があればそれは十分に起こり得る、ジェイソンを中心としたチームは、スピンに閉じ込められたことで生じた時間の差を逆に利用する巨大プロジェクトを立ち上げるのです。
地球が何かに覆われて時間の流れが他より極端に遅くなる、いったい何が何のために?まずどーんと打ち上げられた「スピン」という特大の「フィクション」に圧倒されます。しかし、物語の展開は至って地味、訳の分からない何たら理論も、ピカピカの最新兵器も、宇宙人も登場しません。物語の中心は、スピンによって否応なしに地球の滅亡というトンデモなサイズの終末と向き合って生きるしかなくなった3人の若者にあります。おそらく自分の命がまだあるうちに地球の命が終わる、みんな一斉に死んでしまうんだから、案外心強いものなのかも知れないなぁと思います。どうせ一度は死ぬわけですし、今まで死ななかった人というのだけは一人もいませんし、最後になって物凄い光景を見られるかも知れず、ただ残念なのはそれを自慢する人がいないし、自慢する自分もいなくなること。
残り時間数十年を突きつけられても、人々はそれなりに生きていきます。犯罪と自殺がいくらか増えはしますが、商店にはちゃんと商品が並び、ということは、生産に関係する人も、輸送に関係する人も、ちゃんと仕事をしているわけです。地球の滅亡なんてあまりに大きくて、並みの人間の頭には収まらないのかも知れません。しかし、ただ一人、天才的頭脳と底なしの好奇心を持っているジェイソンは、スピンに挑み続けます。死ぬのが怖いからじゃない、分からないことを分からないままにして死んでいくのが我慢できないからです。そんな彼に医師として付きそうタイラー、ジェイソンとは違う方向での「救済」を求めるダイアン、3人は時に抱き合い、時に罵り合い、ある時は一緒に、ある時は遠く離れて、宇宙での時間とは別のそれぞれの人生の時間を生きていきます。
スピン直後からの3人の思い出と「西暦4×10の9乗年」の現在、二つの時間軸が平行し、徐々に謎が明らかになっていくという展開が、長丁場を全く退屈させず引き締めています。ジェイソンが語る理科系の解説と、ダイアンが語るキリスト教的終末観の解説もよくこなれています。理科音痴で仏教徒の私でもちゃんと理解できます。
加えて、脇役や小さなエピソード(オールド・ジャズの熱心な愛好家であるモーテルのオヤジが良いです)も丁寧に書き込まれています。SFといっても登場人物たちの日常は現在と変わりはなく、まぁ、地球が消えるって言われたって、喉は乾くし、腹は減るし、向こう脛をぶつければ痛いし、イヤなヤツはやっぱりイヤだろうしなぁ、という当たり前の感覚が、このとんでもない設定にあってかえってリアルです。先のことが分からないのは人類発祥以来ずーっと同じこと、不安でない未来なんてあった試しはないのです。だから、希望があればそれを掲げて、思い出があればそれを抱いて、愛があればそれを支えに、痛みがあればそれをバネに、何もなければその空虚を見据えて、前に進むしかないっしょ。それ以外の生き方なんてないんだから。
ラストで明らかになるスピンの正体、ネタバレしないようにぼかして書きますが、時間差を操ることによって守られるものもあるし、失われるものもある、それはある意志を持った存在にとって、分かっていてなお為さなければならない「意味」を持った行為であるのか、ないのか・・・むにゃむにゃ。
少々あっさりし過ぎのエンディングだと思ったら、この作品、三部作の第一部なのだそうで、先は長いんですね。この先、難しくなるのかなぁ、ついていけるのか、私?
2009年2月9日 柳家小三治 「もひとつ ま・く・ら」
こちらも買ってしまいました。「ま・く・ら」の続編・・・じゃないですね。何しろ「まくら」ですから、続けたくても続けようがない、どこから始めてもよし、どこで終わってもよし、捉えどころも掴みどころもない、さらりと流れていって跡一つ残さない、跡は残らないけれど、何か不思議なものが残る、そんな一流の与太話です。しかし、与太話と言ってしまいましたが、その内容は、人情ものは短編小説の域に、こだわりものは研究レポートの域に達しており、果たしてこれを落語の「まくら」と言ってしまっていいのやら、でも、「まくら」じゃないなら何なのか?ひょっとして新しい話芸の誕生に立ち会ってしまったのか、私?
「熊の胆」、秋田県角館の名物(?)で消化器系に良く効く漢方薬のお話です。熊の胆嚢を干したもの、私は口にしたことがありませんが、大変苦いんだそうで、その辺も何か効きそうですよね。しかし、熊はそうそうおりませんから(最近は軽井沢辺りに「野良熊」が出現しているらしいですが、それにしたって滅多に獲れるものではありません)、当然にとても高価、となると、いろいろと利権やら裏話やらマフィアやらが絡んできて、当然に偽物も出てくる、というお話。私は漢方の方には全然興味ないのですが、何だか無性に春、桜の頃に角館に行ってみたくなります。
「笑子の墓」、沼津のボーリング場で出会った若い芸者さんと氏の一期一会とその後日談。何なんでしょ、この胸の奥の方がきゅーって酸っぱくなるような感覚は。氏の高座の録音からそのまま起こした文章ですので、何だか雑駁というか、がさがさしているというか、決して読みやすい文章ではないんです。でも、これ以上にこのお話をしっとりと悲しく、じんわりと切なく表現することは不可能だと思えるのです。そりゃ氏の実体験だから当たり前・・・なんてことじゃない、それは文章表現の善し悪しや、筋立ての巧さや、そんなこんなのうーんと向こうの方にある誠実さというか、繊細さというか、もうどんな名文家だって、この笑子さんの物語に氏以上の表現を与えることはできないでしょう。何でもない出会いが涙ポロポロに至るまでの道筋、人の命の儚さと温もりがじんわりと染み通ってきて、こちらまでいつの間にか目が潤んできます。
へぇーと思いつつ読んだのは、「わたしの音楽教育」の呼吸の下りです。肺が正常な呼吸作用を行うには、吸い込んだ空気に90%の湿度が必要なんだそうです。100%ではそれは水ですから溺れてしまう、80%では正常な呼吸作用はできず、窒息してしまう、その絶妙な湿度調整を担当しているのが喉、口から入った空気は肺に到達するまでに、この喉を通過することで湿度90%に調整されるのだそうです。つまりは人間、喉を乾かしちゃロクなことないというお話ですね。氏の職業は噺家さんですから喉は大事な商売道具、こだわりは当然です。そういえば、以前に読んだ雑誌の記事なんですが、来日したホセ・カレーラス氏のインタビューにまつわる話として、カレーラス氏の滞在しているホテルの部屋は、ものの数分でインタビュアーは汗だくという温度設定、全部の窓ガラスがずぶ濡れに結露しているというシロモノ、その部屋で喉元にアスコットタイを巻いたカレーラス氏は、ゆっくりと温かい飲み物を飲んでいたとか。どんな罰ゲーム?という感じですが、いずれにせよ、プロというのは腹括らないとやってられないもののようです。
一番笑えるのは「パソコンはバカだ!!」、びっくりマークが二つです、師匠、相当に怒っておられます。「これね、すごいんですよ。いくらでも撮れるんですよ、ほらほら、撮った、ほらほら、これ」と、撮ったばかりの写真が次々と表れるデジカメの小窓に魅せられてしまった氏、しつこく調べてから買うタチだとかで、デジカメ本数冊を読破後、いざ、電器屋へ。定価9万8千円の高級デジカメをお買い上げ、しかし、当然のことながら話はそこで終わりません。「付属品はどうしますか?」、この店員の一声が地獄の釜の蓋を開けてしまったのです。従来のカメラのフィルムに当たる記憶媒体でしょ、これ、当然に画質が上がればバイト数も上がる、つーか、上げなきゃ枚数が撮れない、これの一番良いのが6万5千円。高級機種はそれなりに電池を消耗する、そこで、予備の電池と充電セット、何やかんやで合計十数万円の出費。しかし、悲劇はここで終わりません。メモリカードはすぐに一杯になる、消してまた撮れば良いのですが、そうなると何か全部消すのが惜しく見えてくる。そして、とうとうパソコンが登場します。パソコンさえあれば写真何百枚だって貯め込んでおくことができる・・・はずでした。しかし、直に取り込むと時間がかかるからといってカードリーダーでしょ、PC本体がポシャっちゃ大変だからバックアップの外付けハードディスクでしょ、氏の周辺はにわかにややっこしいこととなります。そして、最近のPCには冊子の形態のマニュアルが付いていません。マニュアルは全部ネットの上にある、エイチティーティーピーとかスラッシュとかドットとかの遙か先にある、そして、そこに行くためのマニュアル、マニュアルを見るためのマニュアルはなぜかどこにもないのです。
「クリックってやるんです。そうすと今度は別のとこからバッと出てきて、このうち、あなたはどれがいいかとかね。そういうことはみんなおまえがやれってんだよっ!それで、なんかちょっと手順が間違えるってえとね、『あなたは間違えました』って出てくるんですよ」。
クスクスと笑いながら読み進めますが、同じような体験はみんな持っているはずです。私だって何度PCに向かって、てめぇ、ふざけてんじゃねーよ!機械のくせしてなめてんのかぁ!と怒鳴ったことか。
昔、ホンダのF1チームの方から、機械というのは壊れるもの、だから壊れたからといって、なぜ壊れた?とか、どうして今?とか考えても何にもならない、黙って直すだけというお話を聞いたことがあるのですが、私は死ぬまでそんな境地には到達できっこないと、とっくに諦めております。
この手の話なら誰でも一つや二つ持っている、誰でも話せるんですよ。ところが、私が話したって誰も笑ってはくれません。誰でも話せることをさらっと話して笑わせる、どこがどうおかしいのか、何度読み返してもその仕掛けが分からない、これが職人技ですね。加えて、どの話も一人称(当たり前ですが)で語られていながら、語り手である氏の姿よりも語られる他の人物の姿がすっと浮き立ってくる、言葉という筆の絶妙な力加減と陰影が的確な遠近法を構築しております。
氏は後書きで、「例え黙読でも、私がおしゃべりしているのと同じ速度で読んでくれませんか」と書いておられます。ゆっくりゆっくり、活字を追わないように、先を急がないように、そうしていくうちに、氏の物事を捉える目線の位置というのが何となく分かってきて、笑いっていうものは、根っこに真面目さが必要なものなんだなってちらりと思ったりする一冊です。